フリードリヒ2世・フォン・ハプスブルク

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フリードリヒ2世
Friedrich II.

出生 (1327-02-10) 1327年2月10日
死去 (1344-12-11) 1344年12月11日(17歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
シュタイアーマルク公国ノイベルク・アン・デア・ミュルツ英語版[1]
家名 ハプスブルク家
父親 オーストリア公オットー
母親 エリーザベト・フォン・バイエルン
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フリードリヒ2世と弟レオポルト2世

フリードリヒ2世・フォン・ハプスブルク(ドイツ語:Friedrich II. von Habsburg, 1327年2月10日 - 1344年12月11日)は、オーストリア公オットーエリーザベト・フォン・バイエルンの間の息子。レオポルト2世は弟である。

生涯[編集]

1337年、フリードリヒはケーニヒスフェルデン修道院英語版に住む伯母アグネスに預けられ、そこで教育を受けた。1339年以降はレンツブルク城英語版に住み、そこで前方オーストリアを支配したといわれる。1339年にフリードリヒは母の権利として下バイエルンの継承権を主張したが、皇帝ルートヴィヒ4世はフリードリヒの訴えを退けた。イングランド王エドワード3世の娘ジョアンとの結婚が計画されていたが、1337年にエドワード3世は2人が幼すぎるという理由で結婚を延期した。結局、フリードリヒが1344年に死去したため[2]、結婚は行われなかった。一説によると、エドワード3世は対フランス同盟を履行できなかったため、婚約を解消したともいう[3]

脚注[編集]

  1. ^ Detlev Schwennicke: Die fränkischen Könige und die Könige und Kaiser, Stammesherzoge, Kurfürsten, Markgrafen und Herzoge des Heiligen Römischen Reiches Deutscher Nation. Vittorio Klostermann, 2005, ISBN 3465034201, S. 41.
  2. ^ je nach Quelle mit 18, 17 oder 11 Jahren, Wurzbach 6, S. 261.
  3. ^ Ludwig Albrecht Gebhardi: Genealogische Geschichte der erblichen Reichsstände in Teutschland. Band 2, S. 261 f. (Webrepro, p. 262, - Google ブックス)

参考文献[編集]