ノート:歴史的仮名遣

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

「契沖」と「契冲」[編集]

「契沖」「契冲」どちらがより正確ですかしら。(210.194.236.220/2003-10-05T15:30:00+09:00)

手元の資料(朝日日本歴史人物事典、日本史人物辞典(山川出版社)、新版世界人名辞典日本版増補版(東京堂出版))ではいづれも「契沖」になつてゐました。契沖といふ正字正かな入力システムもあります。が、契冲といふ表記も廣く使はれてゐるやうです(ただの入力ミスかも知れませんが)。本當は正字正かな使ひのnnh 06:49 2003年10月5日 (UTC)
今見みてたら、ソフト名は「契冲」でしたね。TITLEだけが「契沖」。nnh
もしかしたら、冲が常用漢字外なので、同音の沖に書き換へられたのかも知れません。引き續き調査中。nnh 06:58 2003年10月5日 (UTC)
どちらも使われるようですが、冲は沖の俗字とされることもあるので、契沖の方が安全かなと思います。手元の辞書類ではすべて契沖でした。-- 出でやる 07:14 2003年10月5日 (UTC)

「てふ」の用例[編集]

すみませんが、チョウが「てふ」になるのは、どの例に当てはまるんでしょうか?--Ks 2006年3月3日 (金) 15:07 (UTC)[返信]

どの例、というと「エ段+「う」は「ヨー」の発音を表す。「ハ行転呼」と複合する。」にあたりましょうか。てふ は“tehu”ですが、ハ行転呼のために“teu”、上記の規則に従い“tyo”になるとお考えになるとよろしいとおもいます。 Kzhr 2006年3月4日 (土) 01:48 (UTC)[返信]
ありがとうございました。--Ks 2006年3月4日 (土) 04:13 (UTC)[返信]

漢字論さんや野菜さんの編輯について[編集]

仮名遣、それも歴史的仮名遣いの項目と、具体的な音韻或は音声の変遷との関係があるようにおもわれませんが、その関係があることの根拠などを教えてくださると幸いです。 Kzhr 2006年8月3日 (木) 09:48 (UTC)[返信]

7月5日あたりにrevertするのはどうでしょうか。 編集合戦のあおりで、旧かなに関する元々の詳しい記述が失われてしまっています。竹田 2006年9月5日 (火) 17:00 (UTC)[返信]

ローマ字論から[編集]

ローマ字論から歴史的仮名遣になった者です。ja:ノート:ローマ字論#擴張ヘボン式に書きました。Kmns 2006年12月23日 (土) 05:45 (UTC)[返信]

短歌・俳句[編集]

俳句・短歌のそれは歴史的仮名遣(復古仮名遣)ではなく定家仮名遣が伝統だと思うが、歴史的仮名遣だとする出典はどこから?--Ginz 2007年7月5日 (木) 00:30 (UTC)[返信]

定家假名遣は頻繁に修正が加へられ、「定家假名遣」といふだけではどれか明らかではない。曾ては假名遣こそが「定家假名遣」と呼ばれ、則ち行阿假名遣等を含むからである。その性質から鑑みて、歷史的假名遣に於いて研究により新たな修正が加へられた後は、和歌傳統の假名遣と雖も、恐らくは修正があつたと見られ、從つて傳統の假名遣を今では歷史的假名遣と統合して看做してよいと思はれる(辭書は更新されるのが世の恆である)。がそこは時雨亭文庫を所管する冷泉家の當主に尋ねられるかする方がよいだらう。私は歌道でどうなつてをるのか知らぬので惡しからず。--Qoo 2009年7月15日 (水) 17:15 (UTC)[返信]

ここまで昔の会話に返信して意味があるかは分かりませんが一応…… 日本大百科全書の仮名遣いの項には

 この仮名遣い(引用者注:歴史的仮名遣 
いのこと)は、古代の日本を研究する国学 
者の流派を中心に行われたが、世間一般で 
は必ずしも使用されず、仏教の僧侶や漢学 
者の間をはじめ、古来の伝統を守る和歌の 
流の人々などにも行われなかった。

とあります。恐らく契沖の歴史的仮名遣い以後も和歌などでは定家仮名遣いが一般的だったのだと思われます。

米子のバスケ会話2018年12月31日 (月) 19:17 (UTC)[返信]

音韻の変化について[編集]

元禄三百年生まれさんが、

「日本語の発音は変化する」のは、過去の歴史においてそうであっただけであり、常にそうであるとは限らない

として歴史の部分に加筆なさったのをさし戻しました。たしかに、共通語において目立った音韻の変化は認知されていませんが、しかし語中語尾のガ行音などはよく認知されている現在変化の途中である現象の一つですし、まず言語が固定したものではありえないことは言語研究者の共通認識です。日本文化を専攻なさる大学生でいらっしゃるそうですから、ウィキペディアでそのような見解に挑むのではなく、日本語学の教員の方に挑んでみられてはいかがでしょうか。はるかに有益です。

なお、神道新聞の部分を消したのは、守り続けているかたがたの数を増やすだけでは記述として進歩がないためです。 Kzhr 2007年10月15日 (月) 16:37 (UTC)[返信]

全體的な構成[編集]

「内容」で「歷史的假名遣」の具體的部分が取り沙汰され、理念的な部分がスッポリ拔け落ちてゐる。「歷史的假名遣」は「語」に、「現代仮名遣い」は「音」に立脚するのだから、「歷史的假名遣」は文法的な構成である必要がある。「現代仮名遣い」では例外を記述するときにさうするやうに、逆に「歷史的假名遣」での例外は「音便」等の「音」を重視すべき場合のみである。他にも「連濁・複合語」は「現代仮名遣い」を説明するための物であって、「歷史的假名遣」の土俵には必要がない。特徴として述べるには「歷史的假名遣」に相應しくない。

全體的な構成は「現代仮名遣い」と對照的である方が面白いと思ふ。從つて近い内に兩者とも大膽な編輯の鋏を入れたいのだが、構成に關して何か意見があれば敎へて頂きたい。--Qoo 2009年7月15日 (水) 18:23 (UTC)[返信]

だいたい論點と記述すべき内容とを計算して次のやうに筆を割いた。

  1. 理念(歴史・概念)
  2. 内容(表記法)
  3. 末節(比較)

内容に對する表音主義的な批判は末節に加へるとよいであらうけれど、表音主義からみた「現代仮名遣い」の信念といふ意味ではすでに理念の部分でのべてゐるから充分であるかもしれない。理念の流れでは具體的な歷史的假名遣の内容を述べることを極力さけ、理念に相對する表音主義的な理念からくる批判はここに加へた。比較の部分では、表音主義のなかの準則すなはち正書法と歷史的假名遣を比較した。「現代仮名遣い」と「現代かなづかい」の差はあまり詳しくないので、「現代かなづかい」を基準とした比較になつてゐるかもしれない。それから「字音仮名遣」の扱ひは、殘念ではあるけれど、別項に詳しいから内容での記述を避けた。本當に枝葉末節な部分は仮名遣で詳しくすればよいけれど、歷史的假名遣を理解するにあたり必要な部分はなるべく述べた積り。--Qoo 2009年8月6日 (木) 13:20 (UTC)[返信]

歴史的假名遣への移動[編集]

「歴史的仮名遣」を「歴史的假名遣」へと移動させたいと思ふのですが反對意見のほどはございますでせうか。一週間程樣子をみます。歴史的假名遣論者は主に漢字制限には批判的なので名稱を固有名詞とみて歴史的假名遣へ移動させたいのですが。第二案の「歷史的假名遣」は「歷」に問題がありさうなので、主な候補は第一案。--Qoo 2009年8月29日 (土) 17:56 (UTC)[返信]

さっぱり理解できないのですが。これが固有名詞であるのは,べつに「歴史的仮名遣論者」(ってどなたですか?)のご意見を待たずともそのとおりなのであって,なぜならば,これはあるやりかた,ないし,学説の名称だからです。では,こと現代の「歴史的仮名遣論者」が歴史的仮名遣について優先的な発言権があるのかと言えば,仮名遣における歴史主義は,定家仮名遣にも認められているもので,特定のたちば,ないし,人間の占有するものでないのはあきらかであり,かつ,契沖じしん,けして正漢字主義者ではないのであり,歴史的仮名遣の表記を,現代のそれを奉ずるひとびとの見解を以て左右するいわれはまったくないわけです。
明治以降,歴史的仮名遣の領域は現代表記に拡張され,くわえて,第二次世界大戦後,漢字と仮名遣が同時に改編された結果,あたかも漢字制限反対論者と歴史的仮名遣支持者とが同一の存在のごとく見られました。しかし,そもそも仮名遣は歴史的に仮名文,とりわけ和歌の書きぶりのためのものであって,漢字についての意見はさしたるものでなかったこともまたあきらかです。「論」を離れると,現代においても,日本の古典の活字本で,歴史的仮名遣に再編しつつ,しかし漢字は常用漢字であるというのが見られるいっぽう,中国の古典の活字本ではその逆が見られる。これは,漢字と仮名遣がべつものであるということを如実に示しているのであって,現代の「論者」が,ふたつのことを同時に奉じているというのは,どうでもいいことに属すのだと思います。 Kzhr 2009年8月30日 (日) 01:38 (UTC)[返信]
  • (反対)日本語 Wikipedia での記事名のつけ方は、要約すれば、第一に「正式名称」、第二に「一般的に使われているもの」という順になっています(他言語版では逆の場合が多いですが)。第二の一般性に関して言えば、「歴史的假名遣」が一般的でないことは、検索エンジンの結果を示すまでもなく明らかでしょうから、第一の「正式名称」であるかどうかについて意見を述べます。さて、「歴史的假名遣」が正式名称であるかどうかですが、まずこの言葉は慣習的に用いられているものであり、政府によって告示された「現代かなづかい」や「現代仮名遣い」と違って正式名称があるような種類のものではありません。つまり、第二の一般性の原則から、「歴史的仮名遣」となるのが妥当です。--竹田 2009年8月30日 (日) 04:01 (UTC)[返信]
だいたい今の檢索エンジンで調べれば、誰もさうは教はつてない、教へやうとしないので、さうなるのが必然でありませう。漢文の問題集でその大半が常用漢字に置き換はつてゐることを考へれば、極簡單なことです。
  • 「所謂歴史的假名遣の根元たる契沖の和字正濫抄(表音的假名遣は假名遣にあらず)」
  • 「これらの論者は文字は表音的にすべきものなりと稱して、從來の假名遣をば歴史的假名遣などいふ新名稱を以てこれを呼び(假名遣の歴史)」
  • 「歴史的の假名遣(假名遣意見)」
鷗外や著名な國文學者による表記例であります。「所謂」とあり、また「歴史的假名遣」と謂ふ名稱は改革論者によつて、この時初めて生まれたやうな書きやうであります。戰前の正式名稱は推察するに「假名遣」や「復古假名遣」などであり、それ以外はどうも無いやうであります。
學校の古典で讀み方程度は教へてるのだから今の常用漢字に沿ふのが良いかもしれませんし、それとも「改革論者」が提示した戰前のままが正式なのかもしれない。どちらにせよ「歴史的假名遣」以外の「復古假名遣」などは、現在は一般的ではないといふのは明らかでありますが、「歴史的仮名遣」にしても現在一般的ではありません。「仮名遣い」としないのは今日一般の送り假名法から見て不自然だが兩方の表記を解決させるためだとしてゐます。ところが「假」か「仮」かは二者擇一で兩方は併存できない。
現代表記と言ふのは口語文語文の、所謂言文一致の口語文でありませう。古典をみる限り、現代に限つてと云ふわけではないやう(會話文に假名遣が見られる)ですが、擬古文をやめたのは慥かであります。しかし文體は假名遣とは關係がなく、假名遣は漢字ともども表記の問題であります。現代かなづかいでは發音も問題にされましたけれど。
「日本の古典の活字本で,歴史的仮名遣に再編しつつ」と言ひますが、私は振り假名になつた途端假名遣が適當になつてゐる例を多くみてゐるのであります。やはり、現在の基準で古典(舊假名の現代文も)を置き換へてゐると考へるのが妥當だと思ふのです。日本書紀などに至つては漢文でありますから、そもそも假名は解釋をした學者などが施したり訂正したりするものです。
さうであるならば「歴史的仮名遣」の表記もまたその例に漏れないのではないか。「歴史的假名遣」と謂ふ固有名詞であつたのにも拘らず現在の基準で置き換へてゐるのではあるまいか。何も政府を正式名稱とする必要はない。學者の表記をみる限りでは、歴史的假名遣を正式名稱と認めるとする。そこで固有名詞ゆゑに、送り假名、漢字字體、の表記が問題になる。
檢索結果は「歴史的仮名遣 -歴史的仮名遣い -歴史的仮名遣ひ」では33,100件、「歴史的假名遣 -歴史的假名遣い -歴史的假名遣ひ」では3,290件、「-歴史的仮名遣 歴史的仮名遣い -歴史的仮名遣ひ」では50,200件、「-歴史的仮名遣 -歴史的仮名遣い 歴史的仮名遣ひ」は5,240 件で、現在の基準で「つかい」と置き換へてゐるのが大勢らしい(九割程)といふことが伺へます。同じ送り假名附きでかうも差がでるのは、やはり漢字表記も同じなのではないでせうか。「つかひ」と書けば凡そ「假」、「つかい」と書けば凡そ「仮」を聯想する。今の教育と全く關係がない比率とは思へません。
  • 所謂「歴史的假名遣」の名稱は「表音的假名遣」との相對化による發見。
  • 鷗外や橋本博士らは性質が異なる「假名遣」を同じ名前を以て呼ぶことは妥當ではないとしてゐる。
  • 「現代かなづかい」のやうな政府の告示などはない。制度としての正式名稱はない。
  • 送り假名法を無視すれば、概ね「歴史的假名遣(レキシテキカナヅカヒ)」の名前で相對化されるのが一般的。
  • その「歴史的假名遣」を比較の上では正式名稱とする。

「つかひ」「つかい」の假名の差異を隱した趣旨は同意が得られると思ふのであります。戰前では「歴史的假名遣」と「假」が一般で、戰後は「仮」であります。教育の結果であります。「歴史的假名遣」が明治・大正のころからの呼び名であるならば、そのままがよいと思ふのです。
「当用漢字」は漢字制限を目的とし、「現代かなづかい」は假名と表音で文章を書くを目的とする。「歴史的假名遣」は既存の表記法である漢字との混用をそもそも想定してゐる。「歴史的假名遣」での漢字認識、更に假名遣自體への認識は、その漢字によつて薄められてゐました。ところが漢字を制限して假名だけにすると途端に假名の遣ひ方が問題になる。山田博士は「漢字全廃の可否は吾人こゝに絶対的に中立の態度をとる」「然れども若し現代直ちに漢字を全廃すべしといふ論あらば、吾人は國民生活の現状よりしてこれに反対する」と漢字の必要性を述べてをられる。漢字制限により生じた漢字の問題と、いい加減な漢字字體體系における正字體指向は全く別物とみるべきでありませう。山田博士は「頷き」などは漢字で書けば假名の問題はなくなり、「國民生活の現状」では假名の遣ひ方など困らないと述べる、他でもない歴史的假名遣論者の彼が漢字を必要としてゐる。「歴史的假名遣」と正字とは關係がありませんが、漢字制限とは大いに關係があると。則ち「歴史的假名遣」の漢字觀からみて、現在の漢字制限に追從する表記は好ましくないのではないか、「歴史的假名遣」の立場と異なるのではないかと思ひます。「仮」にするならば常用漢字表記の原則から「歴史的仮名遣」と改めたと斷るのがよいかと。--Qoo 2009年8月30日 (日) 16:06 (UTC)[返信]

正式名称というのは、WP:NCに例として挙げられているような、「東京都立日比谷高等学校」、「小松原高等学校」、「朝鮮民主主義人民共和国」、「TBSテレビ」のようなもの、また法令・公示など、まとめれば「その名称について責任を持つ主体が存在する」ようなもののことでしょう。「歴史的假名遣」が正式名称だという主張は、正式名称という単語の拡大解釈と思えます。また、記事名をつける際に重要なのは、「日本語の中でそれが一般的にどう呼ばれているか」であり、「それを支持する団体がそれをどう呼んでいるか」ではありません。「『歴史的假名遣』の漢字観からみて」という態度は、WP:NPOVという立場からも問題があります。Wikipediaは、ある特定の○○の××観にくみするものではありません。さらに、「今の檢索エンジンで調べれば、誰もさうは教はつてない、教へやうとしないので、さうなるのが必然でありませう」とのことですが、重要なのは「何が一般的か」であって、「それがどのようにして一般的になったか」ではありません。Aというルートで一般的になったものはいいが、Bというルートで一般的になったものはダメだというのでは、そこに価値判断が働くことになります。それは Wikipedia がすることではありません。--竹田 2009年8月30日 (日) 18:02 (UTC)[返信]
  • 反対 1.「正式」名称なるものは存在しないとおもうこと、2.「仮名」という用字が一般的であること、の2点から改名に反対します。--Ks8823 2009年8月31日 (月) 00:23 (UTC)[返信]

私は個人的には「歴史的仮名遣」という項目名ですらなく「歴史的かなづかい」とするのがいいと思うが、それは別として、「明治大正からの呼び名であるならば、そのまま(=当時の)ままがいいと思うのです」という発言は解せない。あるものが昔からあった場合、その当時用いられた名称あるいは表記を用いるべきであるということになるなら、たとえば「砂」は奈良時代からすでにあるので、たとえば「須奈」と書くのがいいという人がいたらどうだろう?異常だと思わないか?歴史的かなづかいにしても同じことだろう。歴史的仮名遣いや旧字体を支持する人が、「歴史的仮名遣い」という単語を新字体で書くのが嫌だから旧字体にしたいという願望を無理やり強いているようにしか見えない。項目の移動は反対だ。--210.136.196.102 2009年9月1日 (火) 09:12 (UTC)[返信]

  • 反対 固有名詞でないものを、旧字体にしようという道理はありません。そんなに古い字体がお好みなら、始皇帝の定めた篆書体にされたらいかがでしょう(個人的には、固有名詞でも通行の新字体で記事名は構成されるべきだと思っておりますが、それはおいておいて)。 --ねこぱんだ 2009年9月13日 (日) 23:19 (UTC)[返信]

上代特殊仮名遣[編集]

上代特殊仮名遣は歴史的仮名遣とは違うものなので、「違う」ということを述べて大方削除したいと思います。--КОЛЯ 会話 2010年2月9日 (火) 09:55 (UTC)[返信]

本項の項目名変更[編集]

本項の項目名は,昭和61年内閣告示「現代仮名遣い」の本文にあるように,「歴史的仮名遣い」とすべきである。

一言だけ。その内閣告示はただの一例として見るべきであり、特別扱いすべきではない。こうした意見に限らず、Wikipedia において(に限らないんだけれど)政府の文書が安易に基準として見られる風潮は誤りだと思う。--Mobnoboka 2010年6月12日 (土) 11:32 (UTC)[返信]
コメント 改名提案についてはおまかせしますが、「送り仮名の付け方」の本則に従い、「歴史的仮名遣い」とするのが妥当ではないでしょうか。
おそらく、当記事ではなんとなく正仮名寄りの表記として「歴史的仮名遣」が好まれているのだと思いますが(仮名遣いと送り仮名は別の問題のはずですが)、「遣」だと「つかい(づかい)」なのか「やり」なのか、文脈から判断するしかありません。
ウィキペディア日本語版における表記はともかくとして、当用漢字・常用漢字や現代仮名遣いについては賛否両論がありますが、現代送り仮名は問題点もあるにせよ、添え仮名の延長でしかなかった送り仮名を体系化したものです。漢字かな交じり文を肯定し、かつ総ルビを指向しないのであれば、現代送り仮名の理念そのものを否定することは難しいと思います。 --KAWASAKI Hiroyuki会話2014年6月8日 (日) 15:53 (UTC)[返信]

正假名遣という表記[編集]

冒頭の説明に「旧仮名遣もしくは正仮名遣とも呼ばれる。」とありますが、「正かなづかひ」の意味で使われる場合は「正假名遣」という表記の方が多いと思います。実際にGoogleで検索してみると「"正仮名遣"」が約 4,010 件 のヒットに対し、「"正假名遣"」では約 48,400 件 ヒットしました。たしかに、Wikipedia:表記ガイドには原則的に常用漢字表に従うとありますが「ただし、このガイドラインはすべての記事に絶対に適用しなければならないものではありません。」「また、このガイドラインに従おうとすることが、あなたの記事執筆の妨げになる時には、無理に従う必要はありません。」とあるのを見ても「新字体以外の表記を一切出してはいけない」ということではないと思います。ある呼び方について、常用漢字表外でも広く用いられている表記を記載するのは無意味でないと思いますが、いかがでしょうか。--Sleepingforever 2011年5月27日 (金) 09:31 (UTC)[返信]

「正假名遣」という表記が正しいのですか。そうでないのでしたらガイドラインに従うべきです。もし「正假名遣」という表記が一般的である業界や学術団体があるのでしたら、注記して頂けますでしょうか(なおそれは、全ての表記を旧字体旧かなで表記するものを除きます)。--КОЛЯ 会話 2011年5月27日 (金) 11:50 (UTC)[返信]
歴史的仮名遣(正仮名遣)と正字を使うことは別のことなので、今まで記述があっても除去する気はありませんでしたが、特に再掲する必要はないと思います。ここにつけるという結論になるなら、そのときはガイドラインを訂正して全ての記事に正字正假名の表記をつけてもいいことになるでしょうか(残念だけど絶対にないでしょうが)。--Mobnoboka 2011年5月27日 (金) 13:15 (UTC)[返信]
前述した通り、少なくともネット上で「正仮名遣」という表記は少数派です。外部リンク先でも「正假名遣」の表記が目立ちます。それでも「正假名遣」の表記を排除し「正仮名遣」のみとするなら、それが一般的であるとする資料をしめすべきではないでしょうか。私には「正假名遣」という呼称の存在を記載することがそれほど問題とは思えませんが。--Sleepingforever 2011年5月27日 (金) 14:32 (UTC)[返信]
実際に検索してみると、「"正仮名遣"」では39ページ目(381件)まで開かれるのに対し[1]、「"正仮名遣"」では37ページ目まで(368件)しか出てきません[2]。従ってネット上で「正假名遣」が一般的というのは正しくありません。しかもそのリンク先は本文でも旧字体旧かなで叙述されているものが多く、そういう文体実験をする人たちが「正假名遣」という語彙を好むということ以上のものでありません。--КОЛЯ 会話 2011年5月27日 (金) 15:33 (UTC)[返信]