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「細川忠興「が」三男」について[編集]

当時豊前国小倉藩主であった細川忠興三男で次期藩主の忠利へ宛てた元和6年(1620年)3月16日付の手紙

の、「細川忠興が三男」の「が」を「の」に直した後に元に戻されておりますが、この場合の「が」は文語における助詞の用法によるものではないのでしょうか(桜井満 宮腰賢編『全訳国語辞典』旺文社 1990年 大分県高等学校国語教育研究会編『総合国語事典』大分県高等学校国語教育研究会 1954年)。

口語に文語を織り込んだ場合「細川忠興は三男である」または、原文に句読点はありませんが「細川忠興が、三男の忠利に宛てた手紙」と読まれてしまう恐れがあると考えられます。--ムカイ 2008年11月1日 (土) 00:37 (UTC)[返信]

当時豊前国小倉藩主であった細川忠興三男で次期藩主忠利へ宛てたと、ムカイさんが修正をされましたが、この書き方でも忠興が忠利に宛てた書状と取れなくもないですが「誰」が細川忠利に宛てた書状であるのか不明確にも思えます。「長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」書状は細川忠興が息子(三男・次期藩主)・忠利に宛てて書いたものであり、よって改めて元に戻した次第です。YOMIURI ONLINE 九州発 こだわり歴史考 福岡城天守論争を参考に天守の存在について記載しましたが、これによれば「豊前小倉藩主・細川忠興が嫡子忠利にあてた」とあります。通常、Wikipediaも含め現代の文章は文語体では記載されていませんので、「が」を文語の「の」と読み違える可能性は極めて薄いと思います。
”編集内容の要約”に記載している時に誤ってenterボタンを押してしまい、要約が中途半端になってしまいましたので、余計に元に戻した理由が不明朗になってしまったことについてはこの場を借りて、お詫び申し上げます。また、誤解を受けやすい文章となっているとのご指摘から、「細川忠興が三男で次期藩主の忠利」を「細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利」と書き替えて理解して頂きやすく訂正使用と思います。本件、ムカイさんより編集合戦を避けるための問題提起と理解しております。小生も編集合戦の様な愚行は避けるつもりでおります。上記文章への書き替えにてご理解頂ければ書き替えるつもりです。
なお、ここでは余談ですが、脚注化される以前には「当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が三男で次期藩主の忠利へ宛てた」と記載していたのですが、それで特に修正もありませんでした。脚注化されたことで分かり難くなってしまった。脚注化も場合によっては文章の流れが寸断されてしまいます。--Reggaeman 2008年11月2日 (日) 13:14 (UTC)[返信]


  • コメントのご理解と詳しいご説明まで頂き、ありがとうございました。以上の旨、了解と同意いたしました。
私は、てっきり、誰かが細川忠興の三男に手紙を送ったのかと誤って解釈しており、句読点以前に私の理解が足りなかったことによるものです。
お詫び申し上げます。
余談についてですが、私の勝手な解釈と思われるかもしれませんが、長い(括弧)書きや、「ちなみに」と頭に付けられた文章は、直接本文には関係しないものとみなして、括弧をはずすか、脚注化したり全く関係のないものはコメントアウトすることもあります。括弧書きはどうしても文章に組み込みにくいものということでそういった書き方にしていると思われますので、特に括弧書きを否定しているつもりはありませんが、内容が雑多になりかねないことを考えてのことです。しかし、それによって障害が生じることもあるとのご指摘もありましたので、今後は、より慎重に作業を行ってまいりたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。--ムカイ 2008年11月2日 (日) 16:37 (UTC)[返信]


ご理解、ご同意頂きありがとうございます。「細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利」に書き替えます。今更ながら、私の文章は誤解を生むような構成だったのだなと反省しています。日本語版のWikipediaは「日本人向け」というコンセプトではなく、日本語で世界に向けて発信しているのだと言うことを踏まえた上で、万人に分かり易い文章構成に心がけて投稿したいと思います。また、脚注につきましては、便利な機能であると思いますので上手く活用したいですね。文章表現の難しさを改めて認識いたしました。今後ともよろしくお願いします。--Reggaeman 2008年11月3日 (月) 03:01 (UTC)[返信]