ノート:松任城

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天正5年(1577年)に手取川の合戦の際に上杉謙信が攻略した。[要出典]

出典の明示、詳細な解説がない場合、削除します。--Sabkakusikaku 2009年3月2日 (月) 05:35 (UTC)[返信]

謙信との戦い語られなかった負け戦上杉方は誇大に記録か」。2001年4月3日の北國新聞朝刊の連載企画ですがどうでしょうか?--Chacmool 2009年3月4日 (水) 14:14 (UTC)[返信]
攻略といっても攻め落としたり、城主の降伏を受け入れたりとありますが、

八月一日、謙信、加州に至り、長家の首七を倉部と柏野との間なる浜に札を立てかけならべ、松任の城主蕪木右衛門大夫が降参を請て一万貫の領地を与え、蕪木が家人白石右近に短刀を与う。--『武家事紀』
松任を蕪木右衛門大夫頼信居城より行程一里、野々市と云処へ出向て降参の由を申ければ、公則謁見有て、“当国一揆の武将の中にて、足下は随分の大身、勇謀の聞えも抜群なり。以来真忠を励むに於ては、輝虎も亦踈略すべからず”と懇の仰を蒙り、一万貫の判物を充行れ、家長白石右近尉をも召出して会面あり。--『北越軍談』
加州末任城に、能登の長といふ士の居城を、不日にして攻め落し--『管窺武鑑』

攻略は説のひとつとして記載するのが妥当なところでしょう。--丁度氷 2009年3月4日 (水) 15:52 (UTC)[返信]
丁度氷さんの意見に同意します。--yasumi 2009年3月11日 (水) 10:51 (UTC)[返信]

保護解除により、ノートの議論にそって編集を行いました。--彩華1226 2009年3月15日 (日) 08:04 (UTC)[返信]

こちらに何の連絡もない。また、本文中に出典の明示をお願いしたにもかかわらず、なし。

松任城の攻略と、手取川合戦の因果関係が出典の文中読む限り不明。--Sabkakusikaku 2009年3月17日 (火) 14:59 (UTC)[返信]

3月4日に丁度氷さんの提案があり、1週間反論がなく同意意見があったので、合意形成がはかられたと考えて編集を行いました。反論もなさらず「何の連絡もない」というのはどういうことでしょう。また、「本文中に出典の明示をお願いしたにもかかわらず」と述べていらっしゃいますが、要約欄にもこのノートページにもそんなことは書かれていませんでしたが。--彩華1226 2009年3月17日 (火) 19:09 (UTC)[返信]

常山紀談巻之四 湯浅常山著 長九郎左衛門能登国発向の事

天正五年畠山修理大夫義隆毒殺せられ、家臣七尾の城に據て信長に属し、能登大に乱れければ、義隆の伯父上杉弥五郎義春越後に在て是を聞、謙信にかくと告ぐ。謙信即ち師を出して、義春先陣して七尾の城を攻おとす。此の時長九郎左衛門重連七尾にて畠山が長臣温井三宅に殺さる。重連が弟恩光寺使僧となりて、信長に此の由を申せば、柴田勝家、丹波長秀、長谷川、前田利家、羽柴秀吉、瀧川一益、氏家卜全等四萬計にて打立ち、八月五日加州手とり川を渉り永嶋に陣取りたり。謙信は能登一州悉く旗下につけ、八月朔日兵を返して、加州にて長が一族の首七ツ、倉部柏野の間なる浜に竿ゆひ渡しかけ並べ、札を書て立られたり。

松任の城主蕪木右衛門大夫と和平し、信長著陣を聞き、松任にて軍評定し、一戦すべし、と手くばりあり。

↑織田信長が、松任城にいるんだけど。上杉の記録とまったく逆ですけど。--Sabkakusikaku 2009年3月17日 (火) 15:45 (UTC)[返信]

文章の前後を正しく読んでください。『常山紀談』の記述においても松任城にいるのは謙信です。--丁度氷 2009年3月17日 (火) 16:02 (UTC)[返信]

松任の城主蕪木右衛門大夫と和平し、信長著陣を聞き、松任にて軍評定し、一戦すべし、と手くばりあり。七尾既に落て、謙信これまで打向れたり。爰にて合戦無益なり、とく引退くべし、と信長の陣々いろめき立つ。恩光寺人に首を見するに、名のみにて面貌異なり。上方の軍のおし来るを聞き、謀を以て長一族の首をいつはり設たるならん。能州をすて松任に在は、後詰を防ん為なるべし、といふを聞てさわぎもしづまりけり。即夜戌の刻に及で恩光寺、柴田、木下が陣に行き、先には味方一同に敗北すべきいろ有を見て、たばかりて申せしなり。七つの首は吾父兄弟にて候、と告しらせしかば、爰にて合戦すべからず、とて信長引きかへさる。恩光寺是非一軍と乞へども聞入れず、恩光寺は後信長の命にて還俗し、長九郎左衛門連龍といひしは此の人なり。勝家越前の大橋に札を立て、長九郎左衛門能州に発向す。立身を志す輩はわが被官たりとも参るべし、と書たりければ、相あつまる士八十余人、天正七年三月二日能州穴水の城に入る。

信長が、松任城に入城してるんですけど。この文章の主語は、織田信長なんですけど。--Sabkakusikaku 2009年3月17日 (火) 16:07 (UTC)[返信]

爰にて合戦無益なり、とく引退くべし、と信長の陣々いろめき立つ。能州をすて松任に在は、後詰を防ん為なるべし、といふを聞てさわぎもしづまりけり。

能州をすて松任に在は=織田軍が能登国の七尾城救援に向かうも落城したため、松任城に在城しているのですけど。--Sabkakusikaku 2009年3月17日 (火) 16:14 (UTC)2009-03-18T09:27:43 218.90.144.178 (会話)[返信]

史料を振りかざしているくせに、主語の判別すらできないのか 好き勝手な解釈する前に高校の古文の勉強からやり直せよ--以上の署名のないコメントは、218.90.144.178会話/Whois)さんが 2009年3月18日 9:27(UTC+9) に投稿したものです([[利用者:Mkhcan487]]による付記)。

浅学の身、ご容赦ください。編集合戦になりつつあります。上のコメントは218.90.144.178さんだと思いますが、指摘するのは間違っていませんが、相手を中傷する表現をしてしまっては何も解決しません。冷静に話し合われてください。 知識に乏しい身で懸命に読解してみましたが・・・やはり無理でした(苦笑) ただ、参照文献があることは事実であり、それを可能な限り多くの人に分かりやすく伝えるのが百科事典の役割・・・ウィキペディアの存在意義かと存じます。そういった意味で、ここで議論される際には文献の現代語訳をポイントを絞ってしていただくと、皆様の判断が迷わずに主張する部分に賛同が得られると思われます。有識者の方々にこのような意見を述べるのはおこがましく感じますが、何卒ご理解を賜れば幸いです。--Oh H 2009年3月18日 (水) 01:00 (UTC)[返信]

『武家事紀』、『北越軍談』、『管窺武鑑』、これらはいずれも軍記の類で信憑性は低い。

常山紀談巻之四 湯浅常山著 長九郎左衛門能登国発向の事は、織田信長朱印状 (宛所は長九郎左衛門尉(長連龍)となっている。1枚の和紙を横方向に半切れした細長い紙に書かれ、馬蹄形で印文「天下布武」の朱印が捺されている。内容は、織田信長が長連龍に対して七尾を中心とする能登の統治を認めたものと見られ、天正7年(1579)と推定されている。)との記述とも一致する。--Sabkakusikaku 2009年3月18日 (水) 02:44 (UTC)[返信]

晒された長一族の首級を見て、七尾城が落ちたことを知り動揺している織田軍に対して、恩光寺(長連龍)が「織田軍がやってきたので、上杉軍は長一族の偽首を用意した。上杉軍が七尾を離れて松任にいるのは、七尾城を後詰しようとしている織田軍を防ぐためである」と、七尾城はまだ落ちていないという嘘をついて、織田軍の動揺を抑える場面です。松任にいるのが上杉軍であることは明白です。そもそも「能州をすて松任に在」のが織田軍であれば、上杉軍のどこに対する「後詰を防ん為」に松任へ来たというのでしょうか?--丁度氷 2009年3月18日 (水) 10:57 (UTC)[返信]

↑あなたの文章解釈は誤りです。松任の城主蕪木右衛門大夫と和平し、信長著陣を聞き、松任にて軍評定し、一戦すべし、と手くばりあり。この文中に信長とありますよね?信長(織田軍)が、松任にいるのです。

松任にて軍評定し→爰にて合戦すべからず、とて信長引きかへさる。

織田軍が、軍議の結果、撤退したと記載されています。

能州をすて松任に在は→冒頭で、能登七尾が織田に属すとあり、上杉によって落城したため、織田軍は能州を捨てて、上杉謙信の後詰軍を防ぐため、松任城に入城して、構えているわけです。

謙信は能登一州悉く旗下につけ、と記載されていますので、能登を捨てたのは織田軍です。

まだ、わかりませんか?あなたが提示した上杉家の軍記とは、まったく逆の記述です。--Sabkakusikaku 2009年3月18日 (水) 11:36 (UTC)[返信]

「信長著陣を聞き、松任にて軍評定し、一戦すべしと、手くばりあり」とあります。信長の着陣の知らせを聞いたのは誰ですか? 謙信です。知らせを聞いたので謙信は松任で軍評定をして、織田軍と戦おうとしたのです。また信長が撤退したのは、恩光寺(長連龍)から晒されている長一族の首級は本物であることを告げられ、七尾落城が事実であると分かったためです。--125.30.101.79 2009年3月18日 (水) 11:58 (UTC)[返信]
皆さんの指摘とかぶりますがあえて。
私にはSabkakusikaku氏が2009年3月18日 (水) 02:44 (UTC)で引用した朱印状の何が何と一致するのか内容も論旨も分かりませんが、引用元の『常山紀談』の巻四「長九郎左衛門能登国発向の事」はこちらこちらの2頁で読めるようです。書いてあることは上杉勢は七尾を落として能登を従えた後に加賀松任城に進出。8月1日には倉部柏野の関に討ち取った長一族の首を晒した。一方、織田勢は8月5日に手取川を渡って永嶋に着陣。援護先の七尾が落ちたことを知ったので撤退。後年になって盛り返した。という流れです。
問題の箇所の主語はそれぞれ「(注1●上杉は)松任の城主蕪木右衛門大夫と和平し、信長着陣を聞き、松任にて軍評定し、一戦すべしと手配りあり。」「(注2●上杉が)能州を棄て、松任に在るは、後詰を防がん為なるべし、といふを聞て騒ぎも静まりけり。」ですよ。前者の主語が織田だと、一戦を決心する根拠が信長の着陣情報では意味が通じません。後者は、能登を棄てて松任に来たのは上杉勢ですし、上杉勢が防ぐ後詰とは七尾支援のために進出してきた織田勢でしょうし、静まったのも色めき立った織田勢でしょうね。
大勢としては手取川付近で両軍が接近して、七尾や松任という現地拠点の確保に失敗した織田勢が退いているのですから、Sabkakusikaku氏が提示した『常山紀談』の部分の内容は概ね情勢と一致した記述です。
織田信長朱印状とはこれでしょうか?書状の内容自体は「七月十一日」付が1579(天正7年)に比定され「本史料は、そのあとに位置づけられるもので、還俗を果たした連龍に対し、援軍に出兵する意思と連龍自身の兵力充実を命じ、上杉の影響力が薄れた能登に対し、連龍の存在を保証したものと考えられる。」とのことで、その前の天正5年の記事は石川県博物館が背景説明をしている分であり、書状内容は手取川の合戦の二年後の天正7年に織田信長が出したもので、能登回復を目指す長連龍への報告了解と侵攻命令であって、天正5年の手取川の戦いは関係ありません。参考追記、「北國新聞」11月12日朝刊を引用しているページ-【朱印状の主な内容】 七尾を始め、能登の状況は承知した。油断のないように軍勢を出しなさい。(安土から)南は抜かりがない。丹波では波多野秀治を制圧したが、その話も伝わっていることだろう。その意を受けて抜かりないようにしなさい。これは堀秀政と佐々長秋が伝える。(「北國新聞」11月12日朝刊より引用)- --yasumi 2009年3月18日 (水) 12:04 (UTC)[返信]

文の解釈ですが、登場人物が主語の場合、信長、長、というように全部呼び捨てです。

筆者の常山が主語の場合、謙信は、長は、というように、全部~は、になってます。

信長の着陣とは、書かれていません。信長著陣を聞き、です。

信長著陣を聞き、松任にて軍評定し、一戦すべし、と手くばりあり。

爰にて合戦すべからず、とて信長引きかへさる。恩光寺是非一軍と乞へども聞入れず、

一戦すべし=是非一軍

いずれも織田軍が言ってます。恩光寺(長九郎左衛門連龍のこと)

義隆の伯父上杉弥五郎義春越後に在て是を聞、謙信にかくと告ぐ。謙信即ち師を出して、義春先陣して七尾の城を攻おとす。

七尾既に落て、謙信これまで打向れたり。

上杉弥五郎義春が先陣で、後詰の謙信がこのところ(信長のいる松任)まで、発向している。

織田軍は、松任で、軍議をして、後詰の謙信を防ごうとしている。

爰にて合戦無益なり、とく引退くべし、と信長の陣々いろめき立つ。味方一同に敗北すべきいろ有を見て

七尾城の落城と上杉謙信の後詰の進軍で、織田軍が動揺しているわけだから、防ぐの主語は、織田軍です。--Sabkakusikaku 2009年3月18日 (水) 15:53 (UTC)[返信]

「あなた自身による解釈」は聞いてませんし、Wikipediaには必要ありません。何度でも申し上げます。独自研究を披瀝したければほかでどうぞ。--彩華1226 2009年3月18日 (水) 16:28 (UTC)[返信]
残念ながら他の方も仰られているようにSabkakusikaku氏のような解釈は日本語として不可能です。戦いたがっているのは松代城にいる上杉勢と、一族を殺されて上杉に復讐したい恩光寺だけで、七尾援護のために出張ってきた織田勢は手取川を渡った永嶋に所在して不利なので戦いを嫌って撤退しています。--yasumi 2009年3月18日 (水) 21:21 (UTC)[返信]
もし松任にいるのが織田軍だとすると、「(織田軍が)能登を捨てて松任にいるのは、(上杉軍の)後詰を防ぐためである」という嘘を恩光寺(長連龍)は言ったことになりますが、七尾城が落ちたと思って動揺している織田軍がこれを聞いて落ち着いたという記述と矛盾します。よって松任にいるのは織田軍ではなく、上杉軍となります。--丁度氷 2009年3月20日 (金) 15:23 (UTC)[返信]