ノート:天花 (テレビドラマ)

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一連の書き込みの流れを見てきましたが、どうも客観的な記述を削除して、好意的な論評に誘導しようとされる方がおられるようです。 ここは百科事典という中立公平な観点から肯定的意見、否定的意見の両方の記述を併記した方がよいかと思うのですが、いかがでしょうか。Miami 2006年4月30日 (日) 14:08 (UTC)

124.24.254.46さんへ

>(ウィキペディア 基本的な方針 1. 偏見を避ける - 中立的な観点に基づいて記述されなければなりません。すなわち、異なった観点について公平に好意的に表現しなければなりません。)

と書かれていますが、好意的に表現しなければならない、というのは他の記述者の書き込みを問答無用で削除することではありません。また、自分の考えと違う記述を偏見と断ずることもまた当たってはいないと考えられます。Miami 2006年4月30日 (日) 16:27 (UTC)

さて、編集合戦の様相になっておりますが、いかがいたしましょう。 私個人の見解としては肯定・否定両論併記が望ましいと思うのですが、それを望まない方もおられるかとも思います。いろんな方の幅広い見解をお伺いしたいところです。Miami 2006年5月18日 (木) 17:24 (UTC)

>肯定的意見、否定的意見の両方の記述を併記した方がよい

と書かれているが、その前になぜ「ドラマの内容についての論評」 「個人の演技についての論評」といった編集合戦を誘発するような内容が、 しかもトップ項目に必要なのかについて説明がほしい。 同じ朝ドラの「わかば」「ファイト」「てるてる家族」などについての項目でも そのような内容はいっさい控えられているように見受けられる。。

IP124.さんへ(署名、お願いしますね) さぁ、何故なのでしょうね?それは記述者一人一人に伺ってみないとわかりません。逆にトップ項目でなければいいのか?という疑問もありますし。 他の朝ドラの記述に関しては客層が違うのかもしれませんし。まぁ、関心がなければ否定的意見も出て来ない、というのもありますね。ファンにしてみれば否定的意見を書かれるのはたまらないでしょうし、かといって褒め言葉だけだと「え?そうだったっけ?」とか思ってしまいますしねぇ。 例えば、藤澤の演技は私はさほど気にならなかったのですが、人によってはやはり下手に思えるみたいで、そういう人の見方もそれはそれでいいと思うし、折衷案として「同情の余地がある」と書いたのですが、これも百科事典としては好ましくない表現だったみたいで、なかなか難しいものですね。Miami 2006年5月24日 (水) 15:51 (UTC)

>熱狂的な支持者がいる反面、ヒロインを演じた藤澤の演技力や、ヒロイン自体の性格、ヒロインの行動をほとんどの登場人物が礼賛するイエスマン的な構成、「世の中には不思議な事があるものです」というナレーションによる唐突な場面変換、実際の保育園環境と作中の大きなギャップなどの指摘点も多く、竹山氏が手掛けた大河ドラマ利家とまつ~加賀百万石物語~と同様、賛否両論の声が高く、ドラマの評価は真っ二つに分かれている。

>事実、藤澤はクランクアップ後、某雑誌のインタビューで「あんなヒロイン像はありえない」と感情移入しがたい旨を匂わせていた。さらに、脚本に関しては「東京の山賊」の盗作であるとの疑惑が放映時よりあり、NHKにもクレームが寄せられている。

全削除ということで、いちおう理由を書かせていただく。 文章の是非以前に、まずこのようにドラマの内容に深く立ち入った論評が必要な 理由が不明だ。 他の朝ドラの項目では、トップ部はもとより、それ以外の部分にも このように立ち入った論評は書かれていない。

125.3.199.181 2006年5月29日 (月) 13:37 (UTC)[返信]

他の朝ドラのところも見てみました。「ふたりっ子」「ちゅらさん」「てるてる家族」といった評判のよかったドラマはやはりコメントが細かいですね。そのドラマのファンの思い入れがあるのでしょう。意外なのは「おしん」で、肯定的・否定的論評が併記されています。まさかあのドラマにそんな見方があったのかと却って新鮮に思いました。Miami 2006年5月29日 (月) 15:10 (UTC)

本テーマに関する諸先輩方のノートを拝見させていただきました。その上で「天花をめぐる問題」の節を追加させていただきました。私自身は本作品のファンの方、藤澤恵麻さんのファンの方、製作関係者の方々に何の意図はありませんが、NHKのドラマ制作の歴史の中で重要な問題提起をした作品である事は否めない事実と考え、新たに節を立ち上げて記載させていただきました。よろしくご理解の程、お願いいたします。 無頼風

--無頼風。 2006年6月19日 (月) 11:00 (UTC)[返信]


無頼風。さんへ
竹山起用に関しては過去の大河ドラマや「京、ふたり」の視聴率が比較的良かったという実績を買われてのものではなかったでしょうか。もちろん、それらのドラマの問題点は放送時より指摘されてはいましたが、「数字」や「配役の人気」が批判を抑え込んだようです。天花は数字もワースト記録を更新し続けたため、批判が一気に吹き出した感がありました。
藤澤に関しては所属事務所も大きく、雑誌モデルとしてはトップ人気を誇っていただけに期待も大きかったのですが、このドラマの悪評がそれ以降の女優展開の大きな足枷になったようですね。
ただ、本文の記述に関しては肯定的視点からのオブジェクションもあるでしょうから、今後の推移を見守りたいと思います。Miami 2006年6月20日 (火) 10:36 (UTC)

Miamiさんへ
ご連絡と情報をありがとうございました。「今後の推移を見守る」という点について同意です。
今後も本稿においてご指導のほど、よろしくお願いいたします。 --無頼風。 2006年6月20日 (火) 13:22 (UTC) [返信]

演技批評に関して[編集]

「藤澤は演技が下手」説:
...藤澤に限らずお茶の間評論家による「演技の上手い、下手」なる断罪がよく見受けられるので一言、私見を述べたいと思います。

  • まず、演技というものは役者が勝手に演技することが許されるわけではない。
  • 監督もしくは演出家による演技指導が優先される。
  • どのような演技がベストとされるかは様々な状況に依って左右される。
  • 感情を露にした演技が採用される場合もあれば、抑えた所作が要求される場合もある。従って、「この場合にはこのような演技でなければならない」という黄金律は存在しない。
  • 場合に依っては棒読みがベターと判断される場合もありうる。
  • 一見、「下手に見える演技」が下手とは限らない。そういう演技が必要な場合もある。
  • 従って、演技の最終的な責任はプロデューサーにあり、一役者は個々の演技に関して責めを負うものではない。

そういう観点に立って見るならば、役者に対する素人批評は多少、温かいものになりうると思います。Miami 2006年6月24日 (土) 17:28 (UTC)

保護[編集]

編集合戦勃発と判断し保護しました。保護の解除依頼はWikipedia:保護解除依頼へ提出してください。--おはぐろ蜻蛉 2006年6月25日 (日) 11:48 (UTC)[返信]


自浄作用で平衡状態に落ち着くのを期待していたのだが、 どなたかが保護依頼を出されたようだ。 保護依頼というのは恐らく最後の手段だろう。 関係諸氏には自重を期待したい。

くどいようだがもう一度引用させていただく。

ウィキペディア 基本的な方針 1. 偏見を避ける - 中立的な観点に基づいて記述されなければなりません。すなわち、異なった観点について公平に好意的に表現しなければなりません。

これは言い換えると 「全ての執筆者は中立的な観点に基づいて文章を記述すべき」ということだ。 肯定論者と否定論者の好き勝手な意見が併記されていたら、全体として中立的になる、 というものではないだろう。 誹謗中傷をしないのは当たり前で、誹謗中傷がないから中立的だとはいえないのも 言うまでも無い。 ワンサイドの論評しか書くつもりがないのなら、 ここで書くのは控えて頂いたほうがいいだろう。 124.26.164.124 2006年6月25日 (日) 13:46 (UTC)[返信]

>肯定論者と否定論者の好き勝手な意見が併記されていたら、全体として中立的になる

いや、そういうことを言ってるのではないのです。様々な考え方を出した上で止揚するという展開を私も期待していたのですが。
それと否定的意見と荒らしは違う、ということは一筆、付け加えておきます。Miami 2006年6月25日 (日) 14:20 (UTC)[返信]

人が大勢いればさまざまな意見があるのは当然です。それをいちいち記載するのは百科事典の役目ではありません。学術論争が起きて賛否両論の学説が生じているのならともかく、ドラマの感想などにそんな学説などがあるわけでもなく、一般人の感想を両論並べることに意義はありません。--DeleteLover2006 2006年6月25日 (日) 23:58 (UTC)[返信]

それを私に言われても仕方がありません。
私が「個人的感想」を書いたわけじゃなし。
で、「個人的感想」がNGなのは私も同意です。
例えば「天花はつまらないドラマである」というのは個人的感想ですからNGなのは当然でしょう。
だがしかし、「天花は放送当時より様々な批判がわき起こりワイドショーなどでもとりあげられた」というのは客観的事実ではあるわけです。そういうのを覚えてる朝ドラファンがわりとおられるわけです。
もちろん、これだと「好意的論評」にはなりません。しかし、こういった「客観的事実」を力技で抑え込んでいくと、そういうのを書きたくなる方々が出て来られる訳です。後から後から。だから、最低限の両論記載にされた方がいいのではないか?と折衷案を出したわけです。
ですので否定的記述を全面否定なされるのなら、それでもいいですよ。でも、それだと例え、ほとぼりがさめて保護解除をしたところでまた否定的意見を書かれて、それの削除をしなければならないといういたちごっこの繰り返しになることは予見しておきます。まぁ私はどっちでもいいですけど。本文記述には手を出さないで静観させていただきます。Miami 2006年6月26日 (月) 08:31 (UTC)[返信]

あなた個人飲みに申し上げたわけではありません。行頭を一文字下げたほうが、前の分との区切りがわかりやすいので、慣例上そのようにしたまでです。ただ確かにあなた個人へのメッセージのようにも見えますので、その点はご了解下さい。なお、あなたも含めて申し上げていますが、個人的感想でないのなら、誰の感想や意見なのでしょうか。個人の感想ではないとすると、なにがしかの機関が公的に意見を発表されたということでしょうか、そうならば特筆に値しますので、それを本文中に明記していただきたいと思います。客観的事実、というのは、それが第三者にとっても検証可能な状態にあって初めて客観的事実であり、確かに報道されたという事実があった「記憶」が複数の人の脳の中にあったとしても、それはその報道を見ていない人にとってはまったく客観性を欠く主張でしかありません。テレビ番組について評価や意見を述べる番組などあまたあるわけで、それを本文中に記述するならば、他と異なる何か特筆すべき事項があったということですか、そうならば検証可能なように記述していただきたいと思います。そでないなら「客観的事実」といくら主張しても、そこに客観性は伴わないのです。報道された事実があったとしてもです。--DeleteLover2006 2006年6月26日 (月) 10:44 (UTC)[返信]

私が返事することでもないけれど、一言。「評判」というものはそもそも「検証」にはなじまないものです。テレビや雑誌で報道されたソースを持ってきたとしても、それが否定的意見であれば却下されるのがオチではないですかね?「報道された?だから何か?」って。「評判」というのは「主観」の集合体ですから。それによほどのドラマ研究家でもなければソースを調べて持ってきて議論するほどの努力、手間暇、根性がないと出来ないですよ。 そして、すべての記述のソースを持ってこいというのであれば、好意的論評も逆に書けなくなってしまいます。かなりのページがそれに違反してますよ(笑)。
論旨がずれました。要するに問題は編集合戦を収束させるにはどうするか、ということです。ですから、「あれ書いたらいけない」「これ書いたらいけない」という問題ではないように思います。この「天花」ページでそれを抑え込んだとしても「朝ドラ」他、関連ページでも「天花」に対する否定的見解が記述されてますので、そちらでも討議の対象になるかもしれませんね。Miami 2006年6月26日 (月) 11:29 (UTC)[返信]

検証になじまないなら、百科事典に載せるべきものではないということでしょうね。百科事典に載せるべきでないものを、何らかの意図を持って掲載するから別の立場の方がそこを編集するんですよね。--DeleteLover2006 2006年6月26日 (月) 11:32 (UTC)[返信]

記事題名[編集]

この記事のタイトルが「天花 (朝ドラ)」となっていますが、「天花 (NHK)」が「天花 (ドラマ)」の方が適切なのではないでしょうか?「朝ドラ」(朝に放送されているドラマの略)ではWikiの記事題名のつけ方「正式名称をつけること」に反してるような気がするし…。-61.118.242.9 2006年6月25日 (日) 15:07 (UTC)[返信]

改題提案が正式にでれば、賛成します。朝ドラという、百科事典に相応しくない砕けた表現は前から気になっていました。--DeleteLover2006 2006年6月25日 (日) 23:59 (UTC)[返信]

【「天花」をめぐる問題】について[編集]

(本節は現在消去されており見えませんので、「履歴」から「2006年6月21日 (水) 10:12 の版」をご参照ください)
本節記載事項が「主観的で、個人の意見、誹謗中傷的」との指摘がありました。
私は本件について反論も論争をするつもりはありません。
が、本節を投稿した者の責任として、私の考えを5点ほど明らかにすべきと考え、書き込ませていただきます。

本節は、本作がNHK朝ドラの歴史を紐解く上で重要な位置を占めると考え、その問題点を明示しておくために増設しました(6月19日付のノートに記載したとおりです)。
事実関係が確認できていないので記事には記載しませんでしたが、本作のインパクトによって「主演女優のオーディションの中止(2007年より復活予定)」をはじめとして、局内での朝ドラ製作について多くの方針転換が行われた、と聞いていおります。
こういう重要な展開をNHKにもたらした本作の問題点を記載しておくのは、朝ドラの歴史から鑑みるにWikiに記載するに値する事象と判断し記載しました。

本節記事は、本作を否定的に論評したのではなく、本作において問題を内包している事実を列挙したのです。
それを「ドラマの感想」と読めてしまう人もいらっしゃるようですが、何故でしょう。

 1)6月21日版の本節は、私の映像作品製作における専門的知識と現場経験を活かして、可能な限り客観的事実を抽出して記事を書くように努力しました。つまりガイドラインの「あなたが精通していること、または学習しようとしていることについて寄稿する」に準拠したつもりです。
私と同様のキャリアを持つ人がこのドラマを鑑賞したら、6月21日版の本節記事に対して異をはさむ事は無いと思います。
以上から、本節の記事はガイドラインの「独自の研究を含めない」には抵触しないと考えました。

 2)他の創作作品のWiki項目では、6月21日版の本節より遥かに主観的な記事が「トップ」「概要」「総論」「作品の特徴」「作品内容と反響」等の名称のもと記載されています。
それらの項目におけるそのような節への参加者の対応は、個々の参加者による標準化の作業によって行われます。
「主観的で、個人の意見に過ぎない、誹謗中傷的な個人研究の発表」「検証不能な項目はWikiにそぐわない」としてばっさりと削除する行為は大変に希です。

もちろん、多数の項目でそのような記載があることを理由に、本項での本節の存在を正当化するつもりはありませんが、ご参考までに本稿末尾にその一部を例示します。

 3)「脚本の問題」における竹山洋氏については、本節記事では氏の脚本の問題点は指摘していますが、氏への個人攻撃や中傷的な表現は存在しないと理解しています。
6月21日版の「脚本の問題」の記事が長すぎる、という意見もあるでしょう。
が、UP前に脚本の問題点だけを羅列した版も作成してみましたが、一見すると一方的な攻撃的事項の羅列のような印象を読者に与え真意が伝わりにくくなると考え「なぜそのような指摘を受ける脚本なのか?」の説明を付記した版を掲載する事にしました。

 4)「プロデュース機能の問題」での「対NHK」については、ガイドラインの「偏見を避ける - 中立的な観点に基づいて記述されなければなりません。すなわち、異なった観点について公平に好意的に表現しなければなりません。」に準拠させました。

 5)「キャスティングの問題」は、私が書いたオリジナル原稿においてはガイドラインの「偏見を避ける - 中立的な観点に基づいて記述されなければなりません。すなわち、異なった観点について公平に好意的に表現しなければなりません。」に準拠させました。

なお他の参加者の方が、このキャスティングの項目を6/23~25に過激な表現を使った内容に修正されていらっしゃいましたが、私はその表現には反対です。

以上です。

【創作作品に対して記載された検証不能な主観に基づくWiki記事例】

○高視聴率を上げたといえば格好がよいが、厳密には過疎地の商品化ではないのかという見解も数多い。
○物語のプロット自体は、同じ朝の連続テレビ小説の『おしん』と似ており、『おしん』をオマージュしたものと考えられる。
○時代劇製作現場のシーンなども所々に織り込まれ、20世紀の映像の歴史も楽しめる作品である。
○子供の頃の約束がテーマ、沖縄出身の天然ボケ美少女が活躍といった追加要素から、当時人気だったコミック『ラブひな』をモデルにした作品ではないか?という声もある。
○物語全体に細かい伏線を張り巡らせる演出は、ドラマファンから高い評価を得た一方、家事をしながら視聴している人たちからは「わかりにくい」という批判もあった。
○完全版のDVD発売や続編を望む声も多い。
○これまであまりドラマに取り上げられる事の少なかった出来事を取り上げる斬新さや、脚本の構成力などが高評価を呼び、現在にいたるまで根強いファンの多い作品である。
○他にもオカシイと思われる点は幾つかあるが、ドラマである以上史実と異なる部分があっても許容なのかも知れない。
○幕末維新を扱った大河ドラマの中では最も視聴率の高かった作品であり、軽薄な受け狙いがない骨太の歴史ドラマとして高く評価された。
○全体としては骨太のストーリーで、作品としての評価は高い。無難なストーリーやキャスティングが多い大河ドラマの中では異色の物語ともいえ、大河ドラマの中での再評価が必要だろう。
○近年のNHKには鎌倉時代末期から室町時代中期にかけての時期を忌避する傾向があり、当分の間この時代を題材にした作品は作られそうにない。
○幕末の対立構造の複雑さや、主人公の慶喜の動きの乏しさなどから、視聴率は伸び悩んだと指摘される。

--無頼風。 2006年6月26日 (月) 20:52 (UTC)[返信]



>それを「ドラマの感想」と読めてしまう人もいらっしゃるようですが、何故でしょう 事実というのは客観性が伴って初めて事実であり、あなたにとっては真実であっても、そこに評価というものが含まれてくる以上、それは事実とはいえないものだからです。配役 やストーリーは検証可能な事実ですが、配役の適否やストーリーの適否は事実とは言いません。朝ドラの歴史を紐解くことが目的であれば、朝ドラの項で行うことが適切と思います。--DeleteLover2006 2006年6月27日 (火) 00:40 (UTC)[返信]

その指摘はちょっと酷過ぎるんじゃないでしょうか。「配役の適否やストーリーの適否について、このような報道があった」、というのは事実たりえるでしょう。評価が含まれるから事実でないと言うのは言いすぎ。社会的事象に対する論述で全くの価値自由であることなどありえません。立場・見解を異にするかもしれないけど、この視点をはずすわけにはいかないのでは、ということで折り合えるところを探ることに意味があるのだと思いますが。加えて、この作品が朝ドラの中で占める位置、についてこの作品に関する限りでここで書くことについて、そんなに違和感はないですけどね。大項目主義/小項目主義の感覚の違いかもしれませんが。202.228.203.34 2006年6月27日 (火) 00:57 (UTC)[返信]
「報道」があったというのは事実としてはあるのでしょうが、「評価」そのものは事実ではありません。また、報道の内容が客観的であればよいのですが、報道と言ってもある種の評価や意図を持っているものですから、評価に関して「そのような報道があった」と記述すること自体が、中立性を損ねます。評価が含まれるから事実ではないとは申しておりません、評価自体は事実ではないということです。自明です。記述するなら評価を伴わず、中立的に淡々と事実のみを記載してください。もちろん偏向しない事実を。--DeleteLover2006 2006年6月27日 (火) 01:03 (UTC)[返信]
ある報道があったと記述しないことが中立性を損ねる場合もあるのではないですか。一般的に言って、ドラマAについては見られなかった報道がドラマBについて行われた、というのは記載に値する(可能性のある)ことだと思いますが。評価を含まない事実を淡々と述べるだけでは単なるデータ集であり、百科事典の名に値しないと思います。もちろん、依拠するデータが示せてこその評価であるべきですが。私は、ドラマの記事であれば「配役の適否やストーリーの適否についてこのような評価がある」(どちらの立場に立つにせよ、一般的にそのような理解がある程度浸透している)といった内容も含めての記事であって欲しいとおもいますが、いかがでしょうか。一般的でない独自の見解をかけば中立性を害するし、Wikipedia の方針にも反することになるのでしょうが、評価を含むから直ちに中立的でない、というのはいきすぎだと感じます。せまい道かもしれませんが、その間の道があるはずだし、Wikipedia は不特定多数の編集を経ることでその道を行くことを探っているのだと思っていましたが。(実際に、もっともっと微妙な話題でローカルルールを作って対立する見解を捌いているところもありますよね。)202.228.203.34 2006年6月27日 (火) 02:47 (UTC)[返信]
記述をしない以上、そこに評価や観点はありません。「記述をしないことが地位率性を損ねる」と考える理由は、そう考えるあなたがある観点から物事を見ているからです。まったく白紙の状態で見る限り、何もかかれていなければ何もないわけですから、中立性を損ねるなどということが生じようがありません。
評価を含まない事実と、データ、は別のものです。解説文はデータではありません。よって、評価を含まない事実を淡々と述べることがデータ集である、という指摘はまったくもって失当といわざるをえません。なぜデータなのか不明。
また、その批判を逆に解釈すれば、評価を含んだ記述をせよという解釈も可能ですが、もちろん評価を含んだ記述など、百科事典には不要であり、もし評価をしたければ自分でブログでも立ち上げておやりになればよいのです。ざまざまな編集をへてよりよい方向にもってゆくことは大切ですが、何でも好きなようにやればよいわけではなく、ここが百科事典であるということが前提であることをわすれてはなりません。
「評価を含むから直ちに中立的でない、というのはいきすぎだと感じます」→いきすぎではありません。どこのだれの評価であろうと、それは主観であり、そんなものが含まれているものはその評価者の観点に拠るものですから、当然に議論の余地なく非中立で、POVです。評価を含むものなど中立ではありません。百科事典というものを何か誤解されているのではないでしょうか。ここはテレビガイドではありませんので、匿名の個人の観点など一切不要です。--DeleteLover2006 2006年6月27日 (火) 03:01 (UTC)[返信]
「まったく白紙の状態で見る限り」と書かれていますが、そもそも、ある項目が項目として存在すること自体、なんらかのスクリーニングを経ている(書くに値する内容であると判断され、かつ、その判断がある程度、たとえばWikipedia内で共有されている)わけで、まったく白紙の状態で見ることなど原理的に不可能です。その点で、DeleteLover2006さんのご見解はナイーブ過ぎると思われます。われわれにできることは、異なった立場から見ても合意できるところを探ることでしかありません。
「"特定の"匿名個人の観点」に留まるものであればまちがいなくPOVでしょう。しかし、「匿名の個人の観点」であっても、それを支える傍証があり、多数に支持されていることが確認できるのであれば、そのような見解がある程度の広がりを持って存在することを記述すること自体はPOVとはいえません。そうでなければ社会科学など成立しません。
「ここはテレビガイドではありませんので」とありますが、番組宣伝の提灯記事的内容は確かに不適でしょうが、その番組が世間一般からどのようなものと受け取られ、位置づけられている(ように観察できる)のかを述べずして、いかに百科事典の記事として成り立たせるおつもりなのでしょうか。自分の評価を述べたい(述べるべきだと考える)のではありません。世間一般からはこのようなものとして受けとめられているようだ、こういう意見のほうが多いようだ、というメタ評価とでもいうべきものは、十分な根拠を持つ限りにおいてNPOVたりえるし、自身が肯定的立場に立つか、否定的立場に立つかといったことそのものとは別に合意に達しうるはずだし、それこそが百科事典に収めるべき内容だと考えます。202.228.203.34 2006年6月27日 (火) 03:44 (UTC)[返信]


私自身「反論も議論もしません」と「天花をめぐる問題について(6月26日 (月) 20:52 (UTC))」で書き込んだので、書き込むつもはありませんでしたが、Deletelo0ver2006さんや202.228.203.34さんの本項や他項での書き込みを拝見し、次の点を追加で書かせていただきます。


 1)私の6月21日版の「天花をめぐる問題」は、202.228.203.34さんが他項で引用されている、
「作品についての批評的な分析が適切な観察に基づいている場合には歓迎されます。」
に準拠し「ここが百科事典であるということが前提」にたって中立的に書いたつもりです。
 2)「事実というのは客観性が伴って初めて事実であり、あなたにとっては真実であっても、そこに評価というものが含まれてくる以上、それは事実とはいえないものだからです」とありますが、私が引用したガイドラインにおける「あなたが精通していること、または学習しようとしていることについて寄稿する」に対してはコメント無しですか?
私は映画関係会社で脚本評価や完成した映画を評価して映画の権利を買い付けるビジネスを長期にわたってやってきており、同社のリスク軽減を目的として、脚本評価精度を上げるために脚本学校へ1年間通い、その経過の中で自分でも脚本を書く経験を持ちました。「天花をめぐる問題」はその経験を生かして中立的な立場で書かせていただきました。
その私とそういうキャリアを持っていない人の「客観」では、「事実というのは客観性が伴って初めて事実」における「客観」の意味が違うのでしょうか。
そのような状況において、「客観」の意味をどのように論じる事が正しいのでしょうか?「論じようが無いから、評論は主観なのだ。だから評論は百科事典に記載しうる項目ではないのだ」というのは、議論の放棄だと思います。
 3)「記述するなら評価を伴わず、中立的に淡々と事実のみを記載してください。もちろん偏向しない事実を」とありますが、私が書いた「天花をめぐる問題」のどこが偏向しているのでしょうか。「創作物に対する評価」的記事が全て「偏向的な主観記事」と判断されるなら、「作品についての批評的な分析が適切な観察に基づいている場合には歓迎されます。」と矛盾しますね。
また、本項について「事実というのは客観性が伴って初めて事実」「どこのだれの評価であろうと、それは主観であり、そんなものが含まれているものはその評価者の観点に拠るもの」と主張されていてWikiのジャンルを問わずに多くの項目において大鉈をふるっていらっしゃる方が、Wiki上のドラマ、映画、アニメの項で、私のような専門家でも検証不能なより主観的な記事を放置して、本項の当該節のみに執着される理由が不明です。
 4)「朝ドラの歴史を紐解くことが目的であれば、朝ドラの項で行うことが適切と思います。」との意見がありましたが、ここ数年の朝ドラにおいて一様に天花と同様の傾向が見られるのなら、その指摘も正しいでしょう。
が、ご存知のとおり、ドラマの内容が著しく破綻したのは、朝ドラの歴史の中で天花1作品において見られる現象です。それでも、「朝ドラ(正しくは「連続テレビ小説」でしょうか?)」の項目にのみ記載の方がよろしいですか?
あなたのアドバイスを受け入れるなら、「朝ドラ」に項目にそのような節を設け、
「天花において脚本、プロデュース、配役等に問題が見られ、結果的に朝ドラの歴史の中で極めて完成度の低い完成度となった(詳細は「天花(朝ドラ)」の項、参照のこと)。結果的に、NHKでは主役キャスティング等において、大きな方針転換をする事となった」という書き込みレベルにとどめ、本項において私が書いたとおりのボリュームの記載が適当と考えますが、いかがでしょう?
とはいえ、当該作品である「天花」の項目において、その問題点を詳しく記載する必要が無い、とする理由が不明です。
5)「配役 やストーリーは検証可能な事実ですが、配役の適否やストーリーの適否は事実とは言いません」とありますが、私の6月21日版の本節記載では、「配役 やストーリー」は検証可能な事実について論じていると考えます。
特に、キャスティングについては、過去履歴を参照すると、藤澤ファンとアンチ藤澤の間で荒れるネタとなっていたと考えられるので、特に細心の注意を払ったつもりです。
とりあえず以上とさせていただきます。--無頼風。 2006年7月1日 (土) 19:02 (UTC)[返信]

>まったく白紙の状態で見る限り」と書かれていますが、そもそも、ある項目が項目として存在すること自体、なんらかのスクリーニングを経ている(書くに値する内容であると判断され、かつ、その判断がある程度、たとえばWikipedia内で共有されている)わけで、まったく白紙の状態で見ることなど原理的に不可能です。
↑困りましたね。記述者については何らかのスクリーニングがかかっているという主張の通る余地は有りますが、閲覧者は「まったく白紙の状態」でみることが十分にありますし、それを想定して書かないといけないのではありませんか。--DeleteLover2006 2006年7月2日 (日) 01:14 (UTC)[返信]

私は202.228.203.34さんの

>世間一般からはこのようなものとして受けとめられているようだ、こういう意見のほうが多いようだ、というメタ評価とでもいうべきものは、十分な根拠を持つ限りにおいてNPOVたりえるし、自身が肯定的立場に立つか、否定的立場に立つかといったことそのものとは別に合意に達しうるはずだし、それこそが百科事典に収めるべき内容だと考えます。
という主張に賛成するものです。これに抗うオブジェクションは見いだせません。また無頼風。さんの考えにも道理はあると思います。Miami 2006年7月2日 (日) 01:55 (UTC)[返信]

そもそもそのような評価を「百科事典」に記載しなければならない理由についてはどうですか。「~ようだ」などというのは記述者の推測に過ぎず、なぜ記述者の主観がNPOV足りうるのか理解できません。十分な根拠を持つ限りにおいては、という条件付ということであれば、その根拠を示した上で、推測は排除して下さい。ぎりぎり、そのような記述方法なら、中立的・百科事典的な記述としての許容範囲内かもしれないと思います。どうしてもそのような評価を書きたいのならば、ですが。--DeleteLover2006 2006年7月2日 (日) 02:05 (UTC)[返信]

>世間一般からはこのようなものとして受けとめられているようだ、こういう意見のほうが多いようだ、というメタ評価
このようなことを議論する際に、「こういう意見が多いようだ」ということを示す十分な根拠が本当にあるのかどうか、つまり無作為抽出した標本に対する統計的調査のような十分信頼すべきデータがあるのかどうかということが問題だと思います。そのようなデータとしては、作品に対する評価についての調査というのは恐らく無いと思いますし、評価を間接的に示すものとしてビデオリサーチ社の発表する視聴率があるぐらいではないかと思います。--124.26.162.95 2006年7月2日 (日) 03:05 (UTC)[返信]

無頼風さんは本作品に対して独自の評価をされ、作品についていくつかの問題点を指摘されていますが、それらが「問題である」と判断した際の評価の基準は自明なものとはいえないと思います。
DeleteLover2006さんが上で述べられていることの繰り返しになりますが、作品に対する評価を含んだ記述を行う場合には、その評価のための基準を設定する段階で恣意性がいくらでも入りうるので、そのような記述はもはや中立的ではありえないと思います。
たとえ「あなたが精通していること、または学習しようとしていることについて寄稿する」というガイドラインに適合していても、上記の意味で非中立的な記述である場合には寄稿は認められないと思います。--124.26.40.210 2006年7月2日 (日) 05:25 (UTC)[返信]
中立性を錦の御旗に掲げるあまり、角を矯めて牛を殺すようなことになっているなあ、と感じます。
このドラマは誰が原作で、どの局でいつからいつまで放映され、主なキャスティングとあらすじは以下の通り、--これでは中立性・客観性は保てるかもしれませんが、百科事典ではありません。ほかのテレビ番組・映画や架空のキャラクターを採り上げた項目はWikipedia にごまんと存在しますが、否定的な評価を述べているものも含め、もっと豊かな内容を持っていると感じますが。
また、無頼風さんのなされた評価がそれほど独自のものとは思えません。非常に初歩的な、ある程度プログラム言語を操れる人だったらほとんどの人が同じように書くだろうというようなプログラムには著作権が認められないとされるのと同様の意味において、独自性はないと思います。議論の進め方が論理的でないとか、根拠が薄弱だとかいう理由で改善を求める、了解できない部分については差し戻す、というのであればともかく、中身も検討せずにばっさりやるのはやりすぎです。一方的な意見だというのなら、反対側の(たんにファン気質によるのでない、幅広く納得できるような)意見もきちんと載せればよいことです。「評価の基準は自明なものとはいえない」のであれば、基準自体を示して、内容の是非を評価できるようにすればよいことです。その基準があまりにも恣意的だ、というのなら、それはそれで議論の対象になり、より妥当とされる方向に修正されるか、基準自体が妥当でないということで排除されるか、ということになるでしょう。
作品を論じる/採り上げる場合に、無が鹿の評価を持って望まないということは百科事典の項目として考えられないです、--こういう位置づけの作品です、一般的にはこのような評価をされています、といった。 評価のための基準に恣意性が入りうるという意味では、方法的に中立性を危うくする可能性のあるものであることは認めます。ただ、Wikipedia は開かれた場ですので、百科事典的な記述の充実を目指すという観点から、この項目にある程度関心のある人の間で賛否どちらをとるにせよ、このような記載は根拠があるし、納得できるよね、というレベルでの相対的な中立性を担保することは可能だと考えます。中立性が求められるのは、宣伝になったり、逆に誹謗中傷になったりすることで、百科事典としての目的を果たすことに支障が生じたり、プロジェクト自体に危険を及ぼしたりする結果になりかねないからでしょう。そのような危険を回避することを念頭に置きつつ、百科事典としての記載の充実を図ることを目的にした「完全に中立的ではないかもしれないが、それなりの根拠を持ち、有益であり、内容に対する批判に値する記載を行う」ことが、形式的に排除されてしまうようでは、実りは少ないのではと危惧します。メディアに載った意見も、偏向した報道を行っているものが多いからダメ、というのは明らかに行きすぎです。202.228.203.34 2006年7月3日 (月) 01:28 (UTC)[返信]
正直、Deletelover2006さんなどの「否定的記述」を断じて認めない、という頑なスタンスそのものが既にバイアスのかかったものであると思えます。おおらかな両論併記でいいんじゃないの?と思うんですけどね。他の項目のように。評判の芳しくなかったドラマを無味乾燥な中立的記述に仕立て上げること自体が既に中立的ではないし、事実の歪曲ですらあると思います。荒しとみなされるとはいえ、否定的記述を書かれる方が後から後から出てくること、それ自体がその作品の評判の裏付けではありませんか?それでもDeletelover2006さんなどがご自分の流儀をWikiのコモンセンスとして押し通そうとするのならなされるがよいでしょう。ただし、その場合は編集合戦がなくならないことは請け合います。でもそれでは問題の解決にならないでしょう?議論というものは相手のやり方を全面否定して自分の流儀を相手に押しつけることではありません。考え方の違いというものはもともと話してわかりあえる、というものではありませんから。お互いに多少は譲歩して、妥協して落としどころを見つける、そういうふうにしていかないと、話はいつまでたっても終りません。Miami 2006年7月3日 (月) 03:25 (UTC)[返信]
あれれ? いつ「否定的記述を認めない」なんていいましたか? 否定的記述だろうが、「肯定的記述」だろうが、「評価を書く場所ではない」と一貫していっています。どうして「否定的記述を認めない」になってしまうのかな。もちろん、そんなスタンスならバイアスがかかっているんでしょうけど、私は評価を書く場所ではないと申し上げているのですから、Miamiさんにはもう少し冷静に読んでいただきたいです。私の流儀なのではなく、百科事典は主観や感想を書く場所ではないのは百科事典の百科事典たる性質の問題ですし、少なくとも「wikipediaは何でないか」に従って意見しているだけなので、私の独自の見解の押し付けではありませんよ。まぁ、そう怒らないでください。譲歩するのはよいのですが、言っていないことを言ったと思われたり、まったく異なるスタンスであると曲解されたりしたら、それこそ歩み寄りが難しいので。よろしく!--DeleteLover2006 2006年7月3日 (月) 03:39 (UTC)[返信]
はは、キレてないっすよ(笑)。っていうか、私個人の感情を勝手に推し量らないでくださいね。そういう物言いはあまり好きではありませんし、ディベートにはふさわしくないように思いますよ。それと「評価を書く場所ではない」とおっしゃいますけど、どなたもそんなことされてないように思いますが、それはDeletelover2006さんの読み方にもよるのではないでしょうかね?もう少し、202.228.203.34さんの書き込みを読み込んでみてください。ではまた、夜にでも。Miami 2006年7月3日 (月) 04:05 (UTC)[返信]

遅いレスポンスになってしまいましたが、
>中立性を錦の御旗に掲げるあまり、角を矯めて牛を殺すようなことになっているなあ、と感じます。
>このドラマは誰が原作で、どの局でいつからいつまで放映され、主なキャスティングとあらすじは以下の通り、--これでは中立性・客観性は保てるかもしれませんが、百科事典ではありません。
>ほかのテレビ番組・映画や架空のキャラクターを採り上げた項目はWikipedia にごまんと存在しますが、否定的な評価を述べているものも含め、もっと豊かな内容を持っていると感じますが。
そういうのは、各執筆者がある程度配慮をして記述することで、うまくいっている場合ではないでしょうか。 編集合戦になってしまうような場合には、 不毛な争いを避けるためにも中立性の原則にのっとるしか方法はないと思います。 豊かな内容にすべしというのは理解できるのですが、 そもそも豊かな内容を目指すなら、編集合戦を引き起こし保護されるような事態に陥らないよう、各執筆者が偏らない記述をするというのがまず重要だと思います。

>また、無頼風さんのなされた評価がそれほど独自のものとは思えません。
>一方的な意見だというのなら、反対側の(たんにファン気質によるのでない、幅広く納得できるような)意見もきちんと載せればよいことです。
そもそもテレビドラマをそのような評価の対象とみなすべきか、という点が問題だと思います。 テレビドラマなどのテレビ番組は、第一義的にはあくまで娯楽でしょう。 「視聴者各自にとって面白いか面白くないか」、そういう個々の主観的な評価をまず第一に尊重すべきだと思います。 決してテレビドラマが論評の対象にならないという意味ではないですが、 そのような論評をWikipediaで公表し、不特定多数の人に閲覧を強要する行為が果たして正当なのかということです。 そのような論評は必要ないという立場の人にとっては、無頼風さんのされたような評価を含む記述は、内容の如何、採用している基準の如何以前に、その存在自体が無意味で余分なわけです。

もちろん、上で言われているように、一般に広くゆきわたっているような評価について「このような評価をする人が多いようである」というかたちで記述する、しかもその根拠が明確である、 ということなら、否定されるものでもないと思いますが。 たとえば「本作品の反響について」というようなセクションを設け、あくまでも検証可能な事実として一般の評価を記述するということなら可能ではないかと思います。 --124.26.164.63 2006年7月9日 (日) 08:16 (UTC)[返信]

>たとえば「本作品の反響について」というようなセクションを設け、あくまでも検証可能な事実として一般の評価を記述する

それには賛成です。もちろん「誰某の演技が下手」といった個人の主観でしかない記述は除外、ということでしたら、どなたにもある程度、納得もしていただけて、荒らしも書きにくくなるように思います。Miami 2006年7月9日 (日) 08:50 (UTC)[返信]

「検証可能な」ですから、その評価の典拠を明示するか、容易に分かるようにしなければ、結局は「一般的な意見だ」と主張するだけの単なる主観の記述に成り下がるでしょう。--PeachLover 2006年7月9日 (日) 08:52 (UTC)[返信]
では、どうすればいいでしょうか?Miami 2006年7月9日 (日) 09:40 (UTC)[返信]
ですから、上で述べたように、典拠を明示するか、典拠が容易に分かるようにするしかないんじゃないですか。そうしなければ、「そのような見解が述べられた事実」でありかつ「その見解が百科事典に載せるに足る信頼の置ける発言者によるもの」もしくは「百科事典に載せるに足る検証可能な議論のなかで行われたものであること」がわかりませんからね。これができなければ、ただの検証不可能なもの、もしくは、誰かの印象、にしかなりません。--PeachLover 2006年7月9日 (日) 11:25 (UTC)[返信]
え〜と、PeachLoverさんってDeleteLover2006さんと同一人物ということでしょうか?まぁいいや。
PeachLoverさんの今回のコメントに対しては202.228.203.34 2006年7月3日 (月) 01:28 (UTC)さんのコメントの主張に私は同意いたします。
PeachLoverさんのスタンスもわからないではないですが、それはWikiのPeachLoverさん流極北的解釈であって、Wikiの代弁者とはもはや言えなくなります。もっとおおらかに緩やかに運営するやり方であってもいいんではないでしょうかね。厳格に締め付ければ荒らし的書き込みがなくなるというものではありません。むしろ、厳格に削除するからこそ、荒らしを呼び込んだ側面もあると思うのね。
ディベートというのは正しさを適用するというよりはむしろ現実的な妥協点を模索するためにするものです。せっかく124.26.164.63 2006年7月9日 (日) 08:16 (UTC)さんが妥協案を出して下さってるので、じゃあ、とりあえずそれでいきませんか?と私もその提案に乗ったわけです。Miami 2006年7月9日 (日) 15:59 (UTC)[返信]

ずいぶんと高尚なネタの応酬がなされているが、「発言者は、そもそもこのドラマを観た事があるんですか?」と質問したくなるような的外れな発言が多いと感じる。
履歴を読めば解るだろうが、この「天花」の項が荒れるのは、ドラマのファンとアンチ、主演者のファンとアンチ、この双方が、

「ドラマに好意的な記載がなされると、アンチが修正する」
「ドラマに否定的な記載がなされると、このドラマのファンが修正する」
「藤澤に好意的な記載がなされると、アンチが修正する」
「藤澤に否定的な記載がなされると、藤澤ファンが修正する」

という編集合戦がなされているに、過ぎない。
この傾向は、「天花をめぐる問題」を削除したところで、大勢に変化はない。なぜなら「天花をめぐる問題」が書き込まれるはるか前から、そのような編集合戦は行われていた事だから。
むしろ、「天花をめぐる問題」の内容を検討するに、「ドラマに対する感想」ではなく、テレビの画面から読み取れる事実からその脚本の問題点とプロデュース機能の不在を分析してある。これによって少なくとも「ドラマの出来・不出来」についての編集合戦が抑止されると私は思う。この分析を「個人の勝手な感想」「テレビドラマへの評価」と認識するのは、どう考えても誤解。

>たとえば「本作品の反響について」というようなセクションを設け、あくまでも検証可能な事実として

一般の評価を記述するそれなら「天花をめぐる問題」は、ファンにもアンチにも納得が出来る内容だと思うけど。
先月下旬の編集合戦が、「天花をめぐる問題」の「3.キャスティングの問題」を発端にしているというなら、この項だけ削除すればいいんじゃないか?「キャスティングの問題」は「2.プロデュース機能の問題」でもカバーされているし。
無頼風さんは自分のキャリアを、このノートで公にしている。そのキャリアから考えるに「その見解が百科事典に載せるに足る信頼の置ける発言者によるもの」であると私は思う。
そのキャリアを考慮しても無頼風さんのプロとしての分析は百科事典に掲載するには不適当だ、無頼風さんの書き込みは個人的な感想に過ぎない、と主張するなら、その根拠をききたい。
--222.226.225.77 2006年7月9日 (日) 18:57 (UTC)[返信]

私は一応、見てました。なので個人的感情を入れるともっとえげつないことに...(笑)。ですので、極力個人的感情は出さないで肯定的論者の方々と話してきました。

:>そのキャリアを考慮しても無頼風さんのプロとしての分析は百科事典に掲載するには不適当だ、無頼風さんの書き込みは個人的な感想に過ぎない、と主張するなら、その根拠をききたい。

それは私も同意見です。ですがloverさんはその質問にはお答えにならないのです。Miami 2006年7月9日 (日) 20:02 (UTC)[返信]
これ以上議論しても、客観性の担保というものになれていらっしゃらないかたとの議論は埒が明かないのですが・・・「無頼風」さんのプロとしての分析?? いいですか、「無頼風」というのはアカウント名でしかなく、そのような匿名で何を言おうと、「プロ」であるかどうかなどの検証もできないし、匿名で個人がいったことなど、なんの客観性もないんですよ。無頼風というのが世間で認知された名前で、その名前での意見が請うt期名ところで評価されているのならともかく。・・・  何を言っていらっしゃるんでしょうね。仮に、百歩譲って何がしかのプロであったとしたって、無頼風さんの個人的な感想に過ぎないでしょう。個人的な感想でないなら、なにか組織的に発表された公的見解だとでも言うのですか。まったく話にならない。--PeachLover 2006年7月13日 (木) 01:00 (UTC)[返信]
無頼風さんが無名の個人であるからその感想にはまったく価値がないとするのは論旨が破綻しています。なんとなればウィキは「匿名の個人」の書き手に委ねられた百科事典なのですから。それと「まったく話にならない」とかそういうさも相手に理解力がないとするような物言いは控えた方がよろしいですよ。ディベート以前に礼義の問題です。価値観、考え方の違う人間が話し合うのがディベートなのですから、辛抱強く対話する根気がなくてそのような言葉を出されるのなら、議論に加わるのは控えていただきたい。Miami 2006年7月13日 (木) 02:25 (UTC)[返信]

ガイドラインから引用[編集]

(上のセクションでの議論に関連することですが、長くなるので別セクションにします。コメント等は上のセクションに続けてもらっても結構です。)

無頼風さんの記述およびそれに類するものが掲載可か不可かについては、 別に内容について細かく吟味せずとも以下を読めばおのずと明らかでしょう。

ウィキペディア内容に関する三つの基本的な方針のうちの一つ、Wikipedia:独自の調査から引用します。 別にあらためて引用するまでもないとも思いますが、 今後の判断の参考(どんな記述はokでどんな記述は不可か) にもなると思うので、長くなりますが引用しておきます。

途中、今回の件について関連すると思われるところを私の判断で太字にしました。 また、関連しないと思われるところは省略してありますので、適宜原文を参照してください。

別にこれを厳格に守るのがベストだというつもりもないですが、 完全に無視するわけにもいかないでしょう。 これをふまえたうえで議論をお願いします。--124.26.40.206 2006年7月12日 (水) 14:54 (UTC)[返信]


Wikipedia:独自の調査より、以下引用)


「オリジナルリサーチとは何か?」

ウィキペディアは真実性ではなく検証可能性を基準に情報を掲載します。つまりウィキペディアでは、情報それ自体が正確であると見なされるかどうかに関わらず、他の信頼のおけるソースによって発表された情報のみを発信します。オリジナルリサーチを避けるためには、そしてウィキペデアの記事の質を向上させるためには、一次資料、および既存の情報やデータの概括分析統合解釈評価が、すべて信頼のおける第三者の(つまり自費出版ではない発行物として発表されウィキペディア以外のウェブサイトか公立図書館を通じて閲覧者が閲覧できることが必須です。あなたが寄稿した情報のソースを適切に明記する事はとても重要です。そうすることにより、閲覧者は執筆者のソースを見つけだしウィキペディアがソースを正しく使用していることを確信できるからです。


「何が除外されるか」

理念や議論を提唱するような編集はオリジナルリサーチとされます。つまり、以下のようなことをする編集はオリジナルリサーチと認定されます:

(中略)

  • 他の概念や理論、議論、立場を反駁あるいは支持する議論を、その議論に関する信頼のおけるソースを何も提示すること無く導入する。
  • 編集者が好む立場を支持するような形で、既存の事実、理念、意見、議論を分析・統合するような議論を、その分析・統合の出典を明記せずに導入する。

(中略)

ウィキペディアがあるものを排除するということは、それが「悪い」ものであるということを必ずしも意味しません。ウィキペディアはそのようなものを発表するのに適切な場ではないというだけのことです。ピューリッツアー賞クラスのジャーナリズムやノーベル賞ものの研究でさえも、それがウィキペディアで最初に発表されることになるのであれば、掲載拒否せざるをえません。もし貴方がウィキペディアという知の集大成の一部となるべきだと考える情報をお持ちでしたら、まずそれを査読制度のある雑誌か定評ある報道メディアで発表し、その後中立的な観点のマナーにのっとり投稿するのがベストな道です。


「なぜオリジナルリサーチを排除するのか」

(中略)

しかし、オリジナルリサーチ(の排除)は「私的トンデモ理論禁止」にとどまるものではありません。この方針は編集者び個人的観点、政治的意見、発表済みの情報の個人的分析や解釈、そして自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する議論や定義を支持するような形発表済みの情報を解釈・統合するようなこと排除します。つまり、ウィキペディアで公開されるいかなる事実、意見、解釈、定義、議論も、信頼のおける媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません

(中略)

全ての編集者に適用されることで、この方針はウィキペディアの評判をいくつかの重要な形で保証します:

  1. 信頼でき定評のある情報を閲覧者に提供することは、ウィキペディアの義務です。それゆえ編集者は信頼のおける定評のあるソースのみに依拠するのです。ソースが信頼のおけるものかどうかの判定に関する議論については「何が信頼のおける出版物とされるのか?」と「信頼のおけるソース」を参照してください。
  2. 信頼のおけるソースは、読者が自らリサーチを行う際に参照することができるリソースを提供します。結局、人々は、リサーチの足がかりとして百科事典をひもとくのであり、リサーチの最後に百科事典を参照するのではありません。
  3. 信頼のおけるソースに依拠することは、記事においていかなる観点が提示されているかを明らかにすることで、その記事が中立的な観点に準じていることを保証する助けになります。
  4. 信頼のおけるソースに依拠することは、新たな寄稿者の参加を促します。例えば、ある記事が依拠していない重要なソースを誰かが知っていたら、その人はその記事に自信を持って重要な題材を追加することが出来るでしょう。


「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな統合の例」

もしAが信頼のおける媒体で発表されており、Bも信頼のおける媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます。しかし、これは「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな統合」の典型であり、オリジナルリサーチに相当します。「AでありBである、ゆえにCである」という議論は、その記事の主題に関連する形で信頼のおけるソースが既に発表している場合にのみ掲載することができます


「専門家の役割」

"オリジナルリサーチの排除"は、ある議題に関する専門家がウィキペディアに寄稿できないことを意味するわけではありません。むしろ、ウィキペディアでは専門家は歓迎されます。しかしウィキペディアでは、専門家は、その議題に関する個人的・直接的な知識を持ち合わせているだけではなく、その議題に関して既に発表された情報に関する知識を持っているがゆえにも専門家であると、考えています。この方針は、検証不可能な直接的・個人的な知識をもとに専門家がウィキペディアに寄稿することを禁止しています。もしも専門家の編集者自分のリサーチの成果を何らかの信頼のおける媒体において発表済みであるなら、その出典を明記した上で、第三者の中立的な観点から書けばウィキペディアに掲載できます信頼できる第三者の出版物の出典を明記しなければならず、また未だ発表されていない検証不可能な知識については使用してはなりません。専門家の方々は、自分達が専門家だからといってウィキペディアで特権的な地位にあるわけではないということを胸にいだきつつ、ウィキペディアの記事を充実させるために、公表されている情報に関する自己の知識を活用することが期待されます


「何が信頼のおける出版物とされるのか?」

信頼のおける出版物とは、例えば、査読制度のある雑誌や、学術書出版で有名な出版社や大学出版局、一般図書出版社の学術書出版において定評のある部門などから出版された書籍などが含まれます。

非学術的な分野に関しては、「信頼のおける」を明確に定義するのは不可能です。一般に、この言葉の意味について良い直感を我々の多くは持っています。急進的な政治・宗教団体が自ら刊行している雑誌や新聞はたいがい「信頼がおける」とは見なされません。例えば「ブッシュ大統領はゲイである」という言明を掲載するのに、Socialist Workers' Partyの機関誌The Militantにのみウィキペディアが依拠することはありえません。しかし、同じ言明がニューヨーク・タイムズで報道されたのであれば、ウィキペディアはその記事(およびその記事が引用しているソース)を参照することができます。ただ、急進的な政党の機関紙は、その政党自身に関する情報ソースとしては、使用することができます。

出版物の信憑性を評価するには、幾つか自分に質問を投げかけてみるのが良いでしょう。それは公然と特定党派を支持しているか? 読者層は大きいか、それともとても小さいか? 自費出版請負業者かどうか? 編集者は主に一人だけか、それとも大きな恒久的な編集部があるか? 何らかの査読制度を持っているか、あるいは気まぐれで何でも掲載してしまうか? もし貴方がソースとして利用しようと考えている出版物が、貴方について否定的な記事を掲載しようとしていたなら、あなたは(a)事実をちゃんと確認しない無責任な出版社だからと怯えるか?それとも(b)その出版物は何層もの編集スタッフ、事実調査員、弁護士、編集長、出版社を持っており、たいてい誤りは訂正してくれるので少しは安心するか? もし(a)であるなら、その出版物はソースとして使用すべきではないでしょう。もし(b)であるなら、それはウィキペデアで言うところの「信頼のおけるソース」に相当します。

(引用終わり)