ノート:日本語の誤用

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過去ログ01

ありがとうございました[編集]

少し前までは東京では買い物をしたとき「毎度、ありがとうございます」が普通であった。現在は「ありがとうございました」が聞かれるようになった。

と本文にありますが、果たしてそうでしょうか? 本文にも例文を書き加えましたが、明治5年に東京に生まれた岡本綺堂も江戸時代を舞台にした小説で茶店の女房に「毎度ありがとうございました」としゃべらせていますよ。編集要約に書いた買い物の例というのはよく考えたらちょっと違いましたが、商売をしている人が顧客に対して言っていることには変わりありません。

モノノハズミ 2008年9月25日 (木) 10:53 (UTC)[返信]

ShikiHでございます。私は「毎度、ありがとうございました」と全く言わなかったとは思っていません。まれだったと思っているだけです。岡本綺堂は東京生まれ、東京育ちで半七捕物帳は幕末の雰囲気をよく残しているので、もう、そのころには言っていたのでしょう。ただし、あんまり広まらなかったようです。ところで「ありがとうございました」については多分、かなり使っていたと思います。私の言ったのはあくまで商店で物を買ったとき、別れ際の言葉として「毎度、ありがとうございます」のほうが普通であり、普通であっただろうと述べたまでです。--ShikiH 2008年9月25日 (木) 11:36 (UTC)[返信]

稀だったとか普通だったとかいうのには何か根拠がありますか? 例えば、過去30年間にわたって都下で無作為に選ばれた小売店何百軒のレジに隠しマイクをしかけて別れ際の言葉を録音したなど。――まあ、そこまで求めなくても、例えば「俺は三代続いた江戸っ子だけど、東京では昔から毎度ありがとうございましたが普通だったよ」と主張する人が現れた場合、反論できる根拠がありますか? --モノノハズミ 2008年9月25日 (木) 21:30 (UTC) --(追記)モノノハズミ 2008年9月25日 (木) 21:42 (UTC)[返信]


ShikiHでございます。そう言う人が現れたら反論できる根拠はありません。その場合、私の意見と対立しますが、あちらも自分の体験をもとにするだけで根拠を示せないでしょう。ところで、お示しの岡本綺堂の作品は何でしょうか? ちょっと前後を読んでみたいと思いますので、教えてください。--ShikiH 2008年9月26日 (金) 09:41 (UTC)[返信]
ああ、ごめんなさい。書いてありましたね。ごめんください。--ShikiH 2008年9月26日 (金) 09:44 (UTC)[返信]


ShikiHでございます。この事件の舞台は下総国新石下村となっています。江戸市中の話でない場合は、それをもって江戸市中もそうであったと推測しない方が良いと思います。この村人たちの言葉はことさら土地風には書かれていませんが、作家は田舎の人にはわざと田舎風な言葉をしゃべらせているかもしれません。--ShikiH 2008年9月26日 (金) 14:36 (UTC)[返信]

他の部分ではことさら土地風には喋らせていない以上、作家は田舎の人にわざと田舎風な言葉をしゃべらせてはいないと解釈するのが自然です。毎度ありがとうございましたの部分だけ田舎風に喋らせたと推測する根拠が、「毎度ありがとうございましたは江戸市中では使われていなかったはずだ」という結論からの逆算以外にありますか? --モノノハズミ 2008年9月26日 (金) 21:32 (UTC)[返信]

ShikiHでございます。土地風な言葉をしゃべらせてない以上、「毎度、ありがとうございました」も江戸市中で使われていたとおもわれます。しかし上記のような反論は多いことでしょう。全文を読んでみる人は少ないのでね。ですから上記を出典とすることには賛成できません。もっと良い例はないものでしょうか。また岡本綺堂を現代語の使用の根拠にするのは古すぎると思います。岡本綺堂の頃はそのように言っていたが、その言い方は滅んだと言われてしまうかもしれません。「毎度、ありがとうございますが」広まってしまったのだという考えに、私は今のところ変更はありません。ご指摘のように要出典タグが貼られたら引っ込めざるを得ないような意見ではあります。ああ、それから東京都下と前の意見にお書きでしたが、東京都下で調査してもいけません。東京都下とは東京の田舎の方という意味で、共通語の調査には向いていません。--ShikiH 2008年9月27日 (土) 01:24 (UTC)[返信]

岡本綺堂が現代語の用例として古すぎるとは思いません。明治・昭和期の作家ですから。最近の作家、例えば戦後の作家を根拠にしてしまうと、今度は「戦後の作家だからすでに日本語が乱れている。根拠にならない」と言い出す人がいるでしょう。それに、現実問題として、ウィキペディアにおいて用例を引用しようとすると、すでに著作権の切れた作家の作品からしかできません。法律的には説明のための部分的な引用なら現代の作品からでも可能なはずですが、ウィキペディアでは念のため引用しないことになっています。

岡本綺堂自体は用例として古すぎることはありませんが、『半七捕物帳-小女郎狐』は舞台設定の点でやや問題があるかもしれませんね。もっと良い例があれば差し替えてください。ただ、最善の例でないからといって撤去するのには反対いたします。最善の例でないとはいえ無いよりはましです。

東京都下や共通語の意味については、国語辞典をお引きください。手元の広辞苑第4版で「都下」を引くと、「(1)略。(2)東京都下の略。東京都の管轄下の意。また、東京都の管轄下のうち、二三区を除く、市部・郡部・島の称」とあります。「また」とあるのに注目ください。本来は二三区を含むが、二三区を除いた意味で使うことあるという定義です。

また、「東京都下」の定義以前の問題として、今話題にしているのは東京弁でなく共通語ですから、東京の田舎のほうの共通語も含まれます。いや、むしろ、全国の共通語が含まれます。

モノノハズミ 2008年9月27日 (土) 23:05 (UTC)[返信]

日本語版ウィキペディアでは著作権の切れている物しか本文に引用しないように指示されてるのは知っています。また、少し新しい物から引用するとご指摘のような批判が起こる可能性がありますね。都下については辞書を引きました。なるほどご指摘のような意味が載ってますが、一般にはその意味では使わない言葉です。行政用語かなんかだと思います。共通語はそれは確かに全国の共通語のことですが、実際には東京の区部の言葉を元にしています。さて、「毎度、ありがとうございます」優勢という根拠は今のところ見つからず、またこの件にこれ以上時間を使っても成果がないような気がしますので、本文から削除します。--ShikiH 2008年9月27日 (土) 23:39 (UTC)  言い忘れましたが、日本国語大辞典第2版は「商人が客に対していう慣用的な礼のことば。」として小見出しに「毎度、ありがとうございます」を載せています。例文は「勘定をすまして、牛肉屋を出る。『毎度ありがたう』」「勘定を済まして、『毎度難有(アリガタウ)御座い』の声を聞流して戸外へ出た時には」なので「ありがとうございます」か「ありがとうございました」か書いてないのですが、辞書の編者たちは「ありがとうございます」だと判断したようです。--ShikiH 2008年9月27日 (土) 23:59 (UTC)[返信]
共通語」自体、福島県での調査で名づけられたのでは?--CitationNeeded 2008年9月28日 (日) 03:07 (UTC)[返信]

ShikiHさん、「都下」の意味については国語辞典に書いてあっても一般にはその意味では使わないで片付けてしまう一方で、「毎度、ありがとうございます」については「判断したようです」と推測してまで国語辞典の権威を笠に着るのは都合が良すぎませんか? --モノノハズミ 2008年9月28日 (日) 04:58 (UTC)[返信]


ShikiHでございます。まあ、ご指摘の通りです。都合の良いときだけ国語辞典を頼りにするのはおかしいですよね。ですから、本文は削除しました。削除したんだがら、そういじめないでください。東京都下については、たとえばgoogleで検索なさってみてください。日本国語大辞典については件は小学館に葉書を出してみるのはいかがでしょうか。それから青空文庫の少し古い版に半七捕物帳以外の作品も含めて全文検索を掛けてみたのですが、『半七捕物帳』「湯屋の二階」に「毎度ありがとうございます」がありますが、それ以外には見あたりませんでした。「毎度ありがとうございました」も見あたりませんでした。--ShikiH 2008年9月28日 (日) 11:19 (UTC)[返信]
前出のリンク先に「毎度ありがとうございました」があるので、単に検索作業を間違っているだけでは?『半七捕物帳-小女郎狐』--CitationNeeded 2008年9月28日 (日) 11:48 (UTC)[返信]

ShikiHさん、了解しました。ShikiHさんが削除すると言いつつ削除なさらないので、ちょっと意地悪になってしまいました。どうもShikiHさんは削除したおつもりのようですが、実際には削除されていませんので、後で削除しておきます。

青空文庫の全文検索結果については、CitationNeededさんご指摘の理由か、もしくはShikiHさんの利用された青空文庫の版が古いのだと思います。参考までに、グーグルで「site:aozora.gr.jp "○○"」と検索]すると、青空文庫に対して○○という語で全文検索をかけることができます。

モノノハズミ 2008年9月28日 (日) 12:27 (UTC)[返信]

ShikiHでございます。上記の「毎度、ありがとうございました」はもちろん、見つかりました。当たり前なので書かなかっただけです。青空文庫から昔送ってきたCDをつかったので、ちょっと古いのですが、今はもっと良い方法があるのですね。これからそのようにしてみます。ご教示ありがとうございます。--ShikiH 2008年9月28日 (日) 13:42 (UTC)[返信]
あらら大変、削除したつもりだったのに。どうかお許しください。なんか投稿したつもりがされてないことがよくあって、履歴を確認するようにしてるんですが、また変なことになったようです。--ShikiH 2008年9月28日 (日) 13:50 (UTC)[返信]
ShikiHでございます。辞書で「毎度」をどのように説明しているかについて書き加えました。ところで「毎度ありがとうございます」に限らずさまざまな言葉について、約1年ほど考えていました。そこで思ったのですが、気になる表現はある程度使われるから気になるのです。人は言い間違うこともあるので、ある表現が2度や3度聞かれても、わたしの記憶には残りません。ある表現を奇妙だと感じるためには、それがかなりの回数、繰り返される必要があります。ですから強力な検索ツールを使えば、そのような表現はいくらでもみつかります。よってウィキペディアでわたしの言い分を記述することはできないので、言いっぱなしでかまわないような場面、たとえばエッセイを発表する機会があれば、そのときに書くことにしました。--ShikiH 2009年11月14日 (土) 22:08 (UTC)[返信]

「お気に入り」について[編集]

「お気に入り」の誤用について書かれていますが、お気に入りを開くとブックマークにリダイレクトされることからもわかるように、PCにおける「お気に入り」の存在とその影響は看過できないのではないかと思います(PCにおける「お気に入り」は、自分に対して使っているものかと思われます)。どなたか詳しい方加筆してくださると嬉しいです。--220.107.170.208 2008年11月5日 (水) 11:57 (UTC)[返信]

「3.2 誤った敬語表現 」にて「斜陽」を間違いの例に挙げるのは適当か?[編集]

「斜陽」は一人語りの文芸作品であり、読者に正対して語るという形式でない以上、この小説を例に挙げるのは適当でないのではないかと思います。 どちらかというと日記文学に近いスタンスではないでしょうか。この場合他人に対する礼儀は必要とされず、問題はないように思います。 そもそも文学作品に文法上の正しさを求めるのはナンセンスな気もしますが。

また「終始母に対して尊敬語を使っており、作品全てが誤り」とも取れるやや行きすぎた表現がなされており、さらに「このような表現を使うべきでない」という趣旨の発言は、「斜陽」に対する批判とも受け取れる恐れがありますので、全体的に穏やかに書き改めました。

皆様のお知恵をお貸し下さい。

--Zir caloy 2008年12月26日 (金) 05:57 (UTC)[返信]

『斜陽』についての記述の原型を書いたのは私ですが、うーむ、そういう風に取られましたか。作品を批判するつもりなど全くなく、礼儀の問題である敬語の用法をまるで規則のように機械的に捉えるのはナンセンスだということが言いたかったのですが。
文学作品に文法上の正しさを求めるのはナンセンスだというのは同感です。文学作品に文法上の正しさが求められると思っている人が仮にいたとしたら、その人には文法誤りの指摘が作品に対する批判と誤解される恐れがありますね。でも、文学作品に文法上の正しさを求める人なんているのでしょうか。
『斜陽』が一人語りの文学だというのは、どんなところから感じられましたか? 冒頭に近いところでも「ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。」というのは、ヒラリという形容を誇張ととらえる聞き手(読者)の存在を意識したものではありませんか? 一人語りらしく書こうとするならば、ヒラリという形容が誇張でないことを示すにしてももうちょっと違う書き方をしそうなものです。それとも、対話体や書簡体になっていない文学作品はすべて一人語りだという趣旨でしょうか。そもそも『斜陽』も部分的には書簡体ですね。
モノノハズミ 2008年12月26日 (金) 10:13 (UTC)[返信]


お早いお返事ありがとうございます。まず細々とした返答は後として全体を俯瞰いたしましすと、

 >>礼儀の問題である敬語の用法をまるで規則のように機械的に捉えるのはナンセンス

この部分が伝わっていない感じが致します。というのも、良く読めばモノノハズミさんが上の意図を持って引用されたのが分かるのですが、さっと一読した場合、最初の書き方ですと「作家の文法間違いの例」を並び立てているように見えてしまうからです。

:このページの趣旨は既存作品の間違いを指摘する・正すというわけではありませんから、他の文例のように引用を用いず、我々で例を作るべきかと思います。その上で「しかしこういう使い方もある」と示せば誤解もなく意図が伝わりやすいかと愚考します。

:>>文学作品に文法上の正しさを求める人なんているのでしょうか。

とのことですが、「有名な作品なんだから古き良き正しい日本語なんだろう」というふうに考える人はいるかも知れません。また逆に、文法的に正しいことが前提でない「文芸作品」を例として引用する理由は弱いと思います。間違ったらいけない場面での例を挙げる方が効果的です。

:>>『斜陽』が一人語りの文学だというのは、どんなところから感じられましたか?

さきにお断り申し上げますが、恐らく我々二人は似たことを考えていると思います。うまく伝わっていないのは私の不徳です。私が使った「一人語り」とは、「とはずがたり」に近いイメージです。独り言ではなく、かつ面と向かって語るわけでもない。誰かが読むかも知れないが、誰が読むかという読者像は想定されないといった感じだと思います。
(追加)同時編集による改変の交錯が起こり、私のコメントが反映されませんでした。書き直し、ここに挿入します。

--Zir caloy 2008年12月26日 (金) 11:17 (UTC)[返信]



(報告)作品批判と誤解されないように本文を修正しました。

また、引用は、かず子が上原に宛てた手紙からにしたほうがよいでしょうか。返事を期待して書いているのですから一人語りでないことは明らかですね。例えば、

お手紙、書こうか、どうしようか、ずいぶん迷っていました。けれども、けさ、鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ、というイエスの言葉をふと思い出し、奇妙に元気が出て、お手紙を差し上げる事にしました。直治の姉でございます。お忘れかしら。お忘れだったら、思い出して下さい。
 直治が、こないだまたお邪魔にあがって、ずいぶんごやっかいを、おかけしたようで、相すみません。(でも、本当は、直治の事は、それは直治の勝手で、私が差し出ておわびをするなど、ナンセンスみたいな気もするのです。)きょうは、直治の事でなく、私の事で、お願いがあるのです。京橋のアパートで罹災なさって、それから今の御住所にお移りになった事を直治から聞きまして、よっぽど東京の郊外のそのお宅にお伺いしようかと思ったのですが、お母さまがこないだからまた少しお加減が悪く、お母さまをほっといて上京する事は、どうしても出来ませぬので、それで、お手紙で申し上げる事に致しました。

の箇所です。作品冒頭からの引用のほうが読者が確認する際にすぐに目に入ってよいかとも思いますが、どう思われますか。

モノノハズミ 2008年12月26日 (金) 11:17 (UTC)[返信]


はい、確かにその部分は返事を期待した書簡ですから問題ありません。 ただし私の主張は、例文に文芸作品を使うのは至当とは言い難いということです。別に太宰や斜陽に理由があるわけではありません(そう思うとこのタイトルは不適当でした)。先に申し上げた通り、シンプルにするためにも例文は別に作るべきと思います(辞書のように正しい文章の例として引用するのなら構わないと思いますが)。 また、このページの中でも「誤った敬語表現」の前半分のみ小説からの引用が多用されています。何か特別な理由がなければ、他の項目のようにするべきだと思います。

--Zir caloy 2008年12月26日 (金) 12:11 (UTC)[返信]

文学作品などから古い誤用例を引用することは別に奇異な手法ではありません。NHKラジオの『気になる日本語』でも、世間で誤用とされている表現が実は結構古くから使われていることを紹介するのは毎度お決まりのパターンになっています。むしろ、ただ頭ごなしに「いつからある誤用かはあんたには不要な知識だから教えない。とにかく誤りだという結論だけ覚えればよい」とばかりに書くことこそ、読者を馬鹿にしたものだと思います。そんな説明で納得するのは中学生まででしょう。
また、ウィキペディアは個人のエッセイでも敬語のマニュアル本でもなく百科事典なのですから、「この日本語は間違っているから撲滅したい」とか「正しい日本語を守りたい」とかいった感情に走ることは慎まなくてはなりません。あくまでも客観的に「このような日本語があり、この日本語を間違いだとする考えがある」ことを紹介するに止めるべきだと考えます。現状のこの記事は客観的どころか誤用憎しの感情むき出しの部分が多数ありますので、改善していかなくてはなりません。
正しいとされている用法と間違いとされている用法とで文学作品からの引用の可否が変わってくるのは、間違った日本語がけしからんという感情に引きずられている表れではないでしょうか。
モノノハズミ 2008年12月26日 (金) 15:06 (UTC)[返信]


お説には大方賛同いたします。しかし、だいぶん論点がずれているようです。 古い誤用例を引用することが奇異と言っているのではありません。悪いこととも言っておりません。しかしこの場においては必ずしも適切でないと申し上げているわけです。 上に挙げた理由から、「今回、ここにおいては、例からは外したほうが適切ではないか。後ろで述べる分には問題ないしそちらの方がわかりやすいと思う」というのが私の意見です。私は感情論ではなく効率論を申し上げているつもりです。それに対するお返事を伺いたかっただけです。

「また、正しい表現なら載せても構わないかもしれない」という私の発言も誤解がありそうなので説明いたします。仰るとおり、現在このページは間違った日本語に対してやや手厳しい立場であると感じます。この項目が複雑で誤解を招くと私が考えるのも、著者である貴方とこのページの温度差に起因するように思います。このページにおいて誤用例を載せますと、誤用例をあげつらって叩いているかのように誤解されてしまうのは無理からぬことではないでしょうか。

百科事典の理想は常に中立であるのは分かります。しかし「0度と100度の水が同量あれば、別々のバケツに入っていても平均50度だから良い」というものでもないと思います。

貴方が今このページを0度と考えられるなら、別にもっと大きな議論を進める必要があると思います。 --Zir caloy 2008年12月26日 (金) 15:58 (UTC)[返信]

つまり、本文では、まず我々ウィキペディア編集者が作文した簡潔な例文を載せ、しかる後に文学作品の例もあると紹介する順番にすべきだというご主張でしょうか? 誤用例の作文はデータの捏造のようで抵抗があるのですが、説明を簡潔にする方便として仕方ないかもしれませんね。
抵抗があると申し上げた訳を説明します。誤用例の作文が許されるなら、この世に存在しない誤用を執筆者が捏造して書くことすら可能になってしまいますよね。例えば、私が、
(嘘)「来年4月に旅行に行った」のように未来の予定を「~した」と表現する誤用がある。正しくは「来年4月に旅行に行く」。(嘘)
と捏造して本文に書いたとしたら、自分で作文した例文では駄目だ、文学作品なり何なりで未来の予定を「~した」と表現している実例を示せ、示せないなら削除しろ、と要求されるでしょう。上に挙げたのはすぐに分かる下手な捏造だからそうなりますが、思わず信じてしまうような巧妙な捏造だったら見過ごされてしまうかもしれません。誤用例作文の容認には、誤用の捏造をも許してしまう危険が伴うのです。誤用例の作文は本来は褒められたことではないこと、できれば実例を引くべきことは忘れてならないと思います。せっかく実例を引いてあるのをわざわざ作文に置き換えることには反対いたします。
間違った日本語に対して手厳しい立場にあるこの記事において文学作品の誤用例を挙げると、作品を叩いているかのように誤解されるとのことですが、それならば、間違った日本語に対して手厳しいこの記事の調子をこそ変えていくべきではないでしょうか。今でさえ百科事典の記事としては誤用憎しの感情が出すぎなのに、その調子に合わせていてはますます酷くなっていく一方ですよ。
まとめますと、先に簡潔な例文を作文して載せ、後に文学作品の例を紹介する順番にすべきだというのがZir caloyさんのご主張ならば、誤用例の作文には抵抗がありますが、記事を簡潔にするために仕方ないかもしれません。文学作品を批判しているように誤解されないためには、誤用憎しの感情が出すぎている本文の調子をこそ変えていくべきだと思います。
モノノハズミ 2008年12月27日 (土) 16:00 (UTC)[返信]

Zir caloyさんの提案(を私が読み違えていななければ)に沿って本文を変更してみました。編集中に気づきましたが、文学作品からの引用の頭に×印を付け、後に矢印をつけて「訂正」するのは、確かに文学作品を批判しているように誤解されかねない体裁でしたね。以前例文を実例に差し替えるときに、例文そのもの以外の体裁をそのままにしていました。--モノノハズミ 2008年12月28日 (日) 01:55 (UTC)[返信]

外国語および外来語の扱いに関して[編集]

要点だけいうと外来語外国語についても記載されている箇所がありますが、日本語の誤用を取り扱う項目において、これは明らかにおかしいということです。日本語における外国語の誤用にて取り扱うべき内容と考えます。--イイダムシ 2009年1月11日 (日) 06:52 (UTC)[返信]

特別反響がないので該当箇所をコメントアウトして様子を見ます。大雑把にコメントアウトしてますので、必要であれば(できればその旨コメントしていただいた上で)微調整のほどよろしくお願いします。--イイダムシ 2009年1月27日 (火) 06:10 (UTC)[返信]

「滅相もありません」について[編集]

ShikiHでございます。現在の記事では「とんでもありません」は誤用、「滅相もありません」は正用となっています。しかし「滅相もありません」は微妙なところだと思います。「あられもない」はどのようにとらえますか? 「若い娘がそんな姿で寝そべるなんて、あられもありません」は私には誤用に聞こえます。滅相は名詞だが「あられ」は名詞じゃないってことだろうと思いますが、それでよろしいでしょうか?--ShikiH 2010年3月2日 (火) 17:12 (UTC)[返信]

ShikiHでございます。補足します。「この店には野菜も魚もありません」は誤用ではない。だから「滅相もない」も誤用ではない、とのご意見でしょうが、私にはこの二つは異なって感じられます。今はあまり使われませんが、「滅相だ」という言葉があって、その意味は「滅相もない」に似ています。「魚だ」「魚もない」が意味がかなり異なるのとは状況が違います。「滅相もない」における「もない」は打ち消しを含まない形容詞の一部のように感じます。「滅相もありません」を誤用と感じる人がいることに、不思議はないように思います。
次に「あられもない」ですが、「あられもありません」は多分誤用ではあるものの、この語は1文節とは感じられません。「有る」の未然形に打ち消しの成分が含まれて「あられもない」となったのでしょう。よってこの記事の本文のように説明しても説得力がありません。つまり1文節の語だから「ありません」や「ございません」がつかないという説明は無理です。「みっともない」は「見たくもない」→「見とうもない」→「みっともない」と変化したと思われますから「みっともありません」とは言わない理由を1文節ではない以外に見つける必要があります。--ShikiH 2010年3月3日 (水) 09:26 (UTC) すいません。後半を削除します。--ShikiH 2010年3月3日 (水) 13:02 (UTC)[返信]

ちょっとウェブ検索してみましたら、「滅相もありません」が誤用だという説はなにもIPユーザーさんだけの思いつきというわけではないようですね。上のよさそうと同じようなものと考えて否定してしまいましたが、失礼しました。確かに「滅相もありません」には違和感を覚えなくもありませんでしたが、辞書に滅相が名詞として載っている以上、違和感を覚える私のほうがおかしいのだろうと考えてしまいました。ただ、ウェブ上の情報では出典として弱いので、辞書なりなんなりの出典があれば良いと思います。--モノノハズミ 2010年3月4日 (木) 11:07 (UTC)[返信]

ShikiHでございます。なるほど、ウェブ上にかなりの意見が見られます。私にはなんだかちっともわからなくなりました。ところで上記の取消線で削除したのは、因果関係に間違いがあるように思ったからです。意味や用法が先行し、その後に文節の数を決めなくてはなりません。つまり、これこれの表現はこういう意味だから1文節だ、2文節だとなるのであって、1文節だからこういう意味でこういう用法が正しいと主張すべからずと思いました。もう少し考えをまとめてから、ここに書きたく存じます。--ShikiH 2010年3月5日 (金) 09:51 (UTC)[返信]


ShikiHでございます。3つの表現について私なりの感じ方をまとめました。

ShikiHによる感じ方 (○はそのとおり、×はそうではない、△は判断保留)
ないに打ち消しを感じる 自分はありません等の形を言う ありません等を誤用と考える
とんでもない   △   △(自覚しないが言ってるかもしれません)   ○(正用だと言う人がほとんどいないから)
めっそうもない   ×   ×   △(「めっそうもござんせん」なんて悪くないと思う
みっともない   ○(みたくもないの変化したものと感じる   ×   ○

どうしてこう感じるのかについては考えましたがよくわかりません。統一的な説明は思いつきません。しかし言葉については専門家の見解以外に、一般人の感じ方をお知らせするのはフィールドワークとして意味のあることと考え投稿いたします。--ShikiH 2010年3月5日 (金) 15:54 (UTC)[返信]

Wikipedia:独自研究は載せないにあるように、Wikipediaは、個人的な持論を展開する場所ではありません。第三者の文献を挙げずに、どこの馬の骨ともわからない素人どうしが記載の是非を話し合っても仕方ありません。こういう個人的な雑感をノートで書くのはまだしも、本文に記載していませんか?ご自身で記載した文章で、信頼できる出典を明記できないものは除去してください。--fromm 2010年8月3日 (火) 03:41 (UTC)[返信]

ShikiHでございます。わたしは滅相に関連してなにも本文を編集していません。ご安心下さい。--ShikiH 2010年8月3日 (火) 07:54 (UTC)[返信]

難易度[編集]

「難易度が高い」という表現は辞書でも用いられている。
難易度 とは”. デジタル大辞泉. コトバンク小学館. 2010年5月4日閲覧。 “難易の程度。「入試の―」「―の高い技」” --PurpleDragon 2010年5月4日 (火) 00:53 (UTC)[返信]

故障[編集]

  • スポーツ選手の怪我や病気を「故障」と表現することについて、スポーツ選手を機械扱いする表現ではないかという感想をもつ人がいるが、「故障」という語は人の身体について言うのが本来の用法で、機械の不具合を故障と表現するほうがむしろ後から生まれた用法である。

という趣旨のことをNHKラジオで聞いた記憶がありますので覚えまでにここに記しておきます。

本文に組み込む際に問題になるのは、「スポーツ選手の怪我や病気を故障と表現することを問題視する人がいる」という出典が得られるかですね。人の身体について故障というのが本来の用法であることは辞書にも載っているので、こちらの出典は問題ありません。--モノノハズミ 2010年6月12日 (土) 07:25 (UTC)[返信]

大幅除去の予告[編集]

ここはWikipediaなので、Wikipedia:独自研究は載せないおよびWikipedia:検証可能性に沿って、独自研究および裏付けのない記載をこれから除去していきます。分量は2割程度になると思います。

  • ○○は誤用

というのであれば、「誤用」と断定した権威のある(信頼できる)出典を付けてください。 出典がないなら、あなた方の個人的な妄想、空想、思い込みということでしょう。そういうのはWikipediaの守備範囲ではありません。なお、現状の記載の相当程度の分量が、宮崎県庁IP:210.155.225.210会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisの虚偽記載荒らしの仕業であることも指摘しておきます。--fromm 2010年8月3日 (火) 03:33 (UTC)[返信]

  • できれば先に[要出典]***[要出典]でも塗布してくださると対処できるものもあるかも知れませんが。脚注形式で出典の示されているものが少ないので削除主義に立てば2割じゃすまないでしょう。--大和屋敷 2010年8月3日 (火) 03:40 (UTC)[返信]
    • おっしゃる通り要出典を付けた方がよいと考える方が多いかもしれません、結構時間が係る作業なので数日中にもしようと思います(B-CAS[1]の例に同じ)。あと、文化審議会の「敬語の指針」PDFにあるように、真っ当な専門家の方々は「○○は誤用」と断定することに非常に慎重な態度です。現状のいくつかの節は、自称専門家が執筆している有象無象の一般向け書籍を出典にできるかもしれませんが、こういう低俗な(と私は思う)一般向け書籍を出典として寄せ集めるのも不毛な作業、百科事典的でない、と思っています(載せたい人が汗水垂らして調べて欲しい,私はそんなには調べません。出典を示す責任は掲載を希望する側に)。--fromm 2010年8月4日 (水) 02:25 (UTC)[返信]
  • Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:検証可能性のルールに基づく除去は認められていますので、具体的な問題点の指摘が事前に行われることが望ましいとは私も思いますが、それはいいでしょう。しかし、それはあくまで記事の品質や信頼性を確保するために実行するものであって、除去部分の執筆者をあげつらうためにあるのではありません。特に、IP:210.155.225.210会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんが虚偽記載荒らしをしていたという話は現時点ではfrommさんが一方的に決め付けている程度の話でしかありませんので(「荒らし」とまで言うためには思い込みによる誤情報の加筆程度にとどまらず、それこそ意図的に虚偽の記載を行ったぐらいの確証あるいは、それに代わりうる合意(Wikipedia:コメント依頼で複数より指摘があった等)が必要です)、あまりあちこちの議論の場で持ち出したりしないよう、宜しくお願いします(Wikipedia:礼儀を忘れない)。--倫敦橋 (Londonbashi) 2010年8月4日 (水) 00:17 (UTC)[返信]
    • 宮崎県庁IP:210.155.225.210会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois1,2,3,4,5,6で削除の合意があったわけで、裏付けのない記載をしているという合意はあったものと思います。この記事を含む日本語関係のWP:NORを無視した一連のモンスター記事は、自然発生的にモンスター化したわけではなくて、人為的なものです。具体的には何名かの利用者の投稿態度に原因があります。再発を防ぐためには、そういう利用者たちの投稿態度をあげつらって責め立てることが必要です。話が拡散するのは本意でないので、もう少し穏当な呼称や形容詞を使います。--fromm 2010年8月4日 (水) 02:10 (UTC)[返信]

要出典を付けずに除去しました。数年間出典が出なかったのに、今さら出典を要求して待っても無駄であること。一刻一秒でも早く、これまで数年に渡って垂れ流していた低劣なデマゴギーを除去することを最優先事項とすべきと思うからです。 ちなみに、

  • 広辞苑にはAと書いてある。
  • 大辞林にはBと書いてある。
  • AとBからするとCという結論が導き出される。

などとして、個人的な分析を展開するのは、発表済み情報の合成であるので記事に書いてはいけません。これに当たるものも除去しました。内容を復帰したい方は除去前の版[2]から拾ってこれますので、信頼できる出典付きでお願いします。--fromm 2010年8月4日 (水) 13:50 (UTC)[返信]