ノート:織田信長

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信長肖像画について[編集]

外国人が描いた信長肖像の写真てひょっとしてこれですか? 信長写真pdf画像 これは明治になって「忠臣」を顕彰して位を追贈した時に創られた肖像画ではないでしょうか。似た臭いので新田義貞を以前見たことがあります。探したのですが、それを元にして描いた像しかネット上にはありませんでした。 新田義貞画像 --怪蘇 2006年3月28日 (火) 10:13 (UTC)[返信]

そもそも義貞の画風とまったく異なる様に見えるのですが・・・詳細は外部リンクの通り、織田家、宮内庁、三宝寺に聞かないと分から無いですけど。--以上の署名の無いコメントは、Ziong会話投稿記録)さんによるものです。2006年5月15日 (月) 17:40(UTC)
信長没後すぐに作成された肖像が、木像などと似ていない。同時代絵画史料では髭が薄いのに明治時代の錦絵のように髭が濃く、近代の軍人肖像画を彷彿させる。これは明治に追贈された人の肖像画に共通する類似点ですが・・・ 最も私も詳しい情報を持っていないのでそういう指摘もあるという注意書きを本文に記入させて貰いました。--怪蘇 2006年7月13日 (木) 13:56 (UTC)[返信]

ヨーロッパから来た画家という部分についても、はっきりしていない風に
書かれていますが、もしそれについても、はっきりしていないのなら言及は
あまり、意味のないものでは?
その画家の画法や技法についても、ですが、実際にどういった状況下で書か
いたのかも、分からないのでは、曖昧に過ぎます。
上記のような可能性や、画家の想像だけで書かれた可能性も捨てきることは
出来ません。 --以上の署名の無いコメントは、狂気の森会話投稿記録)さんによるものです。2007年12月25日 (火) 15:06(UTC)

はじめまして。完全に言い切ってしまうのはどうかと思います。ちょっとネットをたどると
http://www.shouzou.com/mag/mag2.html
湯村章男氏の『織田家の菩提寺に残る信長の肖像画について』を引用する。
「天童藩代官佐藤次右衞門が著した勤仕録の天保6未年(1835年)の項に次のような一文を見つけることができた。『天保六未年正月朔日 一例之通出仕之處、御太祖様尊像御書院奉掛、御中小姓以上席々拝礼相済候後、於御用部屋被相詰、同所詰御酒頂戴被仰付、…』(天童市史編集資料第14号)織田家では藩主への年頭の挨拶の折り、毎年御太祖様(信長)の肖像画に拝礼し、その後家臣たちは御酒をいただくことになっている。これは、『例之通』とあることから初代藩主信雄以来営々と絶えることなく慣習として受け継がれてきたことが想像できる。毎年拝礼を重ねてきた肖像画が、複写され三宝寺に残ったらしい。」
とあります。つまり明治以前に織田家が代々拝んでいた証拠を指摘する人もいます。この場合肖像作成者はジョバンニ・ニコラオ(イエズス会画派・セミナリオ教師)発注者は織田信雄とありますが、「この肖像画についてはまだ研究不足ではっきりしない。」程度のニュアンスで記述する方が無難であると思いました。--Wakarundesu 2008年9月23日 (火) 22:13 (UTC)[返信]

分割提案[編集]

記事の肥大化に伴い、小説・ドラマ・ゲーム等の関連作品の一覧を織田信長が登場する作品一覧に分割する事を提案します。--Nihonsi 2008年10月30日 (木) 20:53 (UTC)[返信]

ご提案ありがとうございます。賛成いたします。Toki-ho 2008年10月31日 (金) 03:39 (UTC)[返信]
(賛成)異議なし。--玄史生 2008年11月1日 (土) 05:23 (UTC)[返信]
同感です。どんどん記事が肥大化しているなかで分割は妥当だと思います。--ベルゼブブ 2008年11月1日 (土) 09:18 (UTC)[返信]
(賛成)適切なる御判断かと。--Cyclops 2008年11月1日 (土) 09:30 (UTC)[返信]
(賛成)上記の分割提案に賛同いたします。Kuro-hato 2008年11月1日 (土) 11:02 (UTC)[返信]
Nihonsiさんが当記事以外にも徳川家康・伊達政宗・西郷隆盛・沖田総司・土方歳三・豊臣秀吉の各記事で登場する作品の分割提案を出されており、それぞれに意見がついてしまっており、これでは議論が錯綜してしまいます。ですので以後、ノート:徳川家康で議論を一本化したいと思います。--らりた 2008年11月1日 (土) 12:37 (UTC)[返信]
このノートでは分割賛成が多数派ですが、ノート:徳川家康では全部削除すべしとの意見が多数派です。--らりた 2008年11月1日 (土) 12:37 (UTC)[返信]
拙速でした。議論場所はPortal‐ノート:歴史#フィクション作品の情報を原則として人物記事に載せない旨の合意について提案でお願いします。--らりた 2008年11月1日 (土) 12:55 (UTC)[返信]
(コメント)関連作品の一覧は5.7KB程度。現在100KBの記事の肥大化解消につながるとは思えないんですけど。--Knua 2008年12月6日 (土) 12:16 (UTC)[返信]

信長の肖像画について[編集]

はじめまして。最近、「外国人が描いた写実的な信長の肖像画」が削除されてしまい、大変残念に思います。管理人さんをはじめ、どなたか復活させていただけないでしょうか?何卒お願いします。--222.145.36.11 2009年1月23日 (金) 06:08 (UTC)通行人より[返信]

ネットの検索で「織田信長 肖像画」などで出てくると思いますよ。「三宝寺蔵」ということらしいので、それを参考に--124.211.83.66 2009年8月19日 (水) 15:14 (UTC)[返信]

信長の男色について[編集]

はじめまして。当時の戦国武将の間で男色は極めて当然の行為だったにも拘わらず、前田利家その他の信長の男寵に就いて記さないのは、全く以て不自然かつ不公正な扱いではありませんか?  かつての日本人が重んじた風習を無視しようとするのは、とりもなおさず自分たち日本人の先祖を卑しめる振る舞いでしかありません。 こんなことでは、「西洋人」のキリスト教思想に影響されて、己れから植民地根性の持ち主に成り下がった、と言われても仕方が無いと思います。 もっと日本人としての誇りをもって過去の性風俗その他に関するトピックも記して頂きたいものです。 --124.255.15.75 2009年5月18日 (月) 07:38 (UTC)[返信]

Wikipediaは演説をする場所ではありません。--彩華1226 2009年5月18日 (月) 16:30 (UTC)[返信]
編集履歴は膨大なのでチェックしてませんので過去にそのような記述があったかどうかは知りませんが、それらが必要と思われるなら、ご自分で執筆されてはいかがでしょうか?その上で、それらが削除されたというのであれば、改めてノートで記述に関する賛否を問うべきでしょう。ついでに言えばここは「日本語」のサイトであって「日本人の為の」サイトではありませんので、日本人の誇りなどでwikipediaを執筆なさらないようお願いします(日本以外のアメリカ人や中国人が執筆するのを妨げるものではないですので)。--あな@34 2009年5月30日 (土) 18:49 (UTC)[返信]

第二次包囲網について[編集]

無期限ブロックユーザーSabkakusikaku によって一方的に全削除された手取川の戦いの記事を復活させるべきだと考えます。この記事は過剰な描写もなく比較的良く出来ていたと思いますし、これがないと松永久秀の謀反にしかるべき動機が見出せず、記事としてのバランスが悪くなるように思います。ご意見お聞かせください。参考:(全削除された過去の記事)「一方、謙信の攻勢を耐えていた能登七尾城長続連は信長に援軍を要請する。信長はこれに対し、柴田勝家を総大将とした3万を前軍、自らが率いる本隊1万8,000人を後軍として出陣する。しかし、9月15日に七尾城は落城し、9月23日に前軍は謙信率いる上杉軍の前に敗れた(手取川の戦い)。信長はこれを知り、謙信との衝突を避けて安土に帰還した。」--61.207.83.190 2009年8月28日 (金) 11:49 (UTC)[返信]

該当ユーザーがブロックされていますし、削除された記述に問題があるとは思いません。今すぐ復帰しても良いと思います。--Kazusan会話投稿記録 2009年8月28日 (金) 11:52 (UTC)[返信]

「信長くんシリーズ」の作者[編集]

漫画欄の「信長くんシリーズ」の作者は、佐々木倫子さんではなく佐々木けいこ(佐々木慶子)さんです。作品のファンとしてこの間違いは許せませんので、訂正をお願いします。 児玉珠美--221.252.165.131 2009年9月17日 (木) 12:33 (UTC)[返信]

清洲同盟・家康側の事情について[編集]

細かいところですが、「桶狭間の戦いから清洲同盟へ」節における清洲同盟の背景事情について、家康側では今川氏や武田氏への対抗であったとしているのですが、三河において独立した家康と今川との対立はわかるのですが、この時点で武田との対立関係は生じているのでしょうか?この後、確かに徳川氏は武田と敵対化していきますが、武田の今川領国併合の時点で信玄は家康に対し領国の割譲を持ちかけていますし、その過程で両者は手切れとなり、やがて対立関係に至ります。

つまり、清洲同盟における家康側の事情に武田への抑えがあったのか若干疑問なのですが、そのような説明をしている文献はあるのでしょうか。武田側では、管見のかぎりでは見かけないように思えるのですが。--でここ 2010年10月31日 (日) 07:51 (UTC)[返信]

同節で、IPユーザーによる大幅な段落削除が行われていたため、取り消しておきました。おそらくは、操作ミスだろうとはおもいますが。 --NTJ会長 2011年6月25日 (土) 12:24 (UTC)[返信]

関連作品[編集]

関連事項-関連作品-テレビドラマ-その他のテレビドラマの節で、風林火山 (NHK大河ドラマ)が挙げられている。風林火山の主人公、山本勘助にとって、織田信長は東海地方の群雄の一人で、主君・武田信玄の同盟者・今川義元を討った男と言うだけに過ぎす、出演シーンはたった一回だけである。このドラマの準主役、武田信玄、武田勝頼、真田昌幸、上杉謙信らにとって、織田信長は非常に関係の深い人物であるが、それは物語が終わった後のことである。

織田信長がワンシーンだけでも出場する書籍、映像・音声作品、舞台作品は数多い。あるいは信長の存命期間を含む時代の日本を舞台にした作品の過半数に達するかもしれない。ウィキペディアではそれらを網羅することはできない。この問題は、単に風林火山を削除するだけでは解決せず、追加を制限する厳しい基準が必要である。

信長の家族・親族
織田長益、お市、淀君、お江
信長の姻戚(特に縁が近いもの)
斎藤氏、蒲生氏、武田氏、豊臣氏、柴田氏、丹羽氏、徳川氏、北畠氏、筒井氏、前田氏
本能寺の変の加害者・被害者
明智光秀、斎藤利三、森成利
信長に殺されたもの
今川義元、浅井長政、松永久秀、朝倉義景
信長によって大幅に地位が転落したもの
覚恕、荒木村重
信長によって大幅に地位が向上したもの
前述を除いて滝川一益
信長の生前に討ち死にした家臣

あまり小説等の題材になりにくいものをのぞいても、これだけの人物に、信長との関係が互いに大幸運、ないし大不運となっており、彼らが主人公の作品で、ほぼ確実に信長が準主役として登場する。豊臣秀吉、徳川家康が主人公の作品だけでも、膨大な量に達する。それ以外の信長の死後に生きていた人物が主人公の作品を、関係作品に加えるべきかどうか、疑問である。--大魔王シャザーン 2010年12月17日 (金) 20:25 (UTC)[返信]

「織田信長がワンシーンだけでも出場する書籍、映像・音声作品、舞台作品」を網羅する必要は一切ないと思います。--彩華1226 2010年12月18日 (土) 03:51 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。さて、ここでかなり厳しい基準を提案したい。

信長が唯一にして無二の主人公であるもの
これだけはその作品に一定の特筆性があれば、現状の存続と今後の追加を認めざるを得ない。ただし、これだけでも相当に多数である。それ以外の追加には慎重の上にも慎重になるべきである。
実在、ないし架空の女性が主人公で、信長との夫婦関係、相愛関係等が作品のテーマであるもの
これも、信長が主人公の作品に準ずると考えてもよいかもしれない
複数の人物が主人公の群像劇で、その一人が信長であるもの
国盗り物語』は、主人公斎藤道三が途中退場し、道三の娘・帰蝶をめぐって、信長と明智光秀が複雑な人間ドラマを展開する。信長と帰蝶の死を以て、物語はほぼ終了している。この作品の掲載の継続は認めてもいいかもしれない。『鬼と人と』も、信長を奇人、光秀を常人として描いており、テーマは「奇人とは何か」であって「常人とは何か」ではない。信長、秀吉、家康の三人(のみ)が、等価値にクローズアップされている作品は、ボーダーライン上である。認めにくい理由は、作品数が多すぎるからである。できれば「信長と秀吉のみ」か「信長と家康のみ」の作品に限定したい。マルチプレイ方式の歴史・戦略シミュレーションゲームは、よほどのことがない限り認めがたい。なぜならマルチプレイ歴史・戦略シミュレーションゲームの京都を含むマップで1551~1582年にスタートするシナリオで、信長でプレイできないことが、ほとんどありえないからである。

もう一つの方法として源義経が登場する大衆文化作品一覧に習った分割がある。どちらかに賛成、あるいはどちらにも反対、という意見とその理由を拝聴したい。--大魔王シャザーン 2010年12月18日 (土) 14:52 (UTC)[返信]

賛成  分割に賛成します。理由は下記話題にあるように可読性の向上のためです。記事を分割し、新規項目を作成する場合、項目名が「織田信長が登場する関連文化作品一覧」などもありかとも思います。--西方 2011年4月18日 (月) 14:57 (UTC)[返信]
Portal‐ノート:歴史#フィクション作品の情報を原則として人物記事に載せない旨の合意について提案がありました。ご参照ください。削除の方針・ケースEにあたるとも見解があるようですが、わたしは整理上、やむをえないかと思います。--西方 2011年4月19日 (火) 15:51 (UTC)[返信]

可読性の向上のために[編集]

現在の記事は、独自研究部分も多い事もあり、記事の軽量化、重複した記述の整理、冗長な記述の編集をもって可読性の向上につとめる方がより好ましいと思われます。とりわけ「人事政策」などは出典タグがつけられて三年もたつのに、出典が明記されません。大胆な編集が求められるかとも思います。--西方 2011年4月18日 (月) 14:51 (UTC)[返信]

本項とは別に織田政権が立項されているようですね。こちらを整備・加筆しながら本項では略述化し、詳細はそちらを参照と脚注部分で階層化を図るといいのではないかと考えます。私も武田信玄では同様の問題を感じておりまして、領国支配方面は手付かずなのですが、伝記部分では細かい合戦の経緯などは省略し脚注で誘導を図るという方法で軽量化を試みています。--でここ 2011年4月19日 (火) 15:29 (UTC)[返信]
でここさん、ご意見ありがとうございます。信長をはじめ史上有名かつ人気のある人物の項目は、どうしても情報量が過剰になりますものね。むろん、情報量が多いそのこと自体は好ましいことなのですが、項目全体としてみたときに、可読性を損ねてしまうと、残念でもあります。さきほど、一部、学説の詳細など三職推任問題に移動しましたが、織田政権のことなどもこれから考え、リンクや脚注などで、対応していこうかと思います。
あと、私の動機は加筆だったのですが、あまりに未整理かつ膨大であったので、加筆のまえに整理をはじめた次第でした。--西方 2011年4月19日 (火) 15:41 (UTC)[返信]
若干の印象をまとめてみました。織田政権論については知識は極めて浅いのですが、まず領主権力としての織田氏と、統一権力としての織田氏を区分して記述する必要性を感じます。
現在ではまず「天下布武」が政権基本路線として説明され「宗教」「朝廷」と続き、「人事」「戦略」(?)、「内政」となっています。
これをまず領主権力論と統一権力論に区分して、「内政」部分であろう領主権力論では信長期の織田氏の「戦国大名」としての領国統治が記されるべきでしょう。しかるのちに統一権力としての織田政権の特質を記し、ここにおいてまず「天下布武」が語られるべきでないでしょうか。また、管見では信長ははじめ将軍足利義昭を推戴し室町将軍体制をあくまで基本とした間接的「天下人」としての地位にあったのであろうと思うのですが(これは私見です)、義昭追放・室町幕府滅亡をもって区分するべきではないでしょうか。対朝廷政策などは、後期織田政権における事象のようですし。
「人事」については「家臣」と統合される節ではなかろうかと思います。「宗教」については、武田氏であれば領国内における自社統治は領国支配の問題ですし本願寺のような対外勢力との関係は外交になるのですが、本項ではそのあたりの区別はどうなっているのでしょうか?「朝廷」も、これは外交政策に含まれるのではないでしょうか。
「戦略」というのは、どこに位置づけられるのかよくわかりません。
繰り返しになりますが織田権力というのは単なる戦国大名であった時代、室町将軍を推戴した間接的「天下人」であった時代、室町将軍を排除しても「天下人)で在り続けた中央政権としての時代と権力が変質していますから、まずそれを念頭に分野別の政策面が語られるべきでないかなぁと、個人的には思います。ただ、あくまでも信長・織田政権関係の研究史をよくしらないままでの印象ですので、整理の際の参考までにしていただければと思います。--でここ 2011年4月19日 (火) 15:58 (UTC)[返信]
でここさん、助言ありがとうございます。現在の「政策」項目は、おっしゃるような高度な上位概念によって整理されているとは思えません。エピソードの羅列に終始している面が非常に強いと思われます。しかも多くの記述が出典なしです。私も信長には強い関心を持っていますが、これらの記述を逐一出典を探していくことは現在はできないし、さりとて、出典なしとの理由で削除されるべきとも思われない。まあ、たしかに助言くださったように、これらは、むしろ「政策」とか「宗教」とかいった上位概念において整理できるところではあると思いますので、折りをみて編集しようかと思います。--西方 2011年4月19日 (火) 16:30 (UTC)[返信]

器量の狭さについて[編集]

はじめまして。 器量の狭さの項目に『ジェノサイド』という表現があります。 非常にカッコいい言い回しだとは思いますがどうでしょうか? 言葉尻から「虐殺」や「集団(大量殺害)」というものを連想しますが、どうも正確な表現には思えません。 さらにジェノサイドという言葉を使ったあとすぐに「虐殺」という言葉も出てきますね。 一方的な暴力という意味にも感じますし、別項の詳細にて制圧とか討伐という表現がありますので改めた方がいいと思います。 ジェノサイドという言葉の意味も違ってとらわれる可能性もあります。

器量の狭さの項目そのものに必要性を感じません。 "人物"の章は別に存在する上、"苛烈と云われる所業"なる節も存在するので、そちらに記述すべきです。 内容自体も不適切な語彙や現代倫理を持ち出すような悪意のあるもので、百科事典の記述として相応しくありません。 全文削除を提案します。--林先茂会話2014年1月21日 (火) 01:29 (UTC)[返信]

いいと思います。--365日生きる人会話2021年10月4日 (月) 02:22 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

織田信長」上の4個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2018年3月27日 (火) 16:35 (UTC)[返信]

参考文献の書き方について[編集]

参考文献の書き方で気になることがあります。

執筆者名のすぐ後に発行年が書かれていますが、以下のように書くのが一般的だと思うのですが、いかがでしょうか。

書籍の場合は執筆者名、書籍名、出版社名、発行年

論文の場合は執筆者名、論文のタイトル、掲載されている雑誌名、発行年--2400:4051:82A0:2500:6872:23ED:5A4:27E 2020年8月6日 (木) 23:27 (UTC)[返信]

日本史の書籍や論文では発行年を最後に書くほうが優勢かもしれませんが、著者の直後に発行年を書くのも参考文献の記載としては一般的な方法だと思います。現在の参考文献の挙げ方は私がTemplate:Cite book ja-jpを導入したことによるもので、いわゆるハーバード方式に準じた方式ということになると思います。この記事では脚注で姓と年で参考文献を示しているため(Wikipedia:出典を明記する/個別参照法#姓年参照)、参考文献節でも著者の後に発行年がすぐ来るほうが読みやすいというのが導入の主な理由です。Template:Cite book ja-jpの解説もご覧ください。--伊佐坂安物会話/履歴2020年8月7日 (金) 14:20 (UTC)[返信]

年表節の除去の提案[編集]

現状の「織田信長#年表」の除去を提案します。時期不明である事柄も多く、記載が必ずしも理解に資さなかったり誤解を招くと考えられるためです。また公卿補任や系図纂要といった一次資料を出典に「正四位下弾正大弼」などの官位についたという記載が多くありますが、注釈のとおりこれらは事実とは考えられていないということもあります。--伊佐坂安物会話/履歴2020年8月7日 (金) 14:56 (UTC)[返信]

織田信友を主君とするInfoboxの記載[編集]

ブルーバックさんによって、織田信友を主君とするInfoboxの記載が繰り返し追記されています。が、そのようなことを記した出典もなく、当初から信長と信友(正確には織田彦五郎)とは対立関係にあり、適切とは思われません。織田信友を主君とする記載の除去の合意を形成したいと思います。--伊佐坂安物会話/履歴2020年8月7日 (金) 14:56 (UTC)[返信]

細かいことで根拠のないことを書く荒らしの手法とも思えます。その対応でコミュニティを疲弊させて問題です。信秀と岩五郎の父親の守護代・織田達勝・清洲家の時代に争い、いったん和睦したのに、天文17年1548年信秀が大垣城後ろ巻きのため美濃に出陣すると隙を狙い清須方が再度離反し古渡城を攻撃し、これ以来、信秀・信長の織田弾正忠家と清須家との関係は切れています。そのまま、信秀の死で信長への家督相続後の天文21年8月の萱津の戦いになる。相手も信友として家督相続しているが、又代の坂井大膳に清洲家の実権を握られている。そもそも対立状態で関係はなく、尾張国内の敵対勢力にすぎない。--奈良たかし会話2020年8月9日 (日) 14:45 (UTC)[返信]
チェック コメントありがとうございました。除去を実施しました。ブルーバックさんについては他の記事の編集等についても疑問があるため、場合によっては利用者のコメント依頼を提出しようと思います。--伊佐坂安物会話/履歴2020年8月15日 (土) 03:54 (UTC)[返信]

第一次信長包囲網について[編集]

初見で失礼します。第一次信長包囲網の説明に「元亀元年(1570年)4月、信長は自身に従わない朝倉義景。」と書いてありますが朝倉義景。の意味が分かりません。早急に直すべきだと思うので訂正お願いします--123.255.243.170 2022年6月21日 (火) 10:08 (UTC)[返信]

過去の誤った編集除去を復元しました。--奈良たかし会話2022年6月21日 (火) 12:23 (UTC)[返信]

織田信長側室の記事の曖昧さ回避の統一[編集]

Category:織田信長の正室と側室にカテゴライズされている記事を見ると、曖昧さ回避の括弧が付いている記事が現在4つありますが、統一されておりません。

一番上の「織田信長側室」がもっとも混乱を招きにくい曖昧さ回避かと思い、「坂氏 (織田信長側室)」「土方氏 (織田信長側室)」への改名を提案します。--こんせ会話2023年11月22日 (水) 02:45 (UTC)[返信]

チェック 特に意見がありませんでしたので、2件の改名実施とリンク元の修正を行いました。--こんせ会話2023年12月1日 (金) 05:10 (UTC)[返信]
坂氏については他に同名の人物はいないので、曖昧さ回避の用語を簡潔にする観点からは移動しないほうがよかったのではないかと思います。--Kusunose会話2023年12月1日 (金) 08:49 (UTC)[返信]