フョードル・オツェプ

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Fedor Ozep
Fyodor Otsep

フョードル・オツェプ
本名 フョードル・アレクサンドロヴィチ・オツィエプ
Фёдор Александрович Оцеп
別名義 フェドール・オゼップ
(Fedor Ozep)
生年月日 (1895-02-09) 1895年2月9日
没年月日 (1949-06-20) 1949年6月20日(54歳没)
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国(現ロシアの旗 ロシア
モスクワ
死没地 カナダの旗 カナダ オンタリオ州オタワ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
(二説あり)
国籍 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦亡命
職業 映画監督脚本家
活動期間 1916年 - 1947年
活動内容 1916年 脚本家デビュー
1927年 監督デビュー
1931年 ドイツ、フランスに移住
1942年 アメリカ、カナダに亡命
配偶者 アンナ・ステン 1927年 - 1931年
著名な家族 ユーリー・ライズマン
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フョードル・アレクサンドロヴィチ・オツェプロシア語 Фёдор Александрович Оцеп, 1895年2月9日 - 1949年6月20日)は、ソビエト連邦映画監督脚本家である。革命前のロシア帝国でキャリアを始め、ソ連時代に監督となり、ヴァイマル共和国/ドイツ帝国フランスアメリカ合衆国カナダへと移住し、映画をつくりつづけた。フランス時代以降は、フェドール・オゼップFedor Ozep)と綴られた。

人物・来歴[編集]

1895年(明治28年)2月9日、ロシア帝国(現在のロシア)のモスクワに生まれる。

帝政時代のロシアで、ヤーコフ・プロタザノフ監督の助手として出発している。プロタザノフのもとで名作『スペードの女王』(1916年)、ロシア革命後のソビエト連邦時代に同監督の『アエリータ』(1924年)を手がけ、脚本を書いた。

1926年(大正15年)に、ボリス・バルネットとの共同監督作品『ミス・メンド』(日本未公開)で、映画監督としてデビューした。

ゴーリキー名称映画撮影所での同僚フセヴォロド・プドフキンから影響を受けた。

1929年(昭和4年)、レフ・トルストイの小説『生ける屍』に基づく同題の脚本を、ヴァイマル共和国(現在のドイツ)で執筆、オツェプが監督し、ソビエト・ヴァイマル合作で完成した。その後二度とソビエト連邦に戻らなかった。

1931年(昭和6年)、ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』を映画化、エリーヒ・エンゲルスと共同で監督した。

同年、フランスに移住。1934年(昭和9年)フランスで製作された監督作『熱風』が、第2回ヴェネツィア国際映画祭で後の金獅子賞にあたるムッソリーニ杯の正式出品作品となった。

1942年(昭和17年)、第二次世界大戦の勃発に伴い、アメリカ合衆国に移り、同地でヘンリー・S・ケスラーとの共同監督作『三人のロシア娘』(日本未公開)を発表。

さらにカナダに亡命した。同国のケベック州でフランス語、英語の映画をそれぞれ監督した。

1949年(昭和24年)6月20日、カナダの首都、オンタリオ州オタワ[1]、あるいは米国カリフォルニア州ロサンゼルス[2][3]ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ[4])のいずれかで死去したとされる。満54歳没。

フィルモグラフィ (主な監督作品)[編集]

[編集]

  1. ^ de:Fjodor Alexandrowitsch Ozep
  2. ^ #外部リンク欄、Internet Movie Databaseの本項リンク先の記述を参照。二重リンクを省く。
  3. ^ fr:Fedor Ozep
  4. ^ Оцеп, Фёдор Александрович - ru.wikipedia

外部リンク[編集]