ノート:蒼天航路/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

登場人物について[編集]

登場人物の項、最近の更新履歴を見ると正確に記述しようとして冗長になって来ている感があります。
そもそも膨大な数の人物が登場する物語ですし、物語に深く関わる人物を網羅するとそれだけで「ストーリー」の項のまとまりのない解説となってしまいかねません。
自分としては、登場人物の項はまるまる削ってしまっても問題ないと思うのですが・・・ --Rakutarou 2006年6月26日 (月) 06:25 (UTC) -節化させていただきました。--胡亂堂 2009年9月18日 (金) 15:59 (UTC)

曹操再評価創作について[編集]

曹操再評価創作の最初は陳舜臣の『秘本三国志』であり、『蒼天航路』はその影響を受けたのだと思いますが。らりた 2006年7月18日 (火) 09:15 (UTC)

曹操が幼い頃から利発であった事については、本作品の描写も誇張(デフォルメと言ってもいいでしょう)はあれど逸脱は無いと思われます。むしろ幼年~青年期の「努力と苦悩」を描写しているソースの方が少ない(無い?)うえに、「努力と苦悩」が文脈上必要なのかどうかという疑問を前提としていない批判を挙げる事は適当ではないと思われます。よって、3/19 14:18の加筆については削除しました。--以上の署名のないコメントは、60.34.92.144会話/Whois)さんが 2007年3月25日 (日) 17:19 (UTC) に投稿したものです。節化させていただきました。--胡亂堂 2009年9月18日 (金) 15:59 (UTC) 

評価について[編集]

検証可能性の曖昧な評論(「~といわれている」「~という批判がある」「~などの声もある」etc...)が非常に多いです。また、かなり書き手の趣味・偏向が入っているように見受けられます。(的を射ているとは思いますが、事典的かどうかというとビミョウです)そもそも、この欄は必要なのでしょうか?一般的な評価を客観的に示す「何か」を提示できればよく、それ以上に作品の傾向を主観的に考察するのはウィキペディア的ではないように思えるのですが、いかがでしょうか?御意見をお願いいたします。--Geso 2007年7月17日 (火) 00:40 (UTC)

アニメでの阿政の声優[編集]

阿政(あせい) 声:逢坂力 となっていますが、EDのクレジットは鈴木勝美氏でした。どちらが正しいのでしょうか? --広島のかねごん 2009年5月21日 (木) 14:10 (UTC)

編集の仕方[編集]

ひとりで一日に何度も編集している方、「履歴」が膨大に増えて、追って後で検証するのが困難になるので、一回の編集はまとめて一回でするようにお願いします……。--60.37.198.214 2009年7月19日 (日) 13:29 (UTC)

すみません。それはどうみても私のことですね。以後気をつけたいと思います。どうも一度で思いつかなくてですね…。--118.8.17.190 2009年7月21日 (火) 19:20(UTC)

原作とアニメの差異について(主に人物紹介において)[編集]

とりあえず今現在ですと原作とアニメの差異についての記述は張譲くらいのものですが、今後もっと増える可能性がありますよね。私はアニメは全くの別物過ぎるので(人物紹介欄に)書きだしたらキリがないと思っています。ですので、記述の必要がないように考えています。皆さんはどうお思いでしょうか?ご意見よろしくお願いします。--118.8.17.190 2009年7月21日 (火) 19:20(UTC)

アニメ版が全くの別物に過ぎるという見解はさておき、書きだしたらキリがないというご意見には同意します。しかしアニメ版との差異も有意義な記述ではないでしょうか。細かい所、例えば「誰々はアニメでは登場していない」などはもちろん書く必要がありませんが、目立った差異、例えば張譲や董卓の死に際の記述くらいでしたらあっても問題ないと思います。--hat2867 2009年7月22日 (水) 00:05 (UTC)

Hat2867様、ご意見ありがとうございます。あなたの投稿の直後に、汎の紹介に「アニメでは登場しない」と記述が入った際には溜息が出てしまいました。人それぞれ、それだけ考え方が違うということなのでしょう。やはり明確な定義が必要なのかもしれません。今のところ問題ありませんが。しかし、登場人物の「目立った差異」。あり過ぎると思いますよ…。--118.8.17.190 2009年7月28日 (火) 12:30(UTC)

私は他のアニメ作品と比べてもそこまで感じませんでしたが、「目立った差異」を感じたのでしたらそれは併記する意義があると思いますよ。IP様は私よりずっと原作に精通されていらっしゃるようですので。「アニメでは登場しない」はそもそもアニメが終了していないという事から出典が不明ですね。アニメが終了しても、それは「原作を完全にアニメ化している」ないしそれに準ずる上ででないと記述の説得力がないと思います。--hat2867 2009年7月30日 (木) 06:29 (UTC)

人物紹介の編集合戦について[編集]

現在、アニメの開始に伴い編集者が非常に増えたことを好意的に受け止めています。しかし、アニメ化により、さほど作中で活躍しない人物も記述が増えて来ました(声優を記述したいため?)。これを不快に思ったためか一気に削除する方々がいます。気持ちはわかるのですが、良く考えてみてください。何か間違った記述がありますか?無言でかなりの数の削除という行為はずいぶん横暴なのではないでしょうか。重要人物であるかないか。それは人それぞれ考え方が違うので仕方のないことだと思いますが、そういう人物が作中に登場することは間違いないわけですよね?それを消してしまうのって…… こちらもご意見よろしくお願いします。 --118.8.17.190 2009年7月21日 (火) 19:20(UTC)

主に追記している側の者ですので言わずもがなですが、私も一言もなしで削除されてしまうのは少々遺憾に感じます。現在、増加傾向にあるこの節ですが、現状ですとちょっと混沌としており、もう少し整理をつけた方がいいと思います。以前「魏」内で「親族」とか「武官」「文官」のように分けた事があるのですが、すぐに戻されてしまいました。分け方はともかく、もう少し整理がつけば細かい人物に関しての記載があっても見やすくなると思います。--hat2867 2009年7月22日 (水) 00:08 (UTC)
膨大な数の人物が登場しているのだから、多少は足切りしないと冗長になるでしょう。記述の正しい間違ってるは別問題かと。--114.181.109.252 2009年7月25日 (土) 07:52 (UTC)
記述の正誤が問題ではないというIP様の意見に同意します。問題は検証可能かどうかという点ですね。とりあえず二つの観点より発言させていただきます。
  1. この作品は歴史モノであり、実在する人物などを脚色した作品です。端役とはいえ青リンクになるような人物も多数おり、私はそのリンクは有意義だと感じております。さすがに登場せず名前だけが出た人物が記述されるのはおかしいと思いますが、ちゃんと登場した人物については記述の有無に関してはあっても問題ないと思います。そのような登場人物はたいてい蒼天航路のオリジナル登場人物という位置づけは薄く、リンク先の人物記事で詳細な説明がされています。よって説明文は省いてもかまわないかもしれません。
  2. Wikipedia:ウィキプロジェクト 漫画によりますと、背景キャラや一回限りの人物については記述しない方が作品を理解しやすいと示されています。なので、要はどこを基準にして人物を抑えるかという話だと思います。たとえば、この作品ではコミックス(文庫版?)収録時に巻頭で簡単な登場人物紹介があります。また漫画版・アニメ版ともに人物のテロップが出ます。これを基準にしてもいいかもしれません。またアニメ版で端役(複数役)担当の声優(西嶋陽一逢坂力近藤浩徳ヤスヒロ洞内愛など)以外の声優が演じている人物や、作中長期に渡って登場するキャラクターも範疇に含めても差し支えないと思います。
私としましては以上二つとも有効かと思っております。なので、
  • 原則として登場人物紹介・作中でのテロップの出る人物、専門の声優がいる人物、作中長期にわたって登場する人物以外は端役とみなす。
  • 端役である実在人物に関しては説明文なしで最も適当な登場人物節の下部に箇条書きにする。
という案を提示させて頂きます。現状の記事でこの案を採用しますと、《張済》《伍孚》といった人物は説明文除外の上で下記へ、《孫進》などは除外となります。現状で他作品と比べて特別分量が多い記事だとはあまり思っておりませんが、以上でいかがでしょうか。
あと蛇足ですが、《?の長老》は明らかに人物ではありません。「登場キャラクター」節に改めるか、「人物以外のキャラクター」といった節に分ける方がいいかと思います。--hat2867 2009年7月27日 (月) 01:35 (UTC)
「他の登場人物欄に書いて足りる人物は、適当な人物の欄に記述する」「実在の人物についてリンクをつける」はいいと思うのですが、端役かどうかの判断基準が本来漫画とは別作品のアニメの設定によるというのはちょっとどうかと思います。記載できる文面の量から考えていけばそのような無理やりな基準がなくても是々非々でいけるのではないでしょうか?Fuji 3 2009年7月27日 (月) 04:21 (UTC)
私はアニメ版は公式アニメである以上、漫画版に次ぐ出典に成り得ると考えています。もし別作品なのでしたら記事も別になるべきです。もちろん別作品ではないので同一の記事に記載されますし、アニメ版の情報も書かれていてしかるべきだと思います。そして明らかに声優による端役との差別化がされているので、それを利用しない事もないかなと思いました。もちろん原作が記事の主軸に来るべきでありますが、アニメ版も蒼天航路という作品の一端を担っているはずではないでしょうか。
またFuji 3様は基準なしでもやっていけると仰っておりますが、現状は編集合戦に陥った末での問題ですのでここはそれを解決するための議論の場だと思っております。そして編集合戦の原因の一端にアニメ版が開始した事が挙げられておりますので、アニメ版にも留意した案を挙げさせて頂きました。少なくとも理が無い意見ではないと自負しております。「記載できる文面の量」というものについて具体的にいかほどか確認できませんが、それではその上でまたどれを取捨選択するかが議論になりかねないと思います。--hat2867 2009年7月27日 (月) 15:52 (UTC)

Hat2867様、IP様、Fuji 3様、貴重なご意見ありがとうございます。記述の正誤が問題でないことはもちろん承知しています。ただ無言で大量の削除を行う方々を非難したかったために、そのような言葉づかいをした限りでございます。文面からその意思が伝わらなかったのは少し残念ですね。わざわざ否定されるまでもないことです。 IP様がおっしゃる冗長になるから人物を減らすという考え方は間違っていますね。Hat2867様もおっしゃる様に、もっと長いものはいくらでもありますので。長いのが気になるのならば人物紹介を別ページにする方法もあります。 Fuji 3様のHat2867様に対する意見ですが、『端役かどうかの判断基準が本来漫画とは別作品のアニメの設定によるというのはおかしい』というのはもっともだと思います。このやり方ではアニメが主軸ですよね。おかしいです。あくまでアニメは「付属物」ですから。そのことに関して以外のHat2867様のご意見は基本的に支持したいと思います。蛇足とおっしゃる、「登場人物→登場キャラクター」は良い意見だと思いますよ。仁や赤兎馬が載せられますもの。--118.8.17.190 2009年7月28日 (火) 12:30(UTC)

アニメ版を主軸にするという意思は当方にはございません。アニメ版が原作の付属である事も同意します。元よりアニメ版を主軸にした基準を定めたつもりはないのですが、こちらの意思伝達が失敗しているのでしょうか。原作を主軸にするのはもちろんです。端役かどうかの基準を定めるとは言いますが、その取捨選択はどうしても一部の編集者の主観になってしまうと思うのです。そこで公式アニメと銘打たれたもので線引きできるのならば、それを利用するに越した事はないのではないでしょうか。繰り返しますが、原作で判別できる基準をアニメ版より下位に置こうという意思は全くございません。あくまで原作第一という事に違いはありません。--hat2867 2009年7月28日 (火) 12:50 (UTC)
いや、ですからアニメで線引きは絶対にできないと思うのですよ。原作で判断できないから、アニメで判断するっていう考えは理解が難しいですね。その行為は自動的にアニメを主軸に据えるということですよ。矛盾を感じます。「公式」アニメであることを強調されますけど、王欣太が制作しているわけではないですもの。--118.8.17.190 2009年7月28日 (火) 14:25(UTC)
私の遍歴でしか確認できないので視野が狭いかもしれませんが、例えば「遊☆戯☆王の登場人物」では原作では目立たなかったキャラクターをアニメ版で肉付けしたという例があります。この記事ではアニメ版の設定を前面に出した記述をしている部分があります。しかし原作の設定をアニメ版による設定で上書きしたような記述はありません。
原作で漏れたものをアニメ版でもって拾い上げる、と言った方がより近いかもしれません。例えば《阿政》《孔?》などは原作では長期連載のうち数話しか登場しない端役ですが、アニメ版では1話限りですが端役担当声優ではなく専門の担当声優が充てられています。『名探偵コナン』のような長期のアニメ作品の一事件にしか登場しない容疑者の一人ならともかく、2クールのアニメにおいてきちんと声が充てられたキャラクターを省くという例を私は知りません。これは原作が存在するアニメ作品も同じではないでしょうか。--hat2867 2009年7月28日 (火) 15:20 (UTC)
そのような意味合いでの発言でしたか。それならば納得でき支持もできます。今までの言い方ですと全く違う方向に解釈できますので。--118.8.17.190 2009年7月28日 (火) 15:43(UTC)
なんと、納得頂けましたか。ありがとうございます。またわかりにくい説明で大変ご迷惑をお掛け致しました。それではもう数日待って様子を見てみましょう。合意に繋がれば嬉しく思います。--hat2867 2009年7月28日 (火) 15:46 (UTC)
私は漫画とアニメは全く別の作品であり、漫画に対する何がしかの判断を作者による公式の設定でもない限り他作品の設定や描写を元に行うべきではないと思っています。言い方を変えると漫画は漫画、アニメはアニメで分かるように記述しろってことで、蒼天航路というタイトルの作品の解説としてごっちゃに記載することに反対ということです。この作品の場合、漫画が原作であるので「原作である漫画作品の解説+派生作品の解説として差異や補足」というスタイルが最も自然と考えています(もちろん記事を”蒼天航路(漫画)”、”蒼天航路(アニメ)”に分けるのもあるだと思います)。例えば「ロミオとジュリエット」という作品に対して数限りない舞台や映画作品がありますが、そこで示された多様な解釈を小説の解説部分に書きますか?ということです。
 閑話1:プロジェクトとしての議論も確定とまでいかずに停滞しているので、声優の項目をアニメ節に移した編集が「登場人物欄に声優があった方が分かりやすい」ということで戻されたことに対する対応は行ないたいところです。
 閑話2:そもそも「公式アニメ」というのはどこから来た情報なのでしょう??何をもって”公式”??
本題である、必ずしも主要とみなせないような登場人物の記載方法については、特に反対もないわけですが、上記はやっぱり気になります。Fuji 3 2009年7月29日 (水) 14:45 (UTC)
まぁHat2867さんも原作とアニメをごっちゃにして記述しようというわけではないのでしょう。私はそのように理解していましたが。きちんと「アニメでは」と断った上での記述なら良いのでは。正直、私としては別作品であるアニメ欄は別ページに作っていただきたいのですが、それを言い出すと自分で作らないといけないのでね…。--118.8.17.190 2009年7月29日 (水) 15:58(UTC)
IP様が一部代弁して下さいましたが、私は設定に関して言及をしているつもりはありませんし、そもそもそのような議論をしているつもりもございません。で、くどいようですが、アニメチームも我々も原作を読んで「この人物は端役、この人物はそれなり」と判断している点では同じですよね。しかし我々読者は統一した観点を持ち得ませんし、それを調査する事もままなりません。一方、アニメチームは一応公式アニメという事もあってある程度の信頼があり、仮にも全国に原作同様配信されているものなのですから判断の参考になるのではないでしょうか、という話です。他のFuji 3様の意見はと私のそれと相違しません。原作とアニメにちゃんと線引きするのは大事だと思います。ただ登場人物を削るという事に私はあまり積極的になれないので、色々と参考にして記述を補完したいという思惑があるだけです。分割の話ですが、原作とアニメが全くの別物ならばともかく、重複する部分が多く、またアニメの分量が増大しているわけでもありませんので、時期尚早かと思います。
ウィキプロジェクトによりますと、重複する部分に関しては一方に統一していいという基準が打ち出されています。登場人物の節があるのにもう一度登場人物を記述する事が雑多な記述になると判断されたのではないでしょうか。もちろん別記されている記事もありますので、これについては断言はできかねます。ちなみに「わかりやすい」という判断は、私は納得しています。また、公式アニメというのは私の造語のようなものだと思って下さい。モーニング誌面で宣伝している以上、公認である事が窺えます。--hat2867 2009年7月30日 (木) 06:33 (UTC)

議論停止から1週間が経過しました。このまま異論なしという事でしたら、合意を得たものとしてもよろしいでしょうか。--hat2867 2009年8月6日 (木) 14:39 (UTC)

いえ、まだそれは早いでしょう。とりあえずアニメが終わるまで待つのがよろしいかと。しかし、編集合戦がされなくなったあたりをみると、無理に削除をされてきた方々にその行為に非があると納得していただけたということだと判断しています。--118.8.17.190 2009年8月7日 (金) 02:20 (UTC)
急ぐ必要は感じませんが、このまま変にCLOSEされても困るので、私の意見を簡単にまとめると「アニメの設定を参考に個別記述の判断を行う→反対」「端役の記事は適切な人物記事中に記載する→賛成」です。アニメにおける端役かどうかの判断はアニメ製作者の判断にすぎず、作品全体の解説基準にはなりません。単純に
  1. 検証可能な項目の記載が数行程度にしかならない人物の説明は適当な人物欄内に記載することを推奨する
  2. 記載済みの内容は、wikipediaの原則に合致している限り最大限に尊重する。
で十分だと思います。Fuji 3 2009年8月7日 (金) 03:59 (UTC)
「作品全体の解説基準にはなりません」との事らしいですので、間違っている私の意見は撤回します。ただ「数行程度」となると、相当量の削減につながると思います。文量ではなく作中でのスポットライトを重視すべきではないでしょうか。記載済みの内容も、例えば《樊稠》のような端役は、前に挙げたように名前(とCV)だけの羅列にして説明文カットすべきだと思っています。
「アニメが終わるまで待つのがよろしい」という事でしたら、アニメに関する記述はアニメ終了まで早急であるという事で締めてもいいと思いますが、どうでしょうか。--hat2867 2009年8月7日 (金) 12:29 (UTC)
作中でスポットライトがあたっている(というかそれなりの描写がある)キャラは記述もそれなりの量になるはずなので、自然同じ基準になると思います。別に「李儒 ・・・董卓の参謀 アニメ:XXX」的な1行記事を並べてもまとまっていれば個人的には問題とも思わないので、記事を削減したいわけではありません。Fuji 3 2009年8月8日 (土) 05:02 (UTC)

Hat2867様、大規模更新御苦労さまです!とても大変だったでしょう。文官武官という分け方は不安だったのですが、実際にこうして見てみるとしっくり来るものですね。特に文句なしです。少々ミスがあったので修正させていただきましたよ。アニメに関する記述はアニメ終了後が良いと思います。混乱を招きますからね。--118.8.17.190 2009年8月12日 (水) 05:30 (UTC)

>アニメに関する記述はアニメ終了後が良いと思います。混乱を招きますからね。お初にお目にかかります。ああ、そういう合意があったのですね。こちらを確認せず編集してしまい、誠に失礼致しました。--118.155.152.40 2009年8月12日 (水) 15:52 (UTC)

字について[編集]

伍孚に字が付きましたけど、作中でその字は使用されたものなのでしょうか。伍孚は董卓に名前を呼ばれただけのキャラクターだったと記憶しておりますが。その他にも作中で使用されていない字があったりしましたら、除去すべきかと思います。いかがでしょうか。--hat2867 2009年8月16日 (日) 15:12 (UTC)

この辺りを厳密にすると、ずっと登場している人物でも字で呼ばれていない人物は多いわけ(巻頭の登場人物紹介で出てくる人物以外は字が出てくる方が珍しい)で、さらに進めると作中の描写から明らかに正史上の○○だという人物はいますが、その関連も不明だったりします(亀ちゃんなど)。この作品のモデルとして正史があるというのは作者コメント等などより明らかなので、姓名等により明らかに比定できる人物については字を記載しても許容範囲かと思います。
 a.作中記述のみとし、正史人物へのリンクも除去
 b.作中記述のみとするが、正史人物に比定できるものはリンク付与
 c.作中記述以外でも正史人物に比定できるものは必要最小限な解説(字など)を付与
bにした上で、「リンク先はモデルとなった人物の記事です」とするのが一番正しいかなと思いますが。Fuji 3 2009年8月17日 (月) 04:34 (UTC)
モデルというより小説・ドラマ・映画・漫画に限らず歴史モノなのですから、他作品を見てもリンクをつけるのは普通だと思います。ですが、作中で登場していない別名の記述は必要なのでしょうか。もちろん字が登場している人物は、作中での別名なのですから記述してあっても問題ないでしょう。しかし登場していな字は、特に本作を紹介するにあたってなくても問題ないと思います。いわゆる雑多な記述になりかねませんでしょうか。--hat2867 2009年8月17日 (月) 06:26 (UTC)
字と言うのは名前の一部でもあるので、この作品に登場している、いないというのが基準なのはいささか疑問です。例えるなら、苗字でしか呼ばれていないので苗字だけ書けばいい、という主張に聞こえました。除去の必要性はないと思います。--はぬまん 2009年8月17日 (月) 10:57 (UTC)
確かに私も字については疑問に感じておりました。特に何か考えがあってではなく、字の記述が決まりごとのようになっていたので付け加えているまでです。Hat2867さんの意見ですが、難しい所ですね。伍孚に限らず主要キャラを含め結構な量の人物が字については作中において言及されていません。字が作中に出てくるのか一人一人確認するのはかなり面倒な気もしますがどうします?消していきますか?お任せします。個人的には、伍孚や張奐などわざわざ正史に照らし合わせて確認していたので残念といえば残念ではあります。--118.8.17.190 2009年8月17日 (月) 11:10 (UTC)
作中で苗字(姓)でしか呼ばれていないのでしたらそれは苗字だけにすべきでしょう(もちろん本作の解説本に記述があれば別です)。実際にこの記事で「伏皇后」は姓だけの記述になっており、姓名の「伏寿」という記述はされていないですよね。ましてや字は結局は別名であり、日本人で例えるなら「大久保利通(おおくぼ としみち、通称:一蔵)」のような記述は普通しないと思います。
「名前の一部だから記述が必要」という意見は私は適当ではないと思っております。例えば「張曼成」という登場人物がいます。この「曼成」というのは恐らく字ですが、もし新史料が発見されて張曼成の姓名が判明したとします。仮に「張壱」としますと「張壱(ちょう いつ、字:曼成)」(もしくは「張曼成(ちょう まんせい、名:壱」)と記述すべきなのでしょうか。逆に「張角」などの字がこれから判明したら、原作者が少なくとも執筆時に把握していなかった字をその都度付け足していくのでしょうか。私はそのようには思わないのです。いかがでしょうか。--hat2867 2009年8月18日 (火) 13:31 (UTC)
日本人の別名の感覚で扱うのがそもそもおかしいのです。まして通称ではありません、とは字というものであり、日本人の感覚で当てはめられるものはないと思います。強いてあげれば幼名辺りですが、幼名は幼名でまた別にありますし(例、曹操の阿瞞など)。皇后や夫人は名が伝わっていない事も多く、伏皇后は稀なケースと言えるでしょう。一般的にも伏寿よりも伏皇后という形で認識されている人物だと思います。また、今そう書いてなくとも伏寿と併記するなどしても問題ないのではないでしょうか。
私の基本的な考えとしては、名や字がすべての人物で伝わっている訳ではないので、分かっているのであれば併記すればいいし分からないのであれば仕方ない、というものだと思います。必要だと主張しようにも分からない人物がいるのは事実なので、人物によって有無があるのは致し方ありません。しかし、何故分かっているものを殊更除去せねばならないのでしょうか。
これだけ時代の流れたものであるので新資料が発見される事もほとんどありえない仮定でしょう。新資料の可能性の問題であれば、逆に言えば原作者か作品を描いた時点で分かっている字を併記する事に何の問題があるのでしょうか。字不要で統一すべき、という事を仰るなら、ご自身が言う張曼成の字と思われる曼成も不要なのでは、という理屈すら出てくるのです、暴論ですが。
蒼天航路が李學仁または王欣太オリジナルの作品であるならば、呼ばれていない出典元もない字を不要、とするのは分かります。しかし、蒼天航路とは三国志というまた別の原作がある作品なので、蒼天航路オリジナルの人物でない以上原典から名前を字を含め書く事がおかしいとは思われません。--はぬまん 2009年8月18日 (火) 15:03 (UTC)
日本人の通称とは別、と言いますが、例に挙げた「一蔵」というのは字と同じく公称される別名であり、用途の理由も諱を避けるという点で近いものがあります。「そもそもおかしい」と一蹴されるのはちょっと気になります。それに幼名は幼名で別ですね。
「分かっている」と仰いますが、本当に分かっているのでしょうか。例えば「祖茂」の字は「大栄」となっていますが、確かこれは「三国志演義」が原典に当たるはずです。しかし本作では「大栄」は採用されているのです。ここからわかるように、必ずしも正史を基準にしているわけではないのです。オリジナル人物「劉冀」にも字が設定されています。それなのにどうして字が本作で設定されていると分かる事ができるのでしょうか。繰り返しますがこの記事は『蒼天航路』という作品の説明をするものです。その人物の史実や別作品の説明は当該記事ですべきではないですか。
新史料かはわかりませんが、近年では李儒の字・文優が知れてきました。他にも華雄の名前が葉雄であるというのも有力になっているそうです。また、「張曼成の字と思われる曼成も不要なのでは、という理屈すら出てくるのです」出てきません。私は「作中で使われた名前だけにすべき」と言っているのであって「字を併記するべきではない」とは言っていないのです。
三国志は物語ではなく三国時代を書いた歴史書です。つまり三国志を原作に持つ、という事ではなく『蒼天航路』は三国時代を描いたフィクションなのです。参考文献に「三国志」や「三国志演義」などがある、という事でしょう。確かに蒼天航路オリジナルとは言えませんが、だからと言って作中でない情報を記述するのは一般的ではないと思います。それこそ暴論を言うと、その他の記述にまで正史などの情報が及ぶのではないでしょうか。
各反論は以上ですが、正直蛇足です。そもそもはこの話が主軸に来るものと思います。ウィキペディアでは検証可能性というものを重く見ています。つまり「蒼天航路の(少なくとも名前の)設定は正史と同一である」という出典が必要なのです。一応、私が言いたい所はこの部分ですので、上記は参考程度にお願いします。--hat2867 2009年8月18日 (火) 15:50 (UTC)
一個人の公称される別名と、文化的な側面もあり多数の人物が名乗っている字を同列に扱うのはいかがなものかと。祖茂の件ですが私は別に初めから正史のみに限ってはいませんよ。劉冀は作中で公徳殿と呼ばれておりますし、申し訳ありませんが貴方が劉冀に関して何を言いたいのか私には分かりませんでした。
確かに三国時代を描いたフィクションですが、その元である正史や演義の名前が出典元とならないというのはいかがなものでしょうか。「蒼天航路の(少なくとも名前の)設定は正史と同一である」という出典が必要、と仰いますが、ご自身の仰るとおり祖茂の字など正史のみに限ったものではないでしょう。例えば「正史と演義とで食い違い、作中でも言明されていない、のに正史の字が書かれている、出典元はなんだ」という話ならば分かるのですが、蒼天航路はフィクションで正史と演義とは全く別物だから出典元にならない、かのような主張は極論が過ぎるのではないでしょうか。--はぬまん 2009年8月18日 (火) 18:05 (UTC)
日本近世の通称と三国時代の字はほとんど同列に扱っても問題ないと思いますよ。「一個人の公称」これは字もそうですよね。「文化的な側面があり多数の人物が名乗っている」当時の武家階級では通称を持つのが一般的です。
少々方向性が極端になってしまったようで失礼しました。あまり本筋からそれた理屈を並べても仕方ありませんでした。とにかく、私はWikipediaとしては「『蒼天航路』作中の設定に準じていないものは余計な記述である」「作中で字が明らかにされていない以上、字が設定されているという検証可能性を満たさない」と考えております。もっと言ってしまうと、字は説明文中に組み込んでもいいと思っています。
正直な話、私もはぬまん様も自分の意見が間違っていないと考えていると思いますので、他の方からの意見も頂きたい所ですね。もっと広く意見を募ってもいいかもしれません。歴史モノにはよくついて回る事ですし。--hat2867 2009年8月19日 (水) 03:55 (UTC)

Wikipedia:井戸端#歴史系創作作品の登場人物の記述についてにて発言してみました。--hat2867 2009年8月22日 (土) 13:31 (UTC)

コメント依頼提出後[編集]

Wikipedia:コメント依頼に提出しました。混乱させてしまい誠に申し訳ありません。--hat2867 2009年8月22日 (土) 16:44 (UTC)

  • 賛成 井戸端を拝見いたしましたのでお邪魔いたします。字と実名や通称との関係はよくわからないので、何も申せませんが、提案内容にしぼりますと、井戸端にてアルトクール様が端的に、史実や『演義』が参考にされていても、あくまで架空の人物なので、その作品内に出る名称に限ればいいのでは?と指摘されており、私も同感で、『蒼天航路』自体を自己完結的な1つの作品と見て、作中人物や事件に関する記述は作中での叙述に即したもので充分であり、モデルとされた実在の人物なり史実における事件なりについては、内部リンク化が適切に為されているのならば、当該記事に任せれていればよいと思います。つまりは史実などに関する記述は不要だと思いますので、hat2867様、Fuji 3様のご説に賛成いたします。--胡亂堂 2009年8月23日 (日) 10:52 (UTC) - 賛成に変更しておきます。ついでに参照先の井戸端をリンク化しておきます。--胡亂堂 2009年8月24日 (月) 11:25 (UTC)
新たなご賛同を頂きましてありがとうございます。現在反対なさっておられますはぬまん様から反論がございません。一週間経過しましたが、もう一週間待ちまして合意形成に向かいたいと思います。引き続きご意見よろしくお願い致します。--hat2867 2009年8月30日 (日) 16:33 (UTC)
既存の意見のまとめのような内容だったので同じ反論を繰り返しても…と思い控えておりました。強いて反論するならば「あくまで架空の人物」という基準が分かりません。歴史物を扱った漫画の登場人物が、あくまで架空の人物なのでしょうか。他の歴史物の作品を考えてみても、あくまで架空の人物、というような認識がされているのでしょうか。例えば蒼天航路における汎などは、元となる人物もない蒼天航路オリジナルのあくまで架空の人物でしょう。しかし歴史上の人物が、歴史物の作品として新解釈で史実などと多少異なる行動をとったとしても、それはあくまで架空の人物なのでしょうか。現実に今いる人物を描いた作品での登場人物は、元にしている事を明らかにされていてもあくまで架空の人物なのでしょうか。フィクションと史実との行動の差異にまでいちいち言明する必要はないと思います、ですが元となっている人物の名前までフィクションと言えるのでしょうか?--はぬまん 2009年8月30日 (日) 17:29 (UTC)
作者がその登場人物の設定を自由に変更できる事から考えると、確かに架空というのは少々語弊がありますがそのようなニュアンスで差し支えないもののように思われます。作中で字が登場しないのにもかかわらず、あたかも字が設定されているような記述をする事は出典なしという事から独自研究に抵触する恐れがあるという事でしょう。『三国志演義』では華雄の身長が9尺とありますが、『蒼天航路』での華雄が9尺かはわかりませんよね。これは名前も同様の話です。姓名が一致するからと言って作者が言及していない字までもが自動的に決定する事はないと思います。--hat2867 2009年9月6日 (日) 05:35 (UTC)
蒼天航路が、作者が自由に人物名を変更している作品だとは思えませんが…。ニュアンスというような曖昧な言われ方をされては困ります。華雄の件ですが、史実や演義の記述との差異と名前とは別という議論が既になされていると思いますが。--はぬまん 2009年9月8日 (火) 13:35 (UTC)
『三国志演義』の孫仁の名前を孫燁夏としているほか、馬忠の名前の設定や、一部の女性人物や魏諷のクーデタに連座した面々で姓しか史料から読み取れない人物に名前を独自で設定したりしていますよ。作者が明言していない字を使用する事は、作者の作品に対する意図から違える可能性もあります。少なくとも名前の採用権は作者にあり、字を採用している事が確実でないものを記述する事は検証可能性を満たさないと思いませんか。ニュアンスというのはそういう事です。扱いは架空の人物と同列にするべきであって、史実などとフィクション作品を混同するのは好ましくないという事です。
恐らくですが、検証可能性を満たすには「この作品に登場する人物の字は、正史や演義と同一である」という出典を用意する必要があると思います。そしてその出典ははぬまん様が用意すべきだと思いますが、いかがでしょうか。--hat2867 2009年9月8日 (火) 15:59 (UTC)
孫仁は正史では孫夫人としか伝わっておりませんし京劇などでは孫尚香であったりします。その他、伝わっていない夫人名などを独自に設定する事を「変更」という言い方をするのか疑問でした。ないものは変えようがない、という話です。
少しぶっちゃけます。初め、Hat2867さんの主張が「字はすべて除去すべき」というようなものだと思い込んでいました。本編で書かれていようがいまいがすべて、です。登場もしている字を何故除去せねばならないのか、というのが基本的な疑問点でした。そういった点である種齟齬がありました、すいませんでした。
検証可能性ですが、今までも何度か申したように私のスタンスはあくまで「あっても問題ないのではないか」という次元に留まります、積極的に掲載を希望している訳ではありません。しかし、実作業をする上でどれが出て来ていてどれが出て来てないのか、長いシリーズなので非常に煩雑となります。本編以外で出展元となりうるものもあるでしょう。疑わしいものすべてに要出典をつけていくのでしょうか。出典とはそもそもそういった形で必要となるものなのでしょうか。それこそ、正史にも演義にも本編にもない字が書かれていれば出典元は何かという話にはなるのですが。ウィキペディアの方針そのものに異を唱える訳ではないので、あくまで私的に現実的だと思える「問題ないのではないか」なのですが。--はぬまん 2009年9月8日 (火) 17:15 (UTC)
私の説明が至らずに妙な誤解をさせてしまい申し訳ありませんでした。長いシリーズとはいえ比肩するほど長い作品もありますし、確認は不可能ではないと思います。問題は「本編以外の出典元」でしょうか。私は『蒼天航路』という作品に殊更精通しているわけではなく、連載当時のモーニング本誌や副読本にどのようなものがあるのかというのも知らないのです。なので基本的には要出典を貼るのではなく、本編にないものは除去しあるものは加筆するまでしか私にはできないのです。
ウィキペディアの方針に異があるわけではない、との事で了解しました。「記述に問題ない」というのは結局設定が存在するかしないかを無視してよい、という事になってしまいます。やはり私としましては本編の設定にこだわるべきかと思います。確かに他の記事を参考に字を書いてしまった方が現実的に楽ですが、やはりウィキペディアとしての理想を追求した方がいいと思うのです。それが不可能な領域に達してないのですから。--hat2867 2009年9月8日 (火) 23:24 (UTC)
問題は本編以外の出典元、ですね。「本編にないものは除去し」となると、出展元があるにもかかわらず知らないが為に除去という事になってしまう訳です。出展元があるから書く、本編にないから消す、という風になるのは編集合戦の元にもなりますしやはり些か問題があると思います。単純に見落としもあるでしょうし。その為に要出典という事になる訳ですが、字のようなものに要出典タグは不向きです。疑わしきは罰せずというような、非常に消極的な姿勢ではあるとは思うのですが、字の記述がある事によって起こる問題というのもどれだけあるのか微妙なところです。理想は分かるのですが、ルールは運用の仕方も考えねばならないのではと思います。--はぬまん 2009年9月10日 (木) 17:28 (UTC)
(インデント戻します)出典がきちんと示されれば編集合戦にはならないでしょう。出典が示されないものは除去されても仕方がありません。特に今回、これだけの議論を経ているのですから、出典示されず→除去という姿勢に問題は無いと思います。真実かどうか(出典が存在するかどうか)はこの際重要ではなく、あくまで確かな出典が示されるかがポイントとなっています。まぁ出典が存在すれば、それを示すというのは誰にでも出来ます。なので記事の混乱は回避できます。ご安心ください。 確かに些事と思われるかもしれませんが、「検証可能性を満たさない記述がある」という時点で既に問題になっていると思います。正史や演義でのその人物の活躍は当該記事や、外のファンサイトにお任せするべきだと思います。--hat2867 2009年9月11日 (金) 04:25 (UTC)
何が出典元となりうるかという事も含めでこれだけ伸びているのですから、示されれば編集合戦にならないという事はないでしょう。結局当事者が納得するかしないかだけになります。これだけ伸びているにも関わらず、その実どれだけ議論が尽くされているか疑問です。当事者ながら言うのもなんですが、自分の意見を曲げずぶつけ合っているばかりでしょう。物事の捉え方一つ違えば出展元と言えたり言えなかったりする訳ですから。こう言ってはなんですが、「検証可能性を満たさない記述がある」という意味では他に明らかに問題のある記事なんていくらでもあります。それと比べても、今回の問題は非常に微妙です。微妙なものを要出典を貼るでもなくいきなり除去しては、やはりそれは編集合戦の火種になると思いますよ。--はぬまん 2009年9月11日 (金) 08:08 (UTC)
何が出典元になりうるかという事か、というのは正史や演義などが出典元になるかどうかという意味ですよね。それを私が言ってしまうと提言の意味が全く無くなってしまいますので、当然ですが私はそれらは出典にならないと考えています。独立した一つのフィクションものとして出典になりそうなものは、漫画本編と、その副読本(ファンブックなど)、それに漫画雑誌などでの作者のコメントなどがあればそれもですね。それにアニメに関する事であればアニメに関する上記の要素も出典になると思います。その点が解決すれば編集合戦は避けられますね。--hat2867 2009年9月12日 (土) 03:42 (UTC)
まあそう言った見解の相違というものが生まれる訳です。それにさらに、Hat2867さんの言う事をまとめますと、ご自身が出典になりそうなものというものでも本編に登場していないものは要出典とワンクッション置く訳でもなく除去してしまうという話です。これでは仰るように安心する事はできません。--はぬまん 2009年9月12日 (土) 11:54 (UTC)

両論併記は可能か?[編集]

1.原則として原作中で確認できるものについては説明冒頭に字を併記する。 2.字が存在しない・もしくは不明キャラも多いため、「字:」のような専用欄は設けない。 3.原作独自の名称についてはその旨明記する。 4.原作中に見られないが、そのほか史書や『三国志演義』などで確認できる場合は、その旨明記する。

といったあたりで十分解決できるように思えますが。--Geso 2009年9月12日 (土) 13:17 (UTC)

はぬまん様。もし誤解しておられないのでしたら始めにお詫び申し上げておきます。私はこの作品の関連書籍などに記述があればそれは出典になると申しております。そして正史などは出典にならない(それらの設定をそのまま継承しているという確証が得られないため)と続けております。そもそも仮に私が本編以外のものを除去したとしても、改めて出典を出して頂ければ復旧する事ができるはずなのです。なので以下の問題が解決すれば文字通り安心できるはずなのですが……。
問題は「史書や『三国志演義』など」を出典にできるのか、という点だけでしょうか。幾度か申しておりますように、私はできないのではないかと考えております。理由も上述しておりますが、本作が字の設定を上記のものからそのまま流用しているという確証が得られないからです。はぬまん様は上記のものを出典にできると主張しているものと理解しておりますが、そちらの論拠をまとめて頂けると助かります。--hat2867 2009年9月12日 (土) 15:48 (UTC)
Gesoさんのご意見、一つの解決策としてとてもいいと思います。ウィキペディアでは対立する意見両方書く事で偏らないようにするという方針もありますし。
私がHat2867さんに対する不安として感じる事は、意見を折れ合おうという姿勢が感じられない事です。ご自分が出典とならないという風に考えるものはどうあっても納得なさらないんではないでしょうか?出典となりうるものにも見解の相違がありうる、という話に対してご自身が考える正しいものを改めて主張されても困ります。論拠ですが、今までも話したように字も人物名であり、設定というような言い回しをするのにもやや抵抗を感じます。史実や演義など、元となった人物とまったく違う架空の人物、という事はないでしょう?~と言った議論を既にしてきたはずなのですが。ただ出展を出せ出せと要求するばかりがノートページでする議論とは違うと思われます。--はぬまん 2009年9月12日 (土) 18:57 (UTC)
はぬまん様。「ウィキペディアでは対立する意見両方書く事で偏らないようにするという方針もあります」という事ですが、これはこの場合にあてはめる事柄ではないと思います。これは例えば「曹操は悪人である」「曹操は(いい意味での)先駆者である」といった存在する意見の相違を併記するという事であって、編集者の見解の相違を扱う事ではないと思います。特に今回の対立する意見というのは「史書などは出典になる」「ならない」というものですので、両方書くという事について不肖私方法を思いつきません。同様に折れ合う姿勢がないと仰られますが、そもそも争点が「史書などは出典になる」「ならない」という点のみになっています。どこを折れればよろしいのでしょうか。折れるといえば、提案を取り下げろという事になるのでしょうか。
そちらの主張については恐らく正しく理解しました。やはりはぬまん様の意見を決定づけるものは「史料などの設定(とあえてします。名前など)を踏襲している」という根拠がいると思います。もしですが、原作者が「私はこのキャラに字なんて設定してない」と考えていたら、記述に誤りがある事になりますよね。あるかないかわからないなら書かない方がいい。そういう考え方もできると思います。私の意見を決定づけるには「(特定の人物以外の)字の設定がない」という事を証明すればいいのでしょうが、それは作者などに聞かない限り達成できなそうです。申し訳ありませんが、ご了承下さい--hat2867 2009年9月13日 (日) 18:49 (UTC)
(議論の流れが追いやすいよう、勝手ながら発言箇所を移動させていただきました。ご容赦願います。--胡亂堂 2009年9月13日 (日) 23:45 (UTC)
提案を取り下げろと言っている訳ではありません。Hat2867さんの言う本作で設定されているのかという問題がない訳ではないのですから、その主張自体間違っているというような事は申しておりません。ですが、私のように異なる認識をする者もいる訳です。ですから、ただ除去ばかりではなく正史では○○、演義では○○といった注釈による解決、妥協等も可能なのではないですか?という話です。史実などにそういった字がある事は別に間違っている訳でもないでしょう。個人が作者に問い合わせたものは、それこそ検証可能性を満たさないものとしてウィキペディアの方針に書かれている例だと思いますよ。--はぬまん 2009年9月14日 (月) 07:23 (UTC)
本提案に賛成票を投じました者として口を挟ませていただきます。まず、『蒼天航路』が史実乃至は『演義』を元とする「架空の作品」であるとの合意は達成されておりますので、登場人物も「元となった人物はいるが架空の人物」と見るほかないかと思いますし(これが当方のあくまでもの意味ですが)、そうであるならば、はぬまん様は「設定」という言い回しに抵抗を感じると仰有いますが、本件ではやはり設定上の問題が取り沙汰されているように思います。で、その場合提案者さんが仰有ってるのは、例えば本編に見えない字を記載するに際してGeso様ご提案の4の方式に従ったとして、
○○(字・××、幼名・△△<ref>字・幼名は本編には見えないが、一応設定はされている(李學仁監修「蒼天航路のすべて」(仮称)、○○出版、××年)。</ref>)
または
○○(字・××、幼名・△△<ref>字・幼名は本編に見えないが『三国志』(または『三国志演義』)に見えるので、本編でもそうであると思われる。</ref>)
の2つが考えられ、前者は作者本人なり作者公認の副読本なりでの言及が出典として示されているので無問題なのに対し、後者の「そうであると思われる」は誰がそう思っているのか、仮令一般的意見として認められるにせよ、「架空の作品」である以上は作者の承認なりの典拠は必要になりますよ、ということになろうかと。
また私の場合、例えば他に独立した人物記事があり、本編では特に触れられていない事項(字やエピソードですね)について関心を持つ読者なら、そちらを見に行くのではないかと思いまして、本編に現れない字を記述することが果たして本編登場人物を理解する助けになるのか、つまりは本記事にとってどれだけ有用なのかな?という疑問がある訳です。と申しますか、元ネタがあるにせよ、1つの自己完結的な作品と見てはいかがでしょうか、という私見がある訳なのです。--胡亂堂 2009年9月12日 (土) 22:40 (UTC)
えぇと…まず初めの「『蒼天航路』が史実乃至は『演義』を元とする「架空の作品」であるとの合意は達成されておりますので」ですが、こういった形で合意がなされていましたでしょうか?言葉尻を捉えてしてないと言う訳ではないのですが、前回の反論でも歴史を扱ったものでまったくの架空という事はないでしょうと申したのですが。これが、例えばジャイアントロボに出てくる諸葛孔明のような、まったく元となる作品と異なるものなら分かるのですが、蒼天航路はやはり三国志マンガとして認識されているものでしょう。1つの完全独立作品と言う事はないと思います。
Gesoさんの提案の具体例ですが、下の例はやや冗長であると思いますよ。三国志では○○、と言った形でも十分対応可能かと。上の例は、提案者ご自身が出典元を示されればそれでよいと仰られている訳ですしここまでの説明は必要ないのではないかと。--はぬまん 2009年9月13日 (日) 02:02 (UTC)
「架空の作品」であるとの前提の下に、では元ネタの内容をどこまで記載すべきかが本件の内容だと思ったため、「架空~達成」と表現させていただきましたが、大過なかろうかと思います。また、上でhat2867様が述べておられますが、書く・書かないといった編集方針の相異を両論併記するのはかなり難しく、一応両者の見解を反映させてみたのが上記私案でして、ここまで説明しないとhat2867様の提案が反映されたことになりませんので、ある程度冗長になるのは避けられないのではないかと思います。(議論の内容を追いやすいようhat2867様の発言を移動させていただくとともにインデント変改させていただきました。)--胡亂堂 2009年9月13日 (日) 23:45 (UTC)
(ついでに)出典を担保する意味での脚注欄記載であって、記事のみを閲覧する読者は無視するでしょうし、後者の場合、記載に際しては「<ref name="三国志"または"演義"/>」とすれば、一括表示されるので差し支えなかろうかと思います。問題は担保される出典になるのですが、実はこれが本案件の要ですよね。--胡亂堂 2009年9月14日 (月) 00:09 (UTC)
この話題、予想以上に長続きしていますね・・
>「架空の作品」であるとの合意は達成されておりますので」ですが、こういった形で合意がなされていましたでしょうか? 
についてですが、「架空の」という表現がイマイチですが、少なくとも”原作:三国志”としていない以上、当然に”オリジナル”の作品であることは明らかなわけで、オリジナルである以上、字など記載されていない項目を作者がどうしようとしたかは作者のみぞ知るということになります。したがって、正史が直接の出典になることはありえません。ただし、作品が三国志(正史)の翻案であることは作者コメントより明らか(脱線ですが、作者コメントによれば演義はあくまでも補足資料扱いです)なので、比定できる人物について①正史記事へのリンクをつけたり、②字などの情報を補足したりは大目に見てもよいのでは?というのが論点だと思っていましたが、この認識は間違っていますか?私見としては、①は慣習的にも実施されているので問題なし(もちろん注釈がある方が望ましい)、②は注釈をつけない限りは望ましくない(逆に注釈さえあれば許容範囲)というところです。結果としてこの結論にも異論が出ているようには思えないんですが??Fuji 3 2009年9月14日 (月) 04:31 (UTC)
「架空の作品」という言い方には少々誤解を招く言い方のように思えますが、原作:三国志、または陳寿、羅貫中などではなく原作または原案・李學仁となってる以上、オリジナルというのはその通りだと思います。胡亂堂さんの、編集方針の相違を併記するのは難しい、仰るとおりだと思います。その為の話し合いをする為にノートページがある訳ですし。しかし、上の説明は提案者すらそこまで求めているものではない様に思いますし、下の説明も、思われるといった形で残される事が提案者の求める事とも私の反論とも大きく異なるものだと思えますが。Fuji 3さんの仰る②が私の望ましい形だと思うものでしょうか。--はぬまん 2009年9月14日 (月) 07:23 (UTC)
提案者です。「そこまで求めていない」と解釈なされておりますが、そもそも私は無用な記述は不要というスタンスであり、記述を前提のお話については今の所発言しておりません。
慣習というのはどの記事で適用されていますでしょうか。むしろ慣習は、作品に直接かかわりのないものの記述を控える事だと思うのですが。紹介されていない人物の字がある事の利点も、正直未だによくわかりません。大目に見ると言うのは編集者の視点でして、閲覧する人にとっては無用な情報ではないでしょうか。この記事の閲覧者はこの作品について知りたい人ですし、その人物について知りたい人はその人物記事に飛ぶと思います。--hat2867 2009年9月14日 (月) 13:04 (UTC)
すいません、多少蛇足的な話にはなるのですが少し確認を。「そこまで求めていない」と解釈、というのは、上の説明、つまり出典元のハッキリしたものの、その明記の仕方についてのものです。本編以外でも出典元を明確になされているのであれば良い、という事ではありませんでしたか?その出典元の説明として冗長でしょう、という話だったのですが。出典元の明記すら無用な記述で不要、という意味合いなのでしょうか?--はぬまん 2009年9月14日 (月) 13:20 (UTC)
はぬまん様。そういう事でしたか。誤解していたようで失礼致しました。そうですね。例えば『蒼天航路の全て』のような公式の副読本があるとします。それを参考にいくつかの設定を明らかにするのでしたら、「参考資料」という節を作ってその副読本を記述すればいいと思います。そして、ご理解頂いていると思いますが、正史などは有効な出典とはならないと考えているので、それについての記述方法については発言していないという事です。
一応、「字が人物を把握するのについて有用である」という事が明らかであるという事でしたら、不肖私、以下のような案を考えてみました。
  1. キャラクターの表題となる名前(と読み)は、本編で使われたものを使う。(例:伏寿→伏皇后、梁剛→梁鋼)
  2. キャラクターを補足する名称は説明の前で記述する。(曹操→字:孟徳、幼名:阿瞞、伍孚→字:徳瑜)
    • この際、本編や作品自体を解説する出典で説明できない(史料などを出典とする)ものについては、太字にしない事で区別する。
  3. 登場キャラクター節に、そのように記述する旨を示しておく。
なお、私は以上の案については今の所反対です。これは参考ですが、歴史フィクション(特にNHK大河ドラマ)で字(に相当する名称)が存在しても使われない人物がいますが、その場合は記述しないようになっています。天地人で、樋口惣右衛門というキャラクターは通称(字に相当)の伊予守は使われていないので記載はなく、逆のパターンでは本名である兼豊という名前も使われていないので記述されていません。--hat2867 2009年9月14日 (月) 14:41 (UTC)
参考文献の出典の明記の仕方とも違いますし、本編と出典元が違うという事を特段区別する必要はないのではないでしょうか。副読本に対しての解説は別にあったとしても問題はないと思いますが、出典元の記述として区別するというのは、出典元の優先順位を本編と優劣を付けているようにも見えます。Hat2867さんの提案ですが名前と読みなどは異論ないのですが、注釈と比べ「太字にしない事で区別する」という方法は逆に分かりにくくはないですか?そして、ご自身で提案された内容に反対されてもこちらとしても対処に困ります。--はぬまん 2009年9月14日 (月) 15:38 (UTC)
出典元の優劣(優先順位?)を付けています。下でマクガイア様が仰られている「いくら史実に忠実であったとしてもフィクションである事は疑いなく、史実とフィクションは明確に分けなければならない」に私は同意します。それなので、記述をするのであれば史料の類でしかわからないものと区別する必要があるでしょう。それが注釈(脚注)でも太字でも同義だと思います。節の文頭に説明があれば「ああ、字で太字じゃないのは参考であるんだな」と理解できるとは思いますが。まぁ私は脚注でもいいと思います。閲覧者が分かりやすい方がいいですね。
えっとですね。「意見を折れ合おうという姿勢が感じられない」という事もありましたので、どうやったら折れる事ができるのかと考えた末に上述のような中途半端な事になりました。つまり「本編で設定されていない名称を書く事で、読者に有益な点がある」事が確認できれば、明らかに区別する事でなら掲載してもいいのかな、と思ったまでです。これもマクガイア様の意見に同意した形ですね。言葉足らずでしたようで申し訳ありませんでした。
所で少し疑問があるのですが、『蒼天航路』の副読本というのはどれほど存在しているのでしょうか。それと以前私がこの議論で折れ合うのは厳しいと申し上げましたが、はぬまん様方としましてはどこらへんで折れているのでしょうか。本当に失礼な話だと承知しておりますが、よければよろしく願います。--hat2867 2009年9月14日 (月) 16:36 (UTC)
史実を元とする出典に注釈を付け区別するのは当然ですが、副読本など蒼天航路としての出典元足りうる物に優劣はないでしょう。ウィキペディアで出典元に優劣があるというのは聞いた事がありません。さらに本編でも、連載時、単行本時、文庫版時、愛蔵版時で異なり修正されていたりします。副読本ですが、私はそれほど詳しくないのであまり知りませんが、画伝などでしょうか。アニメの設定資料など、今あるのかは知りませんが発売される可能性もありますしDVDのブックレットに設定が載せられている事もあります。折れている点ですが、当初除去の必要性はない、そのままあっても問題ないという姿勢でしたが、注釈などと言った形でもいいのかな、とかいったところでしょうか。要出典など、実際に除去するとしてもその仕方など色々考えてきたつもりですが、あまり折れているような印象はなかったでしょうか?--はぬまん 2009年9月14日 (月) 17:21 (UTC)
えっと、私とはぬまん様の認識は一致しているみたいですよ。私は副読本など『蒼天航路』を解説するものについては本編と区別する必要はないと思っております。あくまで原作から外れるもの(史料・演義など)と区別(優劣・優先順位)をつければいいと思っております。
はぬまん様におかれましては大変失礼を致しました。「無条件で正史など可」→「注釈付きで正史など可」という事ですね。私の当初の論点が「正史は出典にならない」というものでしたので、その推移が読み取れず、印象に残っておりませんでした。重ねてお詫び申し上げます。--hat2867 2009年9月15日 (火) 15:04 (UTC)
(インデント戻し)おや?公式の副読本の設定を分けて節を作り区別する、という話の流れだったように思うのですが…一致しているのならいいのですが。
さて、議論も一段落したようですが、どういたしましょうか?注釈と言った形でもなお反対、除去すべき、という事であれば、議論の合意もなされずお流れという事になってしまいます。本来提案者が反対者に対して説得し合意に至るものなので、除去すべき、という事には未だに合意しかねます。合意形成は多数決でなされるものではありませんし、合意がなされなければそのままという事になってしまいます。反対者である私が納得できるよう説得を続けるか、注釈と言った形で合意とするか、お流れでそのままとするか。Hat2867さんはどう望まれますか?--はぬまん 2009年9月16日 (水) 08:28 (UTC)
私は基本的に『蒼天航路』の解説に史料や演義の情報は蛇足であると考えているのは変わっておりません。ただその記述がある事で、本作の解説として有意義となる理由があれば、注釈付きで記述すべきだと考えています。なので今回の場合は字ですが、字がある事で有意義な点があるのなら記述もいいんじゃないんでしょうか。特に理由はなく、あった方が見栄えがいいとか、あっても困らない、程度の話でしたら必要ないんじゃないかと思いますが。--hat2867 2009年9月16日 (水) 14:10 (UTC)
下のまとめでのような、除去ありきのものであるなら、合意しかねると言う他ありません。何度も言うようですが、提案者のHat2867さんが反対者に対して納得しうるように説得するものでしょう。反対者の私側から見ると、どうしても結論ありきの自分が正しいのだからいい、という姿勢に見えてしまうのです。その姿勢を私がノートで編集合戦を危惧しているにも関わらず、IPユーザーの方と編集合戦をしていますよね?上で一度議論されているからなのかもしれませんが、再びノートを利用する事も出来たはずです。相手のコメントを見るに相手が諦めてしまっただけですし。PJ:漫画のノート(歴史漫画の設定記述)でのコメント依頼も中立的な印象はありませんでしたし、そういった不信感を拭えないのです。真摯に向き合った議論にならないのであれば、合意する事は出来ません。--はぬまん 2009年9月17日 (木) 17:28 (UTC) -リンク先と名称を改変させていただきました。--胡亂堂 2009年9月18日 (金) 15:59 (UTC)
除去ありきなのはWikipediaの方針的に必然的なものでしょう。本編の設定とは直接関係のない記述をするのですから、それなりの理由をつけないといけません。私は字が有意義な記述であれば(出典が正史などと明記した上で)問題ないと言っているのですが、これでは折れた事にはならないのでしょうか。
正直な話、これ以上私にはぬまん様を説得する自信がありません。例を色々と挙げてもいいのですが、それで納得なさるかにも自信がありません。それに私に不信感があるというのも反対の理由の一つとなりますならば、もう私もこれ以上の発言をするにも消極的にならざるを得ません。言いたい事は色々ありますが、それを言ってしまうとさらに状況が悪化しそうだからです。一つだけ申し上げるとすれば、はぬまん様は字がある事による利点を挙げる事によって合意に近づけるという事もしては下さらないでしょうか。3度目の事ですし、拒んでいらっしゃるのかもしれませんが、念のためにお尋ね申し上げます。
PJ:漫画のノート(歴史漫画の設定記述)でのコメント依頼が中立的でなかったのでしたらお詫びします。よろしければどのあたりがよくなかったかお教え頂けると幸いです。IP様との話は以前にノートで合意を受けているものでしたのでその旨を要約で書きました。その上ででしたらノートで話をする用意もありましたが、諦められてしまってはこちらとしても対応しようがありません。こちらとは関係のない話ですので、何かありましたら上の節でお願い致します。--hat2867 2009年9月18日 (金) 15:24 (UTC) -リンク先と名称を改変させていただきました。--胡亂堂 2009年9月18日 (金) 15:59 (UTC)
まず「除去ありき」と感じさせてしまった点はお詫びしますが、それについては下記#そろそろまとめましょうかをご覧願います。なお、PJ漫画のノート(歴史漫画の設定記述)は充分「中立的」だと思います。--胡亂堂 2009年9月18日 (金) 15:59 (UTC)

コメントPJ:漫画のノート(歴史漫画の設定記述)を拝見して伺いました。長い議論のためざっと斜めに目を通しただけですので、認識違いがありましたら申し訳ございません。私としましては

  • 史実をモデルとしている事は二次資料で明らかなので、史実を元とした記述は読者の理解を深めるものとしてある程度は掲載してもよい。
  • ただし、いくら史実に忠実であったとしてもフィクションである事は疑いなく、史実とフィクションは明確に分けなければならない。

と考えます。

例えば史実の人物山田太郎をモデルとした山田としか作中で表記されていない人物については

; [[山田太郎|山田]] 
: 史実での名は太郎。xxxx。

は問題ないと考えますが

; [[山田太郎]] 
: xxxx。

ではフィクション中に登場しない太郎という名前が作中でも登場しているかの様な誤解を与える事となり、フィクションと史実が混ざってしまうため問題があると考えます。上で示されている脚注方式は、一応脚注によって作中の記述ではないという事は分かるようにはなっていますが、ぱっと見て史実とフィクションが混在しており、どの脚注部分がフィクションで史実なのかが分かりにくいため問題があると私は考えます。--マクガイア 2009年9月14日 (月) 13:28 (UTC) -リンク先と名称の改変、行削除をさせていただきました。--胡亂堂 2009年9月18日 (金) 15:59 (UTC)

そろそろまとめましょうか[編集]

議論もどうやら収束に向かいつつあるようなので、勝手ながらまとめてみます。

  1. 本編中に見えない字などについては、脚注なりの形で出典を示しつつ触れる。
  2. その場合、正史や演義などの元ネタは出典たり得ないので不可。

こんなところじゃないかと。--胡亂堂 2009年9月16日 (水) 09:18 (UTC)

うーん、流れ的には
  1. 本編中に見えない字などについては、脚注なりの形で出典を示しつつ触れる。
  2. 翻案元(正史)、参考資料(演義)の情報は必要であれば、本作品の情報でないことを明示して示す。
  3. 翻案元(正史)、参考資料(演義)の記事へのリンクは参考として認める。
なのかと思いますが。もっとも(2)の「必要であれば」に合致する情報はあんまりないものだと考えています。Fuji 3 2009年9月16日 (水) 09:47 (UTC)
では、
  1. 本編中に見えない字などについては、脚注なりの形で出典を示しつつ触れる。
  2. その場合、正史や演義などの元ネタは出典たり得ないので不可であるが、翻案元(正史)や参考資料(演義)として当該記事へのリンクは推奨する。
こんな感じはいかがでしょうか?--胡亂堂 2009年9月16日 (水) 10:09 (UTC)
Fuji 3様の仰る「必要であれば」に合致する事が稀、という事であれば、Fuji 3様の案と胡亂堂様の案と差はないと思います。本件である「(未登場の)字」は必要な情報でしょうか。--hat2867 2009年9月16日 (水) 14:15 (UTC)
私は胡亂堂さんの第2案でも許容できます。公式資料にない未登場の字については必要な情報と思いませんが、必要と思うかどうかは編集者の主観による部分もあるので、私の案の(2)は許容できる要素を残しています。胡亂堂さんの案だと記載は難しいですが、リンク先で確認すればすむ話なので読者に利益こそあれ不利益はないと思います。ちなみにあえて未登場の名称を記載する必要があるパターンとしては、「通常は字で呼ばれることが多いのにあえて読んでいない(当作品には該当なしと思われる)」とか「あえて特定の呼び名を利用している(万億-李通パターンとか孫ヨウカのような仮名パターンとか)」くらいかと。Fuji 3 2009年9月17日 (木) 00:38 (UTC)
すみません。一応私なりにFuji 3様の提案と折衷させた心算だったのですが、Fuji 3様にはご許容いただき、本当にありがとうございます。(と、申しますか、以下下述)--胡亂堂 2009年9月18日 (金) 15:59 (UTC)
コメント むぅ、終熄に向かうのかなと思ってましたが、上の方で再燃してますね・・・。
えっとですね、現段階を再整理しますが、まず本編に見えない字を記載するか否かについては、
  • 不要…提案者hat2867様
  • 出典がなければ不可…Fuji 3様 、井戸端におけるアルトクール様、そして不肖私
  • 要…はぬまん様
  • どちらかというと要なのかな?…Geso様
  • わからない…マクガイア様
  • お任せ…118.8.17.190様
となってます。で、その出典について、正史(乃至は『演義』)のみがそのままで出典たり得るか否かは
  • たり得ない…提案者hat2867様、Fuji 3様 、マクガイア様、井戸端におけるアルトクール様、そして不肖私
  • たり得る(?)…はぬまん様
  • 微妙…118.8.17.190様
  • 不明…Geso様
となっております。ですので多数決は嫌いなのですが、この流れから行くと議論を続けるにせよ、とりあえず一旦登場しないものは削除も已むを得ず、然る後に はぬまん様 の方から改めて反対者に対して載せましょう議論を展開して納得し得るような説得をするのが筋だと思うのですが・・・--胡亂堂 2009年9月18日 (金) 15:59 (UTC) (一部訂正--胡亂堂 2009年9月19日 (土) 10:10 (UTC))
コメントまず、私はコメント依頼を受けてきただけで、この作品を読んだことがないということをご留意願います。その上での私の判断は、「二次資料によって『史実がベース』ということが明示されている様なので、であれば作品解説として有意義であるのならばある程度史実を元の記述を加えることに問題はないと考える。ただし、フィクションと史実は明確に区分しなければならない。」というものです。ただ前述の通り未読ですので、「二次資料があるらしい」というのはこの場の議論を呼んだだけの判断であり事実を確認したわけではありません。また「作品解説として有意義であるかどうか」は当然判断がつきません。ですので上記分類での私の立場は要不要は「わからない」、たり得るか否かは「たり得る。ただし二次資料によって『史実がベース』ということが確実ならば。」ということになるかと思います。ただ、一般論として「作品解説をする上で、データベース的なものもを史実から補足する事が読者理解を助けるのか?」と言う点については否定的ではります。また脚注で史実とフィクションを区分するのは明確性として劣るので私は反対です。--マクガイア 2009年9月19日 (土) 05:59 (UTC)
失礼しました。訂正しておきます。--胡亂堂 2009年9月19日 (土) 10:10 (UTC)
これだけ決裂した状況で多数決ですか。除去するかしないかで意見が対立しているのに何故とりあえず削除してというのが筋になるのか理解しがたいものがあります。このような議論になるのであればもはや申す事はございません。--はぬまん 2009年9月25日 (金) 05:57 (UTC)
私はマクガイア様の意見に同意しまして、「作品解説として有意義である」という事だったら史料などを元に字を書く事もやぶさかではないと考えており、なのではぬまん様にはぜひにも有意義であるという理由を仰って頂きたいと思っております。もちろん投票もここまでこれば有効な手段だとは思いますが、私としましては意見が出尽くされた後でもいいと思います。特段急ぐものでもないようです。と、書きましたが、何か不快な点などありましたら申し訳ありません。--hat2867 2009年9月26日 (土) 04:16 (UTC)
議論停滞の後、1ヶ月半程が経過しました。長期間において放置していたのは発案者として申し訳ございません。はぬまん様からの意見をお待ちしていたのですが、特に意見はないものとお見受け致します(対話拒否を仄めかすような発言もありましたが……)。現状が続くようでしたら、胡亂堂様の集計通り、とりあえず作中に登場しない別名などは除去するという方向でよろしいかと思います。
なお、私は原作を始め、本作の資料となるものを手元に置いておりません(アニメ版の録画のみ)。なので私の力で別名の取捨選択をするのは、少なくともすぐにはできない状況にあります。なのでこの方針を適用するとしますと、「一旦全ての字を除去→編集者が出典を確認して追記」という形になってしまいます。しかし私としてはこれ以外には「要出典」を貼る事くらいしかありませんので、どなたか少なくとも原作を確認できる方がいらっしゃりましたら、取捨選択をお願いしたいと思います。
とりあえず、早急に進める事もありませんので、またしばらくご意見を待ちたいと思います。失礼いたしました。--hat2867 2009年11月17日 (火) 15:22 (UTC)
改めて同じ事を言う様なかたちになってしまいますが…今回のHat2867さんのノートでの発言を受けてと思われますが、トマさんが出典元を書いて下さってます。以前にもお話したと思うのですが、一つ一つ出典元を書くというのはやはり非常に冗長な印象が否めません。漫画の人物名一つとってこのような形成となっている記事も覚えがありません。
また少し別の話になるのですが…以前Hat2867さんは出展元の確認は不可能ではない、と仰っていました。しかし、資料をお持ちではない。なのに一旦すべて削除して、書く際に出典を併記していただく、というのはいささか他力本願的に思えます。また、要出典タグはそもそもこのような時に使うべきものではないのでしょうか。何故すべて削除して、という方法に拘るのかが以前から理解できないでいます。--はぬまん 2009年11月18日 (水) 05:57 (UTC)
なんといいますか、かなり無意味な論争な気がいたします。そこで労力を使うのならば、人物紹介をより深く肉付けする作業に勤しんでいただきたいです。正直、どうでもいいことだと思いませんか?少なくとも私にはそう思えます。
はぬまんさん、Hat2867さんの拘る理由は簡単ですよ。原作を持っていないし面倒なんです。無謀な提言をしたことに後悔しつつ、それでも何とか提言者としての威厳を保とうとしているのでしょうね。私としましては、原作では、あらすじ等の人物紹介の項目に姓名とともに必ず字の明記がされていたので字は「絶対」に書く必要があると思います。本来ならば、「作品に関わる情報のみ」に記載された字をwikiにも記載するのが一番ですが、それは実質「不可能」。理由はわかりますね。誰も雑誌掲載まで確認してまで編集したくないですよね。よって「史料からわかる登場人物の字を全て記載」することが最上なのです。見た目も綺麗ですしね。何事も清ければwikiとして相応だとは私は思いません。多少の濁りも必要ですよ。
Hat2867さん、あなたは提言者として無責任です。原作を所持していないことをもっと早く明言するべきだったのでは?卑怯です。そのレベルでの提言ははっきり言って「おこがましい」です。字についての無謀な提言や、編集の段階で人物紹介の項に明らかに名前だけの人物を入れたりと、自分で掲げた大幅な整理の仕方と矛盾した行動はそのためだったのですね。ファンサイトのコピペに近い「孫引き」行為では意味ありませんよ。もちろん、うる覚えで編集してしまうことは私もあることですが、もう少し上の方だと思っていました。非常に残念です。原作を所持しないにしろ、よく原作を読みこんだ上で今度は提言してくださいね。--124.102.24.16 2009年11月18日 (水) 10:11 (UTC)

思ったのですがこの稚拙な提言からはじまった論争をノートから削除しませんか。提言者であるHat2867さんは発言の辻褄がめちゃくちゃですし、他力本願すぎます。編集作業のために残して意味のある議論には思えないのですが。いかがでしょうか。噛み合わない同じことを何度も書いても仕方ないでしょう。Hat2867さんは、乱暴な推論かもしれませんが、そもそもアニメしかほとんど知らないのではないですか?字でアニメでは呼び合ってないですもんね。原作では日常的に字で人物たちが呼び合っているというのに、それを含めて全く字の記載が必要ないとは一体どういうことですか。暴論にもほどがありますよ。--124.102.24.16 2009年11月19日 (木) 12:37 (UTC)

はぬまん様。お返事頂けて有難く思っております。「トマさんが書いている出典」というものが私にはわからないのですが、原作に登場するものについて一々出典として併記する必要はないと思いますよ。原作以外から(副読本など)のものについては書いた“方がいい”でしょうか。そして出典(原作)の確認は不可能ではありません。確かに今すぐ早急に出典がいる、という事でしたら残念ながら力及びませんが、用意する事は特に難しくはありません。自分でやるべきだ、という話になるとしましたら、もちろん私もやる手段は持ち合わせています。もちろん第1巻から最終巻まで一つ一つ確認をするので、まとまった時間が必要あるいは少しずつになるのは分かって頂けると思います。私は図書館で得た情報を記録して、自宅作業で記事に上げるという事をよくしていますが、まさにそんな感じになると思います(家には資料などがないため)。
要出典タグこそ他力を求めるものですし、使う事は可能ですが私は消極的です。それで、問題の削除後に記述という話なのですが、これは削除前に取捨選択をしておくという方法をとれば回避する事ができます。つまり、原作未登場情報のみを除去すればよいという事ですね。もっともこの話は原作未登場の字を除去するという事で合意が取れたらの話です。はぬまん様がご意見を変えていらっしゃらないのでしたら、まだ合意は早いですね。で、もう一度私の意見をお伝えしますと、マクガイア様の仰る通り、「原作登場未登場に関係なく字を併記する事に意味がある(閲覧の際に便利などの理由で)」という事でしたら問題ないと思っております。私としましては、例えば伍孚の字が徳瑜であるという事が閲覧者の助けになるとはどうしても思えないのです。確かに諸葛亮の孔明などといった、字の方が有名な人物は書いた方が便利という事もありましょうが、孔明は原作でも登場していますしね。ですから、ぜひ記述の利点を教えて頂きたく思います。
IPユーザー様。「乱暴な推論」というお言葉ですが、正直私は「(前略)面倒なんです。無謀な提言をしたことに後悔しつつ、それでも何とか提言者としての威厳を保とうとしている(後略)」というご発言の方が乱暴な推論のように思えてなりません。無謀な提言だとは思っておりませんので後悔もしておりませんし、提言者としての威厳というより責任を貴方に諭されてここにおります。面倒という事ではありません。あと資料となる文献を持っていないからといっておこがましいというのはちょっと言い過ぎではないでしょうか。私は貴方の仰る通り過去の人物の記事などを主に編集しており、編集などにあたっては図書館で史料などを調べています。しかし不肖私は史料を所持はしていません。史料を所持しなければ編集やノートページでの発言はしてはいけませんか。私は少なくとも原作は読んでいますし、それ故に今回の提言をしました。
最後ですが、いかに私の提言が稚拙に見えたかは存じませんが、それでも議論に参加して下さった方がいます。この議論を終わらせるにしても何らかの合意が得られてからになるのではないでしょうか(除去しないとしても)。終わっていない議論なのに、削除するというのはどうかと思います。IP様は今回は私を批判する気がある、という事なのでしょうか。一部私に落ち度がある点がありますし、私は一向にかまいませんが、あまり攻撃的な発言はしない方がいいと思いますよ。中には機嫌を損ねる方もいらっしゃいます。相手が見えないインターネット上だからといって、見ず知らずの他人にショックを与える様な発言は控える事をおすすめします。--hat2867 2009年11月19日 (木) 14:29 (UTC)
そうですよ。原作を所持していないで安易な提言をするあなたを批判するつもりです。どうみても、最初は原作を持っていて、さも良く知っているかのように装っていますから。その辺りを否定しない所を見るとこれは認めるということですか?あなた自身がショックでないのなら、いちいち言い返さなくていいのでは。それに責任転嫁していますが、他の発言者に失礼なことをしているのはあなた自身ですよ。勘違いしないでください。
史料が云々とよくわからないことを言っていますが、「孫引き」の意味わかりますか?そこから説明しないとわかりませんか?王忠とか人物紹介で書き込んでますよね。まず原作を読んでいて間違えないですから。また、先日はぬまんさんが修正しましたが、朱然の項目に朱然が温恢の挑発に乗って~というようにそれまではなっていました。まず原作を読んでいて間違えないですから。こちらもあなたが編集しましたね。後者はうる覚えの可能性もありますが、前者は文章から考えて明らかにファンサイトを参考にしたものだと思われます。さらに成公何の項目ですが、あなたが付け加えた部分に雑誌掲載時は成何云々~とあります。これはまぎれもない事実ですが、本当にあなた自身の目で確かめましたか?このような原作を引用したファンサイトの意図を原作を確認せずに無断で流用する行為が「孫引き」です。それから蒼天航路という原作はここでは史料ではなく資料ですよ。他の方はよくわからないと思うので一応説明しますと発端は私がHat2867さんのユーザーページに書き込みました苦言です。
Hat2867さんが意図的に私の意見を取り上げない形が癇にさわりますが、もう一度強調しますと、中間の原作その他の字からの記載で合意するのなら「字はもちろん原作のみならず関連するもの全てから確認する必要がある」でしょうね。これだけ立ち向かってくるのですからHat2867さんは合意した方法で率先して編集に責任を持って参加してくださるということなのでしょうね。感心いたしました。ということですから、はぬまんさん、この辺りが落とし所のようにも思えます。いかがでしょうか。「やはり字は名前の一部、原作を越えて正史でわかる字は記載すべき」という考えは変わりませんか?もし許容できるのでしたら、残りは原作以外の字の情報も記載するかどうかに絞りこめるのですが。
>私としましては、例えば伍孚の字が徳瑜であるという事が閲覧者の助けになるとはどうしても思えないのです。
と言いますが、ならば誰が閲覧者の助けになって誰がならないとかいちいち議論するのですか。また無謀なことを。本当に懲りない方ですね。そんな態度だから議論が一向に終わらないのですよ。だから拙いのです。ところで登場人物の網羅はまだですか?そちらの弁明まだですか?--124.102.24.16 2009年11月19日 (木) 16:24 (UTC)
「トマ様の出典」の件、理解しました。失礼しました。
IP様。私は確かに原作を所有しておりませんが、少しは読んだつもりでいます。それだからこそ字の件が気にかかったのです。もちろん朱然の件は私の記憶違いで書いたのかもしれません。しかし原作を所有しているかのように装ったつもりはございません。また原作に精通する程何度も読んだというわけでもありません。ですが、出典資料を所有していないから提言してはいけないというのは、私は図書館でデータを集めてWikipediaに参加する事が多いので、そのような意見もあるのかとびっくりしました。
ご指摘の件ですが、確かに登場した王忠が、後の王忠と同一人物かは言われてみれば確かに判りかねます。そういう場合は記述しない方向というのも納得できます。ですが、それとファンサイトがどのように関係してくるのでしょうか。成公何については確かにウェブの情報が初見ですが、モーニングで確かに成何となっているのを確認しています。
意図的にIP様を蔑ろにしているつもりはけしてないのですが、問題がありましたでしょうか。失礼があったのでしたらお詫び申し上げます。「原作以外の字の情報も記載するかどうか(しないのではないか)」というのは当初の私の提言ですから、私としましてはこれに是非がつけば、その方針に従うつもりであります。IP様、はぬまん様はじめ、これまでの議論に参加して下さった皆様におかれましては、是非ご意見を頂きたく思います。--hat2867 2009年11月19日 (木) 17:13 (UTC)
確かに私が細かい事を言ってきて議論が長引いた感があります。申し訳ありませんでした。やはり細かい所には眼を瞑る態度でなければやってはいけないのでしょうかね。追加の質問ですが、網羅につきましてはこちらの議論が終了後、原作未登場の字の扱いが決まってからでいいと思っております。--hat2867 2009年11月19日 (木) 17:13 (UTC)
まず、順番に参りましょうか。トマさんの編集と言うのはこの版ですね。で、無論このように原作で記述のある出典元のハッキリしたものを一つ一つ上げる必要はない訳であります。問題はないもの、という事なのですが、当然ながら、出典元の存在しないものは消されても文句は言えない、とガイドラインにある訳なのですが、今回の件において要出典タブを使っては?という話になる根拠が、単純な見落としによる出典元があるのにもかかわらず削除してしまう、という懸念です。Hat2867さんは原作本をお持ちでないという事なので尚の事です。自宅作業で一つ一つ確認する、とのお話ですが人間見落としはつきものです。ですから、その不確かなものを多くの人が補う、というのがそもそもウィキペディアというものでしょう。あるのに関わらず消してしまうぐらいなら、せめて有無の確認が出来なかったものを要出典タブを使用するのが良いのではないでしょうか。さらに言うなれば、今までの議論でも言われているように副読本等も出典元としてはなりうる訳です。消しても文句は言えないのは出典元の明らかではないものです。明らかかどうか分からない、という時点で消してしまうのは乱暴でしょう。原作において未登場であれ、出典元のある文章を消す理由にはなりません。要出典タブを付けて出典元が明らかにされないのであればそれは除去すればよろしいでしょう。ウィキペディアの手順としてはこのような形であるべきではないでしょうか。他者の編集を尊重する、という観点に立てば、どのような出典に基づき字を書かれたのか分からなくとも、なにかしらの出典があって書かれているものと考えるべきでしょう。自分が分からないからと言っていきなり消すのは、やはり尊重しているとは言えないのではないでしょうか。
有名であるか、利用者にとって便利であるかどうかは基準として非常にあやふやで不適切です。伍孚がどれだけ無名であろうとも出典元が正しくあるのならば書かれるべきであり、諸葛亮がどれだけ有名であろうと出典元がなければ孔明と書くべきではないのです。分からないから消す、ではなく、分からないからこそ編集した方に出典元を問うべきなのです。
124.102.24.16さん、私個人の意見としては、この時代の人物の人名において字は名前の一部、という考え方は変わってはいません。しかし、ハッキリしない部分もあるのであくまで「あっても問題はない」という次元に留めておりました。ですが、上記したように確認を取りつつ要出典も用い丁寧にするのであれば異論はありません。
また少し余談的ではありますが…Hat2867さん、少しは読んだつもりって、すべて読んだ訳ではないのですか?それでは登場しているかどうか、どのような基準で仰っているのか疑問となってしまうのですが…。124.102.24.16さん、署名はアイコンを利用された方が手間もなく正確ですよ。--はぬまん 2009年11月19日 (木) 18:06 (UTC)
はい、Hat2867さん。あなたはやはり嘘をついているのが見え見えです。原作読者からしてみれば違和感まるだしですよ。編集の過程と発言が噛み合ってないですから。はぬまんさんの言うことももっともですしね。そもそも王忠は名前だけの登場ですよ。何を馬鹿なことを。また、朱然の項目は読んでいたら呂蒙となんて100%間違えませんから。それくらいインパクトありますから。何を馬鹿なことを。成公何の項目は見ていた?何を馬鹿なことを。呂蒙と朱然の違いがわからないレベルで雑誌掲載を見ているわけないんですが。たまたま見ていただけ?ずいぶんと都合がいいですね。おや、「蒼天航路」と「成公何」を同時検索すると、すぐに出て来ますね。それに遡ると118.8.17.190さんが一度同じ記述をしていましたね。消されたのを戻しただけでは?これ以外にも変なことは沢山ありますよ。検証しやすいものを持ってきたまでです。私は原作を所持していないから非難をしていますか?日本語もわかりませんか?ま、あなたがどう弁明した所で、ある程度原作を読みこんだ読者の違和感は確実に拭えないでしょうね。字に基づくこの議論ですが、どうして言いたいことだけ言って、人任せなんですか?画伝や雑誌掲載を含めて自分で確認すればいいのに。と思っていたら、議論放置のあげく「原作すら持っていない」からすぐ検証できないという他の発言者を舐めきった発言を「今さら」するから怒っているんですよ。そして今まで何度も感じていた「違和感」。ああ、だからか。となるわけです。日本語がこれで伝わるかな?無駄に長いだけでまとまっていないあなたの言葉はうんざりです。あなたが私を蔑していない?どうでもいいです。言い合いはこの辺りでやめましょうか。
はぬまんさんが許容してくれましたよ、Hat2867さん?さぁ、どうしますか。「もちろん原作以外からの情報もすべて調べてくれる」のですよね。まさかここまで来て、原作しか必要ないとは言いだしませんよね?議論を引きのばす訳ないですよね?--124.102.24.16 2009年11月20日 (金) 00:19 (UTC)
はぬまん様。未登場情報については、要出典を用いるというクッションを置いて、暫く原作未登場のものの様子を見てからという方針なら、という理解をしました。それでなら私もいいと思います。ちなみに少しは読んだ、というのは、読んでない部分もある、という訳ではなくて、何度も何度も繰り返し読んだというわけではない、という意味での発言です。何回かは読みましたが、「蒼天ファン」と名乗るくらい読みこんでいるというわけではない、という事です。
IP124.102.24.16様。最初に申し上げますが、いかに相手にそのような感情を抱いたとしても、「馬鹿」や「日本語もわかりませんか」といった発言はやめておいた方がいいと思います。成公何の件ですが、先にも申しました通りWEB上で認識してから雑誌で出典元を確認しました。以前にその記述があったのも承知しておりました。出典を書かなかったという事でしたら、それは私に咎がありました。その他の誤情報につきましても弁解の余地はありません。
議論放置とは仰いますがWikipedia:論争の解決にもある通り、意見が対立しておりましたし、また畏れながら返答がないという状況でもありましたので、暫く時間をおいたという側面もあります。また確かに確認をする手段はあります。しかし、そもそも「未登場分の情報を記載するか」という判断がされてなかった上で編集をするわけにはいきません。私の判断では、少なくともそれが決定してからの編集になると思っておりました。無駄に長いというのは全く同感であります。相手の発言の細かい所に注意してしまったり、わかりにくい例え話をするのは私の悪い癖だと思います。それにつきましては大変ご迷惑をお掛けしております。
最後になりますが、「原作(及びそれに準ずる出典)未登場情報は原則記載しない」「但し、要出典タグを使用する事によって、現在の情報はすぐには除去せずに暫く様子を見る」という事になっておりますが、私はそれで問題ないと思います。あとは、おそらく問題はないとは思うのですが、後者部分において先に議論でご発言頂いた方々がこれで問題ないという事でしたら、それで議論が締めれると思います。--hat2867 2009年11月24日 (火) 01:35 (UTC)(追記)--hat2867 2009年11月24日 (火) 15:02 (UTC)
(特に異議なし)即時除去して編集か要出典付与して様子見かはスタイルの違いでしかないので、どちらでも賛成です。Fuji 3 2009年11月24日 (火) 03:25 (UTC)
(特に異議なし)許容しましょう。やれやれ、ようやく終結ですか。要点をどんどんずらす上に話が噛み合わないからこうなる。議論対立という状態すら成り立っていないように思われました。少しは学んでくださいねHat2867さん。--124.102.24.16 2009年11月24日 (火) 03:36 (UTC)
えぇと…こちらの話を聞いておられないのでしょうか?なぜ「原作未登場情報は原則記載しない」という話になるのでしょう。副読本なども出典元となる、という事を考えればこのような原則論は出てこないはずです。私としては、まず最低限、話のスタートラインとして、どれが原作で出ていてどれが出ていないものか、何が問題かという事をHat2867さんご自身で要出典という形で示していただいて、それから精査すればよい、という事です。原作以外でも副読本など出典元となる情報があるのならばそれは記述としてまったく問題のないものです。このような原則論は成り立ちえません。--はぬまん 2009年11月24日 (火) 07:41 (UTC)
改めて読み返したのですが、はぬまんさんの言うことも納得。よくわからない逃げ口上にも聞こえます。Hat2867さんが言う
>「原作未登場情報は原則記載しない」「但し、要出典タグを使用する事によって、現在の情報はすぐには除去せずに暫く様子を見る」
のなかの「原作」というのは副読本を含んだ意味だと思っていたのですが違いますか?
そして、もちろん議論を持ちかけたHat2867さんが責任を持って出典提示→精査。という意味ですよね。じゃなかったら議論提示した意味も字の選別をはぬまんさんや私が許容した意味もないですよね。逃げ口上ならば、開いた口が正直塞がらない。その場合はたぶん本当に頭が悪いのでしょう。--124.102.24.16 2009年11月24日 (火) 12:12 (UTC)
はぬまん様。IP124.102.24.16様の仰る通り「原作及びそれに準ずる出典」という事です。最後の最後で言葉足らずで申し訳ありません。副読本などはもちろん出典になり得るでしょう。私がなり得ないのではないか、と思っているのは出典が「史料などのみ」のものであります。それにつきましては「要出典」という形でクッションを置く、という理解をしました。
IP124.102.24.16様。肝に銘じます。アドバイスかたじけなく思います。ちなみに、IP124.102.24.16様におかれましては、もう少し言葉選びを慎重に行って頂くと、今後何かの役に立つと思いますよ。事後の編集の件ですが、本件の提案をしたからというより、議論中に私がそのような発言をしたから、と言った方が正しいかもしれません。登場人物の確認は時間の許す限り行いたいと思っております。--hat2867 2009年11月24日 (火) 15:02 (UTC)
(特に異議なし)どうやら終わりそうですね。Hat2867 様の修正前案(「原作未登場情報は原則記載しない」)でも議論の流れから公式な副読本は可という前提は形成されていたように存じますので一向に構わないとは思いますが、この辺りしか見ない人が性急な編集をするかもという点を考えると、より明確な修正案(「原作(及びそれに準ずる出典)未登場情報は原則記載しない」)で妥当だと思います。んで、問題とされている字の記載については、記述する者乃至残したいと思う者が責任を持って出典を提示→他の者が精査・検証ということで。124.102.24.16 様のコメント中、一部インデント修正させていただきました。ご了承願います。--胡亂堂 2009年11月24日 (火) 17:16 (UTC)
(特に異議なし)124.102.24.16さん、Hat2867さん、そういう事でしたか、失礼しました。それならば以前申しましたとおり、異論ございません。これまで大分認識の行き違い、勘違いがあり、感情的なってしまった面もあり大変申し訳なく思います。時間を置いた事により一つ冷静に議論を見つめなおす事が出来ました。後味悪く決裂ではなく合意に至れ、反対の立場ではありましたが素直に良かったと思えます。長い議論となりましたが、皆様ありがとうございました。--はぬまん 2009年11月24日 (火) 19:23 (UTC)
一週間が経過しました。はぬまん様の賛同に加え、他にも反論がありませんので「原作(及びそれに準ずる出典)未登場情報は原則記載しない」「現時点で記載すべきでないと思われる情報は『要出典』を付する」という事で締めたいと思います。皆さま、特にはぬまん様には大変お世話になりました。不肖私も今回の件ではとても勉強になりました。今後は私の方でも原作の確認をしていこうと思っております。--hat2867 2009年12月2日 (水) 13:47 (UTC)

原作とアニメの記述の分離について[編集]

孫権や孫堅の記事に髪の色の記載がありましたが、少なくとも原作者による原画(画伝)においてはそのような色であることは確認できません。アニメではそういう色であったのではないかと推測されるのですが、現在のように原作とアニメがごっちゃに記述されると正確な記述となりません。また、出典を示すことも難しくなります(妙に長引いている「字」の問題にもそういったところがあって、「アニメでは呼ばれていた」的な話が出てくると検証が困難です)。原作とアニメはあくまでも別の作品であって、本項は冒頭の定義にあるように原作を主とした記事なのですから登場人物の記事は原作をベースとし、アニメの設定については、アニメが出所であることを明記した上で差異のみ記載する形式に編集したいと考えていますが、意見があればお願いします。Fuji 3 2009年11月20日 (金) 04:05 (UTC)

原作において、孫権はどうみても茶髪じゃありませんか?孫権は資料が結構多いので、確認できると思うのですが。演出上で髪の色が違うことはありますが、単行本のカラーページや裏表紙において黒髪ではないと思うのですよ。孫堅も、画伝等において青みをおびた紫、または赤みをおびた紫で、黒髪のキャラクターとは表現が絶対に違うと思うのですよ。ちなみに目が青いのは了承していただけますよね?まぁ凌統のようにあからさまな赤髪だったらわかりやすいのですが、色というものは主観に左右されますから、「絶対に原作においてこうだ!」とは私、断言できません。
また、アニメと原作をごっちゃにはしないということで合意はされてますよ。字に関しての「原作やそれに伴う情報」とは何も原作とアニメという意味ではないですよ。ほら、原作だって、雑誌掲載・単行本・文庫本・極厚・画伝とそれぞれであらすじ等の人物紹介が違ったりするでしょう?その点を確認するのが困難なのに議論が無謀だと言っているんです。私はアニメに関してならアニメを見るだけなのだから別に困難だとは思えませんね。もっともそちらの編集に関わる気は一切ないのですが。--124.102.24.16 2009年11月20日 (金) 04:46 (UTC)
あなたは画伝を確認しましたか?黒髪でないのは確かですが、紫髪、茶髪と断言できるような色付けされているところは一つもありませんよ。孫権はむしろ紫で彩色されていることが多く、これは史書を参考にしていればありうる話です。いずれにせよ凌統の赤髪のように明らかではないですし、そんなあやふやなことをさも確定のように記述することが問題でしょう。そもそも髪の色がキャラクター紹介にそこまで大事という感覚も理解しがたいですが。Fuji 3 2009年11月20日 (金) 13:30 (UTC)
あくまで憶測にとどまった判断なのですが、周知の通り孫権は、正史において紫髯であり演義において碧眼とあります。これを王欣太は言葉通りに孫堅にあてはめたのでは。また、中国での紫とは日本でいう茶なのでそれを孫権に当てはめたのでは。場違いな考察なのでこの辺りで。でも原作でFuji3さんが二人は黒髪以外の何物でもないという考えでなければ納得していただけるとは思います。いかがでしょうか。私は初回限定版で画伝を持っていますよ。それから原作単行本全巻と極厚2巻までと雑誌掲載のローズマーダードリームス(画伝宣伝の文庫最終巻にあるものですね)をすぐ手元に所持しています。ならば孫権のどのあたりで紫に見えるのか教えていただけませんか。繰り返しますが、色は主観で変わるので難しいですよね。そこまで大事とはどこまで大事?キャラクタ―の髪の色の記述の重要性について述べた記憶がないのですが。執着もしてないんですが。まぁ消すのは話し合ってからでもいいじゃないですか。何か勘違いされているようですが、私がしたいのは「弁明」ですよ。自分が編集した箇所がアニメによるものと判断されたので、いえいえ、そうでなくて原作からそう思ったのですと言いたかっただけです。むしろあなたは画伝しか確認しないんですか?ちょっと攻撃的なのはHat2867さんに対する私の態度が癇に障ったんですかね。私は嘘はついていないので痛くも痒くもないですが。--124.102.24.16 2009年11月20日 (金) 15:40 (UTC)