ノート:古墳時代

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「概要」文中で、「大和王権」と「ヤマト政権」という表現が別物として登場するのが、読んでいてよくわかりません。他の部分でも説明されていないように見えますので、解説の追加を希望します。 - Gombe 2005年5月6日 (金) 03:20 (UTC)[返信]

英語版からの移植について[編集]

2006.5.10から2006.5.12にかけて、英語版kofun_eraの一部を古墳時代へ移植しようとする動きがあったようですが、残念ながら英語版の記述はかなり問題があると言わざるを得ず、そのまま翻訳することは適当でないことを指摘しておきます。もちろん、有意義な記述も少なからずあるようですけれども、古くて既に否定された学説に基づいていたり、憶測のみに頼った記述が非常に多数含まれており、英語版から移植することは有害と言ってしまってよいだろうと思います。移植された方は「英語版の方が詳しいじゃん」と素朴な思いで行動されたと拝察いたしますが、ぜひ上記事情をご理解頂きたいと思います。--shimoxx 2006年5月14日 (日) 18:35 (UTC)[返信]

英語版の記述にかなり問題があるのは同意します。ただ、英語版の問題のある記述の放置は 英語版が事実上いちばん読まれる以上、それを認めているととられるおそれがあります。 日本版内容、とくに広開土王碑などの記述に基づく、朝鮮半島への 日本の進出などは書くべきではないでしょうか。イデオロギーに基づく記述の放置は問題があると思います。 私も微力ながら書いてみたいと思いますが研究者の方々の資料に基づく記述が より力が強いことは言うまでもありません。Horiuchi36 2006年5月16日 (火) 10:50 (UTC)[返信]

>それを認めているととられるおそれがあります。
そうした虞はないと思いますよ。ここは日本語版ですので、英語版の記事内容をどうするかについては、英語版のノートでどうぞ。。。--shimoxx 2006年5月19日 (金) 12:37 (UTC)[返信]

編集禁止?[編集]

これだけ恥ずかしい内容でユーザーの編集を禁止にするというのは、誰の判断なのですか。UTCさんですか。日本の歴史学、考古学はすべからく旧石器捏造状態であり、百科事典のもつべき自然科学的手法に基づく論理性とはそぐわないものとなっています。ユーザーの編集を禁止するくらいなら、日本の歴史そのものをWikipediaから全面削除したほうがよいと思います。2006年9月10日 Hironaga--以上の署名のないコメントは2006年9月10日 (日) 22:10の版(JST)にIPユーザー 利用者:125.14.135.3が投稿したものです。--Asuka 2006年9月18日 (月) 05:44 (UTC)[返信]

「編集禁止」ではなく半保護ですから、IPユーザーは編集出来ないだけです。ログインして下さい。
ウィキペディアの編集説明書をよく読んでみて下さい。アカウントの取得方法とか署名の仕方などが直ぐに分かりますよ。
ワカタケル大王の読みについてですが、ウィキペディアは、読みが正しいかどうかを議論するところではありません。通説になっていることを書くべきで自説を書くところでもありません。カタカナで書かないで元の漢字で書くようになったのならば、そのことをわれわれが検証出来るようにして下さい。
それから、自説の主張も結構ですが、自分の思い通りにならないからといって不平を言うのは止めて下さい。--Asuka 2006年9月11日 (月) 08:09 (UTC)[返信]

Higashi様/UTC様 (1)[編集]

半保護という意味は理解いたしました。多少言い過ぎのところはお詫びいたします。ワカタケル大王の読みが正しくないことは、鉄剣銘文のノートのところに詳細に記しています。それが誤っているのなら、そこにご意見を記載してください。この問題は(他にもたくさんあるのですが)、旧石器捏造と同じレベルの話と考えています。旧石器も教科書までに載りましたが、今日の考古学・歴史学の通説というのは、自然科学的な議論のうえに成り立っていないために、残念ながらその多く(特に古代史において)が客観的な事実とは思えません。閉鎖的なわが国の歴史学、考古学は、そもそも国際的な尺度で見た学問という意味で成立しているか大いに疑問なところです。そのことは、Hihashi様・UTC様もよくご存知のことと考えます。そのような歪みが生じた理由も、十分理解されていると思います。 百科事典は本来(少なくとも西欧的な意味では)、国際的な尺度で見た学問的手法で導き出された客観的な事実を伝えるべきものです。現状のようなさまざまな意味で歪められた(あるいは歪めざるを得なかった)歴史学の通説以外に載せないというのであれば、日本の歴史の部分を全面的にWikipediaから削除したほうがよいと考えます。旧石器捏造の問題については、藤村氏一人の問題にして記載しているのですが、それを見る限り考古学界、歴史学界の保身のための道具にWikipediaが成り下がっているようにも思われて残念です。 2006年9月13日 HIRONAGA--以上の署名のないコメントは 2006年9月10日 (日) 22:10の版(JST)にIPユーザー 利用者:125.14.135.3が投稿したものです。

ノート:鉄剣・鉄刀銘文を読んでいないのでしょうか? 自説を主張するなら、それを証明して下さい。私たちがあなたの説を検証出来るようにして下さい。
もしかして、これはお遊びですか? wikipediaのマニュアル文書をしっかりお読みになってから投稿をお願いします--Asuka 2006年9月13日 (水) 11:33 (UTC)[返信]

Higashi様、UTC様 (2)[編集]

専業でないので回答が遅れて申し訳ありません。Higashi様のご説明、ワカタケル大王の読み方に対する当方の意見に対し、何の反論にもなっていません。ご主張されているのは、「歴史学の定説」だけというのは、仮に貴兄が学問をつかさどるものであるとしたら、恥ずかしい限りです。

Higashi様がいわれる検証というのは、歴史学・考古学のオーソリティーの論文等に記載されているかどうかということのようにお見受けします。この問題については、多少繰り返しになりますが、わが国の歴史学、考古学は、残念ながら事実を事実として議論、検証できる、そういう学問的状況にありません。その表に出た一例が旧石器捏造事件です。ワカタケル大王の問題について、どなたの論文(著作)をその検証の対象とされているのか、例示されれば一つ一つ反論させていただきたいと思います。

本来の検証というのは、自然科学的な事実から証明できるということです。良質な史料はそれに含まれるのでしょうが、古代史でしたら例えば古墳の問題があります。その築造年代がかなり正確にわかっていますから、それをもとに記紀の誤りを正し、歴史を見直すべきです。しかし、それはまったくといってよいほどに行われていません。この問題は、民俗学者が唱えるヒメ・ヒコ制で考えれば解決するのですが、歴史学の世界ではヒメ・ヒコ制という言葉すら拒否する傾向が強いのは紛れもない事実です。

弥生時代の戦争についてWikipediaでも、民族対立という概念がどこにも記載されていません。自然科学的には、例えば徳島大学医学部の中堀豊氏の研究にあるように、日本人は主に縄文人系と3系統の弥生人から構成されたことがわかります。これは、漢に圧迫されて、朝鮮半島南部の馬韓(百済)、辰韓(新羅)、弁韓(任那)からそれぞれ渡来してきたということなのですが、その異なる民族(人種)が日本列島に渡来してきたとたんに、縄文人系を含め単一民族化するというようなことはありえないことです。そのような単一民族化は、旧石器捏造のひとつの背景である独自民族論とも共通する歴史の捏造でしょう。

埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘文も、きわめて良質な史料です。これを歴史的事実として、記紀の記載を見直すというのが、学問としての本来の立場です。雄略の問題については、安康より年長となるにもかかわらず、弟となっていることが従来から問題となっていました。この雄略と安康の関係は、天武と天智の関係によく似ています。すなわち、母は同じでも父親が異なるということです。そういう目で記紀を詳細に研究していた立場のものからすれば、雄略の母后忍坂大中津姫とともに出てくる堅石王がその実父とわかってきます。この問題について、「歴史学の通説」にならない(しようとしない)のは、天武と天智の関係同様、民俗学者のいうヒメ・ヒコ制の議論をしたくないということなのでしょう。ヒメ・ヒコ制の問題は、「歴史学の通説」になっていないのですが、これも旧石器が教科書にも載ったのと同じ次元の問題でしょう。

以上述べてきたように、Higashi様の主張されている検証というのは、多くが自然科学的には実証しえない「歴史学の定説」です。実証しえないどころか、自然科学的にはありえない定説も少なくありません。そのような「歴史学の定説」を金科玉条のように主張されるのは、歴史学のなかに身を置かない(それを生活の糧にしていない)者から見れば実に滑稽です。それは、旧石器が考古学で定説化されているときに、外国人研究者あるいは国内でも他分野の研究者が感じていたものと同じものです。自然科学的に実証し得ないものを定説にするというのは、さらにいえば学問への冒涜行為です。Higashi様には、そのような学問への冒涜行為を繰り返さないよいうに、切に願うだけです。 2006年9月16日 Hironaga -以上の署名のないコメントは2006年9月16日 (土) 06:29(JST)にIPユーザー 利用者:125.14.135.3が投稿したものです。--Asuka 2006年9月18日 (月) 05:38 (UTC)[返信]

上記議論とはあまり関係しませんが[編集]

ほかの歴史、考古に関する記事が比較的まともなのに比べ、「古墳時代」のこの記事は、あまりに酷いですね。 ほとんど、作成者「脳内」の古墳時代像であるといって差し支えない内容でしょうね(^_^;)

修正が必要と思われる部分(ほとんどと思われますが)を列挙したいと思います。 まず

>古墳時代(こふんじだい)とは、3世紀中期・後期から7世紀頃までにあたる日本の歴史における時代区分

「3世紀中期・後期」という記述は非常に違和感があります。「~時代○期」という記述であればありでしょうが、単に時間的な流れを示す「~世紀」に何らかの時代区分の画期ごとの固まりを示す「期」という言葉を付けることは通常しません。 単なるケアレスミスならともかく(「初期ヤマト王権」のところにも同じような記述がありますので、おそらくそうではないでしょう)、このような言葉に何ら違和感を感じていないようでしたら、この記事を書いた方は、考古・歴史系の文献を全く読んだことも書いたこともない方でしょう。 通常なら「3世紀中頃・後半」や「3世紀中葉・後葉」と書くでしょうね。 また、これはあまり気にならないところでしょうが正確には「日本の歴史における時代区分」ではなく、「日本考古学上の時代区分」でしょうね。少なくとも当時は「日本」という呼称は存在していませんから「日本の歴史」というには多少違和感がありますし、歴史学(文献史学という意味で)上の時代区分でもありませんから。

次に、

>以前は続く飛鳥時代と合わせて大和時代とも称されていたが、今日では別個に考えるのが一般的となっている。

本当でしょうか?そもそも、「古墳時代」とは前述したように考古学上の時代区分で、文献史学上の時代区分である「飛鳥時代」や「大和時代」とは区分法法自体が根本的に違うはずです。 わたしは、文献史学にはうといので、文献の方では現在どのような時代区分が一般的なのかは存じ上げませんが、考古学では「古墳時代」に続くのは「飛鳥時代」ではなく「古代」です。 もともと、違う学問体系に属する言葉を並べて、「今日では別個に考えるのが一般的」とは、全く意味がわかりません。 今日、別個に考えるのが一般的ではなく、もともと別の体系の言葉なのですから、元から「合わせて」も考えられていないし「別個」云々を論じることなんてできないはずですが・・・(^^; 「古墳時代」という言葉どのような経緯でどのように提唱されたか、全くお調べになられていないのがよくわかりますね(^_^;)

次に、

「王権を得るためには手段を選ばず、有力候補が自分の兄弟や異母兄弟であろうとも、奸計・策略をめぐらして倒すなどの激しい王権争奪戦が繰り返された時代」

この記述には、絶句してしまいました(^_^;) いったい、どんな証拠があって、3世紀半にもわたる時代を十把一絡げにこのように評価したのでしょう? そもそも、古墳時代における「王権」をどのようなものと考えられていらっしゃるのでしょう? 現在では、古墳時代の社会背景は一様ではなかったと考えられています。 この記事にあるような状況であった場合もあるでしょうし、そうでなかったこともあるでしょう。そもそも、考古学上の時代区分である「古墳時代」という言葉に、考古学上わかるはずもない事象を説明として書くというのはいったいどういう神経をされているのか、理解に苦しみます。 まさか、同時代資料でも考古資料でもない、ましてや文献史学でも信頼性が薄いとされている記紀の記述を参考にされているのでしょうか?ただ、記紀にもこのようにセンセーショナルな記述はなかったと思うのですが・・・? それとも、継体王朝の成立に関することで、このようなイメージを持たれたのでしょうか?そうであれば、たった一つの事件をもって、数百年に及ぶ時代を代表させるというのはどういったことでしょう? だいたい、「手段を選ばず、有力候補が自分の兄弟や異母兄弟であろうとも、奸計・策略をめぐらして倒す」というような時代であれば、日本考古学では「中世」に含まれる「戦国時代」などへの説明の方がしっくりきそうですね(^_^;)

また、

>他方、灌漑用水確保のための池溝の整備など大規模な開発も盛んに行われ、大土木時代でもあった。

という記述に関しては、確かに畿内の一部地域ではそのような証拠が確認されていますし、その他の地方でもそういう事実が確認されているところもあるでしょう。 また、各地に大型の墳墓が数多く作られるのですから「大土木時代」というのは間違いではないでしょうが、そういう風に言うのであれば、各地に数多くの山城が造られ、それこそ新しい耕地や灌漑設備などを各地の諸侯が整備していった「中世」(特に「戦国時代」ということになるでしょうが)のほうが遙かに「大土木時代」ですよね。 そもそも、何と比較して「大土木時代」なのか全くわかりませんし、時代を表現する言葉としては全くふさわしくないと思うのですがいかがでしょう?


次に「概要」についてですが、

「古墳時代」の説明をするのに、いったいどういう経緯でどのような意図をもって提唱された言葉か全く記述がないのはどういったわけでしょう? 概要の記述の中に、「後藤守一」「末永雅雄」「小林行雄」「近藤義郎」「都出比呂志」などの現在の古墳時代像をえがくのに不可欠であった先学の業績が全く紹介されていないことにも違和感を禁じ得ません。 また、わたしは知らないのですが、「7世紀末」の前方後円墳はどこにあるのでしょう?お教えいただければ幸いです。 「前方後円墳という日本独自の形式の墳墓が日本全域に造られた。」という記述も、はっきり言ってしまえば全く正確でありません。 前方後円墳は「日本」だけでなく「韓国」にもあります。この方の頭の中では、朝鮮半島は日本国の領土なのでしょうか(笑) さらに言えば、「北海道」や「沖縄」には前方後円墳はありませんよね。「北海道」や「沖縄」は「日本全域」には含まれないということでしょうか? 訳がわかりません(^_^;)

前述しましたが、「古墳時代」に「日本」は存在しません。(終末期の一時期は存在したといえるかもしれませんが、詳しくはwikipedeaの日本を参照すればすぐにわかるでしょう) したがって、「日本独自の形式の墳墓」というのも、違和感がありすぎますね。

この次の一文の 「この時期にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、奈良県桜井市の箸墓古墳が初期のものとされることから、前方後円墳はこの時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。」 は、日本語として理解できません。この時期に「ヤマト王権」が「倭の統一政権として確立」したと書きながら、「この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式」とは矛盾してますね。 確立したのですか?確立途上だったのですか?この方はもっと「日本語」を勉強したほうがよいでしょう。

前方後円墳の墳形に関しては、現在では「各地の豪族に許可した形式であると考えられている。」と書くより、「各地の有力者(もしくは「首長層」)に許可した形式であると考えが主流である」と書いた方が正確でしょうね。 古墳時代については「豪族」という言葉はほとんど使われなくなっていますし、前方後円墳の築造の許可云々については、近年、違う意見や、一様にそのような展開をしたのではないのではないかという意見が出されて、次第に賛同を得ているようでありますから。

「3世紀の後半から」以下の記述ですが、奈良盆地に関する記述はまぁいいとして(非常にわかりにくい文章ですが)、河内に「巨大古墳」といえる前方後円墳が築かれたのは、4世紀末~5世紀前葉(研究者によって若干時期が違ってくるということです)だとおもうのですが。 「4世紀の初め」としたのは「古墳時代中期」でかかれている内容と矛盾しますので、ケアレスミスだとは思いますが。

「この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。」というのは、全く意味不明で、まず「先進的な群集墳」っていったい何なんでしょう(^_^;) 「先進」とはある国語辞典によれば

1 発展の段階、進歩の程度が他より進んでいること。「―の技術」

2 年齢・地位などが上であること。また、その人。

ということですから、「先進的群集墳」なるものが、全く意味不明なのは明白ですね(^_^;) 通常なら「初期群集墳」でしょう。だいたい、初期群集墳であれば、5世紀終わりには「畿内の一部」どころか列島各地に確認されていますよ。

「群集墳」については、古墳時代の研究者でも正確に理解していない人がいるぐらい難しい専門的な概念です。これを説明しようと思えば、非常に長い記述が必要になってきます。 ちなみに、「初期群集墳」と「終末期群集墳」、単なる「群集墳」とはそれぞれ違った概念上の学術用語です。わたし自身正確に理解しているとは言い切れませんし、非常に複雑な話になると思いますので、説明は省きますが(^_^;)

続いて「つづく5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。」とかかれていますが、河内に「巨大古墳」が築造されるのとほぼ同時期に列島各地に巨大古墳が作られることがわかっていて、それが古墳時代の大きな画期であると考えられていますので、間違いとはいわないまでも、正確な記述とはいいかねますね。 築造の停止に関する「6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。」という記述については、「ほぼ時期を同じくして」というのがどの程度の時間幅を持っているのかがわかりません。 少なくとも、わたしの知識では、6世紀の後半から7世紀の前半ぐらいの幅をもって次第に作られなくなっていると思っていたのですが、間違いなのでしょうか? それとも、ほぼ1世紀近くにわたる時期が「ほぼ時を同じくして」といえるということなのでしょうか?

対外関係については、間違いとはいわないまでも、全く「説明」になっていませんね。これなら、「後述」と記すだけで十分では?(^_^;)

ここまでの記述は、大学などの試験で「古墳時代を説明しなさい」などという設問であれば、おそらく0点でしょうね(^_^;) 正直、トンデモ系の歴史サイトを運営されている方の方が、これを書かれた方より遙かに勉強されているでしょう。(^_^;) 「古墳時代」は明らかに考古学上の「学術用語」ですので、それを説明するのに考古学上でどのような議論がされ、どのような時代像が現在定説となっているかを全く考慮しないというのは、すでに「古墳時代」の説明として、破綻しきっていますね(^_^;)この記事は標題は「古墳時代」ではなく「わたしの古墳時代」とするのが適当でしょう。 全体に、非常にわかりにくい言い回しも多いですし、記事を書かれた方は文章の書き方から勉強された方が良いと思います。

「時期区分」以下も、つっこみどころ満載なのですが、疲れたのでこの辺でやめます(^_^;) いちいち、書き換えができるほど、わたしの方も知識が豊富というわけではありませんので、(豊富でなくてもちょっと勉強していれば、このくらいおかしいと気づけるぐらい酷いということです。)どなたか、ちゃんと古墳時代像を一般向けに説明できる方が書いてほしいですね。 まぁ、超一流の研究者でも非常に難しいだろうとは思いますが。(それほどのものに手を付けたということを、この方はもっと自覚する必要があるでしょう。) でわでわ(^^)/~~~ dai2006年9月30日 (土) 14:12 (UTC)-以上の署名のないコメントは2006年9月30日 (土) 23:12から2006年9月30日 (土) 23:31にIP:210.139.198.204が投稿したものです。--Asuka 2006年10月1日 (日) 00:33 (UTC)[返信]

荒らすのは止めましょう。「でわでわ」でなく「では、では」ではないでしょうか。(w 小学校からやり直しては如何でしょうか。 --Good-bye 2006年10月1日 (日) 04:30 (UTC)[返信]
上記投稿をしたものです。荒らしたつもりはありませんでしたが、確かに、署名もせず、挑発するような文章を書き込みましたので、そのように判断されるのも致し方なかったかもしれません。反省します。しかしながら、こちらに書き込みました内容については、十分ご検討いただければと思います。こちらの記事は、「古墳時代」に対する理解、知識が足りなすぎるといわざるを得ない内容ですので。放置されているようでしたらWikipediaの信用を失いかねないと思いますよ。ちなみに、いうまでもないことですが「でわでわ」は、解ってやっているのですが・・・。まぁ、仰るとおり小学校からやり直すことといたしましょう(笑)Dai00 2006年10月1日 (日) 10:31 (UTC)[返信]
定義部分において「3世紀中期・後期」と書いてしまったshimoxxと申します。今まで文献など読む時にもほとんど意識しておりませんでしたので、つい「~世紀○期」と書いてきましたが、今回のご指摘を元に手元にある文献・書籍を紐解いてみたところ、やはり「~世紀○期」という表記は見当たらず、ただただ不明を羞じるばかりです。
Dai00さんご指摘のとおり、古墳時代に誤った記載が多数含まれていることは論を俟たないだろうと思います。本項目の執筆には、非常に多数の方が参加されていて、中にはある程度の素養をお持ちの方もおられれば、単にうろ覚えの知識で加筆してしまう方もおられ、はたまたトンデモ学説を世に広めようと書き込んでくる方もおられる訳です。一定以上の素養・知識を持った人が執筆参加できるよう、wikiというシステムを用いて門戸が開かれているのですけれども、残念ながら素養・知識のある方はなかなか現れず、そうでない人(自分も含めて、ですが)ばかりが記事の品質を落とすような加筆を重ねていくというような状況が続いてまして、そのことがウィキペディアの非常に大きな課題となっています。
ですので正直に申しますと、Dai00さんのように正確で詳細な知識をお持ちの方のご参加をこそ、是非ともお願いしたいところなのです。「トンデモ系の歴史サイトを運営されている方の方が、これを書かれた方より遙かに勉強されている」というのはおそらく正しい認識であり、そういった現状の中でDai00さんのご参加がいただけるのであれば、ウィキペディアンの一人として大変嬉しく思います。
挑発するような文体も、上で仰っているとおり意図があって敢えてなさっていることと拝察します。空いたお時間がもしあれば、ウィキペディアの誤りを正したり、記事内容を充実していって頂けるととてもありがたいです。--shimoxx 2006年10月1日 (日) 16:25 (UTC)[返信]

質問[編集]

えーっと英語版の大和、飛鳥、古墳時代を編集しているものですが何処で質問していいのかわからないのでここで質問させてください。

  1. .大和時代の定義
  2. .古墳時代の定義
  3. .飛鳥時代の定義

以上三つです。英語版の飛鳥時代で大和時代は仏教の伝来によって大和時代は古墳時代と飛鳥時代に分割されると冒頭で書かれています。でどう考えてもおかしいのですがそれぞれどのように説明すればよろしいでしょうか?上述の議論を傍聴していた訳ですが要は古墳時代は考古学的で文献的資料が無くて、飛鳥時代は大和朝廷が飛鳥に首都を設定していた時代で、大和時代は前時代にその分割があいまいだった時の名残のような時代区分と理解してよろしいのでしょうか?--Forestfarmer 2006年10月8日 (日) 06:32 (UTC)[返信]

「現代に繋がる日本人が形成された時代」の記述について[編集]

「現代に繋がる日本人が形成された時代」とは何でしょうか?縄文時代も現代の日本人に繋がっております。Suginamin 2007年12月4日 (火) 03:26 (UTC)[返信]

多分新しい議論を提案しているのだと判断し、体裁を変えさせてもらいました。....ぼやきですが例が悪すぎて論点がずれています。そーゆー時にはオリジナルリサーチと言う便利と言うか不便というかまあルールがありますので其れで対処してください。逆に言えば文化的に縄文時代と現代の日本は繋がっているのでしょうかと言われて反論できますか?個人的には多分”日本人が形成された”って言うのは日本という統一国家の萌芽が出来たという意味でそう書かれたんだと思いますが。--Forestfarmer 2007年12月4日 (火) 16:39 (UTC)[返信]

体制を整えず記述し、申し訳ありませんでした。歴史は続いているわけで縄文時代も弥生時代も古墳時代も現代日本人に繋がっているでしょう。例えば縄文弥生から続く米を主食としていたり、現代日本人と繋がっています。こういう文化がor日本という国家体制が古墳時代に形づくられた記述するなら理解できますが、現代の「日本人」がこの時代に形成されたというのは少し違うのではと思います。Suginamin 2007年12月4日 (火) 21:52 (UTC)[返信]