ノート:広厳寺

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神戸史学会 2007 『明極和尚行状録』 偽書説 [要検証 – ノート]について

  • 1)楠町 (神戸市)にあった記述そのまま移した。現在の楠町 (神戸市)の版には無いが、編集記録では”2013年8月3日 (土) 13:31‎ TAMA (会話 | 投稿記録)‎ ”までこの記述があった。
  • 2)『明極和尚行状録』をいつだれが作ったか不明で、神戸史学会 2007の出典を探し当てればなにか分かるかもしれないが、『明極和尚行状録』のネット検索ではめぼしい情報はヒットしなかった。
  • 3)しかし、”明極禅師と問答して”、”楠公の一族十三人、士卒六十余人、この寺に入りて、建武三年五月二十五日戦死す。禅師(明極)すなはち遺骸を路傍に葬むる”、”楠木正成の菩提寺・広厳寺”(『西摂大観』楠町 (神戸市)より)などの、楠公との関係の矛盾した記述(”『大清和尚語録』には、当寺は楠木正成戦死の翌年に赤松範資が建立し”と矛盾する)の元に『明極和尚行状録』にあるように思う。
  • 4)そういう意味では、神戸史学会 2007の出典はしっかり確認しておく必要があると思う。
  • 5)それにより、『大清和尚語録』についても何か分かるかもしれない。(『大清和尚語録』についても、だれがいつ書いたかは確認できなかった。)--Kobeyamate会話2013年10月4日 (金) 02:10 (UTC)[返信]

追加

  • 6)本文の"建武3年(1336年)5月、楠木正成が当寺に参り、明極禅師と問答して大いに悟って湊川の戦いに臨んだ[1]と『明極和尚行状録』"あるが、一方Wikipedia明極楚俊の項で”同3年(1336年)、建仁寺の方丈にて入寂。享年75”とある。建仁寺は、所在地 京都府京都市東山区小松町584とある。 ”建仁寺の方丈にて入寂”なので、1336年は京都の建仁寺に在住と考えるのが普通だろう。仮にたまたま京都から神戸の広厳寺に来ていた偶然があるとすれば、それは『明極和尚行状録』にもそう書かれたのではないか。(享年75の高齢で、当時交通機関のない時代に、京都と神戸の往来は容易ではなかったろう。) 以上いろいろの可能性は考えられるとしても、ともかくも、湊川の戦い前の1336年5月に明極楚俊が、神戸に来ていて楠木正成と問答をして、京都の建仁寺に戻って入寂したが事実とすれば、明極禅師側に別の何らかの記録が残っていても不思議ではない。湊川の戦いは、当時の天下の趨勢を決める戦いだったのだから。
  • 7)上記の矛盾が、『大清和尚語録』の”当寺は楠木正成戦死の翌年に赤松範資が建立し、その子光範が落成した”を正とすれば解消できるという点が、『明極和尚行状録』を偽書とする理由だろう。
  • 8)なお、 http://seiyo39.exblog.jp/tags/%E6%A5%A0%E6%AD%A3%E6%88%90/ 「福原西国観音霊場第21番の医王山広厳寺(楠寺) 訪問記 on 2013-1-9 2013年 01月 10日」(ここには貴重な写真が多く掲載されている)などに、”Wikipediaより広厳寺の解説も引用”とある点などを考えると影響は大きく、"建武3年(1336年)5月、楠木正成が当寺に参り、明極禅師と問答して大いに悟って湊川の戦いに臨んだ[1]”の記載は、史実としてどうかはしっかり検証されるべきと考える。--Kobeyamate会話2013年10月6日 (日) 05:03 (UTC)[返信]

追加2

  • 9)本文の”光圀の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑は湊川神社の創建とともに同神社境内に移された”について。ここは、湊川神社#楠公の墓に子細が記されているように、広厳寺の外に楠公の墓があってその場所に「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を作った。それは、広厳寺の千巖氏の尽力によるものではあるが。しかし、湊川神社はその墓と石碑がある場所そのままに作られた(詳細湊川神社#創建史参照)。なので、”(広厳寺内にあった石碑が)同神社境内に移された”と誤解される表現は如何なものか。誤解されることをよしとする立場の文章を、そのまま無批判に取ってきたのではないだろうか。--Kobeyamate会話2013年10月6日 (日) 07:54 (UTC)[返信]

追加3

  • 神戸史学会 2007の出典判明下記。これに合わせてその他の本文も編集。

http://www.kobe-sigakukai.com/nc/htdocs/index.php?page_id=29 神戸の町名 神戸史学会 出版社: 神戸新聞総合出版センター; 改訂版 (2007/11)--Kobeyamate会話2013年10月14日 (月) 12:12 (UTC)[返信]