ノート:岩松八弥

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岡崎領主古記や岡崎市史の立場は、明らかに異論異端の部類であり、同時代史料で確認できない岩松八弥の実在や松平広忠の暗殺を史実とみなすのは問題がある。岡崎領主古記は、最悪、寛政10年(1798年)頃の成立の可能性があり、250年以上前の出来事を記したとは思えない。--14.132.67.112 2013年6月6日 (木) 03:42 (UTC)[返信]



1.史料にない創作的記述があるため以下の部分を削除します。

  • 小豆坂での敗戦に「危惧した信秀は、佐久間全孝に命じて広忠暗殺の命を下した」
  • 植村新六郎が「八弥の眉間を叩き斬った」、八弥の首を「城門に晒し者にした」
  • 「八弥は広忠の妾“於春”に恋慕した」「内藤清長の娘で内藤信成の母」
  • 「天文23年(1554年)に主君暗殺の黒幕が佐久間全孝と知った松平家家老らは憤激し、義元の後盾で広瀬城に攻撃した」「松平軍と結託した御船・東広瀬城主の三宅高貞(右衛門太夫貞保)と三宅光貞(帯刀)らに攻められ、重行はついに居城に火を放ち自尽して果てた」

「於春に恋慕」というのは小説「徳川家康」においてです。また内藤信成の母として「於春」を記す史書などありません。

さらに西広瀬城落城に関する記述は「三河国西加茂郡誌」の記述(141項)に広忠の死を関連づけた創作であると考えます。同郡誌においてたびたび引用されている「東照軍鑑」(名古屋蓬左文庫所蔵、成立年不明)には三宅氏による広瀬城落城の記事がありますが、これは次のようなものです。

  • 天文23年11月5日「御船ノ三宅右衛門太夫貞保 同名右近申合 佐久間全孝息長七郎ガ居城三州広瀬ヘ不意ニ取懸ケ乗取リ入城シテ御船ノ郷ヲバ三宅帯刀ニ与ヘ」(巻1 孕石竹千代殿ヲ悪口スル事 并ニ 三宅貞保三州広瀬城ヲ攻メ取ル事)。

貞保=高貞、帯刀=光貞とする記述がないのはもちろん、「松平家家老らは憤激し、義元の後盾で広瀬城に攻撃」とするような記述はありません。

「帯刀=光貞」とするのは「猿投町誌」102項にある「猿投村史」の引用の誤読と思われます。ここでは「右近」を「光貞」と記していますが(典拠不明)「帯刀」は別人物として扱われています。また「豊田市史」人物編34項は西広瀬城を攻略したのは「三宅高貞」であるとしていますが、これは「三河国西加茂郡誌」118項の「高貞 右衛門太夫」との記述(出典不明)と「東照軍鑑」にあらわれる右衛門太夫貞保とを同一人物としたためと考えます。しかし高貞=貞保とする明確な記述がないため、このような記述をおこなえば出典不明な記事を増やすことになります。

もちろん「寛政譜」などにこれらの人物は現われませんし、田原藩三宅氏との関係も不明です(『田原町史』中巻所収の「三宅氏系譜」関連史料を参照)。記述に必要な史料に乏しいため本項においては触れません。

2.また次の記述には典拠を示して書き改めました。

  • 「一説では上野国の岩松氏ゆかりの人物とされるが真偽は不詳。或いは斯波氏の傍流か」(後段は削除)
  • 「植村新六郎」を「栄安・氏明」とする記述

3.全体が松平広忠の殺害説を前提とした記述になっています。本文において述べたようにこの点についての諸書の記述は分かれています。また広忠をおそった人物の名についても1つではなく、それゆえ経歴として統合することができません。そこで各所伝を「近似する伝承」とみなして「岩松八弥」の項目にまとめ、各史料ごとにその内容を示して書き改めました。また生没年はこれを「一説に」としました。--以上の署名のないコメントは、210.156.127.21会話/Whois)さんが 2007年1月30日 (火) 18:49 (UTC)‎ に投稿したものです。[返信]