ノート:日向国

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

アンチ日向のTomzo君へ 礼儀を欠いているのはそちらではないのか?[編集]

こちらは当方のページをすべて割いて君たちとの話し合いに応じたのだよ? これはSaigen Jiro君の要望に答えたものだ。 そこで話し合いは続いているのにどうして勝手に話し合いの場を変える必要がある? 卑怯そのものだろう? Wikipedia:礼儀を忘れないと言うが一番礼儀を欠いているのはどう見ても君自身だろうが。しかも議論に勝ち目がなくなるとまた一から話し合いをさせて時間と労力の消耗を狙う。これのいったいどこに礼儀があると言うのだ?答えてくれ。

次に俺が君に著しく不快感を感じるのは日向の地が天孫降臨の時期から古事記にも日本書紀にも「日向(国)」記載されているにもかかわらずに、あえてそれを無視して事実と確定していない憶測の日向は熊襲だったとそれだけを強く主張しwikiに掲載し続けた点だ。 その経緯からも君の日向に対する悪意を感じるのだが?君はどう思う?--Nihon goddddd会話2013年9月10日 (火) 11:44 (UTC)[返信]

アンチ鹿児島そしてアンチ宮崎の熊襲信者Tomzoとの会話 (詳しくは日向国の履歴参照)[編集]

自説の展開でなく、文献に基づく客観的事実の記載をお願いいたします。人を不愉快にさせる記事は自重してください。 かなり不愉快です。そんなに鹿児島や宮崎が嫌いなのですか? 何年もひどい中傷記事をwikに載せて楽しいですか? しかも引用が古文書でもない実証性の薄い百科事典の編集者の明らかに個人的な見解ですから驚きます。 これを事実であるがごとく2006年より閲覧可能にし世間に誤解を吹聴したことは許しがたいです。 反論と謝罪をお待ちしております。--Nihon goddddd(会話) 2013年9月7日 (土) 07:24 (UTC)

   私の記述は、多く岩波文庫「古事記」「日本書紀」の解説、吉川弘文館「国史大辞典」、山川出版社「宮崎県の歴史」、角川書店「南方神話と古代の日本」、朝日新聞社「古代史を行く」、平凡社新書「隼人の古代史」などを参照し記載しています。いずれの著者も学会で信頼おけるとされた学者の方です。たしかに、どの部分が参考文献のどこと明記しなかった恨みはありますが、決して個人的な意見を記載したものではありません。
   それらによると、大まかには、鹿児島県から宮崎県にかけて、「いわゆる」大和朝廷とは独立した勢力として「熊襲」という集団があった。後に、大和朝廷に服属し、服属後は「隼人」と呼ばれるようになった、というものです。
   Nihon godddddさんは、ウィキペディアが依って立つ科学的態度(実証主義)を誤解されていものと思われます。
   実証主義に基づいた歴史学においては、聖書をはじめとして神話的史料の記述をそのまま信頼するのではなく(これを宗教原理的態度と呼びます。例えば、これによれば、世界は創造されて6000年程度しか経っていないそうです)、同時代の他の文献、考古学上の発見物、又、通常の自然科学上の知見(例えば、武内宿禰は360年以上生きたとされるが、この記述は、現代の自然科学の見解からは信用に値しない)、から、批判・評価され、実際人\その時代に起こった事実を推認すべきものとされています。従って、「引用が古文書でもない実証性の薄い百科事典の編集者の明らかに個人的な見解」というのは、全くの的外れで、「古文書」は、歴史的事実としてそのまま引用されるべきではない一方、市販される百科事典は、商業ベースに載せるため科学的信頼性は最重要事項であり、それにふさわしい著者(いわゆる斯界の学者)を選定した上、一般には高名な学者により構成される編集委員会が検証しており、決して「個人的」なものではありません。(と、あまりに当たり前のことを書くと、「学者至上主義」とか言われるのですが、信頼できる著書のひとつもない素人よりは遥にましです)。
   また、ウィキペディアのもうひとつの態度として、自分が得心できない言説があれば、それを抹消するには、明らかにそれが間違いであることを証拠となる信頼できる文献等を提示しその行為に及ぶか、または、言説を併記し、さらに他の読者に判断を求めるというのが、ウィキペディアとして好ましい態度です。
   Nihon godddddさんの編集態度は、上のいずれでもなかったので、元に戻させていただきました。長年、ウィキペディアにかかわっている者として、先回りして警告しておきますと、事典レベルの出典を付した記事を、根拠を示さず除去するということを繰り返すと、編集制限を受けることがありますので、ウィキペディアのルールを尊重して編集するようにしてください。ということでもう一度戻しておきます。ご不満であれば、出典である事典の説を覆す実証的な学説を持って行ってください。
   宮崎県云々の話ですが、私は、宮崎県都城市出身なので、郷土愛を人一倍有しているつもりです。しかしそのことと、神話を無批判に受け入れ、科学的態度をとらないということは全く異なります。さらに、その地域に熊襲が居住していたというのが、中傷になるというメンタリティが全く理解できません。古代人は現代から見ると野蛮であるのは仕方ないものとし、私は、大和朝廷から独立した熊襲族が自由闊達に緑多い南九州で活躍していたということのほうにロマンを感じます。熊襲が居住していたと記述しただけで、中傷とするのはあまりに偏狭でしょう。--Tomzo(会話) 2013年9月7日 (土) 08:25 (UTC)

君はとんでもない奴だね。全く独断と偏見で地元を陥れるやつだと言うのは間違いない。 宮崎の都城と言えば東国春君でまさしくいい加減な商業ペースの考え方だ。 お前らが熊襲出身だと言うのならそれで結構だが、日向国は巻き込むな。 古事記、日本書紀で見れば、邇邇芸命の時に既に日向国というのがあると言うことがわかる。 こんな簡単なことさえ気がつかないのが、知ったかぶりの君でまさに宮崎県の大恥だ。 君はこの記述をはじめから無視している。 一般には高名な学者により構成される編集委員会といっても監修が関係ない都道府県のしかも戦後混乱期の人間だったりする。 つうか一番信用ならないど素人は君自身だと言うことだ。 判断材料がいい加減で君のつまらない憶測を古事記や日本書紀よりも優先させている。 古事記や日本書紀に日向が熊襲だったなんてどこにも書いていないだろう? それと、ど素人の君のありえないいい加減な判断は「大和朝廷から独立した熊襲族が自由闊達に緑多い南九州で活躍していた」と言う言葉からも伺える。 日向の地はれっきとした皇族の故郷であり、景行天皇も九州巡回のときに訪れている。 まあ、反論があるなら何か言ってみてくれ。もう見苦しい屁理屈はやめろ。言い訳にもなっておらんわ。 あと往生際が悪いように見える。どうでもいいがさっさと謝罪してくれ。こっちはかなり不愉快な思いをしている。--Nihon goddddd(会話) 2013年9月8日 (日) 03:17 (UTC)

「その地域に熊襲が居住していたというのが、中傷になるというメンタリティが全く理解できません。」 別に理解しなくてもいいが、こちらが不愉快に感じている事だけはは理解しろ。 それに熊襲は移住してほぼ九州を縦断している。 と言うかお前のつまらない独断なんかどうでもいいから古事記や日本書紀以外の記述を記載するな。 科学的根拠云々を言っているお前が一番いい加減ででたらめだ。 そこのところをもっと自覚してくれ。

「私は、大和朝廷から独立した熊襲族が自由闊達に緑多い南九州で活躍していたということのほうにロマンを感じます。」 まさにそれはお前の主観であって何一つ科学的根拠がないだろう? おぬしがロマンを感じるからと言って、日向国を勝手に熊襲にするんじゃない。 どうしてこんなに物分りの悪い奴が臨時の管理者なのか?ちんぷんかんぷんだわ。

「熊襲が居住していたと記述しただけで、中傷とするのはあまりに偏狭でしょう。」 実際に熊曾国は今現在は存在しないし、あまり好ましい捉え方はされていない。 熊襲にロマンを感じるから日向国を熊襲にしようなんて、それこそがまさに偏狭的なものの考え方だ。 それはおまえ自身の胸のうちにしまっておけよ。全く不愉快以外なんでもない。

と言うわけでこれまで長年にわたり熊襲信者であるお前が日向国を事実と反して貶めて誹謗中傷し続けたのは明らかだ。 ここで改めて謝罪を要求する。--Nihon goddddd(会話) 2013年9月8日 (日) 03:45 (UTC)

   まさか、今の世の中に記紀原理主義者が存在するとは驚きです。一点聞きましょう。天孫降臨は、現実に起こったお話で、八百万の神は、高千穂に降臨するくらいなので、高千穂よりも高い位置に高天原にいらっしゃるとでもお考えですか。--Tomzo(会話) 2013年9月8日 (日) 04:40 (UTC)

それこそ神話部分でしょう?どうして人代(神武天皇を含む日向三代)について語っているのに神話のところへ話を持っていこうとするのか? 理解不能だ。全く科学的ではないですね。 それに記紀原理主義者とか言うのも悪口だろう?日本では古事記と日本書紀しか今は参考にする古文書がないのだから、それを無視するのもどうか?と思う。 と言うわけでこれまで長年にわたり君が日向国を事実(記紀)と反して貶めて誹謗中傷し続けたのは明らかだ。 ここで改めて謝罪を要求する。 --Nihon goddddd(会話) 2013年9月8日 (日) 04:54 (UTC)

   上に「邇邇芸命の時に既に日向国というのがあると言うことがわかる。 」とありますよね。邇邇芸命(日向三代の一)はどこからいらっしゃったのでしょうか?東征の記事以前の神代は神話的であるがゆえに採用しないというなら、この部分を根拠とするのは難しいですね。さて、記紀を近代歴史学における史料批判をせずにそのまま史料根拠とすることを記紀原理主義と言っていますが(聖書原理主義のアナロジーです、あとその当時の重要史料としては、少なくとも風土記もあります、「古事記と日本書紀しか今は参考にする古文書がない」は誤りです)、それが、ひとつの立場であるとしても(まあ、歴史学を教える日本の大学でこの立場をとる大学は1個としてないことは確かですが、国学院や皇學館でも史学ではなく、一種の神学または宗教哲学として研究されているでしょう)、Nihon godddddさんの読み方は論理的ではないと考えます。まず、『古事記』の国生み神話には、「次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。」とあります。これは、九州島(筑紫島)は4国で構成されると言うことを言っています。このうち、筑紫国は後の筑前・筑後(ほぼ現在の福岡県)、豊国は豊前・豊後(ほぼ現在の大分県)、肥国は肥前・肥後(ほぼ現在の長崎県・佐賀県・熊本県)を意味します。最後に「熊曾国」が残りました。九州で残った地域は、宮崎県と鹿児島県ですよね。なお、薩摩国・大隅国は日向国から分離されて成立していますから、この、「熊曾国」は最初におかれた日向国の領域に一致します。
   次に、日本書紀における景行天皇の熊襲征伐の記事です。「十二年秋七月、熊襲反之不朝貢」から、景行天皇の征西は始まり、まず、周防国佐波郡佐波郷(現山口県防府市)、豊前国長峡県(現北九州市小倉区)、豊後国大分郡(現大分県大分市)、豊後国速見郡(大分県速見郡)を経て、「十一月、到日向国、起行宮以居之。是謂高屋宮」となります(高屋宮は西都市あたりだろうと言われています)。経路をたどると、熊襲はこの進行先の方向にいることになります。そして実際、景行天皇は襲国(囎唹郡、現霧島市、曽於市ではない)の熊襲を討ちます。と、このように、記紀において日向国は熊襲の勢力が強い地域であったと言うことが記載されているわけですが、この辺りは読まれましたか?--Tomzo(会話) 2013年9月8日 (日) 10:40 (UTC)

本当に君の性格の悪さがもろに出た文だね。 そもそも邇邇芸命の先祖は天神と言われるだけあってこれこそ神話と考えるべきだと言っているのそれも聞こうともしない。 「肥国は肥前・肥後(ほぼ現在の長崎県・佐賀県・熊本県)を意味します。」なんて誰が考えた? 地図を広げてみろよ。 九州中部と考えられるのはどうみても熊本と宮崎だろう? つまり昔は肥国は建日向日豊久士比泥別と呼ばれていてそれが日向と今の肥国に分かれたと見るのが自然だろう? 普通に見れば誰もがそう考えるのだが、それが行われたのが昔過ぎて誰も覚えていないだけだろう。 なぜか?それは天孫降臨の地が日向かいの国=現在の太平洋側の地域だからだ。 そして日陰の国の肥国に分かれた。 鹿児島にも当然太平洋側に面した地域があるので、熊襲と呼ばれるのは避けたいので日向国となった。 そう推測されてもいいだろう。 「十一月、到日向国、起行宮以居之。是謂高屋宮」となります(高屋宮は西都市あたりだろうと言われています) そうか?もっと先の地域も含くまれている事もお前は実は知っているんじゃないか? そもそも西都市も宮崎県内だし。 それにこれは悪いが鹿児島には曾於市というのがあるから、そこが熊曾の境界線に当たっていたと思うのが自然じゃないのか? つまり隣接しているので熊襲との交流はあったのは認めるが、それは他の国も同等で豊国や筑紫と交流があった。 いや日向の国がゆえに交流していた国はもっと多いのだが。 と言うわけでこれまで長年にわたり熊襲信者であるお前が日向国を事実と反して貶めて誹謗中傷し続けたのは明らかだ。 お前は神話時代に近いそれを一説とすべきだったのにそれをあたかも真実であるかのごとく吹聴した。 ここで改めて謝罪を要求する。--Nihon goddddd(会話) 2013年9月9日 (月) 03:33 (UTC)

あとおまえの頑固で聞く耳を持たない悪い性格を直しておれの時間を返せ。 どうしてお前は人の嫌がることを無理強いしようとするのだ?--Nihon goddddd(会話) 2013年9月9日 (月) 03:35 (UTC) 日向国の部分は自分で訂正してくれ。いい加減、お前の早とちりでいろいろな人に迷惑をかけていることに気がつけ。--Nihon goddddd(会話) 2013年9月9日 (月) 04:19 (UTC)

   ウィキペディアのルールに不慣れなようなので、ご教授いたします。
           ウィキペディアには、「Wikipedia:検証可能性」という公式な方針があり、「信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべき」とされています。そのことを第三者が確認することができるように出典(参考文献)を明記することが定められています。詳細は、「Wikipedia:出典を明記する」をご参照ください。Nihon godddddさんのご主張は、今のところひとつとして、きちんとした出典の記載がありません。そうでなければ、独自の研究と介されても仕方ない、即ち、ウィキペディアから除去されても文句は言えないとお考えください。
           また、ウィキペディアにおいて論争はつき物ではありますが、紳士的に論理を尽くしすすめることが望まれております。そのために、Wikipedia:礼儀を忘れないという、ごく当たり前のルールが定められております。「おまえ」という呼びかけは決して礼儀を踏まえた呼びかけではありません。
       今後も、ウィキペディアに継続して参加されたいとご希望であれば、少なくとも現在、Nihon godddddさんが守っていらっしゃらない、上の2事項をお守りいただけるようお願いいたします。
   さて、ここは私のユーザーページであり、私の編集態度一般に関し議論をするところです。日向国と熊襲の関係についてはノート:日向国に議論の場を設けましたので、そちらにご記載ください。当方としましては、議論の場を設けましたので、それを欠いて、従前のような編集をされるのは、ウィキペディアのルールに反するものと了解ください(すでに、Saigen Jiroさんも同旨の意見を表明されています)。以上よろしくお願いします。--Tomzo(会話) 2013年9月9日 (月) 14:16 (UTC)

当方のページでもう既に長い間議論し尽くしているのにまた別のページで話を蒸し返そうとする。 やり方が汚いしせこい。 礼儀や基本的ルールを欠いているのはそちら側じゃないのか?--Nihon goddddd(会話) 2013年9月10日 (火) 10:01 (UTC)--Nihon goddddd会話2013年9月10日 (火) 10:23 (UTC)[返信]

これまでのwiki関係者とのやり取り[編集]

思ったことを言わせて貰うと肥国とは国造りの神話の時には元は九州の中心で実は宮崎県は現在の熊本と一緒だったのではないかと考えている。 北と南で言えば丁度両県は同じ九州の中部に位置しているからだ。 単純に見ればそうなる。 それが天孫降臨で日向と肥国が分離して別国となり、、その後に同じ太平洋側に面する地域を持つ陸続きである鹿児島と合体した。--Nihon goddddd会話2013年9月6日 (金) 16:17 (UTC) 天孫降臨の地の高千穂なんで鹿児島とすぐに隣だ。 阿蘇にしても熊本にしても健磐龍命である神武天皇の孫が開拓している。 既に現在の日向市は縮小を重ねてもはや神武天皇が出向しただけの地であり、二つの高千穂にかぶりもしない、非常に経済規模が小さな市になっている。[返信]

そもそも古代の筑前、肥国、豊国、熊襲なんてどこが境界線なのかもわからない。 取りあえず日向国が熊襲とかないから。

しかし昔の文献を見ると悪いことをする乱暴ものを熊襲と読んでいただけの気がしないでもない。 特に時代が変化すると熊襲の居住圏は明らかに変化しているからだ。--Nihon goddddd会話2013年9月6日 (金) 16:15 (UTC)[返信]

自説の展開でなく、文献に基づく客観的事実の記載をお願いいたします。--Saigen Jiro会話2013年9月7日 (土) 04:06 (UTC)[返信]

あなたも悪意ある自説の展開でなく、文献に基づく客観的事実の記載をお願いいたしますね。いったいどれだけの人間に悪口を吹聴したのか?少しは反映して欲しい。自覚はないだろうが。--Nihon goddddd会話2013年9月7日 (土) 05:12 (UTC)[返信]

百科事典の記述を引用していましたが、確認して頂けなかったのですか?--Saigen Jiro会話2013年9月7日 (土) 05:38 (UTC)[返信]

古文書でもない百科事典の編集者の意見が客観的な事実なのですか? さすがwikiですね。 それは普通はある一説と呼びます。--Nihon goddddd会話2013年9月7日 (土) 07:15 (UTC)[返信]

簡単な話、Nihon godddddさんが思っていることと同じことが書いている書籍を、出典としてつければ終わる話です。つけないで編集をするから差し戻されるのです。日向国について最も信頼性のある書籍は『宮崎県史』か『宮崎県の歴史』でしょうか。ただ双方ともNihon godddddさんが期待されるような内容は載っていないかと。--Sanjo会話2013年9月7日 (土) 07:27 (UTC)[返信]

いや、元々そんな不届きな事を考える者は戦前いなかっただけでしょう。戦後にGHQの指導の元に某府県出身者などによって日向国が貶められただけでしょう。 なんせ天孫降臨の地ですから、これはいい機会と貶められただけです。その中傷誹謗者やGHQの幹部の多くはもう死んでいますから、中傷誹謗者が生存中に--~編集されたものを出されても困ります。--Nihon goddddd会話2013年9月7日 (土) 07:56 (UTC)[返信]

科学的立場でなく文献至上の立場からこれまでの古代史学の成果を無に帰したいようですが、残念ながらそれはwikipediaのルール上行うことができません。百科事典の記述を信用されないのはご勝手ですし、出典を挙げないのもご勝手ですが、それらもwikipediaのルールには反しております。ご主張の件はwikipedia外、例えばご自身のブログ等でおっしゃられることをお勧めいたします。--Saigen Jiro会話2013年9月8日 (日) 04:41 (UTC)[返信]

言われなくてもwikiには書いていないでしょう?わかりませんかね?ここで会話だけにとどめている理由が?それに古代史学の成果を無にしようという考えはないですよ。ただ戦後の記紀に対する行き過ぎた悪い偏見は改善させようと思っています。この部分においては少し衝突するでしょうね。--Nihon goddddd会話2013年9月8日 (日) 05:01 (UTC)[返信]

なるほど。ですが出典のある文を除くこともまたルールに反する行為で、自説の展開に類する行為です。結局のところ、出典のある文よりも有力な出典をもって覆い被せて頂ければ、それで十分なのですが。
あと少し疑問ですが、記紀だけを読んで見ますに国生み神話で「日向」は表れていないのですから、ご主張のように肥国から日向が分離したという解釈もできれば、熊曾国から日向が分離したという解釈もできるのではないでしょうか。--Saigen Jiro会話2013年9月8日 (日) 06:18 (UTC)[返信]

古事記を見れば肥国は建日向日豊久士比泥別と呼ばれていてそれが日向と今の肥国に分かれたと見るのが自然でしょう。 熊曾国から日向が分離したと言う考えは日向と鹿児島が合併した時期があったので少し混乱した人が考え出したのでしょう。 ただ熊襲とは隣接国なので当時は仲は良かったと思います。 とりあえずこちらとしてはどちらの説も同等に見て欲しいのです。 本来ならこちらが正しいと言いたいのですか。 それと聞く耳を持たずに自説を強引に頑固に主張したTomzoには謝罪をして欲しいですね。 こいつのせいで長年にわたりおかしな説が真実であるがごとく吹聴されたのですから。 そもそもこいつの主張にはよく読めば矛盾があるのはわかるはずでしょう。--Nihon goddddd会話) 2013年9月9日 (月) 03:48 (UTC)--Nihon goddddd会話2013年9月10日 (火) 10:19 (UTC)[返信]


(補足:もかめーるさんにより下に節が立てられましたので、勝手ながらこの議論にも節立てをいたしました。節名がお気に召さなければ修正して構いません)
少し前向きの議論になり、ほっとしております。さて、これまでの議論を踏まえておうかがいいたしますが、Nihon godddddさんは「独自研究は載せない」というwikipediaの方針をご存知でしょうか。wikipediaでは執筆するにあたっては、自分ではない他者による発表資料(論文や書籍等)に基づいた記述をすることが求められています。各編集者は匿名での活動になりますので、たとえ高名な学者さんであっても出典のない記述は独自研究とみなされてしまいます。そして残念ながら、今回Nihon godddddさんからは、そのような解釈が発表された二次資料(記紀は一次資料)の提示がないのです。
今回の件で、私は熊曾が正しいと断定する気はありません。ノート:日向国でも述べましたが、所詮神話ですので様々な説があることは承知しております。そしてそれらの説を列記することがwikipediaで推奨される振る舞いです。今回「どちらの説も同等に見て」もらうためにNihon godddddさんが取るべきだった行動は、1説を除くことでは無く、「日向は肥国にあたる」という他説に出典を付記することだったはずです。にも関わらず出典の記載された1説を除く行為はルール違反です。ルール違反の行為から違反前の状態に戻したTomzoさんの行為は正当だったと私は思います。その後の議論については、宙に浮いておりますので私からは何も申しません。
さて「どちらの説も同等に見る」ためには、その説を主張する文献も同等でなくてはいけません。
  • 肥国の出典の信頼性が高いならば、「国生み神話では…。のちの日向国はこのうち肥国にあたるとされる(ただし熊曾国とする説もある)」
  • どちらの出典も同等ならば、「のちの日向国はこのうち肥国または熊曾国とされる」
  • 熊曾国の出典の信頼性が高いならば、「のちの日向国はこのうち熊曾国にあたるとされる(ただし肥国とする説もある)」
になることでしょう。繰り返しますが、要は「日向は肥国にあたる」と書いてある、『宮崎県の地名』以上の信頼性のある出典の提示をお願いいたします。
なお補足しますが、学者さんが「建日向日豊久士比泥別」を見落とすはずもなく、「筑紫国 = 白日別」「豊国 = 豊日別」「熊曾国 = 建日別」ということから、肥国の「建日向日豊久士比泥別」は、「建日/向日/豊久士比泥別」と区切るものと考えられていますよ([1]参照。なおこのリンク先に目的の資料の例示がありますが、私は実際に見ていませんので、私からは提示できません)。-Saigen Jiro会話2013年9月9日 (月) 11:18 (UTC)[返信]

「建日向日豊久士比泥別」は、「建日向/日豊久士比泥」でしょうよ、なぜにいきなり意味もなく肥国が3等分されなければならないのです? 説明に無理がありすぎますね。 それに3等分なら3文字づつで「建日向/日豊久/士比泥」でしょう? それにこの説明なら日向国の名前の謂れもわかるというもの。

百歩譲って「建日/向日/豊久士比泥別」が仮に正しいとしてもこれもまた「熊曾国 = 建日」ですから、肥国の中に同じ建日があったと言うことになり これまた肥国は元々日向国の残り半分であったと言うことの証明にしかならないのです。つまり私の説の証明の補佐にしかなっていないのです。--Nihon goddddd会話2013年9月9日 (月) 14:21 (UTC)[返信]

「宮崎県の地名」なんて戦後の混乱期にGHQより選抜された者らが監修したものでそんなの信用する方が私に言わせればおかしいですね。 いつまで戦後を引きづっているのかと言いたい。 GHQにより日本書紀や古事記に精通してそれを主軸にする学者連中が戦後は一掃されて、津田らの日本書紀や古事記軽視派が表舞台に上がってきた。 そんな連中が書いたものを素直に認めることなんか出来ないでしょう。 実際に俺は記紀原理主義者なんていわれているのだから、その真意がわかると言うもの。 一辺にはこの津田らの日本書紀や古事記軽視派を排除することは出来ないが、もうGHQもなくなり 戦後50年以上も経過している。反日本書紀派もやがてあっという間に目減りしていくでしょう。 今後は一日一回しか見ないのであしからず。--Nihon goddddd会話2013年9月9日 (月) 14:06 (UTC)[返信]

「建日向日豊久士比泥別」の説明に対してはそういう考えもあり、貴方が理解できなくても学者さんには残念ながら支持されていることをお伝えしたまでです。どういう意図を持っておられようが構いませんが、出典を出して頂かないとwikipediaの記述は変えられませんよ。--Saigen Jiro会話2013年9月9日 (月) 14:19 (UTC)[返信]

意見を付け加えたのでもう一度読み直してくださいね。ある程度の理解力があればの理解できるように書いています。--Nihon goddddd会話2013年9月9日 (月) 14:27 (UTC)[返信]

解釈を決定するのは我々ではなく学者さんの役割です。定説を覆したいのでしたら、学会でなさって下さい。--Saigen Jiro会話2013年9月9日 (月) 14:39 (UTC)[返信]

ついでに「建日向日豊久士比泥別」がもし長ったらしい形容詞で肥国を褒め称えているのなら、それも天孫降臨の地(日向)を遠回しにここで褒め称えているのかもしれないと推測することが出来るでしょう。 結局は肥国は日向と肥国に別れたと見るのが妥当で、その時期も瓊瓊杵尊の天孫降臨の時に日向国は出てきますから、かなり以前の事になります。 その後の日向国も合併と分離を何回も行っていたと推測できます。 そもそも戦後GHQの後に出てきた学者の意見なんてあてになりませんね。 それに戦後GHQの後に出てきた学者も自説を断言はしていないのですから、それを事実であるかのごとく主張するのはおかしいと思いますね。 熊襲の居住地も刻々と変化をしています。--Nihon goddddd会話2013年9月9日 (月) 15:38 (UTC)[返信]

少なくともwikipediaではそうと認知されておりませんので、あしからず。ここで伝えるべきことはあらかた伝えましたので、ここでの議論はもう充分でしょう。ページ本文の記載がどう変わるか、期待しております。--Saigen Jiro会話2013年9月10日 (火) 01:25 (UTC)[返信]

ここで私も話はを終わりかな?と思ったところで出てきたのが熊襲信者のTomzoでした。 こいつの見栄や偏見のためにまた荒れますね。--Nihon goddddd会話2013年9月10日 (火) 11:10 (UTC)[返信]

信頼のできる出典のある記事の根拠を示すことのない除去について[編集]

本項の参考となる情報で、『日本歴史地名体系 宮崎県の地名』(平凡社 監修者:野口逸三郎宮崎女子短期大学学長)という、信頼性の高い書籍を出典とする記事が、なんらの根拠なく繰り返し除去されます。この箇所が虚偽であるとするならば、それを証明する出典の提示を以って書き換え等を行うべきであり、単なる除去は、ウィキペディアのやり方(Wikipedia:出典を明記するなど)にふさわしくありません。『日本歴史地名体系 宮崎県の地名』に記された内容に問題あると判断したのであれば、ここで議論したうえでの修正をお願いします。--Tomzo会話2013年9月8日 (日) 10:45 (UTC)[返信]

(補足:これまで本件については、利用者‐会話:Nihon goddddd利用者‐会話:Tomzoにおいても議論がなされております)
私は削除された当該項目の執筆に関係した者です。私からも出典に基づいた建設的な議論をお願いいたします。本件は、国生み神話に記される「熊曾国」に日向地域が含まれるのかどうかという事項でありますが、所詮神話ですので、神話の解釈には様々な説があることは承知しております。そしてwikipediaで取るべき姿勢は、それらの説を除くことではなく、1つ1つ紹介することです。
出典ある文章を削除する場合、より有力な出典の提示が必要ですが、現在はまだ1つも提示がなされていない段階です。本件は記紀の様々な解釈を踏まえた三次資料の扱いに対する問題ですので、記紀(一次)でなく二次・三次資料の出典に基づいた議論をお願いいたします。--Saigen Jiro会話) 2013年9月8日 (日) 13:58 (UTC)--(加筆修正)Saigen Jiro会話2013年9月8日 (日) 14:09 (UTC)[返信]

当方のページでもう既に長い間議論し尽くしているのにまた別のページで話を一から蒸し返し、更にややっここしく複雑にしようとする。 やり方が汚いしせこいですね。

さすが人を記紀原理主義者と言うだけありますね。 君だけが人に失礼な発言をして許されるのかな?--Nihon goddddd会話2013年9月10日 (火) 11:05 (UTC)[返信]


Tomzo発言「私は、大和朝廷から独立した熊襲族が自由闊達に緑多い南九州で活躍していたということのほうにロマンを感じます。」

自分の主観を人に押し付けようとしているのは君のほうだろ?

礼儀や基本的ルールを欠いているのはそちら側じゃないのか?

それにその福岡出身のもう既になくなっている人間の主張なんて半分憶測でそれも絶対に正しいとはいえない。 その事実が理解できているのか?--Nihon goddddd会話2013年9月10日 (火) 10:09 (UTC)[返信]

テーマに沿った議論[編集]

重要な議論として、古事記国生み神話における「次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。」の記述において、日向国はどこに含まれるかということがあります。なお、この箇所は勿論神話ではありますが、古事記執筆当時の地理感覚の反映と考えてよいかと思います。

私の主張は、筑紫国は後の筑前・筑後(ほぼ現在の福岡県)、豊国は豊前・豊後(ほぼ現在の大分県)、肥国は肥前・肥後(ほぼ現在の長崎県・佐賀県・熊本県)を意味する。最後に残った宮崎県と鹿児島県であり、それが「熊曾国」であり、宮崎県と領域をほぼ一にする日向国は「熊曾国」に含まれる。なお、薩摩国・大隅国は日向国から分離されて成立しており、この、「熊曾国」は最初におかれた日向国の領域に一致する、というものです。Nihon goddddd氏の主張は、日向国は肥国に含まれるというものかと考えます。

私は、肥国に日向国は含まれていなかったと考えます。根拠は、以下の記述が信頼に足ると考えるからです。

  • 肥前・肥後を合わせた地域の古称。火国とも書かれた。『肥前国風土記』『肥後国風土記』(逸文)に、肥前国(ひのみちのくちのくに)は肥後国(ひのみちのしりのくに)と合わせて一国だったとある。『古事記』の大八島生成神話には、筑紫島を「筑紫国」「豊国」「肥国」「熊襲国」の四国から成るとし、『日本書紀』の安閑紀に「筑紫」「豊」「肥」三国に分けて屯倉(みやけ)を置いたという記事がある。七世紀末から八世紀初頭にかけての律令制による国郡の成立によって、肥前・肥後の両国が分立した。なお、火国は広義には肥前・肥後の両国の意もあるが、肥後国をさすのが一般的である。(以下略 以上、中村明蔵「肥国」(『国史大辞典』(吉川弘文館、1985年) ISBN 4-642-00505-6)より)

国史大辞典は、日本史用語の参照にもっとも信頼に足るとされているものですが、その方法論は『肥前国風土記』『肥後国風土記』(逸文)を原典とし参照したものです。肥国は肥前及び肥後に別れた(それ以外に令制国は誕生していない)とすれば、肥前又は肥後に日向国が含まれていたという事実があったかということになりますが、これは、令制国を構成する郡が記載される延喜式などを参照すれば、否定できる事実です。

以上、出典を明記し説明させていただきました。--Tomzo会話2013年9月10日 (火) 18:21 (UTC)[返信]

まず「出典のある記事の根拠を示すこと無く除去」することは当然ですがやるべきではありません。「信頼のできる出典」かどうかは結構難しいですが、本文中に出典名を明示的にあげて、『日本歴史地名体系 宮崎県の地名』によると熊曽国(熊襲)がのちの日向・大隅・薩摩3国の領域とされる、といった書き方をしておけば良いのではないでしょうか。
次に、肥国説を採用するか否かに関してですが、肥国の「建日向日豊久士比泥別」は、「建日/向日/豊久士比泥別」と区切るものと考えられているとの根拠として、上でSaigen Jiroさんがあげられている文献([2])は、日向が肥国から分かれたという説に反論することを目的として書かれたものです。『日向国(宮崎県)は古くは「肥国」の一部であったのではないかとする考えがかなり広く支持されているようである。』とあり、それを支持する資料として、伊藤清司・松前健編『日本の神話3 天孫降臨』等があげられています。他方、熊襲国説を採用する文献は多数あるようです(岩波書店発行『日本古典文学大系新装版 日本書紀』等)。これだけでは肥国説と熊襲国説のどちらが主流かは分かりませんが、並列記載、すなわち「日向国は熊襲国から分かれたとする説(文献)と肥国から分かれたとする説(文献)」と記載するのが現時点では妥当なような気がします。本職の研究者の方がこの記事を見る機会があり、どちらかの説が明らかに優勢であれば、適宜修正していただける可能性もありますし。私自身は海外在住のため『日本の神話3 天孫降臨』を閲覧できず、内容を確認できないためこの記事の編集はできませんが。--Hkusano会話2013年9月11日 (水) 12:36 (UTC)[返信]
私からも。信頼性の低い本ではありますが、新人物文庫の「謎解き散歩シリーズ」のうち『宮崎県謎解き散歩』の記述には、4つの国を挙げた上で「この段階では、日向国の存在は示されない」とした上で『「建日別」(勇敢な日の男性)とする熊曾国がその前身となり、最も「日」を象徴する国として、「日向」が浮かび上がる』としています(pp. 89-90、北郷泰道氏執筆。北郷泰道氏は宮崎県埋蔵文化財センター所長で、日向の郷土本を多数書いておられる方です)。熊曾国説はよく出てくるのですが、肥国説が見つけられませんね。やはり『日本の神話』を参照しなければいけないですかね(できる限り善処します)。Hkusanoさんの提案通り、併記でも私は構いません。
(話は変わって以下は私見です) 説の有力性の判断材料として、三次資料を挙げることはできないのでしょうか。二次資料は信頼性こそ高いですが、列記しても説の有力性の議論が難しいです。結局、編集者の主観に頼ることになってしまいませんか。一方、百科事典等の三次資料やこうした一般向けの公式めいた本の場合には信頼性は低くなりますが、私はこういった書籍にこそ有力性があると考えております。なぜなら、多くの二次資料を把握した上で、大衆に「今の主流」をわかりやすく伝えるのがそれらの本の使命だからです。wikipediaにはこういう考えは「笑止」でしょうか?--Saigen Jiro会話2013年9月11日 (水) 13:51 (UTC)[返信]
答えにはならないかもしれませんが、自分の頭の整理のために。
まず、記事「資料」を参照して、定義を確認します(歴史学限定)。一次資料:原典(今回例:古事記・日本書紀・風土記など)。但し、それを基に作られた書籍は、基となった写本の問題があるにせよ、一次資料に準じて扱ってよい(と思う。純粋な歴史学上はこれらは一次資料(史料)とは言わないらしい。そうすると、古事記等の研究はそもそも一次史料によることはできない)。二次資料:一次資料をもとに解釈等を加えた後世の編纂物(今回例:古事記伝)、いわゆる学術論文の多くをここに含んでもよい、また、学術論文の著者がそれら論文を元に編著した書籍類を含んでも良い。三次資料:一部は一次資料を参照するにせよ、主に、二次資料を参照し編纂された教科書や事典。
で、結論から言えば、三次資料による記述は認められてしかるべきだと思います。というか、これを認めないと、ウィキペディアはほとんど記載できなくなるんじゃないでしょうか。
二次資料であっても、いわゆるトンデモ系の人の著作はあるでしょうし、三次資料でも、多くの学術論文(二次資料)の著作で信頼され、教科書や事典の編纂に携わった人の記述は、信頼性の面においてウィキペディアで歓迎されるべきものでしょう。
そういう意味では、結局、「誰が書いたか」の問題で、それが、「出典を明記する」の意味合いなのだと思います。
とはいえ、いくら出典があるといっても、世の『定評』には自ずから差異があり、あたかも、同列で議論されているように並べるのはちょっと抵抗がありますね。法律学でも、順番に通説・有力説・一部学説(・異端)という価値判断をして記述するのが一般的です。このあたりの記述は何が通説で何がそうでないかという価値判断だけで議論を巻き起こしがちでしょうが、明確に記述しておいたほうがいいと考えます。例えば、日本の歴史学においては国史大辞典(吉川)や日本史広辞典(山川)の記述をスタンダードと考え、「それに対して~なる説が、~を根拠として~により唱えられている」という記述が誤解を最小限に止める記述ではないでしょうか。--Tomzo会話2013年9月14日 (土) 00:20 (UTC)[返信]
丁度日本に出張中なので、図書館で国史大辞典、日本史大事典、日本大百科全書、日本地名大辞典、宮崎県大百科事典を閲覧しましたが、「日向国」の項目で熊襲国説、肥国説ともに記載されたものはありませんでした。確かに国史大辞典には肥国が肥前・肥後に分かれた旨の記載はありますが、「熊襲国」の記事はなく、また「熊襲」の記事でも日向国との関連を示すような記載はありません。これら3次資料は律令制の日向国の成立からの記載に留まっており、従って執筆者はそれ以前に関しては重要度が低いか、あるいは定説が無いと判断したのではないかと思われます。
これら3次資料と同様に、記事の本文は律令制の日向国の成立から始め、熊襲国説か肥国説は記事中に項目を立てて議論したらどうでしょうか。--Hkusano会話2013年9月15日 (日) 04:18 (UTC)[返信]
調査に感謝申し上げます。私が確認したのは『国史大辞典』のみですが、スタンダードの本が言及を避けているのは考慮しないといけないと私も感じました。私の意見としては、歴史的事実と神話は分離すべきなので、神話→歴史と言及する現在の節立ての構造はそのままで良いのではないかなと思います。本文については「4国が記載されているが日向に関する記載はない」として、そこに注釈でここで議論した内容をTomzoさんご指摘の文法で載せれば良いのではないでしょうか(さほど重要な内容と思えませんし、量が増えたら項目を立てたら良いかと)。少なくとも「熊曾国とされる」と断定した今の記述は(私が書きましたが)、オブラートに包むか明示しないという処置の必要がありそうです。
(補足) 一応確認したので記載しますと、西宮秀紀氏の「記紀神話における日向」(『日本の神話 3』pp. 136-137)を参照しましたが、「建日向日豊久士比泥別」を根拠として説を主張されていました。『古事記』本文の文言を根拠とする以上、先に私が挙げた[3]で指摘されているように、古くからある説と考えられます。にも関わらず『国史大辞典』肥国項に言及がないことから、「肥国ではない」は通説と考えられます(「熊曾国である」ことについての言及はないことは別の問題として)。--Saigen Jiro会話2013年9月16日 (月) 04:06 (UTC)[返信]

先代旧事本紀では肥国は「建日向日豊久士比泥別」が分割されて日向国と共にはじめから出てきます。その他の文献にもその考えは出てきます。 時期から判断すると肥国説こそが以前からあった定説と言うことになります。

Saigen Jiro|Saigenさんも参考にしてください。昔からこの考えはあったのです。 アクセス禁止処分を受けたので内心は不愉快ですが、そういう資料も現存します。 wiki編纂もいいのですが、間違いを書かれると不愉快に思う人がいることを覚えて置いてください。

あともし資料を重視するのなら、天孫降臨の場面で記紀両方に日向国の記述が出てきます。 熊襲国説か肥国説は以前から二分されていたのでどちらとも記載すべきでしょう。 どちらにも確たる証拠がないので今のところはどちらが一方が正しいなどという事は出来ないでしょう。--Nihon goddddd会話2013年9月20日 (金) 18:14 (UTC)[返信]

神話の解釈、しかも記載がないものの解釈というそもそも根拠のない対象を扱っていますので、このままでは議論の着地点が見えません。先の提案、すなわち「本文では文献の記載のみとし、あえて記さない」が最善の議論の着地点のように思えます。脚注が肥大しすぎた場合、Hkusanoさんが提案された別項の扱いとすれば良いでしょう。
古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国豊国肥国熊曽国が見えるが、日向の記載はない[a 1][a 2]。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では筑紫国豊国肥国日向国の4面を挙げている[a 3]。 (脚注)
  1. ^ 『古事記』神代記。
  2. ^ 日向の扱いには肥国説と熊曽国説がある。肥国説では、肥国の名「建日向日豊久士比泥別」に基づいて日向を含むと見る(西宮秀紀「記紀神話における日向」(『日本の神話 3 天孫降臨』(ぎょうせい)pp. 136-137)等)。一方熊曽国説では、筑紫国(筑前国・筑後国)、豊国(豊前国・豊後国)、肥国(肥前国・肥後国)として、残った日向・大隅・薩摩3国を熊曽国と見る(『日本歴史地名体系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27等)
  3. ^ 『先代旧事本紀』神代本紀。
『先代旧事本紀』の解釈については、その他の文献でも出てくるということなので、その文献を例示して頂き、それに基づいて脚注に加筆しましょう。--Saigen Jiro会話2013年9月21日 (土) 15:29 (UTC)[返信]
報告 先の提案からお二方から一週間異論がなく、Nihon godddddさんの言う両論併記も脚注内で満たしていますので、上記の内容で修正いたします。--Saigen Jiro会話2013年9月25日 (水) 14:40 (UTC)[返信]

本文をどうするかとは別に、本居宣長の『古事記伝』ではどうなのだろうかと調べてみたら、北半分は肥国の一部であり、それが分かれて日向とよばれることになり、さらに熊襲国が領域に含まれた大国になり、その後大隅・薩摩が分かれたという説をとっていますね。現代語訳の該当ページへリンクを張っておきます[4]。ちなみに宣長は肥国はもともと肥後のみをさしており肥前は筑紫の一部であったと考えています。--Hkusano会話2013年9月27日 (金) 19:34 (UTC)[返信]

移植における問題点[編集]