ノート:黄琬

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  • 『後漢書』では、「公琰」と記されてある。

中華書局『後漢書』校勘記によると、「公琰」と記されているのは『文選』注で引く後漢書のみのようですね。Wikiでわざわざ注釈するほどのことでしょうか?

  • 初平元年(190年)、曹操の親族の曹邵(曹真の父)を董卓の命で討ち取る。

『後漢書』献帝紀によると前年(永漢元年)中に既に黄琬は司徒になっていますから、このあたりの記述は全体的に信憑性に欠けるものと言わざるを得ません。

  • 裴松之の注に引用される『典略』には、曹真の父・曹邵は曹操の同世代のいとこに当たり、初平元年(190年)に、曹操が挙兵した時に一族として呼応した。しかし、董卓方の豫州牧・黄琬と悶着を起こして殺害されてしまう(『三国志』「曹真伝」)。

黄琬が曹真の父を殺したと伝えるのは『魏書』です。『魏略』では「寇」としか表現されていませんので誤解なきよう。

  • 同じく『魏書』では、初平年間に曹操が挙兵した時、曹邵も兵士を募集して呼応した。しかし、董卓の命を受けた豫州刺史・黄琬が曹操を討伐したため、曹操は避難したが、曹邵だけが殺害されたとある。

上記の通り、曹真の父を殺したという件については矛盾があるので、その点にも触れるべきではないでしょうか。

全体的にもう少し出典となる史書の内容を確認し、内容の混同など無いように配慮したほうがよろしいかと思います。--てぃーえす 2007年11月14日 (水) 12:44 (UTC)[返信]

ノート:曹真で、Aboshiさんが、曹邵=秦伯南とは違うと指摘されたので・・・出典もAboshiさんからでした。これからは気をつけます。--219.126.167.202 2007年11月14日 (水) 13:03 (UTC)[返信]

ノート:曹真を読んでみましたが、私の読解力不足のためか、黄琬の項であのような誤りが生まれる理由が分かりませんでした。

私も編集上の誤りなどが多いのであまり偉そうなことを言えた義理ではないのですが、Wikiは史書に明記されている、専門家による定説となった研究がある、などの根拠ある記事が求められています。「僕が考えたストーリー」「妄想で補った家系図」を見せる場所ではないし、ましてまともに確認していないものを出典として提示するような不誠実な態度が許される場所ではないと思います。

気をつけるとおっしゃっているので今回これ以上きつく言うつもりはありませんが、先ほどの貴方の表現だとAboshiさんが悪いととられかねませんので、そこも注意したほうがよろしいかと。--てぃーえす 2007年11月14日 (水) 14:20 (UTC)[返信]

  • 『後漢書』(司馬彪著)の注で引く「文選」を参照とした「校勘記」(中華書局)によると、「公琰」とする。
『後漢書』の著者は司馬彪ではありません。
「注で引く「文選」を参照とした」というのは意味が分かりません。
「「校勘記」(中華書局)によると」ではなく、後漢書校勘記に『文選』李善注に記されていると明記されているのだから、Wiki本文に書く以上『文選』李善注の該当部分を示すべきです。
そもそも、この程度のことは書く必要はないと思います。この程度の文字の異同全て記していたらキリがありませんよ。「公琰」が特に世間に流布しているというわけでもなさそうですし。

誤りが多い上に必要性が高いとも思われませんので、この脚注は全文削除させていただきます。--てぃーえす 2007年12月24日 (月) 02:16 (UTC)[返信]