ノート:徳川義崇

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『金鯱叢書』について[編集]

(伊佐坂安物さんあて)「明かに独自研究」とされていますが、上で「WP:RSに規定されている「常識的感覚」により編集者が「信頼できる情報源」に基づく情報かを判断すべきことだと思います。」と言及しており、WP:RSに沿った判断と考えています。学会誌とは性質の異なる雑誌なので、Authorshipについて中立的な判断がされていることを疑うことが独自研究だとは思いません。それに、Wikipediaに、「著者・編者にクレジットされている文献は全て列挙してよい・しなければいけない」という決まりがあるわけでもない、と思いますから、あまり参考にならない文献は、記事に記載しなくてもいいのではないでしょうか。読者にとっては、その方が望ましいと思います。むしろ、伊佐坂さんの「(とにかく編者としてクレジットされているのであれば、全て)通常記載すべき」という主張について、特に論拠を示されていない、と思いますので、論拠を示していただけないでしょうか。--2016年12月26日 (月) 15:50 (UTC) 署名訂正--宇井木辺出夫会話2016年12月26日 (月) 15:54 (UTC)[返信]
(宇井木辺出夫さんあて)私は「常識的感覚」に照らして書誌情報を信頼できる情報源だとみなしました。Quark Logoさんも同様だと思います。また、Quark Logoさん、伊佐坂、そしておそらくtail_furryさんの3名は、『金鯱叢書』について、参考になる情報であると判断していると思います。論拠としてましては、researchmapなどのサイトを見ても、その研究者が編集に携わった書籍名は、通常、すべて掲載されていることが挙げられると思います。なお、可読性については、竹内誠; 徳川義崇編 『史学美術史論文集』第33-39輯巻 徳川黎明会・思文閣出版のように一行にまとめるなどすれば、問題はないでしょう。--伊佐坂安物会話微修正--伊佐坂安物会話2016年12月26日 (月) 16:22 (UTC)[返信]
コメント tail_furryさんはこの編集[1]で『金鯱叢書』を差し戻していないので、必ずしも「必要」とは考えておられないと思います。それはさておき一行表示であれば、Authorshipの話を除いてはあまり問題は感じないです(良い案だと思います)。Authorshipの話に関しては、下でKoshi2016さんへのご回答とあわせてご説明します。--宇井木辺出夫会話2016年12月27日 (火) 16:45 (UTC)[返信]
コメント こんにちは。ボクは『金鯱叢書』については、ボクの会話ページ[2]Wikipedia:出典を明記するにもありますが、読者がさらに調べるときの参考になるを守るために、何も執筆していなくても関わっているのであれば除去するべきではないと思いますが。と書いたように、掲載した方がいいのではないかという立場です。宇井木辺出夫さんが指摘している差分で『金鯱叢書』を差し戻していないのは、自分で把握している『日本でインターネットはどのように創られたのか?』については確実に差し戻しはできるけど、『金鯱叢書』については実物を自分で確認していないため差し戻すのに自信がなかったのと、編集について見解が分かれていたので第三者の手が入るまで記事にあまり手を入れない方がいいのではと思ったためです。--tail_furry会話2016年12月28日 (水) 02:36 (UTC)[返信]
コメント  『金鯱叢書』は、「学会誌とは性質の異なる雑誌」とする根拠は何なのでしょうか。知りたいところです。
『金鯱叢書』は、徳川美術館によると、研究紀要との説明があります。紀要とは、出典に基づけば『大学や学会などに提出された論文や研究発表を掲載する機関誌に紀要という語が多く用いられている.実際には論文だけではなく,会議の記録や報告なども掲載されていることが多く,学術報告や研究報告の色彩が強い.』(図書館情報学用語辞典)ものです。また、徳川美術館でも、『金鯱叢書』は『学術調査の成果や研究論文、文化財の修理報告などを収録』したものと説明しています。学術的な論文集と判断できます。また、国立国会図書館・レファレンス協同データベースにおいて、何度も紹介されており、その重要性は認められることから、本件に加筆するだけの特筆性に問題はないでしょう。--湖紫陽会話2016年12月26日 (月) 20:39 (UTC)[返信]
コメント 追記 『金鯱叢書』は、雑誌ではなく年1回刊行される書籍です。 --湖紫陽会話2016年12月26日 (月) 20:39 (UTC)[返信]
  • WP:RS#独立した二次資料とは?では「独立した二次資料」について、編集者の監視や、事実の検証プロセスを経ていることなどが挙げられています。学会誌を「信頼できる」とするのは、独立した機関が雑誌の内容を(Authorshipも含めて)監視や検証が行なわれていて、いい加減なことが書かれていないだろう、と推定できるからだと思います。しかし、WP:RS#自己公表された情報源では、自己公表されていて、独立した事実の確認を受けていない情報源には注意が促されています。それは、独立した観点からの監視・検証のプロセスを経ていなければ、公表元となっている企業や組織が、自分にとって都合のいい情報を記載してしまうと考えられるからです(別に非難しているわけではなく、そういう傾向はあるものだろうと思います)。Koshi2016さんは「紀要」の語に関して一般的な定義を引用されていますが、WP:RSでは、同じ「紀要」でも、「独立した二次資料」なのか「自己公表された情報源」なのかによって、取扱いを変えることが求められていると思います。それで私は「金鯱叢書」は「自己公表された情報源」にあたり、尾張家の当主を編者にしていることについて、信憑性に問題があると推定しています。--宇井木辺出夫会話2016年12月27日 (火) 16:45 (UTC)[返信]
  • コメント それでは、これまで、皆さんがあげた根拠を覆すだけの、「信憑性に問題ありとする」根拠を示してください。それができない限り、宇井木辺出夫さんのご意見は認められないでしょう。
  • また、これまで、宇井木辺出夫さんがあげる「企業や組織が、自分にとって都合のいい情報を記載してしまうと考えられる」危険性があるとするのであれば、これまで宇井木辺出夫さんが数多く上げた出典(HP、機関による刊行物)もそれに含まれるでしょう。ご自分で問題あり考えるのであれば、自治体や大学、研究機関からの刊行物は認められないものとなります。宇井木辺出夫さんは、ご自分であげた出典の整理と手直しの対処を早急に行う必要があるでしょう。--湖紫陽会話2016年12月27日 (火) 17:08 (UTC)[返信]
  • コメント 「これまでに皆さんがあげた根拠」とは具体的にいうとどの資料のことですか。WP:RS#自己公表された情報源には、「一般的に自己公表された情報源については、ほかの情報源が評価したりコメントしたりするまで待つのが望ましいです。」とありますが、「徳川義崇は『金鯱叢書』の編集をしている」と言及している二次資料が見つかっているのでしょうか。
  • 今までに私が書いた文章の中に、何か問題のある叙述があったのであれば訂正しますが、具体的にKoshi2016さんが問題にしているのはどの記事のどの叙述ですか。--宇井木辺出夫会話2016年12月27日 (火) 17:15 (UTC)[返信]
返信 宇井木辺出夫さんへ、皆さんのコメントを理解できてないようでは、話になりません。一度おやすみになり、よく読んでからコメントしてください。--湖紫陽会話2016年12月27日 (火) 17:23 (UTC)[返信]
  • コメント 上のKoshi2016さんの「皆さんのコメントを理解できてないという」記載も個人攻撃に該当すると思うのですがね。他人がコメントを理解できているとか理解できていないとか言及しなくても議論はできると思うのですが、どうして他人を見下すような物言いをされるのでしょうね。あと2点目は特に具体的な事例はない、ということでよろしいのでしょうか。--宇井木辺出夫会話2016年12月27日 (火) 17:48 (UTC)[返信]
コメント - 『金鯱叢書』は出典として表記されているわけではないので、情報源ではなく、従ってWikipedia:信頼できる情報源は関係ありません。自著でも自費出版本でも何の制限も無く、存命の人物の伝記に著作物等として表記できます。宇井木辺出夫氏が「信頼できる情報源」を持ち出すのは、まさにWikipedia:コメント依頼/宇井木辺出夫で指摘しているようにガイドラインを理解していないのか、でなければルールを悪用しているのかのどちらかです。
同じくコメント依頼にも書きましたが、我々が情報源としているのは、日本図書コードの情報であり、誰が見てもこれは信頼できる情報源そのものです。宇井木辺出夫氏は、何が情報源であり、何が記述内容なのかの定義すら理解していないという事なので、湖紫陽さんが言われているように、「皆さんのコメントを理解できてないようでは、話になりません。」というのは”常識的感覚”であり、正論です。宇井木辺出夫氏は信頼できる情報源か議論したいなら対象は日本図書コードであるということに気付いてもわらないと、話が全然かみ合いません。延々と間違った主張をしています。『金鯱叢書』はISBNで参照できることで、出典は明記されており、すでに最初から検証可能性を満たしています。よって最初から宇井木辺出夫氏による削除は不当だったのです。そもそも最初主張されたのは、情報源云々ではなく、徳川義崇が関わっていないという独自研究でした。次ぎに上のような議論を始めたわけですが、全然関係ないことでしかないです。
宇井木辺出夫氏については、ここのノートでも、Wikipedia:コメント依頼/宇井木辺出夫でも批判を受けていますから、間違った話を続けるよりも誠実に弁明をするように警告します。--Quark Logo会話2016年12月28日 (水) 01:22 (UTC)[返信]
コメント (宇井木辺出夫さんへ) 日本図書コードの情報だけで十分だと思いますが、もし裏付けが必要でしたら、『史学雑誌』120編第3号、2011年の「文献目録」では、『金鯱叢書』の編者の名前として徳川義崇氏の名前が記載されていることが挙げられます。『史学雑誌』は徳川義崇氏と無関係ですから、「独立した二次資料」であると考えられます。また、Ciniiでも徳川義崇氏は編者として扱われています([3])。これでいかがでしょうか。--伊佐坂安物会話2016年12月28日 (水) 01:43 (UTC)[返信]
コメント Quark Logoさんは、内容に立ち入って議論する前に、上の個人攻撃を除去していただけないでしょうか。大変不快に感じるのですが。他人の編集行為を云々する前に、優先的に遵守すべきWikipediaの方針を遵守していただきたいです。--宇井木辺出夫会話2016年12月28日 (水) 14:57 (UTC)[返信]
コメント (伊佐坂安物さんへ)『金鯱叢書』に編者として名が冠されていること、そのとおりに書けば記事に編書として書くことができる、ということは分かっておりますが、「編者として名を冠するに相応しいのか」ということ(Authorshipの問題)や、読者にとっての有用性を問題にしています。『金鯱叢書』は自己公表された情報源にあたり、学会誌のように第三者がAuthorshipについてチェックしているわけではないと思うので、その情報は疑ってかかる必要があるのではないでしょうか。他の本で『金鯱叢書』の編集が本人の業績として評価されたり、言及されている例があればいいと思いますが、現状特にないと思います。私が関係した事例でいえば、徳川義親に関して徳川生物学研究所の記事では、科学朝日(1991)の中に「徳川義親はこれこれこういう論文を書いている」という紹介があるので、それを出典にして本人の著作物として紹介していますし(徳川生物学研究所#徳川義親の研究)、また藤井健次郎の例では、追悼文に『キトロギア』という雑誌の編集にかなり注力していたことへの言及があり、それを出典にして記事本文に事績として記述しましたが、それでも本人の著作物には「キトロギア」は挙げていません(読んでも本人の書いた文章が載っているとは限りませんので)。徳川義崇に関してだけ、二次資料での言及もないのに、殊更に編書を「著作物」として取り上げる意義があるとは思えないです。「著書」にあたるものとして、私がこの編集[4]で加筆した共著論文と、利用者:Tail furryさんが「著者として名前が上がっているのが確認できた」とされた書籍が1冊ありますけど、そのくらいで充分ではないか、という風に思っているわけです。Tail furryさんが『金鯱叢書』を読んでいないから復元しなかったとされているのは私は大変誠実なスタンスでいらっしゃると思います。実際読んで、本人が書いた文章が全く書いてなかったら、読者をがっかりさせるだけだと思います(編ではありませんし)。
  • 可読性に関しては、上で伊佐坂安物さんの「一行表示」案について「良い案だ」と申し上げたのですが、よくよく考えてみると、もともと一行表示だったのをTail furryさんがこの編集[5]でISBNを付したときに(おそらくKoshi2016さんがご指摘されているように、雑誌ではなく書籍扱いでISSNではなく1冊ごとにISBNが付されているので)複数行表示にされており、一行にまとめると書誌情報が落ちるため、それはそれであまりよくない、と少し考え直しました。
  • いずれにしても私は「『金鯱叢書』は著作物に上げるべきでない」という意見です。今思いつきましたが、もし記事に情報を盛り込むのであれば、記事本文に、「『金鯱叢書』の編者として名前が挙げられている<ref>CiNii論文検索</ref>」のように記載するのはいかがでしょうか。著作物として挙げるのでなければ、読者にも迷惑がかからないので、私もいいかなと思いますが、いかがでしょうか。--宇井木辺出夫会話2016年12月28日 (水) 14:57 (UTC)[返信]

返信 (宇井木辺出夫氏宛) - 宇井木辺出夫氏が前回上げた「利用者:宇井木辺出夫(ノート / 履歴 / ログ)氏は、日本語の読解に問題があるようです」「宇井木辺出夫氏はWikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)を理解していない」「宇井木辺出夫氏は日本語の文法も怪しい」「宇井木辺出夫氏はルールの悪用者の典型」「単なる宇井木辺出夫氏の非常識」は、宇井木辺出夫氏の発言や編集行動に対する批判であり、個人攻撃に当たらないことは、すでにWikipedia:コメント依頼/宇井木辺出夫で、回答済みです。Wikipedia:コメント依頼/宇井木辺出夫で返信されていませんが、再読ください。

宇井木辺出夫氏とのやりとりで、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)の読解に失敗しており、間違ったことを言ってます。読解に問題があるという表現はまだ善意による解釈であり、過失ではなく故意ならば、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)を故意にねじ曲げて嘘のルールを吹聴したということになります。宇井木辺出夫氏はWikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)も完全に間違っていましたが、それが理解していないからというのも善意による解釈で、間違ってると知って宇井木辺出夫氏がやっているとしたらそれこそ悪意そのものです。実のところ、私としては後者を疑っているからルールの悪用者と厳しく批判しているのであり、宇井木辺出夫氏はその疑いに対して反論すらしてません。疑いはいっこうに晴らされておりません。上記の『金鯱叢書』に関しては宇井木辺出夫氏は、論点外れで、完全に常識外れの主張を繰り返しており、非常識以外の表現はありません。

それ以外の細かな部分で、具体的にどこか不快だと思うところがあると指摘があるのならば、論旨に影響のない部分は打ち消し線を打つことを検討することはやぶさかではないです。ただ、以前、宇井木辺出夫氏がしたようなコメントアウト化はコメントの改竄ですですから注意ください。打ち消し線をして、上から読める状態にするのが、現在の利用者の通常の慣行です。--Quark Logo会話2016年12月28日 (水) 15:30 (UTC)[返信]

  • コメント 何度、論点のすり替えを、行えばよろしいのでしょうか。
  • 宇井木辺出夫さんは、「尾張徳川家の当主はそのスポンサーです。自主的にAuthorshipについて適切な判断ができているとの判断は成り立ちにくく」、「学会誌とは性質の異なる雑誌」で「中立的な判断がされていることを疑う」とされるから認められないとするのであれば、なぜ、ご自分で尾張徳川家の記事にて、『金鯱叢書』を使用しているのですか。また、徳川美術館におけるご自分の投稿もまたしかりです。
  • 「一般的に自己公表された情報源については、ほかの情報源が評価したりコメントしたりするまで待つのが望ましいです。」について、「日本図書コード」、「国立国会図書館」、「史学雑誌」、「CiNii」にて提示され、その問題が解決する。すると次は、「『金鯱叢書』は自己公表された情報源にあたり、学会誌のように第三者がAuthorshipについてチェックしているわけではないと思うので、その情報は疑ってかかる必要があるのではないでしょうか。」とのご発言。宇井木辺出夫さんは、「日本図書コード」、「国立国会図書館」、「史学雑誌」、「CiNii」による情報すら認めんとのご発言です。
  • 元々、ご自分で、『金鯱叢書』を否定しておきながら、ご自分の投稿で出典としている事について如何なるお考えか、理解できる方は、まずいないでしょう。--湖紫陽会話2016年12月28日 (水) 16:27 (UTC)[返信]
コメント(宇井木辺出夫さんへ) 以前にも会話ページで申し上げましたが([6])、現在の状況を考えると、先にコメント依頼にご対応された方が良いと思います。--伊佐坂安物会話2016年12月29日 (木) 06:16 (UTC)[返信]

保護解除依頼を提出中です。[編集]

報告 編集合戦の要因の解決に至り、現在Wikipedia:保護解除依頼中です。--湖紫陽会話2017年1月4日 (水) 04:28 (UTC)[返信]

報告 先ほど、2017年1月4日 (水) 06:33 (UTC)、アルトクール氏により保護解除となったことを報告します。--湖紫陽会話2017年1月4日 (水) 06:41 (UTC)[返信]
ありがとうございました。「ノート:徳川義崇/過去ログ1#冒頭は定義文が先である。次ぎに肩書きの順番に指定がある理由の説明を」でQuark LogoさんとHusaさんによって適切であるとされている「2016年12月23日 (金) 15:20‎(UTC)の版」と最新版は同一の内容となっており、私も現状の版が適切だと考えます。--伊佐坂安物会話2017年1月5日 (木) 09:38 (UTC)[返信]