ノート:第9師団 (日本軍)

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富山35連隊に入隊(昭和18年)した小生の長兄(安念正久)は、沖縄転進(重機関銃部隊)中に、富山県東砺波郡太田村の弟:亮山=県立砺波中学校2年生=あてに軍事郵便はがきで音信ののち。玉砕報道が、あり、戦死したものと悲嘆にくれていたところ、敗戦の年の暮れの11月に、実家にあらわれたので、家族一同は慶湛歓喜したものです:その長兄の語るところによれば、暫時オキナワ駐留後、宮古島に再配置となったとのことです。 しかし、連隊編 成記録資料でも、『宮古島』が記載されていないのであります。 宮古島への米軍侵攻は、艦載機によるロケット弾攻撃が主だったそうです。 重機関銃隊にため、将に最先端部に配置されていて、最初のロケット攻撃を受けたときはビックリ仰天したそうです。 この島駐屯中は、食料事情が悪くて衰弱の体躯で帰還しました・ 小生が沖縄部隊の兄に送った写真は、衣料の質が悪くて、2年間着用でも、ツギハギだらけの制服で写っているものでした。 当時、2年生は工場への学徒動員はありませんでしたが、農村での各種作業(暗渠水路:松根油工場建設:庄川下流左岸の仮設飛行場建設:冬季の麦畑積表面の空調用穴掘り作業)にも駆り出されていました。 授業では、土曜を除く毎日には、の時間が軍事教練の時間があって、「おまえらは、手りゅう弾を50メートル投摘困難だから」戦車攻撃 として リヤカーに見立てた洗車の下に爆雷での挺身攻撃までやらされていました。監視 また校舎内には銃器庫があり、三八式歩兵銃が数拾丁が保管されていたものの、昭和二〇年の敗戦間地かでは、その姿はありませんでした。  小生は中学4年終了後、高岡工芸に転学し、富山電波監視局(昭和26)採用となり、米軍供与の無線方向探知機(野戦用=1944製)の操作 をふくめ、ITU(国際電気通信連合)の委託的現場業務を約20数年間もやり、独学乍ら、第1級総合無線通信士=合格率5%=も取得して、国家公務員として多大の貢献をしてきた自負心を有しております。  砺波中学:高校で当該国際資格を有する者は皆無でしょう。 国家への多大の貢献につきましては、ここでは、はぶきますが、砺波市宮森新66 名越亮三 あて ご希望の旨 お知らせください