ノート:酒井正親

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名前について[編集]

酒井正親の初名、政家ですが、『寛政重修諸家譜』の酒井正親の項目にあったものです。提示された史料ですが、『藩翰譜』は酒井忠次の系譜を研究した記事であり、歌楽助正親が出ていますが忠次家の系譜を考える上での参考に挙げただけです。『実紀』では永禄元年の正親の動向が載っているものです。どちらも酒井正親が出ているだけであり、名前を特筆したものではありません。ある史料に見えないから名乗っていないというのは無理があります。--KurmUmy 2008年7月27日 (日) 09:32 (UTC)[返信]

寛政重修諸家譜の原文を提示してくれますか?そう主張されるだけでは困ります。

西尾市HPに、以下のようにありましたが、永禄7年に酒井政家としていますが、東照宮御実紀には、永録の時点で、酒井正親となっています。おかしいですよね?

東照宮御実紀は、寛政重修諸家譜より後に作成され、出典一覧に、寛政重修諸家譜は掲載されているにもかかわらず、正親です。初名を政家とする根拠はありません。寛政重修諸家譜より、前の藩譜においても、初登場が酒井正親です。改正三河後風土記も酒井正親であり、酒井政家であると主張しているのは、この鰐口と、寛政譜のみです。東照宮御実紀は、徳川幕府の最終編纂物であり、寛政譜より優先するものです。

室町時代末期の西尾城主・酒井正親(政家)(1521~1576)が永禄7年に城内の鎮護社・御剱八幡宮に奉納した鰐口。大型で豊かな胴張りがあり、鍍金が美しい。銘文の「三川國吉良庄西尾御剱鰐口酒井雅楽助政家寄進」「永禄七年甲子八月十五日菅生大工藤原宗次」は、地名「西尾」の最古の使用例である。鋳物師は岡崎菅生の安藤氏。

弘治も四年にて改元あり永禄となりぬ。君ふたゝび義元のゆるしを得たまひ三州にわたらせられ。鈴木日向守重教が寺部の城をせめ給ふ。これ御歳十七にて御初陣なり。この軍中にて君古老の諸将をめされ御指導ありしは。敵この一城にかぎるねからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を断べしとて。城下を放火し引とり給ふ。酒井雅楽助正親。石川安芸守清兼などいへるつはものどもこれを聞て。東照宮御実紀巻二

永録二年今川義元大兵を越し。尾張の織田信長を攻亡し。上方に打つて上らんとて。国境所々にまづ新砦を構へ。大高の城をば鵜殿長助長持をして守らしむ。織田方にはこれを支むため大高に対城をかまへ。丹家の城は水野帯刀。山口海老丞。柘植玄蕃。善照寺の城は佐久間左京。中島の城は梶原平左衛門。鷲津の城は飯尾近江守。同隠岐守。丸根の城は佐久間大学をこめ置防禦の備をなし。其外寺部。挙母。広瀬の三城をも取立。大高の通路を遮りければ。城中糧食乏しくしてほとんど艱困に及ぶ。義元いかにもして城中に糧を送らむとおもひ。家のおとなどをも集め評議したれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなかりしに。君纔に十八歳にまし/\けるが。かひ/\〃しくも此事うけ引せ給ひ。其年四月九日の夜半ばかり岡崎を出立せ給ひ。松平左馬介親俊。酒井與四郎正親。石川與七郎数正先鋒奉はり。東照宮御実紀附録巻一。(武辺咄聞書)--ニコタマ二子多摩川 2008年7月27日 (日) 21:09 (UTC)[返信]

武将鬚酒井正親(個人サイト)の、家伝 親氏の息子で雅樂助廣親は母が酒井與右衛門某の娘で三河國豆幡(はづ)郡酒井村で生まれた事から酒井を稱して、親氏君に仕えた。 父は酒井與四郎清秀 母は某氏の娘 初政家 與四郎 雅樂頭

これですよね?出典が、続群書類従完成会の新訂版(1964)であり、新訂とは、新たに訂正するという意味です。堀田正敦の作成した原文をいじってるのでは?酒井氏の出生が、幡豆郡坂井郷になってるのはおかしいですね?碧海郡境村の説のほうが有力のはずなのに。藩譜では、酒井氏は、坂井村出身とあるだけで、幡豆郡と書かれていません。--ニコタマ二子多摩川 2008年7月27日 (日) 21:09 (UTC)[返信]

『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)より引用
「初政家 與四郎 雅樂頭(今の呈譜雅樂助)母は某氏。」*括弧内は小字二行
『寛政譜』で酒井正親の別名はこれのみです。この続きに彼の経歴が記載されますが、そこでは「正親」です。『寛政譜』は経歴内に改名した旨を載せないので、いつの改名か不明です。『東照宮御実記』に正親があるのも、以上の事情から参考になら無いからでしょう。また『東照宮御実記』は日記を基にした歴史書です。酒井氏のことを詳細にのせるわけではありません。系譜と歴史書では性質が違うため、同列に語れません。『寛政譜』『実記』ともに史料のひとつです。提示された御史料では、その年に「正親」としているだけです。考古資料の鰐口は別の問題でしょう。歴史書からの出典なき推測は独自研究です。
ただ、系図を見ると、『系譜綜覧』『寛永諸家家伝』には「政家」がなく(『改正三河後風土記』もそうですね)、『系図纂要』に「一本政家」とあり、『寛政譜』独自文のようです。出典を述べた上で他の系譜史料にないことを指摘する形にしませんか?「政家」を否定する研究論文・雑誌・報告その他があれば別ですが。
付け加えておきますが、『寛政譜』続群書類従完成会の新訂版は、それまで写本中心だった旧版を、戦後、幕府献上本の戦災で残った分(内閣文庫本)と対照し、誤字脱字を訂正したものです。酒井氏の出身地については、有力な説など『寛政譜』は書けません。出身地は、「今の呈譜に」(『寛政譜』)と酒井家系図冒頭にあり、酒井家提出系譜から引用したもので、研究結果を載せることではないからです。当時はこれでよいと判断されたのでしょう。我々が出典の問題を論じるのではなく、この部分が信用できないという研究結果があるとよいのですが。--KurmUmy 2008年7月28日 (月) 16:02 (UTC)[返信]

人名鑑を、寛政譜で作成しなければならないというルールはありません。初政家は、寛政譜以前に確認できない呼称ですので、注釈付きじゃないとまずい。なぜなら、酒井政家で、史書には出てこないから。酒井正親でないと、別人と間違える恐れがある、このようなマイナーな武将は。

注釈付で載せるなら、問題ない。--ニコタマ二子多摩川 2008年7月29日 (火) 17:40 (UTC)[返信]

注釈付きでなら合意できるようですので、注釈をつけて記載してみました。「政家が初名」のほうが異説に近いですので「正親」のほうの出典は省略してみました。何かあったら御編集下さい。--KurmUmy 2008年8月2日 (土) 10:54 (UTC)[返信]