ノート:真下晩菘

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

晩菘の姓について[編集]

晩菘の生家の姓ですが、近代デジタルライブラリーで『晩菘余影』を見ると「益田」姓とありますね。しかし『樋口一葉と甲州』では「鶴田姓」になっています。現在のところどちらが正しいのか、また高次出典は何か不明です。文学館の図録が翻字を誤って読んでいる可能性もありますが、この図録が根拠としているのも『晩菘余影』なのか別の史料なのか不明です。『晩菘余影』にしても阪本三郎が執筆した時点で何かしかのもとになる史料に当っているはずですよね。私は今まで一葉にあまり関心がなく文献を収集していなかったので手元にないのですが、関係文献はまだまだあるので継続して調査します。多摩地方の郷土史には晩菘に関する文献がありそうなのですが、情報があれば教えていただけるとありがたいです。--でここ会話2014年12月18日 (木) 13:25 (UTC)[返信]

(追記)「鶴田」に関してですが、荻原留則『続樋口一葉と甲州』(2005年)を見ると、「晩菘の姓は益田とされるが鶴田が正しい」という指摘がありますが、具体的な根拠までは示されてません。一方、「益田」は山梨県立文学館『樋口一葉点Ⅱ』(2004年)を見ると、年未詳ですが明治初期とみられる晩菘の書簡を掲示して、晩菘および親族が「益田」姓であることを示しています。以上をかんがみると明治後に「益田」姓であったのは確実でしょう。しかし「鶴田」のほうも根拠がない説ではなさそうですし、おそらく明治後に改姓したのではないかとも想像させます。しかし決定打となる情報はまだ得られていないので、引き続き調査を行います。--でここ会話2014年12月21日 (日) 04:22 (UTC)[返信]
慈雲寺にある晩菘の碑文を撮影してきました。「横」向き、「縦」向き、2種類の画像をコモンズにアップしましたが、とりあえず記事本文には、「横」向き画像を添付しました。どちらも慈雲寺のコモンズカテゴリにあります。よろしければご確認ください。なお、碑文裏面も撮影したのですが刻まれた文字が経年の土埃や苔等で、ほぼ判別不能のためアップロードはしておりません。また、ファイル名を決める際に気づいたのですが「真下」の読み仮名は「ました」ではなく「ましも」とするものが多く(コトバンクCiNii参考に)、コモンズでのファイル名は「Monument of Bansu Mashimo」とさせていただきました。「ました」or「ましも」、これも2種の呼び名があるのでしょうか?--さかおり会話2014年12月23日 (火) 02:43 (UTC)[返信]
さかおり様、画像の提供ありがとうございます。お手数をおかけしました。碑文の文字は佐藤八郎『山梨の漢字碑』で確認できますので、そのうち引用してもいいかもしれないですね。晩菘の姓の読みですが、執筆に使用した参考文献では「ました」となっていましたね。もちろん「ましも」とも読めますね。幕臣真下家というのがどういう家なのか調査中なので、生家の姓をあわせて、おいおい調査していきたいところです。どうも、多摩地方の民権運動史関係の文献にもあたってみる必要がありそうなのですが。--でここ会話2014年12月23日 (火) 04:44 (UTC)[返信]
でここさん、お返事ありがとうございます。生家の姓も含め今後の調査が進むことを期待したいと思います。--さかおり会話2014年12月23日 (火) 05:10 (UTC)[返信]