ノート:壱岐イルカ事件

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梅崎義人の評論の扱い[編集]

梅崎氏に関するYOUTUBEを出典に用いた項目は、次の編集[1]からはじめるが、ウィキペディアが梅崎氏を論破したかのような記述(しかも誰の出典かも不明)を行っている為、「便宜的に抗弁する必要が生じた」からである。 その部分とは上の編集の次の部分である。

『梅崎義人(水産ジャーナリスト)によると、反捕鯨運動は黄色人種差別に基づく、レイシズムによるものであり、ケイトによるこの事件が論拠に挙げられている。ただし、梅崎はケイトが当初からイルカの開放を目的としていたと述べているが、これは現場取材に基づく川端の記述とは異なる。また、梅崎は壱岐のイルカ漁を許さず、アメリカの漁業によるイルカの混穫を許すのも人種差別によるとしているが、壱岐の事件は活動家の間ではイルカ混穫と対になる問題と捉えられていた事実を川端が指摘しており、『ナショナル・ジオグラフィック』1979年4月号の特集においてもそう取り上げられているため、誤った認識である。』

この「誤った認識である」という(実は)誤った文章をウィキペディアが掲載し続けてしまった為、梅崎氏本人が語っているビデオを根拠にし、抗弁するのである。

ビデオで、梅崎氏は「なぜケイト氏は自国の問題を先に片付けないで、他国の問題を実力で阻止しようとするのか」を問うていますが、これは、米国のイルカの捕殺数が日本よりも桁違いに多いのにも関らず、なぜ自国の問題を先に片付けないのか、と不思議に思ったもの。(30年経った2012年現在もアメリカは桁違いに多いですが)。従って、活動家の間では二国が「対になる問題と捉えられていた」という指摘は(ケイトさん本人の行動を問うているので)回答にさえなっておらず、「誤った認識である」という文章も使えない(もともと出典不明ですが)。それどころか悪口を書いただけの結果になっている。

ウィキペディアは梅崎氏に謝罪しなければならないのではないか、と思う。お詫びにせめて梅崎氏の主張を掲載し続けねばならない責任が生じるでしょう。

梅崎氏は有名人なので、こんなところ(陰謀論[2])でも、手の込んだ悪口が書かれています。こういうのは発見次第、削除してしまえば問題ない、としているのがウィキペディアなので、それって少し無責任なんじゃないかな…と思ったりします。 --118.9.124.174 2012年8月16日 (木) 03:40 (UTC)[返信]

ウィキペディアでは、誰かの独自解釈を見つけたときに、それに対して自分の独自解釈で対抗してはいけません。その代わりに、WP:NOCITEに従うとよいと思います。すなわち、独自解釈と思われる部分に「要出典」テンプレートを付けて、しばらく待っても出典が追加されなければ、その記述を除去します。存命人物についてはこの限りではなくて、出典のない否定的な記述(出典もなく「梅崎氏の認識は誤っている」と書くことがそれに当たります)を見つけた場合は、その場で除去します(ウィキペディアでは存命人物の名誉を守ることは非常に重要なことです)。--Bugandhoney会話2012年8月16日 (木) 20:28 (UTC)[返信]

梅崎義人氏の著作物の扱い[編集]

Bugandhoney 氏は[3]で 次の様にコメント「本人がアップしたようなYouTubeの動画は出典に使えないです」されましたが、

このビデオは、ジャーナリストの梅崎氏の本人の声明(主張)であり、梅崎氏のオリジナルな著作物であり(撮影者は不明ですが、恐らく「超人大陸」や「チャンネル桜」などと同様のもの[4]でしょう)、しかも、何らかのアクシデントでビデオが消去されたとしても、既にネット上に多数のコピーが出回っており追跡可能です。これが私が、紙の著作物と同様にこのネットビデオを出典として扱った根拠です。 --118.9.124.174 2012年8月16日 (木) 03:40 (UTC)[返信]

いや、このビデオは出典には使えないです。WP:RSにあるとおり、ウィキペディアの記事で一次資料を使ってよいのは、信頼できる出版元から公刊されている場合だけです。出所不明のビデオ(YouTubeに個人アカウントでアップされた動画)はだめです。私にはこれが梅崎氏本人であることを確認する術もないし、著作権を侵害していることもありえます。チャンネル桜の動画に関しても、通常の報道機関(信頼できる出版元)とは言えないので、出典として用いることには否定的な意見があります(ノート:平清盛 (NHK大河ドラマ)/過去ログ2#コメント依頼(チャンネル桜の番組は出典として使えるか?)などを参照)。
仮に、このビデオが梅崎氏の公式サイトからアップされたものだったとしても、この記事では基本的に出典としては使えません(Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源WP:SPSなどを参照)。梅崎氏の記事があれば、その中ではWP:SELFSOURCEに従って出典として使える場合あります。--Bugandhoney会話2012年8月16日 (木) 20:28 (UTC)[返信]

著作権侵害[編集]

118.9.124.174氏が記述した裁判の文章が殆ど壱岐の自然と文化遺産研究保存会内の文章の丸写しであり、著作権侵害に当たるのではないでしょうか。--葛餅会話2012年11月16日 (金) 09:49 (UTC)[返信]

  • 問題の部分は朝日の報道で置き換えました。「壱岐の自然と文化遺産研究保存会」はトップページや問い合わせを確認したところ、誰が書いているのか分からなかったので、WP:RSとは呼べないと思います。除去するか要出典タグをつけました。
  • ケイトさんが所属していた動物愛護団体ですけど、朝日では訳し方がいろいろと変遷しています。それで、ケイトさんは、いわゆるグリーンピースのメンバーではないです。このページで名前が言及されていますが、名前は同じですけど、バンクーバーのグリーンピースとは別にハワイで立ち上げれらた団体で、その後世界各地のグリーンピース団体が統合される過程で袂を分かった団体のようです(Greenpeace Foundationを参照)。--Bugandhoney会話2012年11月16日 (金) 21:00 (UTC)[返信]
お手数かけました。ケイト氏がグリーンピースの構成員や元構成員という「未確認情報」はあるものの、信頼できるソースにないものの、隠すような事ではないので疑問視していましたが、腑に落ちました。また、以前の版のように一々「グリーンピースの」と記述する姿勢も(仮に彼が構成員であったとしても)蛇足であると思っていました。--葛餅会話2012年11月17日 (土) 06:27 (UTC)[返信]

動物の権利の概念が動物に人間と同等の権利を求めるもの?[編集]

要約欄で、「兄弟としたのは同等の権利を求めた結果と見做せる」[5]と、独自研究を主張なさっておられるため、その骨子「川端裕人は{{要検証範囲|動物の権利の概念が'''動物に人間と同等の権利'''を求めるものであり|date=2013-3-3}}」に要検証を付加し、検証をします。

  • まず、川端の著作に、本文中にあるような記載事項(要旨を取り違えていない出典箇所)があるでしょうか?
  • また、本文中の主張は「動物保護の過激派」しか言わない内容と思われ、一般的に、動物の権利とは「動物に一部の権利を認める」こととされています。人権と違い、動物に生存権があるわけではなく、「動物には豊かに暮らす権利がある」と解釈されているものと考えています。

以上の観点により、「川端裕人の評論」は大幅な書き換えが必要であると考えています。

また、90年代に書かれた川端が、梅崎の前に来るのは合点がゆきません。川端の取材も、20年程度たってから始まっております。作家の川端の著作は読み物としては面白いのですが、評論というほどではなく、ライターの域を出ていないかもしれません。梅崎の場合は、文芸評論家の山本七平との検討の結果を記している部分があり、評論とみなされるのです。

なお、「故人をレイシスト扱いするのも人権侵害じゃないかねえ。」とも要約欄で発言なさっています[6]が、故人には人権がないのは自明のことです。--べあぱーく会話2013年3月3日 (日) 09:46 (UTC)[返信]

梅崎さんの著書のほうが後でしょ?1999年?時系列に沿えば、川端さんの著書(「イルカとぼくらの微妙な関係」は1997年)で、次に梅崎さんの著書というのが普通だと思いますが。どっちが信頼できる著者かというのはかなり微妙かと思います。とりあえず、似たような経歴(マスコミ->フリーの著述家)ですよね。私が調べた限りでは、動物に関する著作は似たような数を出していて、書評を含めた、著作のメディアでの言及も似たような感じでした。とりあえず、川端さんの著作に関する独自の評価を記事本体に書き加えるのは止めていただければと。--Bugandhoney会話2013年3月4日 (月) 20:47 (UTC)[返信]
ここでいう「20年遅れ」とは、事件が起きたのを「1970年」と間違えました。事件は1980年ですから「10年遅れ」が正解です。--べあぱーく(Bearpark)会話2013年3月5日 (火) 16:21 (UTC)[返信]
  • 梅崎は事件当時から記者のレベルで「事件を知っている」のですが、川端は90年代に入ってから取材をします。取材の始まりが遅すぎるため、川端では「正確な時代考証として役に立たない恐れ」があります。川端は取材が難航した旨本に書いているはずです。ちなみに川端は事件当時は学生で、事件のことを「ジャーナリストのレベルで知っているのかも疑問」です。1938年生まれの梅崎は時事通信の水産庁担当だったので、その点は心配ありません。
  • 漁業ジャーナリストの会の会長でもあった梅崎は著名な文芸評論家の山本七平との会話の結果を記しており、「評論と言えるレベルに達しています」が、フジテレビにいた川端は何も裏付けがありません。学者や一流の評論家でも無ければ、事件の評論として百科事典に掲載するのはふさわしくありません。
  • 梅崎は「長年にわたり鯨問題の専門家」でテレビなどでしばしば解説していた経歴がありますが、川端は売れるから書くという種類のライターではないでしょうか。専門家でもない方の主張は百科事典にふさわしくありません。
以上の観点により、川端は編集除去が望ましいと考えられます(今はコメントアウト扱い)。「人物が違う」と申し上げたのは、そういうことなのです。川端の著作は、項目川端裕人なら記載に問題は無いかもしれませんという話ではないでしょうか。--べあぱーく(Bearpark)会話2013年3月5日 (火) 16:21 (UTC)[返信]
その主張は無理筋でしょう。まず、後から取材したから正確ではないというのでしたら、この記事自体も正確ではないということになりますよね。あと、当時ジャーナリストだったというのと当時取材を行ったというのは別じゃないですかね。梅崎さんが当時この事件の取材を行ったというのはどの文献で確認できますでしょうか。
2013年3月4日 (月) 20:47 (UTC)でも説明しましたが、べあぱーくさんが個人的に川端さんの著作を評価していないというのはよく分かりましたが、WP:RSではそんなことはないです。信濃毎日新聞2010年8月22日付け記事では、鬼頭秀一東大大学院新領域創成科学研究科教授が文庫化にあたって加筆した考察も深く、説得力がある。本書(引用者註:関口雄祐著「イルカを食べちゃダメですか?」のこと)と併読すると、ステロタイプ(画一的)な主張が跋扈して暗澹たる気持ちにもなるほど閉塞的なイルカ漁や捕鯨に関する議論に、新しい光が射してくるのを感じるというふうに評してますし、文庫版の書評はこれ以外に東京新聞2010年9月12日付け記事、サンデー毎日2010年12月19日号などにもあります。川端さん自身は、読売新聞2008年6月21日付け記事で動物園問題に関して識者としてコメントしてますし、「市民ZOOネットワーク」のエンリッチメント大賞の審査員を務めたり、『動物園にできること』『緑のマンハッタン』といった動物の権利関係の著書があります。とにかく、WP:RSを見る限りは専門家として取り扱われてますね。
この記事自体はもともと、川端さんの著作をメインの出典として作成されています[7]。それで、記事の骨格はおおむねそのままですから、川端さんの著作は一切使えないというのはおかしな話でしょう。--Bugandhoney会話2013年3月5日 (火) 18:09 (UTC)[返信]
  • 記事構成に、メイン出典という価値観は一切関係なく、編集は大胆に行ってもよいことになっております。メイン出典にこだわりますと、その本の宣伝にもなりかねませんので。
  • 「後から取材をしたら、不確かな時代考証になる場合がある」のは確かなことです。なお、梅崎さんのほうは1985年にはすでに山本七平との対話を行っているようです。梅崎1999の場合はたまたま出版にこぎつけるまでに時間がかかったと考えられます。
  • WP:RSは、百科事典に用いることが可能な信頼できる情報源を示しているだけと思われまして、「百科事典の記述としてふさわしい質・レベルの評論や評価の在り方を示しているわけではない」と解釈しております。今、議論されているのはまさにこの点です。例えば「動物の権利」への評価・評論にcwニコル氏が用いられたり、「ナチズム」への評価・評論にトーマス・マンが用いられるのは多くの方々が違和感を示すでしょう。それと同様のことかと思われます。この点、梅崎1999は、日本を代表する文芸評論家山本七平のコメントなどを用いており、レベルが違う文献(評論のレベルに達している文献)となりえるのですけれども。
  • 川端の書評や社会的活動を列記なされましたが、それは「作家として」であって、一般的な専門家とは違うのではないでしょうか。この場合の専門家は、歴史家、評論家、哲学者など学者レベルであるのは自明のことかと思われます。川端さんの経歴をみれば、単に、そのテーマを書いた売れっ子作家であるとしかみなせないもの、ではないでしょうか。川端1997が用いれるのは、その独自の主張(誰かに都合のよい主張、権威ではない主張)ではなく、事件の事実関係のみ許される(新聞記事と同等)のではないでしょうか。つまりこの記事(項目)では、川端さんが「取材として集めた情報が信用できる情報源である」という話です。著名人と専門家とは違いますので、注意深く扱い、一般的に専門家ではない著名人に評論や評価をさせないほうが無難なことはいうまでもありません。--べあぱーく(Bearpark)会話2013年3月6日 (水) 09:12 (UTC)[返信]

ちょっと話が平行線ですね。東大教授に説得力があると評された著作が出典として使えないはずがないでしょう。梅崎さんの著作を記事の出典として別格扱いするのも賛成できないです。梅崎さんは1987年から鯨料理店樽一社長らとともに「クジラ食文化を守る会」というのをやっていて[8]、鯨食を推進する運動に携わっています。この問題に関して中立的な第三者・ジャーナリストということではないです。ちなみに、梅崎さんの経歴は時事通信社に入社、ナイジェリア特派員を経て、1986年からフリーとなってます。国外にいた時期があるのであって、いつからいつまでナイジェリアにいたのかは分からなかったのですが、講演会でそれから科学面では1978 年、(中略)そのころ私は特派員でナイジェリアにいましたが、行ったときは1 ポンド1,000 円でした。帰った時は1ポンド220 円、大変な暴落です(水産ジャーナリスト・梅崎義人先生による講演。『21 世紀の食糧問題と海の役割』[9])と語っているのから推測しますと、事件当時日本にいなかった可能性があります。というのは、1ポンド1,008円だったのは1967年までで(スターリング・ポンド#概要)、変動相場制に切り替わった後も1980年代前半は300円から500円くらいです([10]日本が固定相場制を採用していた時のポンド円相場は約1000円でしたが、変動相場制に移行後の1982年には400円にまで急落しました[11]、1ポンド220円というのはポンドが安すぎるので何かの間違いでしょうが)。--Bugandhoney会話2013年3月7日 (木) 19:12 (UTC)[返信]

久々に来たら、論争になっているだけマシかなと、後からの研究が当てにならないなら、この世の研究はどれだけ当てにならなくなるのやら。当時恐らく資料だけで検討して、よく解らなくて山本七平に丸投げした梅崎の研究がどれだけ古くても、現地でフィールドワークを行い、また世界を駆け巡り推敲した川端祐人が当てにならない理由などはちーともありません。大体山本氏の著作を見ると、現地で聞いたレイシストの概念が理解できなくて、俺解釈にしたような御仁ではないですか、そこから孫引きした梅崎の研究が優れているとする理由はありません。今のままでは梅崎説のアドボカシーだけの項目になっていますよ。--葛餅会話2013年4月28日 (日) 06:28 (UTC)[返信]

>論争が起こっている場合、ウィキペディアでは一方の意見「だけ」を取り上げることは「むしろ」許されていないと考えられます
Bearparkさんは2013年4月21日 (日) 15:09にこんな事を書いていますね、ここでもそれに従っていただきましょうか、でなければ貴方は嘘つきです。--葛餅会話2013年4月28日 (日) 06:44 (UTC)[返信]
上記は、葛餅さんの個人的な見解でしょう。
川端はただのライターでしかない。作家やライターが「百科事典上で」歴史に評価を与えることは難しいと考えられます。沖縄戦を幾ら個人的に調べたとしても、百科事典内での論評に、大江健三郎がでてくるようなもので場違い。たとえノーベル賞作家であっても、評論家でも歴史家でも学者でもないのですから、「結論や評価」として登場させるのはおかしな話です。その他大勢の意見なら利用できるかもしれませんが。
一方、梅崎のほうは、日本を代表する評論家の山本七平の談話(価値観)を述べているのですから、百科事典での評論家の用い方として適正である上に、最上(第一級・第一人者)の評論家による見識なのですから、まるで次元が違います。
現実に論争が起こっているのでしょうか? 本当に、梅崎(又は山本)と川端が論争したのでしょうか? ぜひ出典をご呈示ください。 論争は、執筆者同士、または、あなたの頭の中で起きているのではないでしょうか? あなたの個人的な想像に付き合う気はないですが? --べあぱーく(Bearpark)会話2013年4月28日 (日) 08:01 (UTC)[返信]
「川端はただのライターでしかない」というのも、べあぱーくさんの個人的な見解でしかないので、水掛け論にしかならないと思います。--Bugandhoney会話2013年5月10日 (金) 14:20 (UTC)[返信]

新聞の反応について[編集]

何ゆえか、ドルフィニストという表記にこだわる独善的な人がいるようなので、ここではっきりさせておきたいのは。以前の表記だと「ドルフィニストだからさん付けしてはいけない」という話になってしまうという文法的な問題が生じます。これではわけが解りません。ドルフィニストに敬称をつけてはいけないというのは、ただの差別であり、発言した当人が逆に器量が狭い差別的な人物であるという誤解を生じさせます。基本的にあの記事の論旨は犯罪者にさん付けしないのはどうか、というのが文章としての論旨であり、ドルフィニスト云々はオマケです。更に言えば、あの記事の前提には「彼がさん付けする、当時のマスコミの姿勢」があったはずです。つまりそれは「当時意外に、彼に同情的なマスコミが多かったのではないか」という事ですが、それを証明する記事などは、現時点で挙げられていません、件の記事も然程そこに触れていません。仮にマスコミが同情的だから、当初の報道は決して非難一辺倒ではなかったから、反論として彼は偏執的なドルフィニストであるという事を表明して、初めて意味が通るのです。したがって、その当初の報道が同情的であったという具体的なソース及びそれに対応する記述が存在しない限り、現状ではこれ以上の記述はあの決して長くはない記事が原典である以上は不用でしょう。これ以外の切り口で彼がドルフィニストであるという見方が主流であったという見方を出来れば、彼以外の記者や学者の方の見方から記述するという方向もあるでしょうが、それについては感知しません。--葛餅会話2015年6月25日 (木) 10:07 (UTC)[返信]