ノート:阿只抜都

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

阿只抜都が高麗人呼称というソース。なぜ韓国語とモンゴル語でつけられてるのかの説明を--以上の署名のないコメントは、Komaichan99会話投稿記録)さんが 2011年10月16日 (日) 21:16 (UTC) に投稿したものです(Dalaibaatur会話)による付記)。[返信]

『高麗史』姦臣 辺安烈伝に「我軍称阿只抜都」と記述がありますから、ご確認ください。朝鮮語とモンゴル語がちゃんぽんになってるのが解せないということでしょかね。説自体は昔からありまして、私が参考にしたのは武田幸男の説です。 --Nagamati 2011年10月16日 (日)--
日本史の専門家の間では、モンゴル帝国が高麗耽羅国(現済州島)で三別抄の乱を最終的に壊滅させた後、1275年に「耽羅国招討司」を設置、コーカサス地方出身者を祖先とするアラン人(別称「アスト部」,オセチア人)の大カアンの親衛隊の一部1700人が済州島に配置。済州島は1305年以降、高麗の支配下に入ったが、モンゴル系住民は「牧子」として島内に設置された大牧場で馬の養育にあたったとされており、そして済州島は高麗末期〜李朝初期(中国の元末明初)の「前期倭寇」の拠点のひとつとなっていたので、倭寇のメンバーに高麗語やモンゴル語を操る連中が混じっていても、ちっとも不思議ではないと(以上の記述の主たるネタ元は吉成直樹『琉球王国は誰が作ったのか:倭寇と交易の時代』七月社,2019、pp.129-130)。--Dalaibaatur会話2020年4月14日 (火) 02:40 (UTC)[返信]
何年も前の話にご投稿ありがとうございます。この場合ですが、倭寇の構成や阿只抜都の出自よりも、そう呼んだのはまず高麗側であるという点を考慮すべきかと思います。ご承知の通り末期高麗は元朝の影響下にありましたので・・。--Nagamati会話2020年4月21日 (火) 08:52 (UTC)[返信]