ノート:島津義久

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

編集について[編集]

58.89.82.110です。60.38.255.133の一連の編集も私が行ったものです。 2008年10月15日 (水) 11:27(UTC)にこぶまきさんが削除された部分は義久自身の事蹟ではありませんが、当時の島津家の状況、島津家内での義久の権威の傍証となるものして書いたものでした。また、義久が忠棟を斬殺することに同意していたというのは「島津義弘の賭け」の記述ですが、その記述では「『庄内陣記』では、忠恒・義弘が計画し、義久の同意を取りつけてことを行ったとされているが」となっており、義久同意説の出本は庄内陣記であると判断した上で記述しました。とりあえず編集の意図をお伝えしました。それと質問ですが、「島津義弘の賭け」では太閤検地の後、義久の所領として設定された場所にも薩摩国内の所領はあり、大隅のみとはなっていませんでした。(義久蔵入地10万石のうち92%が大隅・日向という記述)大隅国が義久に宛がわれ、そこから太閤蔵入地が差し引かれたということにはなっていません。大隅一国が義久に宛がわれたというのはどちらの出典なのでしょうか。--58.89.82.110 2008年10月15日 (水) 14:03 (UTC)[返信]

返答が遅くなりまして申し訳ありません。編集の意図は了解いたしました。wikipediaは百科事典という観点と、wikipediaはリンクを貼ると簡単に関連事項も調べられるという利点から鑑みて、該当事項に直接関係のない出来事を省かせていただきました。次に、質問に関する回答ですが、これは当方の勘違いで、58.89.82.110様の言うとおり、文禄検地後、大隅に移封された島津義久の所領には少しですが薩摩国内に設定された物もあることを確認しました(『薩藩旧記雑録』後編2-1549)ので、当該の項目の記述は変えさせていただきます。なお、当方がさわりました記述の一部に関してはIP:125.201.137.205会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois様が差し戻されていたのでさわっていません。--こぶまき 2008年10月21日 (火) 13:38 (UTC)[返信]

回答ありがとうございます。58.89.82.110、60.38.255.133でしたがまたIPが変わっているようで、125.201.137.205の編集も私がしたものです。 現在の所、豊臣政権期の島津家領についての項目がありませんので、当主である義久の項目に当時の情勢を書くことが適当だと思って書いた次第です。所領の件もご確認ありがとうございます。余談ですが、太閤蔵入地は大隅と薩摩の国境付近、石田三成の所領は富隈付近に集中しておかれているようです。国うんぬんより配置のほうが重要な意図が秘められていたのではとも思った次第です。--125.201.137.205 2008年10月21日 (火) 14:51 (UTC)[返信]