ノート:明治維新

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

222.225.*.*系IPおよびoira氏の「テロ」表記について[編集]

2006年9月5日の書き込み以来、222.225.*.*系のIPユーザー(222.225.9.203、222.225.128.60、222.225.12.29など。おそらく同一人物)が具体的な事象・根拠がないままテロクーデタ表記を執拗に書き込みしています。説明を求めてもノートに誘導しても無言のまま自説に書き戻す行為が続きました。

そのような状態で、軽度な編集合戦化し、2006年9月12日に218.225.106.250氏より、保護依頼 が出され、2006年9月21日にはこぶまき氏により保護依頼中のテンプレが貼られましたが、それにも関わらず、執拗な「テロ」表記追加が続きました。保護依頼中の記事を編集していたため、何人かのユーザーにより依頼前の状態に差し戻されましたが、上記ユーザー(途中からアカウントを作成しSasakireo氏)は何度も同様表記を追加してしまうため、本格的な編集合戦となっています。長州藩薩摩藩の項目についても同様の行為が繰り返されています。

近日になりようやく保護依頼の記事の中に当該人が登場し、小説などのソースによった薄弱な根拠を元に執拗に自説を書き戻していた旨の弁解が書かれましたが、相変わらずノートでの合意を経ずに元の記事に戻してしまっています(しかもどうも「禁門の変」をもってテロと指摘したい意志のようです。それ自体にも非常に問題がありますが、百歩譲ってたとえ禁門の変がテロだったとしても、明治維新(明治元年からの改革の動き)の記事中に全く禁門の変が出てこない以上、わざわざ付け加えるというのは中立性を喪失した政治的主張でしょう)。

Sasakireoさん、保護依頼中の記事については編集しないようにしてください。またそれ以前に、論争がある事項についてはノートで合意を形成した上で本文に書き込むようにしてください。最低限のルールに則ってWikipediaを編集してください。 --トホホ川 2006年9月30日 (土) 01:51 (UTC)[返信]

上記の経緯にもかかわらず、さらに当該記事を無断で編集し、さらに保護依頼において、謂われのない中傷を繰り返していることについて反論します。もはや全くルールを学ぶ気が無い人に言っても無駄かもしれませんが、Sasakireoさんは履歴の使い方も分かっていないようです。Wikipediaにおいては、いつ誰が何を編集したかはすべて誰にでも分かる仕組みになっているのです。勝手に本名を明かすも何もありません。Sasakireoが利用者:Oiraという名を騙っていることは履歴ページを見れば、こぶまきさんでなくとも、誰にでも明らかです(→[1])。誰だって話し合いの最中に相手が不用意に名前を変えれば怪しむでしょう。それを自分が被害者のようにふるまい、こぶまきさんを攻撃するというのはお門違いです。しかも「慎重を期して本名を使わず」とはどういう意味でしょう?
また、保護依頼ページのあなたの記事を消したのは、履歴からも明らかなとおり[2])管理者のDojoさんです。私でもこぶまきさんでもありません。おそらくすでに保護対処されている上、保護依頼ページは論争の場としてふさわしくないから消したのでしょう。それよりも「ルールだから仕方が無い事」と保護依頼中の記事荒らしを差し戻されたことを納得したふりをして、また平気な顔で明治維新をいじるというのはどういうつもりなんでしょう?さらにこのノートの履歴(→[3])を見たところ、Sasakireoさんは私の上記の書き込みをも抹消するという挙に出たようです。完全な荒らし行為でしょう。しかも、荒らしを注意している側を「書き込み制限してください」ですか。私はSasakireoさんの方が怖いです。どうしてルールを守ろうとしないのでしょうか?トホホ川 2006年9月30日 (土) 16:41 (UTC)[返信]

もう話し合いはしたくないので、自分のコメントを消しました。消したコメントは載せないで下さい、それがwikipediaのルール違反にあたるなら仕方有りませんが、どうなのでしょうか? どうぞ宜しくお願いします。oira ご迷惑をおかけしてどうもすみませんでした。また、指摘して頂き今では見聞が広まりました、こぶまきさん・トホホ川さん どうもありがとうございました。 oira

2006年9月30日までの記事[編集]

人物[編集]

いわゆる維新志士や佐幕派のこともリンクしたほうがいいのでは?

城戸孝義と大久保利通[編集]

主に城戸孝義や大久保利通が中心となります。 -- 220.216.54.222 2005年10月23日 (日) 01:52

初めまして[編集]

はじめまして。タケと、いいます。 よろしく、お願いします・ 歴史の事教えてください-- 220.216.102.105 2005年11月5日 (土) 01:58

他人の投稿を削除するのは投稿ブロック対象行為です。ノートへのコメントにはチルダ4つ(~~~~)記入して署名しましょう。220.214.95.181 2005年11月6日 (日) 02:53 (UTC)[返信]


Sasakireoさん、いい加減にしてください。非常に迷惑ですトホホ川 2006年9月25日 (月) 06:47 (UTC)[返信]

禁門の変を「テロ」と見なすのはかなり無理があります。戦争とテロは似て非なるものです。もうちょっと勉強してください。

保護依頼で付けられていたコメント[編集]

以下のコメントは保護依頼で報酬されていたものですが、他の依頼の邪魔になるといけないのでこちらに移動させました。--Calvero 2006年9月30日 (土) 21:12 (UTC)[返信]

    • (コメント)まず、そのような弁解は、当該項目のノートでお願いします。この記事で行うのは不適当です。あなたの場合、ノートでの議論など全くなしに問答無用に書き換えてしまうことが一番の問題です。しかも保護依頼中に何度も書き換えるのはマナー違反です。もう一つ、「跳ぶが如く(翔ぶが如くの間違いだと思いますが)」や「敗者からみた明治維新」「その時歴史が動いた」とやらは歴史の本というにはお粗末な小説やエッセイや娯楽番組だと思います。論拠とするには弱い上に筆者の主観が入りすぎていて、そもそも客観的な記述ではありません。どうしても「テロ」「クーデター」であると主張し何度も編集するなら、その論拠を少なくとも研究本レベルのソースとともに、ノートで明白に述べてから書き換えるべきです。ちなみに、私は薩摩出身でも長州出身でもありません。首都圏出身です。地元出身のひいき目とは何の関係もなく元記事を中立的に書いてあるつもりです。論拠もなしに明治維新を「テロ」などと一方的に判断する方が、旧幕側からのひいき目に見えます。最後に、ここに書くのならば、署名をお願いします。トホホ川 2006年9月29日 (金) 01:53 (UTC)[返信]
    • (コメント)Oira様いやSasakireo様、上記の書き込み内容を見ると以後の議論はノート:明治維新で行った方がよいと思われます。また基本的にwikipediaへの書き込み作法自体をほとんどご存じないように感じました。今後も参加して下さるご意志があるなら、Wikipedia:ガイドブック 執筆する辺りから熟読されることをお奨めします。そして一つお伺いしたいのですが、署名を別名にされたのはなぜでしょうか。この行為はSasakireo署名での書き込み内容に自信がないか、もしくは悪意があるからと受け取られても仕方ないと考えます。-- こぶまき 2006年9月30日 (土) 04:00 (UTC)[返信]

もう話し合いはしたくないので、自分のコメントを消しました。消したコメントは載せないで下さい、それがwikipediaのルール違反にあたるなら仕方有りませんが、どうなのでしょうか? どうぞ宜しくお願いします。oira ご迷惑をおかけしてどうもすみませんでした。また、指摘して頂き今では見聞が広まりました、こぶまきさん・トホホ川さん どうもありがとうございました。 oira

  • (コメント)Oira様いやSasakireo様、上記の書き込み内容を見ると以後の議論はノート:明治維新で行った方がよいと思われます。また基本的にwikipediaへの書き込み作法自体をほとんどご存じないように感じました。今後も参加して下さるご意志があるなら、Wikipedia:ガイドブック 執筆する辺りから熟読されることをお奨めします。そして一つお伺いしたいのですが、署名を別名にされたのはなぜでしょうか。この行為はSasakireo署名での書き込み内容に自信がないか、もしくは悪意があるからと受け取られても仕方ないと考えます。-- こぶまき 2006年9月30日 (土) 04:00 (UTC)[返信]

  • (コメント:作業報告)異なる依頼「花嫁は厄年ッ!」に対してこの案件へのコメントをつけられている状態だったこととコメントが分散するため一先ず移動しました。--toto-tarou 2006年9月30日 (土) 19:50 (UTC)[返信]

明治維新が近隣諸国に与えた影響[編集]

明治維新が近隣諸国に与えた影響についての記述が必要だと思います。朝鮮や清の改革派が自国の改革の範としたことは事実として記載されるべきです。朝鮮の金玉均や清の黄遵憲のページが参考になるでしょう。保護されていなければどんどん執筆してしまいますけど、随分長いこと保護が掛けられていますので参考情報と共に足跡を残しておきます。219.97.105.61 2006年12月22日 (金) 17:43 (UTC)[返信]

明治維新の定義[編集]

保護を解除して頂きたいです。付け加えたい部分がたくさんあります。 明治維新は「近代国家体制への変革」という定義を付け加えるべきだと思います。   本文では天皇親政体制への改革ということになっていますが、それ以上に本質的な要素だと思います。   維新に学ぼうとした諸外国が注目したのは日本が天皇親政体制へスムーズに移行したからでしょうか? そうではなく、封建体制から近代国家体制への劇的な移行ぶりでしょう。   あと、維新の開始期を明治元年としていますが、明治維新の開始期をどこにおくかという議論は従来、一般的にいってペリー来航期におくか、天保期におくか、という2つだと思います。 改革はその時期から始まっているからです。 また、例えばフランス革命といった場合、革命政権が成立した後だけでなく、その前の時期を含めるのが一般的ですよね。どんな革命もそうでしょう。 ただ、幕末という項目がその辺のことは詳しく書いていますので、前史というような形で若干の補足説明と幕末へのリンクをはればいいと思います。現在本文に幕末がまったくありませんので。 保護解除よろしくお願いします。リチー 2007年2月25日 (日) 19:46 (UTC)[返信]

保護解除はWikipedia:保護解除依頼に依頼してください。--経済準学士 2007年2月25日 (日) 19:42 (UTC)[返信]
保護解除については経済準学士さんの仰るとおり、依頼所にて要望してください。明治維新の定義についてですが、現状の記事は私がかなり加筆した状態ですが、特に「天皇親政体制への改革」を強調したわけでも「近代国家体制への変革」の意味を弱めたのでもなく、いちおう両者のバランスをとって叙述しているつもりです(明治国家が西洋を模範として近代的国家を築いていったことも、明治天皇が立憲君主として成長・君臨していく過程も、どちらの側面も軽視できませんので)。とくに「維新に学ぼうとした諸外国が注目」したという点では、君主制を維持・再構成しつつ近代革命を成功させ得たところが模範となった理由でもあると思いますので…。リチーさんの言われる通り、「近代国家体制への変革」を強調するならば、まず「近代国家体制」なるものの定義も必要となるような気がします。また維新の開始時期ですが、確かにアカデミックな世界では天保期・幕末期を近代への萌芽期と見る観点が近年では定番ではありますが、それは「日本社会の近代化」の時期であって、年号を冠した「明治維新」については、やはり狭義の明治元年からの改革運動(幕府ではなく維新政府を主体とする)を指す方がより一般的かとは思います(歴史事典ではなく百科事典なので、歴史にそれほど詳しくない方も読むことを考慮すると)。もちろん、維新の背景・前史として幕末の動静を語ること自体は無駄ではないと思うので、若干の説明と「幕末」へのリンクを貼るという見解には賛成です(当該記事があまり長くならない範囲で)。--トホホ川 2007年2月26日 (月) 14:37 (UTC)[返信]
とりあえず「幕末」へのリンクは貼っておきました。また、219.97.105.61さんの触れられた金玉均黄遵憲などもリンクしました(アジア諸国へ与えた影響自体は元々若干触れていたのでそれほどいじってはいません)。--トホホ川 2007年3月4日 (日) 22:30 (UTC)[返信]
そこもまた難しいところで、大きな百科事典ですと、アカデミズムの方に記事の執筆を委託されるケースも多いので、いくつかの百科事典を見てもむしろ、明治元年から記述しているものは私が見た限りではなかったですね。ただ、それは補注でもいいのではという気もしますが。--水野白楓 2007年11月4日 (日) 11:13 (UTC)[返信]

明治維新という言葉の一般への流布[編集]

概要中では「「明治維新」という語が一般に流布したのは昭和以降」とされています。しかし大本系の浅野和三郎は大正8年に「大正維新の真相」という本を、また渋沢栄一「大正維新の覚悟」という講演をしていることから考えると「明治維新」の語の流布は大正まで遡れるように思うのですが、この記事の出典はどこでしょうか?(ちなみに初出は利用者:Karakaraさんの2005年5月26日の稿です)Sat666 2007年6月1日 (金) 07:55 (UTC)[返信]

国士舘大学の「設立趣旨」の文章(大正6年)の宮武外骨の大正8年の文章など複数の用例がある旨加筆します。とは言えネット上の二次資料ばかりであり、また「大正維新」の語が使われていた=「明治維新」という語がそれまでに使われていたとも断定できないのでどなたか資料提供いただければ幸いです。--Sat666 2007年6月10日 (日) 20:36 (UTC)[返信]

「維新元勲十傑論」(明治17年)や「維新風雲録」(末松謙澄、明治33年)という本が刊行されており、維新という言葉自体はあったけれど、他に区別するものがなかったので、明治維新とはあまり言わなかったのでは。明治天皇崩御が時代の転換を感じさせ、大正政変後に「大正維新政変の真相」(大正2年)が刊行されたように、「大正維新」という名の改革待望論が高まったようです(論者によってかなり振り幅がありますが)。「大正維新」と区別するために明治維新という呼び方が出てきたのかもしれません。(近い言葉で吉田東伍の「明治大政維新編」(大正2年)があります) --忠太 2009年1月16日 (金) 13:38 (UTC)[返信]

すでにこの項目が消えてしまっているようですが、近代デジタルライブラリーで「明治維新」を検索すると、明治20年代後半から様々な地方史や歴史の教科書で「明治維新」が取り上げられていることがわかります。よって「昭和以降」に広まったというのは言いすぎでしょう。Orichalcum会話2012年9月30日 (日) 07:03 (UTC)[返信]