フランソワ・ルイ・ド・ロレーヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フランソワ・ルイ・ド・ロレーヌFrançois-Louis de Lorraine, 1623年 - 1694年6月27日)は、ブルボン朝時代フランスの大貴族家門ギーズ家の一員。アルクール伯、リウー伯、ロシュフォール伯及びモンロール伯、モーベック侯爵及びオーベナ男爵(comte d'Harcourt, de Rieux, Rochefort et Montlaur, marquis de Maubec et baron d'Aubenas)。

エルブフ公シャルル2世アンリ4世王の庶出の娘カトリーヌ・アンリエット・ド・ブルボンの間の三男。当初はリウー伯と称した。フロンドの乱ではコンデ公ルイ2世、オルレアン公ガストンらフロンド派諸侯の与党として活動した[1]。乱の最中の1652年7月31日、オルレアン公の居館での諸侯会合の際、ターラント公との上席権争いを起こし、ターラント公に肩入れしたコンデ公を殴打したことから、王族に対する暴行の嫌疑でバスティーユ牢獄に収監された[2]。2か月後の9月25日、一族の長ロレーヌ公ニコラ2世のフランス当局への働きかけで釈放され、コンデ公に謝罪して事なきを得た[2]。1666年、叔父アンリの死に伴いアルクール伯爵領を相続し、以後アルクール伯と称した。

1645年7月パレ・ロワイヤルで、アルフォンス・ドルナーノフランス語版元帥の孫娘、ジャン=バティスト・ドルナーノフランス語版元帥の姪で相続人のモンロール女伯・モーベック女侯アンヌ・ドルナーノと結婚、間に6子をもうけた。

  • フランソワ(1645年 - 1694年) - 両親の婚前に出生し「アルクール私生児(Batard d'Harcourt)」と呼ばれたが、死に際して準正される
  • マリー=アンジェリーク=アンリエット(1646年 - 1674年) - 1671年初代カダヴァル公爵ヌノ・アルヴァレシュ・ペレイラ・デ・メロと結婚
  • アルフォンス=アンリ=シャルル(1648年 - 1718年) - アルクール伯
  • セザール(1650年 - 1675年) - モンロール伯
  • マリー=アンヌ(1657年 - 1699年) - モンマルトル修道院長と呼ばれた
  • シャルル(1661年 - 1683年) - 聖職者、「アルクール神父(Abbe d'Harcourt)」

この他、側妾マリー=ブランシュ・モラン(Marie-Blanche Morin)との間に4人の庶子をもうけた。

引用・脚注[編集]

  1. ^ 嶋中博章「わが名はルイ・ド・ブルボン--絶対王政期フランスの血統親王prince du sang」『史泉』106号、P53-70、2007年。
  2. ^ a b 嶋中、2007年。

参考文献[編集]

  • Georges Poull, La maison ducale de Lorraine, 1991