ノート:小原鎮実

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

大幅削除[編集]

Jidaigeki.dbさん、大幅に削除されましたね。削除されるからには小原鎮実(居城三河国吉田城、遠江国宇津山城、駿河国花沢城)がこのような行いをしていないことの根拠がお有りなのでしょうか。--ウィキ豊 2008年3月13日 (木) 23:33 (UTC)[返信]

(横から失礼)ウィキ豊さん、「出典不明」として削られた情報の「出典」は何だったのでしょうか。まず、それを「文献名+ページ名」などの形で提示なさいますようお勧めいたします。--miya 2008年3月13日 (木) 23:46 (UTC)[返信]
確かにその通りですが、例えば株式会社豊橋魚市場豊橋祇園祭奉賛会ホームページ(これは大原備前守となっており肥前守ではない)など、出典以前にある意味豊橋市民にとって常識であることを申し上げます。--ウィキ豊 2008年3月13日 (木) 23:58 (UTC)[返信]
「古老伝」に1558年、「吉田神社略記」に1560年に吉田神社(愛知県豊橋市関屋町)での奉納花火の記載が有るそうです。また、この頃は今川義元の東三河統治において安定した時期であるそうで城代小原肥前守鎮実の下で花火を揚げられていても驚きでは無いそうです。また、遠江国宇津山城(静岡県湖西市)では、湖西市のHP-観光情報でも火薬による城の爆破については書かれてはいませんが城に火をつけ湖に逃げたことが書いて有ります。この件も花火を操り火薬の扱いに慣れて居る小原肥前守鎮実であるのならば大量の火薬を仕掛け爆破を試みることも自然でしょう。--ウィキ豊 2008年3月14日 (金) 00:48 (UTC)[返信]
遠江国宇津山城(静岡県湖西市)については曾孫引きで申し訳有りませんが、『入出村誌』の原文にこう有るそうです。「翌十年正月二日鎮実孫六郎ヲ討テ宇津山ノ城ヲ取リ、氏真腹心ノ臣トシテ国境ヲ守ル。家康諜者ヲ城中ニ入レ地理ノ損益人数ノ多寡兵糧等ヲ偵察セシム、翌年三月家康見附ニ在リ、榊原康政等ヲシテ堀川ノ城ヲ攻メシム,堀川陥ル。同年五月家康親ラ将トシ酒井左衛門忠次ヲシテ之ヲ攻メシム、コノ時家康ノ臣松平親俊僅カ二十余騎ヲ率ヒテ先登ス、城将小原肥前鎮実城ヲ保ツコト能ハズ硝火ヲ廓内ニ埋メ小船ニ乗リテ駿河花沢ノ城ニ遁ル。先登ノ兵城中ニ入ルニ及ンデ宿火忽チニ爆発セシモ、コレヲ避ケテ一人モ命ヲ殞(おと)サヾリシトイフ。」文中の孫六郎とは本多忠俊の娘婿宇津山城主朝比奈紀伊守のことです。これによると一人も死者を出すことは無かったものの明文で「硝火ヲ廓内ニ埋メ」(加筆--ウィキ豊 2008年3月14日 (金) 03:01 (UTC))「宿火忽チニ爆発」と有ります。--ウィキ豊 2008年3月14日 (金) 01:14 (UTC)[返信]

いやあ、このようなマイナーな人物について、長文に渡り、詳細が記述されているにもかかわらず、一つも出典が示されていません。

また、甲賀だかの忍者?とあり、花火などの火薬に精通しているとあり、今川氏に忍者がいたという話しは、聞いたことがありません。

徳川家康には、三河物語に、蒲郡の上ノ郷城攻略の際に、忍びで取る、と記載されています。また、伊賀の服部も家臣です。

織田信長には、甲賀の滝川一益、和田惟政がいます。

※敵対している織田・徳川に甲賀の土豪が与力しているのに、今川氏にも同じ甲賀者がいたというのですか?甲賀者の同士討ちということですか?変ですねえ。今川は秀吉のように、外部から人材を登用する企業とは思えませんが。後世の創作の可能性はないのですか?

東三河の戦国軍記物の牛窪記、牛窪密談記には、吉田城代の大原肥前守を、東照宮(家康)が退治したとあるだけで、特別、火薬がどうとか、花火がどうとか、出ていませんけど。

入出村誌ってのが、どこから引用してるのか不明ですし。古老伝、吉田神社略記というのも、得体のしれないネーミングの資料で、原文が読めないし、デジタルアーカイブシステムでUPされてる著名な資料はないのですか?

吉田城の城下町を整備したのは、酒井忠次や徳川家康なんですけど?家忠日記に、吉田の町口の、とあります。吉田川の架橋も酒井忠次ですし。

今川家を最後まで守ろうとした忠義の人物=これ岡部元信のことですよね?信長公記、三河物語で確認できます。--Jidaigeki.db 2008年3月14日 (金) 17:54 (UTC)[返信]

Jidaigeki.dbさん、こんにちは。ウィキ豊です。あなたは利用者:0002228ppp会話 / 投稿記録さんと同一人物ですね。小原肥前守鎮実が用いた忍者は伊賀者です。甲賀者では有りません。織田や松平のような格下の家系にも忍者が居るのならば、京の征夷大将軍一門の今川家のような名門に忍者が奉公するのは当然です。また、実はKuma83さんの改訂にも少々不満は有ります。『入出村誌』では遠江国宇津山城を脱出するときは城を爆破したことになっています。しかし、三河国吉田城を出るときは酒井家から人質を受け取り堂々と開城したはずですが。Kuma83さんに資料がお有りならば知りません。そして、小原肥前守鎮実という人物は確かにマイナーな人物です。そのため多くの場合、今川三河守義元の三河国吉田城の某城代くらいの扱いである場合も多いものです。正直申し上げますと、小原鎮実の項目は始めましたので、皆様の知識を基に、より良い項目にして下さればそれで結構です。--ウィキ豊 2008年3月15日 (土) 01:58 (UTC)[返信]

利用者:Jidaigeki.db会話 / 投稿記録氏が過去の無期限ブロックを受けた人物ソックパペットということになり、一応記事を復活させました。Jidaigeki.db氏も歴史に結構詳しいかたなのですが、忍者の伊賀者と甲賀者を間違えるなどのミスも見られます。歴史はなるべく正確に知らねば意味が有りません。無論、わたくしの資料が確実と言う保証もできませんから、より正確な資料が有れば訂正は歓迎します。小原肥前守鎮実と言う人物をより正確に執筆して下さい。そのような修正には賛成します。--ウィキ豊 2008年3月21日 (金) 00:57 (UTC)[返信]

独自研究[編集]

Hakabakitarouさん、こんにちは。ウィキ豊です。独自研究のテンプレートを張り、大幅に削除されましたね。削除してもまだ独自研究部分が有るということですか。--ウィキ豊 2008年3月30日 (日) 04:34 (UTC)[返信]

利用者:Hakabakitarou会話 / 投稿記録氏が利用者:オタスケマン会話 / 投稿記録氏や:利用者:Jidaigeki.db会話 / 投稿記録氏と同一であるとされましたので元に戻しました。--ウィキ豊 2008年3月30日 (日) 23:37 (UTC)[返信]


Urlcool氏の理由無き削除行為の件[編集]

利用者:Urlcool氏が5月15日におこなった大幅削除は理由も示されず、当ページの充実に逆行する行為だと思いますが。 特に小原鎮実により龍拈寺境内でなされたという元今川方で徳川氏に寝返った東三河衆の人質の処刑は陰惨を極め、その東三河衆の憎悪をかえって増す結果となり、今川氏への敵対を決定づけた点、あるいは実行命令者と目される吉田城代小原鎮実自身が今川氏滅亡後に徳川方帰属が叶わず、元同僚の馬伏塚小笠原氏に虐殺される結果を招くことになった点でも重要な出来事のはずで、これを欠いては小原鎮実の記事は成り立たないと思いますよ。この様な削除には反対です。--故城一片之月 2008年5月15日 (木) 15:27 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

小原鎮実」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月2日 (月) 07:49 (UTC)[返信]