ノート:江口之隆

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利用者: 219.113.116.220さんへ[編集]

この記事でここのところ頻繁にされている編集に問題点が多々感じられましたので、指摘させていただきます。

  • 短時間のうちにちょっとずつの編集を何度も投稿するのはリソースの浪費であり、サーバーへの無駄な負担になります。十分推敲した上で慎重に行っていただきたく思います。
  • 「近代西洋魔術や隠秘学を学術的な研究対象ではない単なるサブカルチャーの枠内に閉じ込める要因となり」
    • この因果関係は検証可能でしょうか?
    • どのような意味で「学術的」という言葉を使っているのか量りかねます。サブカルチャー、メインカルチャー、ハイカルチャー、ポピュラーカルチャー、いずれも人間社会の文化事象であることに変わりはありません。自然科学や実学の研究対象にはならなくとも、人文・社会科学系の学術研究の対象になりえないとは必ずしも言えないと思います。
  • 「無責任な言動」
    • これは個人への中傷にあたり、中立性の観点から望ましくありません。
  • 「利用価値がいちじるしく低い」
    • 「いちじるしく」という表現は「大言壮語しない」という Wikipedia の方針に反します。「価値がない」とした方がいっそすっきりします。
  • 「彼は魔術の研究家ですらなく、「オカルト・エッセイスト」と位置づけるべきとの所見もある。」
    • 内容の是非はどうであれ、このような個人的所感を Wikipedia に載せるべきではありません。

以上、改善よろしくお願いします。--Doomreaper 2009年11月29日 (日) 23:15 (UTC)[返信]

利用者:Doomreaperさんへ[編集]

  • 「短時間のうちにちょっとずつの編集」これについてはなるべく注意します。
  • 私自身米国の大学で神秘主義や文学を学び論文を書いたこともあり江口氏の書籍に触れたときはかなりの違和感を感じました。実際に隠秘学についてある程度の前認識のある人間であれば同じように感じると思います。「サブカルチャー」とはあくまでも「正当なアカデミアとして認められない」趣味的な要素の濃い文化であり、江口氏の言動(事実の捏造や私事の混在)はアカデミアに携わる研究者としては認められるものではなく専門家としても異質のもので、正に遊びの要素が濃いサブカルチャーとしての位置づけを意味します。元々は西洋の神学や宗教から発した魔術が日本ではゲームなどから認識を得る方が多く、そういった認識の出所が異なるのでしょうがないとは思いますが、これは客観的に正当な因果関係です。つまり江口氏は魔術をサブカルチャーとして遊び感覚で扱っているからこそ、研究家と呼ぶには問題が出てくるのです。たとえ魔術をサブカルチャー的な現象の一部と見ての研究対象にはなりますが、江口氏にかかると魔術そのものが学術的な研究の対象から外れてしまうからです。
  • 「無責任な言動」については、「研究者」と自称して相応の著作(専門書)にかかわった際の江口氏の言動(上記参照の捏造や私事の混在)から鑑みれば、客観的な事実・批評であるゆえ中傷とは言えないと思われます。
  • 「利用価値がいちじるしく低い」これが「大言壮語」に当たるのかはそれこそ主観の問題で許容範囲かと思われますが、後で訂正しておきます。
  • 「内容の是非はどうであれ、このような個人的所感を Wikipedia に載せるべきではありません。」

これについてですが、実際に江口氏に社会的な責任を有する「研究家」としては不適切な言動が多いことと、今まで私の周りの人間のほとんどが同等の印象を持ち、かつネットで知り合った魔術関連の知人も似たような意見を持っていましたので、ウィキペディアはあらゆる観点からの知的認識を共有するという主旨の元、加えさせていただきました。 またレスをいただけますでしょうか。最終的にはその後に修正を検討いたします。—以上の署名の無いコメントは、219.113.116.220(会話履歴)さんによるものです。--Doomreaper 2009年12月2日 (水) 21:04 (UTC)[返信]

(1) 「彼の魔術に対する姿勢は…近代西洋魔術や隠秘学を学術的な研究対象ではない単なるサブカルチャーの枠内に閉じ込める要因となり…」について。
この条は「江口の姿勢」と「(社会において)近代西洋魔術がサブカルチャーの枠内に閉じ込められていること」の間に因果関係を設定していると読み取れます(誤読ならご指摘下さい)。「江口は魔術をサブカルチャーとして遊び感覚で扱っている」という事実があることは否めないとわたしも思います。しかしそれは江口氏の叙述の仕方について言えることであって、社会において魔術がどう扱われているかということとは別の問題ですよね?江口氏はかつて黄金の夜明け団流儀式魔術の主要な紹介者であった、その分野において社会的責任があった、とは思います。しかし魔術がサブカルチャーとして扱われ、その学術的研究が一般化していないという現状に、彼が特筆すべき何らかの影響を与えたのか?わたしはそうは思いません。これについて論じているソースがもしあれば、誰々の意見と明記した上でそれを記述することができるでしょう。そのようなソースがなければ、正当な事実であろうとなかろうと「独自研究」になってしまいます。
(2) 「無責任な言動」という記述について。
Wikipedia の基本方針 WP:NPOV に「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」とあります。客観的な批評や多数意見の代弁だと思われることであっても、編集者自身が批評を加えるのではなく、読者が無責任だという感想をもつかもしれない客観的事実のみを記述すべきと考えます。その事実をどう評価・批判するかは読者の自由です。編集者自身ではない特定の人物や集団が「江口氏の言動が無責任だ」と述べているソースがあれば、誰の意見かを明記してその旨を記述することができます。「彼は魔術の研究家ですらなく、「オカルト・エッセイスト」と位置づけるべきとの所見もある」の記述についても同様のことが言えます。
なお、江口氏の著書の見返しや記事の末尾に「研究家」やそれに類する記述があり、少なくとも自称「研究家」であるということは多くの人が認める合意的事実と思われます。研究家という言葉はアカデミズムの作法に則って研究を行い論文を書く人だけに限定されるものではないはずで、その「おちゃらけ」た言動が研究家であることを無効にするものではないと思います。わたし自身は江口氏がそういうアカデミックな類の研究者だという認識は以前からなく、西洋魔術を研究している翻訳者兼オカルトライターで本業は不明な人物と捉えていました。--Doomreaper 2009年12月2日 (水) 21:04 (UTC)[返信]


>>(1) 「彼の魔術に対する姿勢は…近代西洋魔術や隠秘学を学術的な研究対象ではない単なるサブカルチャーの枠内に閉じ込める要因となり…」について。

まず、江口氏は日本において魔術の一般認識(サブカルチャー/趣味的or学術/宗教的)については以下の2点から相当な影響力を保持していると考えられます。 ①江口氏は日本において魔術界の第一人者であるのは客観的な合意と言える。 ②日本において江口氏以外に魔術の研究家として認められ、かつ黄金の夜明けなど重要な西洋魔術の紹介に関わって現在も活動を続けている人物は他に殆ど存在しない。 ③江口氏は依然として積極的に自らのウェブサイトを更新して「魔術=趣味として楽しむもの」というスタンスを貫いており(これについては別に悪いことではないと思われますが)やはり魔術を真剣に追求したいという学徒等からは開きのある解釈です。 よって江口氏が日本で魔術のサブカル的な認知に一役買っているのは客観的な合意に近いとも思われますが、確たる引用元が存在しないということも事実ですので以下の内容に改善いたします。 「単なるサブカルチャーの枠内にあえて閉じ込めるスタンスであり、欧米の魔術専門家の主流とは毛色の異なるものである。」

>>(2) 「無責任な言動」という記述について。 これについて少し手順を追っての説明が必要かと思います。まず江口氏が自他ともに認める「魔術の研究家」であることは事実です。一方、もともと魔術や隠秘学は西洋文明から発したものであり、これにより当該分野については西洋文明あるいは世界的な観点から論じる必要があります。まず、西洋魔術は論理面と実践面を有し、様々な文化背景や宗教、思想、哲学等と関連した専門性の極めて高い分野です。これにより西洋において一般的に「魔術の専門家」を名乗る人間が当該分野の専門書を著述するにあたって、「遊び感覚」でふざけた偽情報や私事を故意に紛れ込ませるような行為はしません。これを「魔術の専門家」以外のライターがおこなうのであれば問題はないのです。「魔術専門家」である江口氏によるそういった行為が、西洋的ないし世界的な感覚から観れば明らかに「無責任」であると考えられるのです。実際に魔術を真剣に学ぼうとする人間が魔術専門家が専門書内で書いたことを信用して、後からでっち上げの遊びだったと言われても到底納得できないのではないでしょうか?こういった観点から、江口氏が「魔術専門家としては無責任」だという指摘を受けるのも世界的な視野から見れば、あながち間違いではないのでしょうか?よって、以下の記述への変更を提案します。 「国外の魔術研究家は通常こういったことを行わないため、江口氏は西洋魔術の研究家としては無責任な一面があると言える。」

「オカルト・エッセイスト」についてですが、これは個人名を出しての証言であるとすれば記載は妥当であると考えられますでしょうか? 例えば「XX大学で神秘主義を研究したxx氏は・・・江口氏は単なるエッセイストでしかない」と主張している。--以上の署名のないコメントは、219.113.116.220会話投稿記録)さんが 2009年12月3日 (木) 14:23 (UTC) に投稿したものです(Doomreaperによる付記)。[返信]

>「単なるサブカルチャーの枠内にあえて閉じ込めるスタンスであり、欧米の魔術専門家の主流とは毛色の異なるものである。」
これなら個人のスタンスへの言及にとどまっているので、差し当たり大きな問題とはならないのではないかと(独自研究とされるおそれはありますが)。
「無責任な言動」については、「江口氏の言動が無責任だ」というのが正当な事実か否かを問うているわけではないので、ノートページで論証を試みるのは無用です。Wikipedia に書くべきことなのか?と問うているのです。ゆえなき言葉でないのは理解できますが、中傷めいた表現と判断されて別の編集者に削除されても仕方のない記述と思います。WP:BLPWP:LIBEL をお読み下さい。中立的に公平に書くなら、無責任だと言っているソースを示して、誰々はこういう意見を述べているという書き方にしなければなりませんし、それならば中傷にはあたらないと思われます。
「オカルト・エッセイスト」については、氏がオカルティズムに関するエッセイも書いているのは議論の余地のない事実ですので、一意見として書かずに冒頭の定義文に入れてしまってよいかと。たとえば、「江口之隆は、黄金の夜明け研究の日本における第一人者と目されていた翻訳者、オカルト・エッセイストである」とか。 「「XX大学で神秘主義を研究したxx氏は・・・江口氏は単なるエッセイストでしかない」と主張している」というような記述は、閲覧可能な信頼できる出典元を示すという条件付きで可だと思います(本文中では…氏という敬称は不要)。--Doomreaper 2009年12月7日 (月) 17:03 (UTC)[返信]