ノート:長尾頼景

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頼景の別名を朝景とし、応永の乱 (越後国)で長尾朝景を頼景に書き換えたり、長尾朝景を頼景にリダイレクトされていますが、出典はなんでしょうか。『新潟県史』では朝景は、房方の命で上杉憲重に従って山浦に入部した長尾一族の流れではとされ、頼景とは別人とされています。 長尾朝景は応永32年(1425年)、応永34年に数点の「安堵状」を出していますが、比較的最新の研究成果が反映されているといわれる『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)でも、「長尾頼景」(執筆山田邦明氏)の初見史料は文安2年(1445年)2月房朝の命令を邦景に伝えたものとされていました。

また以前頼景の正室山吉行盛娘の出典として、『山吉家家譜』(井形朝良編)があげられていましたが、同書の系譜には「行盛」は記載されていないと思うのですが。--Thomo 2010年5月9日 (日) 16:54 (UTC)[返信]