ノート:庄家長

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参考メモ[編集]

高家は重衡の首を武蔵に持ち帰ったかに関する一考察[編集]

吾妻鑑』、元暦2年(1185年)6月22日条の記述として、東大寺に重衡が渡され、翌23日、南都(大和国)において首を落とす事が伝えられ、斬首。23日以降は首をさらされ、腐らせられたと考えられる。つまり、6月末まではさらされていたと考えられます。

その4カ月余り後の、文治元年(1185年)11月2日条に、庄四郎(高家)が、駿河国(現静岡県)にて、義経が船で西国へ行く為に遣わした斎藤友実を誅殺したと記されている。

『吾妻鑑』の記述に従うなら、一ノ谷の戦いにおいて範頼軍に高家は従軍していなかった事になる(記述されているのは、庄太郎・三郎・五郎)。重衡が大和で斬首されてから庄四郎が駿河国で登場するまでの約4カ月間、東大寺供養・上洛随兵の中に、庄四郎の名が全く見られない(他の児玉武士の名が記載されている中でである)。大和に来た形跡どころか、近畿に寄ったとする記述もない。また、興福寺と言った高名な寺から、一武家たる庄氏が供養の為と称して、重衡の首を武蔵に持ち去る事が可能だったかも大きな疑問の一つ。僧侶側は重衡に寺を焼かれた事で、酷く憎んでい為、身柄を引き渡す様にと指示された、と記述されています。この様な状況において、供養の為と称して首を大和から武蔵に持ち去るのは難しいと考えられます。 --Hajimari 2011年1月28日 (土) 23:58 (JST)