ノート:廃藩置県

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合併の変遷の記述が途中で止まっている県があると思いますが。たとえば愛知県は最後まで読んでも名古屋県のままですが、その後の合併についての記述もしたほうがわかりやすいのではないでしょうか。--Propatriamori 2010年11月5日 (金) 11:19 (UTC)[返信]

府県一覧について[編集]

かなりの数の「○○県」のリンクが「××藩」に飛ぶようになっています。 これはどーかと思います。ほとんどの「××藩」の記事は『廃藩置県で○○県になった。』で終わっており「××藩」と「○○県」は別の記事にすることを前提にしていると思います。 例えば大津県は大津藩に直リンクしていますが、大津藩の記事は『廃藩となった』で終わっていますし、いくら大津県と大津藩が関連あるとはいえ直リンクにするの厳しいのでないでしょうか。

そこで藩の記事に直リンクしている「○○県」に関しては、リンク無しか赤リンクにすることを提案します。もちろん「××藩」の記事に廃藩置県以降の「○○県」のことが書かれている場合は対象外です。

確かに赤リンクがいっぱいなのは良い物ではありませんが、前述のような状態ではとてもリンクに意味があるとは思えません。また、多くのユーザーが一見して不足している記事がわかるということも良いと思います。--Bentley 2006年10月8日 (日) 17:06 (UTC)[返信]

2005年6月2日 (木) 07:05の版で、一律、新県名=旧藩名とした張本人なので私から。確かにおっしゃるとおりなのかもしれませんが、廃藩置県当初は、大部分の県で、まず、藩→県を一律に行ったため、4ヶ月程度しかその実体がなく、特筆すべきことはあまりないであろう、それよりも、江戸時代まで遡る、その県の元となった藩にリンクすることが、赤リンクのまま記載を待つよりはよいであろうと考えたからです。おそらく、今、藩へのリンクを外しても、赤リンクのまま残るか、記事が起こされても「○○藩の××県へ移行するまでの名称」といった辞書的な記載しか期待できないと考えます。----Tomzo 2006年10月8日 (日) 17:22 (UTC)[返信]
たしかにそうですね。赤リンク化は安易過ぎました。しかし、それなら逆に旧藩に飛ばすよりは、現在その領域を管轄している都府県に飛ばしたほうが良いのではないでしょうか?例えば丸岡県は丸岡藩に飛びますが、前述のように『廃藩で~』でおわっているので、福井県に飛んだほうが廃藩置県以降の合併の歴史が書かれてますの良いのでは。とりあえず長野県は無理に長野藩に赤リンクせずとも長野県でいいと思います。分割された県は、どこが、どの県にと書けば一つの記事として成立すると思います。--Bentley 2006年10月8日 (日) 17:52 (UTC)[返信]
そもそも、旧藩=新県ではなく、旧藩≒新県が史実に近いのでは? 新しい県には旧天領や旗本領など、大名領になっていない地域を統合して県にしたものも存在するのですが。--水野白楓 2006年10月14日 (土) 04:46 (UTC)[返信]

宮武説の記述の是非[編集]

県名の由来についての諸説(いわゆる宮武説)[編集]

明治政府の県名の決め方の一つの説として、明治期のジャーナリストである宮武外骨香川県出身)の著書『府藩県制史』(1941年[昭和16年]3月刊)が有名である。

その中で、明治政府内の「永久不滅の賞罰的県名」として、「早い段階から官軍側に就いた『忠勤藩』の藩名は県名にされて、官軍側に就かなかった『朝敵藩』や、官軍側に就くのが遅かった『曖昧藩』の藩名は、一つも県名には残っていない。」と述べられている。

つまり、明治維新の時に薩長軍だった所は、都市名を県名にされて、一方で薩長軍でなかった所は、名を県名にされている、という説である。

の多くは、令制国一国を領する藩を除いて、城下町を藩の名称に用いる事が多かった。但し、は後に異名を付けられた為、現在も『府藩県制史』が書かれた当時も、城下町名がそのまま都市名となっている所も多いが、俗称では藩主の姓を称する所もあった。

「朝敵藩」「曖昧藩」とされた所は、城下町が所属するが、県名とされた所が多い。例えば、高松高松藩)は香川郡から香川県姫路姫路藩)は飾磨郡から飾磨県名古屋尾張藩)は愛知郡から愛知県水戸水戸藩)は茨城郡から茨城県仙台仙台藩)は宮城郡から宮城県盛岡盛岡藩)は岩手郡から岩手県、となっている。

「朝敵藩」「曖昧藩」などの城下町、門前町港町においても、都市名が明治維新後、地名の改名を経た結果、県名にされている所も見られる。例えば、明治維新期に徳川将軍家(第15代将軍徳川慶喜)が移住した「朝敵藩」に分類される静岡天領)は安倍郡に属しているが、「安倍県」ではなく「静岡県」にされている。他にも、長野善光寺)は水内郡に属しているが、「水内県」ではなく「長野県」にされている。

又、当初は名を県名にしたが、再設置で都市名が県名にされた所もある。例えば、福井足羽郡に属するが、1881年の再設置では「足羽県」ではなく「福井県」にされている。この外、富山新川郡に属するが、再設置で「新川県」から「富山県」に改名され、徳島名東郡に属するが、再設置で「名東県」から「徳島県」に改名されている。

石川県のように、美川(現白山市)から金沢へ県庁が移った際に、都市名に因む「金沢県」の名称を改めて、名から「石川県」とした所もある。

九州の県は全て、都市名が県名にされている。又、山陰・山陽四国の9県のうち、「朝敵藩」とされた松山藩高松藩松江藩の属した3県は、それぞれ名を取って愛媛県香川県島根県とされたが、それ以外の6県は、都市名が県名にされている。

一方で、東北地方関東地方には、名が県名にされた所が多く、意図的に県庁所在地や県名が変えられた所も多い。

それには、宮武外骨が主張する「永久不滅の賞罰的県名」論によれば、薩長土肥薩摩藩長州藩土佐藩肥前藩)と、その支援に回った「忠勤藩」が多いとされる西日本に手厚く、逆に奥羽越列藩同盟の東北地方や、江戸幕府のお膝元であった関東地方には、冷たく臨んだということになる。

特に、朝敵藩の双璧とされた奥羽越列藩同盟の盟主である福島県内の会津藩明治新政府軍(官軍)と北越戦争を行った新潟県内の長岡藩は、それぞれ廃藩置県当時、県内最大のであったにもかかわらず、宮武説では、いわゆる賊軍であるとされ、県庁を置くことも、県名をつけることも「永久に」許されなかった。

福島県の県庁は会津若松市ではなく、福島城のあった福島町(現在の福島市)に、新潟県の県庁は長岡藩の元藩領内であって1843年に天領にされた港町であった新潟町(現在の新潟市)に置かれた。「永久不滅の賞罰的県名」の典型例である。


現在の記事では、宮武説がコメントアウトの状態になっていますが、そもそも宮武説は歴史学的に証明された説ではなかったと思ったのですが、記憶では福島県の県庁所在地決定は実は浜通りと会津との中間地点を取っただけで政治的意図はなかったという説が通説の筈ですし(鉄道忌避伝説と似たようなものなのでしょうか?)。--水野白楓 2006年10月14日 (土) 04:46 (UTC)[返信]

宮武説をコメントアウトしました。宮武説は既に都道府県の項で触れられており、実際に改名で郡名が採用されたものの多くは第一次府県統合よりも後のことで、廃藩置県との時系列から言ってもここに加えるのは不適切です。Orichalcum会話2016年3月8日 (火) 14:58 (UTC)[返信]

都道府県のページにおける宮武説に関する論述に、論旨の方向性が不明確であったり、『府藩県制史』の論述に基づく記述とそうでない記述が混在していたりする問題があったため、書き替えを進めています。元々の文章は、このノートページに転記されている内容に加筆が入ったと思われるものでしたが、今回の書き替えで見かけを大きく変えた部分もあります。
このノートページに転記されている内容と、本ページでコメントアウトされている内容とを比較したところ基本的には同じで、差異はキーワードリンクの有無・鈎括弧記号・人名表記・年号表記・数字表記・漢字表記・接続語彙・読点位置のみでした。多くはこのノートページの内容の方が「改善結果」と思えるものですが、なぜか仮名書きするべき語句が漢字化されている部分が多々あります。
都道府県のページにおける論述の見かけがかなり変わったこともあり、本ページのコメントアウトを残しておくのは混乱の元になると考えられます。このノートページに転記されている以上、記録としても意味が無いので、本ページのコメントアウト部分の方は削除しました。
なお、「実行」のセクションでコメントアウトされていた宮武説に関する論述(『府藩県制史』所載の朝敵藩一覧表を含むもの)は、「第1次府県統合から第2次府県統合までの異動」のセクションへ移動しました。
--Dakarananyanen会話2019年2月18日 (月) 09:56 (UTC)[返信]
「実行」のセクションから「第1次府県統合から第2次府県統合までの異動」のセクションへ異動した、宮武説に関する論述のコメントアウトですが、このページでは巧く展開できそうになく、むしろ都道府県のページに追加すると収まりそうだったので、再構成してそちらへ追加し、こちらのページからは削除しました。
--Dakarananyanen会話2019年3月2日 (土) 09:23 (UTC)[返信]

「第2次府県統合以降の異動」の長野県から筑摩県分立方針の記述を削除提案[編集]

「下記のほか、明治政府は長野県から筑摩県を分立させる方針であったが、筑摩県庁に予定していた建物の焼失により中止された。」 との記述ですが、出典が不明であり、以下の事実関係からみて誤りと思われます。したがって、削除を提案します。

筑摩県庁は、同県が長野・岐阜両県に分割編入される前は松本に所在していました。 「筑摩県庁に予定していた建物の焼失により中止された。」との記載は、1876年6月19日の筑摩県庁(松本)の焼失事件のことを指していると思われます。しかし焼失は「分立」論議より前の、1876年8月21日の第2時府県統合(筑摩県の一部が長野県に分割編入)の直前の時点です。ですので、上記記述とは矛盾します。

長野県hpより。 http://www.pref.nagano.lg.jp/gikai/chosa/gaiyo/enkaku/index.html 「移庁論・分県論  長野県会(長野県議会)論議の歴史のひとつとして、移庁論、分県論がありました。  全国的な府県統合の動きのあった明治9年(1876年)の6月19日深夜、筑摩県庁から火災が発生し、県庁焼失を機会に合県が行われ、新たに発足した長野県の県庁が北に偏在していることが、それ以後の移庁論、分県論が出てくる論拠となっています。」

なお、長野にある長野県庁舎も、その後2度焼失(含む一部焼失)している模様です。以下HPの年表参照。 http://www.nova-city.jp/deta/matumoto/s0307.html --利用者:Mmjinger会話2015年10月19日 (月) 01:13 (UTC)[返信]

本件、異論がないようですので、提案どおり削除しました。--利用者:Mmjinger会話2015年11月1日 (日) 00:05 (UTC)[返信]

「第1次府県統合」や「第2次府県統合」なる珍奇な言い回しについて[編集]

「第1次府県統合」だとか「第2次府県統合」なる奇怪な言い回しは、一部の学者の独自表記であって、そもそもこの廃藩置県の項目自体「大久保利通中心史観」で記述されており、大幅な見直しが必要だと思われる--210.174.27.3 2016年9月21日 (水) 08:35 (UTC)[返信]

誰も相手をしないまま放置されていますが、一応……
まず「珍奇な言い回し」云々と「大久保利通中心史観」云々は、全く独立した別の問題であることを確認しておきます。
「第1次府県統合・第2次府県統合」という用語は、確かに「誰もが使う一般的な用語」になっているとは言えませんが、「珍奇」とも「奇怪」とも全く思いません。これ以上は無いというくらい素直な用語です。全く問題無いでしょう。
「大久保利通中心史観」って、ある意味では当然ではないでしょうか。そもそも「廃藩置県」自体が「大久保利通中心事業」なんだから。
--Dakarananyanen会話2019年3月13日 (水) 11:27 (UTC)[返信]

異動リストの内容[編集]

「第1次府県統合から第2次府県統合までの異動」で全ての「改称」が一緒くたになっていましたが、県庁異動を伴う解消と伴わない改称は大きく性格が異なるので 2019年3月1日 (金) 08:44 (UTC) に分離しました。この際、姫路県と二本松県がリストから脱落していることに気付いたので補足しました。

作業後、改めて考えてみて、元のリストを作成した方は、姫路県と二本松県の2件を意図的に脱落させていたのではないかと気付きました。つまり、この2件は第1次府県統合が全国的に完了する11月22日以前の改称だから「第1次府県統合から第2次府県統合までの異動」には該当しないという判断の可能性です。

しかし、もしそうだとすると、これは妥当な判断ではありません。第1次府県統合は「地方ごとに順次」進められたものであり、全国的に完了する以前に各々の地方では完了していると考えるべきです。姫路県と二本松県の改称は当該地方で完了した「統合直後の状況」に対する異動であり、「第1次府県統合から」に該当するものと扱うのが妥当です。

ところで、今回の作業では弘前県から青森県への改称をコメントアウト状態で追加しました。これは第1次府県統合に2箇月近く先行する9月4日の弘前県への6県合併を受けた異動であり、この6県合併を第1次府県統合と一体のものと考えるかどうかという問題にも関わってきます。Wikipediaの百科事典(情報源・資料集)としての性格を考えると、この点についての注意喚起を伴った形で掲載するのが妥当であろうと思います。注意喚起の表現について、少し考えて見ようと思います。

--Dakarananyanen会話2019年3月2日 (土) 02:52 (UTC)[返信]

弘前県から青森県への改称は 2019年3月2日 (土) 04:52‎ (UTC) に「断り書き」を入れたうえでコメントアウトを外しました。遅くなりましたが、こちらにも記録を残しておきます。

--Dakarananyanen会話2019年3月3日 (日) 00:46 (UTC)[返信]