ノート:吉田宿

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「江戸時代に吉田に祇園祭りはない。」か否か[編集]

利用者:0002228ppp会話 / 投稿記録さんに申し上げます。「江戸時代に吉田に祇園祭りはない。」とおっしゃいますが、そのことの出典こそ不明です。このような点はノートで議論を交わし一定の結論が出てから削除なり修正なりすべきです。江戸時代はなまじ、祇園祭の手筒花火のようなオレンジ色の単純な花火がほとんどのはずです。江戸時代の吉田城下で行われていた花火の絵などをご覧になったことは有りませんか?利用者:0002228ppp会話 / 投稿記録さんはかつて豊橋辺りの項目を混乱させていた荒らしと同一人物だと疑われますから気を付けて下さい。。--ウィキ豊 2008年3月13日 (木) 23:47 (UTC)[返信]

(横から失礼)「江戸時代の吉田城下で行われていた花火」について、出典を加筆していただければよいのではないでしょうか。どんな絵がどこに所蔵されているとか、どんな書物の何ページにそれに関する情報があるとかがわかれば、読者にとっても有益だと思います。おそらく豊橋市発行の参考文献などで言及があるのではと想像いたします。--miya 2008年3月13日 (木) 23:53 (UTC)[返信]
署名を忘れて失礼しました。『三河国吉田名蹤綜録』山本貞晨著などです。豊橋市美術博物館によると平成翻刻版が2千円です。具体的には豊橋祇園祭資料室のサイトの文章の上部の絵などインターネットで見ることも可能です。--ウィキ豊 2008年3月14日 (金) 00:20 (UTC)[返信]


東海道名所図会 1-6 / 秋里舜福編( トウカイドウ メイショ ズエ / アキサト シュンプク ) 成立年 寛政9年刊 (1797) 内容説明 京都より江戸へ至る途中の十州の名所、古蹟、神社、仏閣などの名勝図会。

○吉田 豊川/牛頭天王祠(放花炮 六月十五日祭式)/

※1797年の東海道名所図会には、吉田神社=牛頭天王祠。手筒花火=放花炮。祇園祭り=六月十五日祭式。となっており、豊橋市の主張とは完全に異なる。

六月十五日に、牛頭天王祠で、放花炮を執り行うお祭は、あったが、祇園祭りという名前のお祭ではない。

東海道名所図会は、ネット上で原文が前後のつながり含めて読める。

が、三河国吉田名蹤綜録』山本貞晨、豊橋祇園祭資料室などには、原文そのものが読めないため、伊達政宗発祥とする七夕などの町興しの可能性(いわゆる後世の付会)がある。


三河国吉田名蹤綜録』山本貞晨 文化3年(1806)ごろ書かれたと考えられ。

豊橋祇園祭の歴史 山本貞晨著作『三河国吉田名蹤綜録』にはこの前夜祭、吉田神社の参道において、現在の絵仕掛花火の原型ともいえる建物花火や小型の手筒花火である羊羹花火、今も残る大筒や乱玉花火、打上花火まで詳細に描かれています。 さらに古い文献には、手筒花火は永禄元年(1558)に今川義元の吉田城代、大原備前守の吉田神社への奉納に始まるとあります。1543年の鉄砲伝来のわずか15年後、あの鍵屋弥兵衛が江戸に「鍵屋」を起こす百年以上前と思うと、その歴史の古さに驚かされます。

↑ よく見たら、原文引用はなく、解説のみですね。--0002228ppp 2008年3月14日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

0002228pppさん、こんにちは。ウィキ豊です。牛頭天王の祭りは祇園祭りです。牛頭天王の祭りが有ると言うことは祇園祭が有ると言うことです。0002228pppさんご自身が牛頭天王祠で放花炮の奉納が有ったとおっしゃるのですから、この件はケリが付いています。なまじ、0002228pppさんご自身が吉田神社の祇園祭りが有ったとおっしゃって居るのですから。--ウィキ豊 2008年3月15日 (土) 01:22 (UTC)[返信]
0002228pppさんは原文引用が無いとおっしゃりますが、miyaさんは絵についておっしゃられたので絵を提示したのです。文ではなく吉田神社の祭礼で花火を出して居る(境内ではなく路上)絵を提示したのはそのためです。どちらにしても貴殿が示した「六月十五日に、牛頭天王祠で、放花炮を執り行うお祭」がいわゆる祇園祭りです。--ウィキ豊 2008年3月15日 (土) 07:43 (UTC)[返信]
0002228pppさん、ウィキ豊さん、参考情報と花火のリンクをありがとうございます。
吉田神社はもと「天王宮牛頭天王社」であり、祇園 (曖昧さ回避)にあるように、牛頭天王祇園精舎の守護神で、その祭りが祇園祭というわけですね。それでは江戸時代にも「祇園祭」と呼んでいたという出典が見つかるまで
>江戸時代、吉田城内にあった天王宮牛頭天王社(現在の吉田神社)の祭りにおいて奉納された花火は、吉田の花火として有名で、寛政9年刊 (1797年)の東海道名所図会にも「吉田 豊川/牛頭天王祠(放花炮 六月十五日祭式」と記録されている。この祭りは現在も「豊橋祇園祭」としてひきつがれており、吉田神社は手筒花火発祥の地とされている。
としてはいかがですか。--miya 2008年3月15日 (土) 08:37 (UTC)[返信]

まず、ここは吉田宿の解説ですよね?吉田神社や手筒花火の詳細は不要かと。

あと、牛頭天王祠(1797年)→須佐男社(明治2年9月以降、伊那県足助庁作成印の三河国全図)→吉田神社であるのは明白です。なぜなら、江戸時代は、吉田という都市名で、吉田にある神社全てが吉田神社と間違えられる恐れがあるからです。よって、豊橋と改称後は、豊橋にある神社と、吉田神社が混同することはなくなります。

放花炮が、手筒花火である可能性はありますが、一応、放花炮と記載されていますし。花火という呼称が使われていない以上、1558年から花火があったという吉田神社の主張は、1797年の東海道名所図会の記録から困難かと。

六月十五日祭式が、おそらく今の吉田神社の祭りなんでしょうが、少なくとも祇園祭りという名前ではないし、京都以外の地方の祇園祭りは近代になって名乗ったものでしょう、おそらく。

※現在の情報から見て、過去がすべてそうだったと断定するのは早計かと

あと、花火の発祥ですが、各種辞典には、駿府政事録に、二之丸立花火、という記載があり、慶長18年(1613年)8月に徳川家康が駿府城で花火を見たという、となっています。外国人が打ち上げた花火です。

花火なら、花火と記載されていなければおかしいです。おそらく、江戸時代は、打ち上げ花火=立花火で、豊橋の吉田神社の簡易的な花火は、放花炮と呼ばれていたものが、明治以降に、より改良を加えられ大型化し、手筒花火と呼ばれるようになったのでは?

東海道名所図会の記述にまったく触れていない吉田神社の記録は、おかしいとしか言いようがありません。--0002228ppp 2008年3月15日 (土) 10:00 (UTC)[返信]

Miyaさん、0002228pppさん、こんにちは。ウィキ豊です。基本的にMiyaさんの提案に賛成します。0002228pppさんのお話ですが、江戸時代に祇園祭りとの名は使われていた証明が必要か、それとも、名を使われていなかったことの証明が必要かの立証責任をどちらが負うのかの問題です。牛頭天王が祇園精舎の守護神であることを考えると、なまじ使用が禁じられていたことの証明が必要ではないですか?使用禁止令でも無ければ江戸時代に祇園祭りと呼ぶ人間がいてもおかしく有りません。旧尾張国の津島天王祭り(愛知県津島市)は普通は祇園祭りとは呼びませんが、祇園祭りと呼んだからと言って名誉毀損で裁判所で敗訴判決が下るとも思えません。つかぬ事を申し上げますが、利用者:Azaz.azmanga会話 / 投稿記録さんとは0002228pppさんと同一人物ですか?編集傾向が実に似ています。偶然に似たタイプの方かも知れませんが。--ウィキ豊 2008年3月16日 (日) 02:11 (UTC)[返信]
「吉田宿」の記事ではありますが、東海道名所図会に「○吉田 豊川/牛頭天王祠(放花炮 六月十五日祭式)/」という言及があったことは記載に値すると思います。
ただ、現段階で書くとしたら、異論の出ないこと、検証可能なことのみ書くべきです。「江戸時代から"祇園祭り"とよばれていた」と理解しうる記述にするなら、「江戸時代に祇園祭りとの名は使われていた証明が必要」です。もし出典が吉田神社発の文書しか見つからないなら「吉田神社の案内(?)には、*****と説明されている」と書くのが正確では? ところでウィキ豊さん、個人的ご質問は会話ページでお願いします。--miya 2008年3月19日 (水) 05:03 (UTC)[返信]
Miyaさん、こんにちは。ウィキ豊です。別に編集合戦は望んでいません。「○吉田 豊川/牛頭天王祠(放花炮 六月十五日祭式)/東海道名所図会」で充分です。個人的な質問の件ですが、時空の旅人氏と同一かと思いまして一対一の対話は不可能ではなかろうかと思った次第です。このようなことはここではふさわしくないかも知れませんが、個人会話ページでは泥沼化する恐れが有ります。--ウィキ豊 2008年3月19日 (水) 07:08 (UTC)[返信]
それから0002228pppさんへ申し上げたいのは明治以前では山城国京都以外で祇園祭りと呼ばれていなかったという説の出典が有るのかどうかと言うことです。わたくしの単なる不勉強かも知れませんが、正直申し上げて前代未聞です。そのような文献でも御座いましたら0002228pppさんがご提示下さい。祇園祭の項目で提示するのが良いかも知れませんが。--ウィキ豊 2008年3月19日 (水) 07:56 (UTC)[返信]

※証明は簡単です。京都の祇園社の祇園祭りは、江戸時代は、祇園会(または祇園御霊会)と呼ばれています。

また、祇園祭ですが、江戸時代中期に、浄瑠璃の祇園祭礼信仰記という歌舞伎の演目がありますが、祇園祭りではありません。

江戸時代の文献では、津島神社に祇園会、京都山城から歓請とある。 また、紀伊国名所図会に、和歌山県の須賀神社を、祇園御霊宮とあり、これも京都からの歓請とある。

江戸時代に祇園祭りと名乗る神社の祭礼は存在せず、文献にもない。

両社稲荷祇園行幸とあり、天皇が京都の稲荷社と祇園社に行く行事があり、江戸時代に祇園社という名前の神社が全国各地にあるはずがない。

東山感神院祇園社は、八坂神社に改称、明治政府の命令で。

明治時代の本に、博多祇園祭り、というのが初登場する。おそらく、これが地方の祇園祭りの走り。 福岡藩の黒田家文書に祇園の言葉なし、九州大学記録史料目録データベース検索結果。

国立国会図書館DBおよび国立公文書館DB検索結果。

↑証明終了。--0002228ppp 2008年3月19日 (水) 10:08 (UTC)[返信]

※祇園社の初見、日記に「祇園社」の名がみえる早例は『貞信公記』920年(延喜20)閏6月23日条である。もと興福寺に属していたが10世紀後半,延暦寺に属し,『日本紀略』974年(天延2)5月7日条に〈以祇園為天台別院〉と記される。

祇園精舎の初見は、鎌倉時代の平家物語の祇園精舎の鐘の声~=祇園精舎とは、祇園寺のこと(観慶寺の別名)。祇園社と同じ敷地内にあった寺で、もともとこちらが祇園だった。--0002228ppp 2008年3月19日 (水) 10:33 (UTC)[返信]

0002228pppさん、こんにちは。ウィキ豊です。0002228pppさんも資料に基づく説であることは充分分かりました。しかし、牛頭天王祠で放花炮が行われており、これが現在の吉田神社の手筒花火に当たるところは異論は御座いませんね。その旨を記入しても良いですね。0002228pppさんが御記入されても良いですが。それから江戸時代に祇園祭りと呼ばれていたか否かはここは吉田宿の項目ですので、吉田宿の項目の本文に記入すべきものとは思えません。祇園祭りという表現がひとつでも見つかったら0002228pppさんの説への反証となりますが、わたくしは0002228pppさんと喧嘩をしたいわけでは有りません。また、この問題は明らかに祇園祭の項目の問題です。--ウィキ豊 2008年3月20日 (木) 02:48 (UTC)[返信]
ウィキ豊です。原文のTornecoさんの文章をこのノートでの議論を加味した形で復活させました。もっと気の利いた形で復活させるべきとのお叱りも有りましょうが、そうお考えの方が再修正して頂ければ良いと思いましてこの様な文と成りました。--ウィキ豊 2008年3月21日 (金) 00:03 (UTC)[返信]