ノート:慶光院

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永光院との関係について。[編集]

徳川家光の側室であった永光院(お万の方)が「慶光院の院主だった」との記述が本記事と永光院に記述されていますが、事実でしょうか?

曖昧さ回避となっているものを記事化すること検討して「伊勢市史」などで慶光院について調べたものの、そうした記述がまったく出てきません。第2版で曖昧さ回避化された際に「お万の方(永光院)が6代門跡を務めていたことで著名」という記述がなされていますが、同時に「建物のみ伊勢神宮境内に現存」とも書かれており(慶光院があるのはおはらい町の中、神宮道場の真正面)、史料をあたって書いたのではないように思われますし。

慶光院の住持は守悦に始まり15名。12名までは名前の記録があり10名は入寂した期日まで残っています、6世周宝は寛永17年5月5日卒とされ、正徳元年10月11日に没したとされる栄光院と整合しません。他の住持も同様。一応、もうちょっと調べてはみるつもりですが、記事化より先にこの部分は除去しておく必要がありそうに思われるため、まずは要出典範囲で括っておきます。--KAMUI会話2012年11月10日 (土) 22:03 (UTC)[返信]

時間がないのであまり当たっていませんが、『徳川将軍家墓碑総覧』(秋元茂陽、2008年、バレード、83頁)には慶光院の住職であった旨が書かれ、コトバンクの『朝日日本歴史人物事典』の「お万の方」の項にも慶光院に入って跡目の御礼のために登営した旨が書かれていますので、6代かどうかは分かりませんが、院主であったことは事実ではないでしょうか。今放映されているTBSの『大奥~誕生』のホームページにも書かれていますし、エピソードとしては有名な気がするのですが。もちろん、良質な二次資料の出典があるに越したことはありませんが。--立花左近会話2012年11月12日 (月) 00:41 (UTC)[返信]
「有名なエピソード」であることは承知してますが、記事化の下調べとして『伊勢市史』2巻の中世編と7巻の文化財編にざっと目を通したものの、このエピソードに関してまったく記載がないんですよね。『伊勢市史』が慶光院に関して書く場合、当然ながら伊勢神宮側の史料(慶光院文書など)を元にしている筈なのに。
『伊勢市史』での慶光院歴代住持に関する一次史料は『内宮権任物忌内人家系』『内宮職掌家譜』というものらしいのですが、元の文書が(例えば「将軍側室になった」という理由で)意図的に書き落としていたとしたら、逆に「慶光院に関する記述」だけで50ページほどある市史でまったく触れないのは考え難いと思うんですよ。そもそも立花さんが挙げられたコトバンクを含めて「慶光院の院主から側室になった」という記述は見つかるものの、法名が出てこない。これが解ればもう一寸調べられそうな気はします。--KAMUI会話2012年11月12日 (月) 09:42 (UTC)[返信]
永光院春日局に出典を付けました。調べたうちの一部にとどめましたが、他にも『日本史大事典』第二巻(1992年、平凡社)、『徳川家光』(藤井譲治、1997年、吉川弘文館)、『徳川・松平一族の事典』(2009年、東京堂出版)、『徳川妻妾記』(2003年、雄山閣)などに記載があり、事実かどうかはともかく検証可能性は十分満たすと思われますので、記述の除去はすべきでないと思います。一方、慶光院については、寺としての慶光院の方を調べてみると、『国史大辞典』、『日本史大事典』、『日本名刹大事典』などの「慶光院」の項目に永光院のことが全く載っていないのは『伊勢市史』と同様であり、矛盾するようですが、こちらには永光院が院主であることは載せておかない方がいい気がします。なお、今回調べた限りでは6代としたものはなく、『徳川・松平一族の事典』と『徳川妻妾記』が何に拠ったのかともに17代としていました(いくらなんでも代数が違いますし、15人しかいなかったとすればおかしいのですが)。法名も慶光院以下は不明です。
異説としては、『女たちの徳川 伊勢上人・熱田上人・千姫・お亀の方』(鬼頭勝之、2010年、ブックショップ・マイタウン)に、家光は伊勢上人(慶光院)と同道した役者寺院(寿量院・慈徳院)の尼を見初めて還俗させ側室にしたというものがありましたが、これを信頼できる情報源としていいものかどうか判断がつきません。いずれにしても、永光院が慶光院の院主であったことに疑問を呈するには、『伊勢市史』等に載っていないというだけでは不十分で、そういった記述のある信頼できる情報源による出典を見つけない限り、独自研究になってしまうと思います。--立花左近会話2012年11月13日 (火) 15:11 (UTC)[返信]
個人的には異説の方がありそうな気がしなくもないですが、出典としては弱いと思えるので「慶光院の方には書かない」のが落としどころですかね。唐突に「慶光院の院主が徳川家光の側室になったとされるが、慶光院側の史料には無い」とか書くのもなんですし。
「17代」に関しては単なる誤記という気もしますが、慶光院は室町時代の創建と伝わっており「守悦は中興」という説もあるので、そのあたりから来ている可能性も・・・ただ、守悦以前の住持については記録が無いですし(辛うじて守悦が師事した尼僧の名前は残ってるようです)、現在の慶光院(伊勢神宮)では「初世は守悦」としています。慶光院が寺の名前になったのは慶長年間、現在地に移ってからのようですが、旧名は解らないというのがこれまた・・・
なお、慶光院○○という呼び名は3世清順が後奈良天皇から「慶光院」の勅願を賜って以降、歴代住持が皆そう呼ばれているようで、遡って初世の守悦をそう呼んでたりもします。「伊勢上人」「遷宮上人」なんかも同様ですね。--KAMUI会話2012年11月13日 (火) 23:55 (UTC)[返信]

インデント戻します。もう一寸手を入れられそうに思わないでもないですが「慶光院」について記事化しました。永光院については記述していません。合わせて初世の守悦を立項、3世清順について出典付き改稿しています。--KAMUI会話2012年11月22日 (木) 22:04 (UTC)[返信]

『徳川諸家系譜』の「柳営婦女伝系」に関連する記載があるようです。メモっとく。--KAMUI会話2012年12月30日 (日) 11:24 (UTC)[返信]