ノート:勝劣派

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この記述に問題は?[編集]

日蓮正宗の記事から移動した以下の記述がIP氏の編集により削除されていましたが、問題点があるようなら、根拠に基づき指摘してください。--Dalaibaatur 2006年4月10日 (月) 09:25 (UTC)[返信]

【勝劣派内には室町時代から宗祖本佛論争があり、八品派の宗祖本佛くりこし本佛論、富士門流の単純な日蓮本佛論も存在する。当時の時代背景から天台宗や真言宗にも各宗派の宗祖本物論があることから、この影響が日蓮各派にも広まったものと思われる。】

IP 21:23 210.169.6.12氏による2009年1月25日 (日) の編集は事実を歪曲するものなので全面的にリバートしました。--Dalaibaatur 2010年8月21日 (土) 17:46 (UTC)[返信]


「統合の機運が失われた」云々の抽象的な記述[編集]

この編集で付加された記述は、以下の点で問題があるので削除しました。

  1. 「統合の気運を失っていく」という表記は、百科事典の記事であるので、「統合の気運を失っていく」という抽象的・文学的な表現ではなく、いつ・どこで・誰が・何をという具体的事実を提示していく形に改めるべきである。
  2. 「日本」による「大陸の戦線」とか「戦争のドロヌマ」云々は、「勝列派」の記事で言及する必要はない。
  3. 全文が一字一句たがうことなく「「日蓮宗三派合同と分離独立」(本多日生記念財団Webサイト)」の記述の丸パクリである

--Dalaibaatur会話2014年8月10日 (日) 20:37 (UTC)[返信]


IP氏が「2014年8月12日 (火) 00:37時点における版」で追加した下記の記述について。

こうして本多日生を中心とする大正期の門下統合の活動は頂点に達し、近い将来にはその目的を達成するかに見えたが、昭和6年3月の本多日生遷化後、戦時体制の強化を背景に、門下は急速に統合の気運を失っていった。
注釈の文章:日蓮宗三派合同と分離独立」(本多日生記念財団webサイト)
  1. 日蓮門下統合のエンジンだった本多日生の没後、統合運動が勢いを失ったであろうことは、本記事でも記述されてしかるべきでしょうが、本節の「2014年8月10日 (日) 20:37 (UTC)」でのコメントでも述べているように、「本多日生記念財団」の記述を丸パクリした抽象的表現ではなく、該当事例を個別・具体的に挙げるべきである。
  2. IP氏の挙げた典拠には「戦時体制の強化を背景に、」という記述はない。IP氏が独自に追加した典拠のない記述。
繰り返しますが、「本多日生の逝去の結果として統合運動が勢いを失った」という事象そのもの記述には反対していません。記述するなら、本多日生財団のサイトの丸パクリな抽象的記述ではなく、典拠にもとづき個別具体的に記述すべきだ、と述べています。--Dalaibaatur会話2014年8月21日 (木) 02:47 (UTC)[返信]
本多日生記念財団webサイト」の記述にも不明な所があって、
大正4年(1915)6月に「門下6教団の統合が成立し」としておきながら、「昭和6年3月の本多上人遷化後、門下は急速に統合の気運を失っていく」
なんて書いてある。1915年にすでに「統合」は「成立」済みなのでは?と疑問はつきない。昭和15年の門下統合では、勝劣6派は、(1)二派は一致派の「日蓮宗」と統合、(2)三派で「法華宗」を組織、(3)一派は独立を維持、とバラバラに行動しているので、大正4年(1916)における勝劣5派の「統合」は、個々の宗派の自立性・独立性を改称し、完全なる統一組織を樹立するまでのものではなかったと推測される。
IP氏におかれては、2008年に編纂された「富士年表」(増訂2版)の 大正4年(1915)の記事に記述がないのを根拠に、「日蓮正宗は大正の門下統合運動には参加していない!」などと粗雑な記述をなさるのではなく、正宗系の当時の記録をぜひ精査していただきたい。1916・17年に「頂点に達した」とされる大正の統合が、具体的にはどの程度まで組織の一体化を進めるものであったのか、本多日生の死とともに、その結束がいかに緩み、昭和の統合における勝劣6派のバラバラな対応に至ったのかなどの点を具体的に明らかにしていただけるなら、1読者として、大変興味深く、大歓迎である。--Dalaibaatur会話2014年8月21日 (木) 20:10 (UTC)[返信]

「大石寺の独立と三派合同 」という節[編集]

「大石寺の独立と三派合同」という節を丸ごと削除する編集を行いました。 かわりに投稿した「昭和期、宗教団体法による日蓮門下諸宗派の再編 」という節では、この節で取り上げられていた「勝列派」の離合集散をすべてとりあげています。--Dalaibaatur会話2014年8月10日 (日) 20:45 (UTC)[返信]

「明治の宗教弾圧」の節に「昭和の合同」の記述をいれたがるフシギ[編集]

Dalaibaaturの文面

一致派を奉ずる諸門流が、日奥門流の独立を例外として、一宗派としての組織を維持し続けたのに対し、

IP氏の文面

日蓮宗一致派では、1876年(明治9年)日奥門流が独立したが、それ以外の宗派は昭和初期まで合同を維持した。しかし1935年(昭和15年)軍部主導の政府が宗教団体法を施行した時点で再び合同・再編される事となった。

IP氏の文面について

  1. 日蓮宗一致派では、1876年(明治9年)日奥門流が独立したが、それ以外の宗派は昭和初期まで合同を維持した。」→「それ以外の宗派」という語句が意味不明で、改善とはみとめられない。
  2. しかし1935年(昭和15年)軍部主導の政府が宗教団体法を施行した時点で再び合同・再編される事となった。」→ (1)昭和期の出来事であり、明治初期の宗教弾圧とはまったく無関係であり、(2)その「昭和期の合同」においても「一致派の」「それ以外の宗派」が「ふたたび合同・再編される」という事実はない。←IP氏が典拠と称する文献を誤読している。

IP氏の記述
政治より信仰を重視する立場から、 → 典拠を求めたにも関わらず、典拠の提示がない。
以上より、IP氏の上記文面を削除し、もとの文面に復帰します。--Dalaibaatur会話2014年8月20日 (水) 23:03 (UTC)[返信]

『「富士年表」に記載がないこと』と「日蓮正宗に記録がない」ことは混同されるべきではない[編集]

IP氏の文面

と本多日生記念財団は主張している。
"注釈"の文面少なくとも日蓮正宗には『統合』という記録が存在していない。(富士年表 P397 大正4年)

『富士年表』について、このノートを読む一般読者に説明しておきますと、日蓮正宗が編集した、日蓮正宗としての公式の歴史年表です。1981年刊行の初版と2008年に刊行された「増訂2版」の2バージョンがあります。「富士年表」は1981年当時の、あるいは2008年当時の日蓮正宗が宗派として取り上げたいと考えたできごとが収録されている、というだけにすぎず、ここに載っていないできごとを「日蓮正宗には記録がない」なとど主張するIP氏は、拡大解釈にも度が過ぎている。

たとえば1957年、静岡県の西山本門寺の第49世貫主由比日光日蓮宗を離脱して日蓮正宗に移籍するという措置をとりましたが、当時の正宗系メディアはこれを「帰一」と報じました。由比日光の後継指名に基づき、吉田日勇(義誠, 下条妙蓮寺45世、日蓮正宗重役等)が日光の没後、貫主の座についたことも、「第50世として晋山」と奉じています。ただし由比日光の措置は檀信徒や塔頭、末寺などへの根回しを欠いた強引なもので、これに反対する裁判がおこされていました。1975年に下った判決は由比日光による措置(日蓮正宗への加盟、吉田日勇の後継)を無効とするもので、判決後、吉田日勇は西山本門寺から退去、後継の貫主は吉田氏を「除歴(=歴代の貫主には数えない)」し、第50世として晋山しました。 富士年表の2008年版には、この寺の「日蓮正宗への帰一」や「吉田日勇の晋山」「吉田氏の退去と除歴」などの出来事は収録されていません。同じ裁判沙汰でも、檀信徒が日蓮正宗への帰属を求めて争った仙台市仏眼寺については、詳細に出来事の推移が記載されています。

IP氏は、

  1. 大正3年(1914)年に開催された日蓮門下7宗派による「各教団統合大会議」への参加
  2. 同年12月に組織された「日蓮門下統合後援会」
  3. 大正4年(1915)6月に成立した勝劣派の6宗派による統合
  4. 大正6年(1917)、門下合同講習会、統合修学林の組織

などに日蓮正宗は参加していないと主張したいのであれば、「世間では~と言われているが実際には当宗は参加していない」という主旨を述べている当時の記録(富士年表が参考文献としてあげている正宗の機関誌や、『中外日報』など中立の宗教新聞などの記事)を提示すべきである。--Dalaibaatur会話2014年8月20日 (水) 23:57 (UTC)[返信]

明治期の動向について[編集]

 一宗一管長制を基として明治5年に全日蓮教団が合同し「日蓮宗」と称したが、わずか二年後に「日蓮宗一致派」と「日蓮宗勝劣派」に二分した――これは承服します(それでも典拠は欲しいところですが、私自身が用意しないのを他の方にお願いするのは虫が良すぎるというものでしょう)。

 しかし、

  • 一宗一管長制制定の目的が宗教弾圧にあること
  • 明治5年成立の日蓮宗や日蓮宗勝劣派が「形式的」な合同教団であること
  • 「強引な国家神道布教策がすぐに破綻し」たために日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派への二分したこと
  • 各本山系の維新政府への尽力で日蓮宗勝劣派が解消したこと

は、理解しがたいところがあります。もちろん、私の浅見によるところとも思いますので、ぜひとも、出典の明示をお願いします。

 なお、3番目は異なる解釈でも読めますが、そうすると、「国家神道布教策がすぐに破綻し(略)政策転換をせざるを得なくなる中」という一文を本文に記載する意味がなくなってしまうこと、念のため記します。--1000dai会話2014年11月4日 (火) 07:43 (UTC)[返信]

本節で使用されている以下の名称は非百科事典であるので、より妥当な用語への置き換えが必要と考えます。
・藩閥政府,明治藩閥政府(当時の在野・非主流派が批判にもちいるレッテルでは?平成時代の百科事典の地の文で用いるべき言葉ではない)
・政略的準国教化(意味不明。当時も現在も、一般的な用語ではない)
--Dalaibaatur会話2014年11月4日 (火) 23:48 (UTC)[返信]
報告お願いから一ヶ月経つも特段の動きがないので、編集(ほとんど削除)しました。唯一ご意見をお寄せ下さったDalaibaatur会話 / 投稿記録 / 記録さんにはこの場を借りてお礼申し上げます。--1000dai会話2014年12月3日 (水) 23:46 (UTC)[返信]

節「日蓮正宗の爆発的成長とその後」について[編集]

提案 日蓮正宗とその信徒団体もしくは所属僧侶などの動向なので、日蓮正宗のページへ記載した方がよろしいと思いますが、如何でしょうか。--1000dai会話2014年11月4日 (火) 14:31 (UTC)[返信]

もとはIP氏によって、この記事(「勝劣派」)と記事「日蓮正宗」に全く同じ文面が投稿されていました。私が加筆したので、こちらの記事のほうが、ずいぶんと分量がおおくなってしまいました。日蓮正宗も勝劣派の一派ですから、簡潔に、ならばこの記事でも触れていいかもとは思いますが、現状のように、「母屋」よりもこちらが大きくなっている現状は、バランスが狂っているかとも思います。--Dalaibaatur会話2014年11月4日 (火) 23:55 (UTC)[返信]
報告提案から一ヶ月経つも反対意見がありませんでしたので、移動しました。唯一ご意見をお寄せ下さったDalaibaatur会話 / 投稿記録 / 記録さんにはこの場を借りてお礼申し上げます。--1000dai会話2014年12月3日 (水) 23:46 (UTC)[返信]