ノート:石坂惟寛

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

貴族院勅選議員[編集]

『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』には、本文の通り、貴族院勅選議員となったとの記述があります。しかし、『議会制度百年史 貴族院議員名鑑』には、名前が出てきません。『近代日本政治史必携』の貴族院勅選議員一覧にも名前がありません。「要出典」スタブを付します。--rshiba 2009年9月17日 (木) 08:38 (UTC)[返信]

本文に「1902年(明治35年)1月から1920年(大正9年)2月まで貴族院議員を務めた」とありますが、この任期は、石黒忠悳貴族院勅選議員の任期と一致します。『陸海軍将官人事総覧』編集過程で、情報の混濁が起こっている可能性が大きい。--rshiba 2009年9月17日 (木) 09:28 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

石阪惟寛石坂惟寛へ改名することを提案します。直接のきっかけは、わたくしのノートにご子孫の親族の方が書き込みをし、「石坂惟寛」と記された戸籍謄本へのリンクを貼ったことです。しかし、これを直接の改名理由とはしません。むしろ調べてみますと、項目名を「阪」ではなく「坂」にした方がいい状況が他に存在したため、この改名提案をすることにしました。

  1. 多磨霊園の墓石は「石坂惟寛」。
  2. 梅溪昇『洪庵・適塾の研究』は「石坂惟寛」と言及。
  3. 養父石坂堅壮の遺稿を、その沒後、出版。近代デジタルライブラリでその巻末の署名を確かめると「石坂惟寛」。
  4. 『CD-ROM 明治の読売新聞』を検索すると、当該人について報道するすべての記事が「石坂惟寛」。
  5. 『聞蔵Ⅱビジュアル』で朝日新聞を検索すると、同樣。
  6. アジア歴史資料センターを検索すると、「石阪惟寛」で40件、「石坂惟寛」で55件ヒット。同時代の公文書では時に「坂」と「阪」を厳密に区別せず用いていた様子が窺える。明治時代は後の時代から見ると、漢字の使い分けが柔軟で書体を固定させずに異体字を相互に融通させつつ用いる事例が多く、その一例であろう。参考文献に記載の3冊ともに「石阪惟寛」であったことはこの種の「阪」と記された公文書が源泉となったものと推測される。

以上の理由で、石坂惟寛への改名を提案します。--rshiba会話2013年2月28日 (木) 11:18 (UTC)[返信]

合意成立、改名実施。--rshiba会話2013年3月7日 (木) 15:05 (UTC)[返信]