ノート:元寇/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。
過去ログ1 過去ログ2

「不宣」とは、当時の書面に於いて、完全に対等にも近い者に対する敬意を含んだ意味。南宋がらみであろうが、クビライの真意までは不明。 WR 2005年4月9日 (土) 14:06 (UTC)

「侵略」表記の妥当性に関する議論

定義部が「日本侵略(遠征)」にされちゃってるのはどうでしょう・・侵略的意図の有無の考察に1項目が設けられているのに、定義部で侵略と書いてしまうのはどうかと・・なんだか議論を呼んじゃいそうですが。--でここ 2005年6月24日 (金) 05:57 (UTC)

遺物などから入植(=侵略)を目論んでいたわけで、議論を始めたい人は居るでしょうが、現実は明らかとしか言い様がないと思われますが? また、本文中にも、高麗(韓国)の影響は無かった、不本意だったことを強調するような編集が最近多いです。証拠のはっきりした歴史的事実のみ記述し、個人的な見解や解釈は排除すべきだと思いますね。 210.149.190.137 2005年7月6日 (水) 02:38 (UTC)

侵略」より「侵攻」の方がより妥当な表記ではないでしょうか。

  • 英語版のページのタイトルは「Mongol invasions of Japan」となっています。invasionは「侵攻」であって「侵略」ではありません。
  • モンゴル帝国のページでは、モンゴル帝国による一連の征服戦争が記述されていますが、「侵略」という言葉は使われていません。「征服」「侵攻」などが使われています。
  • 英語版のMongol Empireのページでもaggression(侵略)は使われていません。invasion/invadeなどが使われています。

222.6.215.124 2005年7月13日 (水) 03:38 (UTC)

人が使ってるじゃなくて根拠。

「侵攻」は一戦闘に用いる戦術用語。元寇全体に用いるには日本語として不可。

日本は元軍の侵入を許可していないから明確な主権侵害。だから侵略が適切。もちろんモンゴルの視点で征服とするのも可。 60.45.205.2502005年8月5日 (水) 00:18 (UTC)

他の人々が使ってることだけではなく自分の根拠を示すべきとのことですね。 60.45.205.250さんのおっしゃるとおりで、私としては他の人々が使ってることについては議論の材料として提示しただけでして、このことのみをもって「侵略」表記が不適切と主張するわけではありません。

ところで、「侵攻」が一戦闘に用いる戦術用語、ということはないでしょう。 「侵攻」を元寇全体に対して用いるのは日本語として適切な用法だと思います。

日本の鎌倉時代に、当時中国大陸を支配していた元によって二度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。

この表現で Wikipedian の合意が得られると思います。 でここさんのおっしゃるとおり、侵略的意図の有無の考察に1項目が設けられていますし、この表現で充分ではないでしょうか。 222.6.215.124 2006年4月1日 (土) 03:59 (UTC)

しばらく待ちましたが、特に異論などありませんでしたので、定義部を「侵攻」表記に変更しました。 --222.6.215.124 2006年6月4日 (日) 03:20 (UTC)

再び失礼ですが、「侵略」に改訂することを提案します。文永の役は、確かに強行偵察の意味合いが強いと思います。しかし、弘安の役の場合は入植を前提にした「侵略」だったからです。海上で農機具が必要だったとは思えません。入植とは明らかに日本の主権を侵害した侵略行為であると言えるはずです。 125.13.150.622007年3月17日(日)15:42(UTC)

侵略の方が適切と思います。大辞林では侵攻=侵犯とあり、領空侵犯などの使用例もあるとおり入植前提の行為には適さないと思うからです。211.2.59.156 2007年3月24日 (土) 00:37 (UTC)
モンゴル帝国の中央アジア遠征では、地元の政権であるホラズム・シャー朝の支配地域のほぼ全てに攻め入り、現地の人々を捕虜や労役にかり出して他の地域への入植などを実施していますが、モンゴル軍がホラズム・シャー朝ルーム・セルジューク朝などの領土内に「侵入」や「侵攻」したという表現は論文でも割合よく見かけるのですが(他の時代や政権の軍事行動での場合でも同じく)、「侵略」という表現はあまり見掛けません。国際法学的な定義の問題で色々とややこしい背景をもつ用語を使うよりも(国際法学については良く知りませんが)、「攻撃を仕掛けてその領土を侵す行為」という割合に意味内容が簡潔な表現である「侵攻」の方が、作戦目的の違いがあったらしいとはいえ、文永の役、弘安の役、双方に充分使える表現だと思うのですが、どうでしょうか。Haydar 2007年3月28日 (水) 14:37 (UTC)
国際法が未発達の時点で起こった事件を、現在の価値観を割り込ませ現行国際法を元に評価して「主権の侵害=侵略」に該当するから、という理由は甚だ疑問、以上に明確に誤り。そもそも当時には、今日的な意味での「主権」の概念は存在しない。古代中世の東アジア国際関係は冊封体制であって、それを日本国の指導者(大王天皇封建領主)も国内統治に利用した。
これを現行国際法違反で侵略に書き換えろというのは、軍に付き従ったのだから従軍慰安婦に書き換えろというロジックと同じぐらいいかがわしい。--史跡めぐり 2007年4月17日 (火) 23:50 (UTC)
史跡めぐり氏は「古代~中世の東アジア国際関係は冊封体制であって…」と書いています。まあ、古代なら分かりますが(例えば金印)、元寇の時は果たして冊封体制だったのでしょうか。冊封体制だったという出典を書いて頂きたい。125.13.150.452007年05月15日(火)11:18(UTC)
冊封体制論の提唱者である西嶋定生氏は元代には冊封体制は存在していなかったとしていますね。まあ、それはそれとして『「国際法上の定義」を元として侵略表記が妥当とするのは誤謬』という考えは妥当と思います。もし侵略表記が妥当とする研究者の論文があるのならば提示お願いします。らりた 2007年5月15日 (火) 11:45 (UTC)
なるほど、らりた氏の説明で納得しました。侵略か侵攻かという問題は議論の余地があると思いますが、本文中にも遠征とあるのでこのままでも構わないと思います。しかし、ですよ。侵略という言葉自体は国際法成立以前からあった訳で、元寇が「侵略」ではなかったという意見は説得力に欠けます。広辞苑によれば、侵略(侵掠)とは他国に侵入してその領土や財産を奪いとることとあります。この定義からすると、元寇は十分に「侵略」とすることができますが、如何でしょうか。125.13.150.452007年5月16日(水)07:44(UTC)
お返事送れてスイマセン。「侵略という言葉自体は国際法成立以前からあった」訳ですが、ただ現在の言葉の「侵略」と国際法成立以前の「侵略」とではかなりニュアンスが違ってきているのではないでしょうか?ちょっとそのあたりは調べて無いので解りませんが、同じような言葉に属国があると思います。ノート:冊封を参照してください。
当該ノートでは「冊封国を属国としてしまうと、間違いではないが誤解の元」なので「冊封国」の表記を使おうということになりました。
この記事での「侵略」表記も間違いではないと思います。ですが現在使われている「侵略」の言葉にはかなり非難の意味合いが強くなってきていると思います。ですのでこのような言葉を使うときには慎重であるべきではないでしょうか?例えば文禄・慶長の役では侵略表記はほとんど使われていません。
またHaydarさんによればモンゴル帝国の軍事行動を「侵攻」などと表記する方が「侵略」とするよりもかなり例が多いようなのでそれもまた判断材料になるかと思います。私は中国史の概説書を二冊ほど見ただけですが、侵略表記は無かったようです(ただしその概説書の該当部分を書いているのは両方とも同じ杉山正明先生でした。)
私自身はこの記事での侵略表記をいじるつもりはありませんが、私の意見を意見としてご一考くださると幸いです。らりた 2007年5月19日 (土) 09:07 (UTC)
Haydarです。「侵略」という表記を「国際法成立以前からあった」術語として使おうという事でしたら、もしかしたら語義的な意味も含めて「侵略」では無くより正確に「侵」にすべきなのかもしれません。「略奪」や「侵略」という言葉に「省略」の「略」の字を使うのは「掠奪」や「侵掠」の現代的な書き替えだそうですし、元々は「(他所に)侵して掠めとる」という意味ですので。この方が「他国に侵入してその領土や財産を奪いとること」をより明確に表現するのに適しているとは思いますが、現代日本語の文章としてより適当であるかはちょっと判断がつきません。
ただ、らりたさんが懸念されている、「現在使われている「侵略」の言葉にはかなり非難の意味合いが強くなってきている」という指摘は自分も同様に配慮すべきところだと感じておりまして、「侵攻」であればまだそのような意味合いは備わっていないように思われますので、記事上の表現としてより問題ないのでは思っています。
モンゴル帝国関係ではありませんが、最近、古代ギリシア・マケドニア史が専門の森谷公俊先生が出された『アレクサンドロスの征服と神話』(講談社)で、当時マケドニア人を含むギリシア人が抱いていた「ギリシア中心主義」とそれに基づく「東方蔑視」の問題について折に触れて述べられていますが、アレクサンドロス3世の政策やヘレニズム時代の説明として従来言われていた「民族融合政策」というものは「虚構」と痛烈に批判しています。また、アレクサンドロスの征服戦争を総括して特にソグディアナバクトリア方面について「民衆全体を敵とする凄惨な殲滅戦」「最強の軍隊による無慈悲な侵略と殺戮」と表現されており、19世紀のイギリスやロシアなどのアフガン戦争、さらに近年のアメリカ合衆国によるアフガン侵攻と比較して述べられ、極めて非難的な文脈で「侵略」という表現を使っておられました。同書でギリシア文化の東方への伝播について有田焼の例をあげて比較もされていますが、この時も文禄・慶長の役を「豊臣秀吉の朝鮮侵略」と表現されていまして、これもアレクサンドロス3世の軍事作戦において各地で行った殺戮を伴った東方への「侵略」というニュアンスと重ねて「朝鮮侵略」という表現をされていて、やはり非難的な表現として使われているようでした。
杉山正明先生はチンギス・カンの中央アジアや華北の金朝などの遠征などについて「侵攻」という表現を良くされていますが、これは先生の師であられた本田實信先生もやはり同様に「侵攻」などと表現されています。これは他のイスラーム史関係の先生方も、歴史上のイスラーム政権が他の地域に軍勢を攻め入らせる場合に「侵攻」という表現をやはりよく使われていますが、「侵略」という単語はやはり目にした事はほとんど有りません。モンゴル帝国の軍事行動について、例えば佐口透先生が訳されたフランスのドーソンの著書『モンゴル帝国史』の第1巻(東洋文庫 1968年)にはチンギス・カンが都合4回行った西夏遠征について節の題名に「タングート侵入」(p.83, 90, 94)と表現しておられ、金朝への場合も「山西・河北への侵入」(p.109)、西遼については「カラ・キタイ侵入とグチュルクの最後」(p.149)、ホラズム・シャー朝へは「ホラズム王国侵入」(p.183)などと書いておられます。他の表現としては「トゥルイのホラーサーン征服と劫掠」(p.238)、「チンギス・カンの第二次中国遠征。山西、河北山東劫掠」(p.121)というように「劫掠」という単語も多く使われています。『モンゴル帝国史』の他の部分を一通り見ましたが、「侵略」(侵掠)という表現は少なくとも主要な表現としてはほとんど使っておられないようでした。
文永・弘安の役前後の高麗の位置付けについては、自分も単なる「属国」という表現はやや不十分なものであると感じております。当時の高麗は、弘安の役の年にあったクトルガイミシュ皇女の降嫁やしばらく後の「駙馬王家」の宣下の問題も含めて、チンギス・カン時代の天山ウイグル王国やオングト駙馬王家、フレグの東方遠征などでのルーム・セルジューク朝やケルマーンのカラヒタイ朝などと同じ文脈で理解すべき立場です。もし文永・弘安の役での大元朝と高麗の関係を述べるのであれば、これも冊封体制では無くて、むしろモンゴル帝国とそれに服属する諸政権のひとつであったことを念頭にモンゴル帝国の国制の上での視点から高麗の立場を記述することはある程度必要だろうと思います。(これについては森平雅彦先生の一連の論文などが詳しいですが) 長文になってしまって申し訳有りません(汗 Haydar 2007年5月19日 (土) 14:16 (UTC)
ご指摘についてもっともだと思う部分がございましたので、下記のとおり謹んで訂正させていただきます。
国際法が未発達の時点で起こった事件を、現在の価値観を割り込ませ現行国際法を元に評価して「主権の侵害=侵略」に該当するから、という理由は甚だ疑問、以上に明確に誤り。そもそも当時には、今日的な意味での「主権」の概念は存在しない。古代中世の東アジア国際関係は冊封朝貢(追記)体制であって、それを日本国の指導者(大王天皇・封建領主貴族)も国内統治に利用した。
で私が申し上げたかったことは、現代において侵略といえば現代的な定義がある言葉であり、たとえ
(当時)入植(=侵略)を目論んでいた(引用)
としても、それは侵略(現代語)ではありえず、ましてや
日本は元軍の侵入を許可していないから明確な主権侵害。だから侵略が適切。(引用)
は明らかな誤りである、ということです(らりたさんどうもすみません(^^;))。侵略という言葉が昔からあったとして、読者は現代語を理解する現代人です。現代において一定の定義の与えられている言葉をわざわざそれと一致しない意味で記述することで、百科事典の質が上がるのでしょうか?(むしろ、現に後者の引用のような誤解を誘発する悪影響のほうが大きい。楠木正成の「悪党」のように括弧書きするなり独立記事を立てる価値があるなら違ってきますが・・・)。一部のトンデモな方を除き、多くの良心的な研究者が「侵攻」「遠征」「(その他)」を選んでいるのもそういう理由からだと思います--史跡めぐり 2007年6月20日 (水) 19:00 (UTC)

高麗の関与に関する議論

高麗の関与ですが、『史料にこのような記述がある』とだけ書けばよいのではないでしょうか? 定説になっているのでなければ、元寇の主因であるかないかを記事に書くこと自体良くないのでは? -- NiKe 2005年7月6日 (水) 04:04 (UTC)

失礼ながら履歴を拝見したところ、韓国(高麗)に関する記事では過去にも公平な記述ができていないと批判されたことのある方のようですね。あなたの不満は、あなたの思想的な立ち位置に帰結するものだと(ありていに言えば、特定の利害や思想的背景を優先した、公平に勤める努力が足りないか怠っていることを原因としたものだと)思います。210.149.190.137 2005年7月6日 (水) 06:18 (UTC)

高麗の要請が主原因だと言うのがどこが歴史的事実だというのですか。少なくともそれを確定した歴史的事実だとしている歴史家は私は知りません。あなたこそ個人的見解を載せるのはやめてください。61.209.180.188 2005年7月7日 (木) 09:25 (UTC)

>高麗の要請が主原因

誰がそんなことを書きましたか?日本侵攻自体はクビライの決定によるものですよ。書いてもいないことを書いたかのように主張され、しかもそれが個人的見解であるなどと批判されるとは心外です。撤回を要求します。

なお、文永の役の際、当初立案された三作戦(三つの侵攻ルート。以前はこのあたりを説明する記述があったように記憶していますが、いつの間にか消されていますね)のうち東路(高麗経由ルート)が決定した理由が、高麗の執拗な要請によるものであることは、史料にも明記されています。

また弘安の役は、単なる恫喝や威力偵察を目的とするには説明が困難な大兵力を結集し、しかも入植の準備をして侵攻していたことから、侵略の意図があったことも明白です。むしろこれらの証拠がありながら「侵略の意図は無かった」と強弁することがむしろ不自然で、困難です。(このあたりを強調する編集をされたあたりから、文意や大陸側の意図がぼやけた駄文になってしまいました。書き直しも今後考えていきたいところです)

あなたこそ、自らの狭小な思い入れで、人や歴史を批判しないでいただきたい。

あなたがたの不満は、あなたがた自身の立ち位置に拠るものだということくらい、自覚してはいかがですか。公平かつ中立的であることに努められない人は、Wikipediaには不要・有害です。210.149.190.143 2005年7月7日 (木) 11:11 (UTC)

『史料から見て間違いない』ということでしょうか。とすると、今の記述は『定説に沿ったものである』と考えてよろしいのでしょうか? -- NiKe 2005年7月7日 (木) 11:28 (UTC)

確かにちょっと言い方がおかしかったかもしれません。その点は謝罪し、撤回します。申し訳ありませんでした。

しかしあなたの書いた文章が高麗の関与を過剰に強調していると私には思えます。例えば本文中の

>「民族的願望から対等な通商関係では満足できず、日本征服に固執する高麗政府のサボタージュにより」

などとはどこから導かれる事柄なのでしょうか?当時の高麗・ひいては朝鮮民族に日本を征服する(しなければならない)民族的願望があったなどとは到底考えられないと思うのですが?使節を高麗が取りやめた理由についてこの文書を持って行ったら日本を怒らせるだけだと解っていたから止めたと言う見解もありますね。もちろんこれは見解の一つですが。

それと高麗の要請についてですが、当時の忠烈王が周囲の反対を押し切って親元政策を推し進めた結果の物だというのが、見解の一つとしてあります。当時の高麗は武家が政権を掌握していたのを王党派が自分たちの所へ政権を引き寄せるために元を後ろ盾として使ったと言う見方があります。そのため元に対して過剰なまでのこのような要請を行ったと言う見解です。

大量の物資と人員とを消耗し、日本を取った所でその領土を貰えるわけでもなく(仮に貰ったとしても海を隔てた地を貰っても困るでしょうが)、高麗の国民が日本侵略を望んでいたとは考えにくいと言うのが現在のところの一般的見解だと思うのですが?

見解としつこく繰り返したのはあくまで私のものも一見解に過ぎないと言うことを強調するためです。あなたの見解も一見解に過ぎず、あなたの言っていることが定説になっていないと言うことはこれは明らかでしょう。それならばWikipedia現時点ではあくまで「そういう見解がある」と言う形にとどめるべきではないでしょうか?

それと私は別に元寇が侵略ではないなどとは言っていません。まあ出来れば侵攻と言ってほしい所ですが、どんな理屈をつけてもされる側にとっては侵略でしょう。だから侵略と書くこと自体には反対しません。私が問題にしている所は高麗の要請を過剰に強調しているところです。

所で本筋とは関係ないのですが、使者がスパイ行為を行っていたから・・・と言うのは良くわからないのですが。それなら監禁するなり、送り返すなりしたらどうだったんでしょうか?いきなり殺すのはやはり問題があると思うのですが。61.209.180.188 2005年7月7日 (木) 12:42 (UTC)

勝手ですが、ノートが長くなってきたので項目を分けさせていただきました。

>今の記述は『定説に沿ったものである』と考えてよろしいのでしょうか?

「史料・遺物などにより明らかとなっているものである」では、何か不都合がある(あるということにしたい)ですか? 「定説である」と主張してしまうと、偏った見解を持つ方に「俺は認めない。俺が認めないからこれは定説ではない」の一言で、簡単に覆されてしまいますので。

>:>「民族的願望から対等な通商関係では満足できず、日本征服に固執する高麗政府のサボタージュにより」
>などとはどこから導かれる事柄なのでしょうか?当時の高麗・ひいては朝鮮民族に日本を征服する(しなければならない)民族的願望があったなどとは到底考えられないと思うのですが?使節を高麗が取りやめた理由についてこの文書を持って行ったら日本を怒らせるだけだと解っていたから止めたと言う見解もありますね。もちろんこれは見解の一つですが。

そうですね、あなたの(何の根拠もない)見解・思い込みに過ぎませんね。

朝鮮民族が日本を征服する願望を抱いたのは、なにも太平洋戦争終結後にようやく国家として(タナボタ的に)独立できてから、屈辱を強いられた恨みに駆られての話などではなく、元寇や白村江の戦いなどの特徴的な出来事や因果に起因する訳でもなく、彼らの持つ小中華的な価値観、儒教思想に基づく事大主義、体格の差などからくる一方的な優越感などがその原動力となって、古来から存在しているのですよ。

これは後に例示するあなたの発言の回答にもなりますが、事実、高麗が元に征服される以前にも、九州沿岸は何度も朝鮮の襲来を受け、賊に荒らされています。また高麗王じきじきの命によって、百隻規模の船団で対馬や九州沿岸に侵略を試みては撃退された例もあります。これなどは賊ではなく、高麗王朝が送り出した「正規軍による侵略行為」です。またこのときの教訓から、高麗単独による日本侵略は困難であると判断しています。

日本は、防人の時代から常に朝鮮を含む大陸からの侵略を恐れ、備え続けていたと言って過言ではありません。(それが、大和朝廷が瀬戸内におびただしい防塁を築きながら東征におよんだ原因である、とする見解もあるようです)

あなたは政治的・思想的に非常にわかりやすい立ち位置からの発言を繰り返しているようですが、もう少し歴史についてよく学ばれてから発言されてはいかがですか?

>それと高麗の要請についてですが、当時の忠烈王が周囲の反対を押し切って親元政策を推し進めた結果の物だというのが、見解の一つとしてあります。当時の高麗は武家が政権を掌握していたのを王党派が自分たちの所へ政権を引き寄せるために元を後ろ盾として使ったと言う見方があります。そのため元に対して過剰なまでのこのような要請を行ったと言う見解です。

それは、Wikipediaの高麗史の項目(があるなら)に書かれてはいかがでしょうか?

>大量の物資と人員とを消耗し、日本を取った所でその領土を貰えるわけでもなく(仮に貰ったとしても海を隔てた地を貰っても困るでしょうが)、高麗の国民が日本侵略を望んでいたとは考えにくいと言うのが現在のところの一般的見解だと思うのですが?

高麗は、朝鮮民族による単独の日本侵略が(国力の差などから)困難であることは理解できていました(史料にもあります)。そこで元の兵力を利用して日本を屈服させたかった、という事情は理解が容易だと思います。さらに、中原の(中国の)国家が今後衰退したとしても、高麗(朝鮮)の下流にあるべき日本は朝鮮民族が支配を続けることが出来るわけで、無傷の日本と正面からやりあうよりは日本の一部であれ一度屈服させておくことが朝鮮の利益になるということも、戦略的には常識のレベルです。

また、海を隔てた~については、正直言って失笑を禁じ得ません。近年でも、太平洋戦争終結後に、朝鮮は自らを戦勝国であるとして対馬と九州の割譲を要求していますし(世界中の笑いものになって却下されましたが)、朝鮮戦争の際にも、一時北朝鮮に押し遣られて絶体絶命に陥った南朝鮮(後の韓国)政府が、北九州での亡命政府の樹立を日本政府に要求(これも、多分に事後も居座って事実上の割譲を迫る意図が見え透いていた)して、却下されています。 1000年、2000年以上前から、朝鮮という国、朝鮮民族という人々は、日本を隙あらば攫い、削り取ろうとして、色気を剥き出しにしているのですよ。そのあたりの事情も知らずに、恣意的な記述をしているかのような印象操作を行われると、甚だ不愉快といわざるを得ません。

>所で本筋とは関係ないのですが、使者がスパイ行為を行っていたから・・・と言うのは良くわからないのですが。それなら監禁するなり、送り返すなりしたらどうだったんでしょうか?いきなり殺すのはやはり問題があると思うのですが。

非常に人道的な(皮肉です、念のため)見解ですね。当時の世相・事情を理解できているとは到底思えないご意見です。 生きて帰らせたら、見てきたことを洗いざらい喋って、侵攻の助けとするでしょう。また文永の役の際に被害を受けた対馬や壱岐、北九州の凄惨な状況(住民は皆殺しにされ、わずかな生存者も見せしめか奴隷として連れ去られた)を知る時宗が、そのような状況を看過できる、するべきだという判断は、あなた個人の、現代の(しかもその一部の、非常に偏った)価値観に基づくものではないのですか?

いずれにせよ、ここはあなたがたの見解や主義・思想などを主張する場所ではありません。公平かつ事実に基づいた記述に努めることができないのであれば、筆を置いた方が良いのではないかと思われます。 210.149.190.143 2005年7月7日 (木) 16:10 (UTC)

歴史学会などで広く認められていれば、私などがどう言おうとそれは「定説」でしょう。どうして「定説かどうか」については明言されないのでしょうか? -- NiKe 2005年7月8日 (金) 08:08 (UTC)

高麗の日本侵攻については私は知りませんでした。無知のなせる所であり、汗顔の至りです。

しかしこれを持って日本侵略の意図が前々からあったと言うのは無理があるのでは?弘安の役の時が900隻で3万人ですから、100隻だと3千から4千ですか。この人数で日本侵略を考えていたのでしょうか?(まあこの計算も非常に適当ですが)高麗政府によって日本に対して略奪が行われていたと説明されたならなるほどと言う所ですが。

高麗の内部事情に関わることはどうしてこの記事に書いてはいけないのでしょうか?高麗の民族的願望とか高麗の要請とかについては書いてあるのに。

海を隔てた・・・についてですが・・・。海洋技術の発達した現代と13、14世紀を一緒にしてもしょうがないと思うのですが・・・。

使節の斬首については、少なくとも戦争を回避したいのならいきなり殺すのは下策と言うものでしょう。回避したいと思っていなかったのなら話は別ですが。人道的とかはこの際関係ありません。

と一々反論しましたが、これらはどうでもいいことです。私の言いたいことは

  1. あなたが「史料・遺物などにより明らかとなっているものである」と思っていることに関して、それとは違う見解を持つ人がいると言うこと。
  2. あなたの見解が学会に於いて定説としての地歩を占めるに至っていないと言うこと。
  3. 定説として確立されていないならば、両論併記をすべきだと言うこと。

この三点についてあなたの是非をお伺いしたいです。長々と議論するのは嫌なので、私の反論についての反論は要りません。仮に返されてもそれに対する再反論は無しにしておきます。自分から論争を吹っかけておいて逃げるような形になったことについて前もって謝罪しておきます。219.66.73.215 2005年7月8日 (金) 12:41 (UTC)

あ、あれ?なぜかIPが変わっている。上の物を書いたのは61.209.180.188です。


元寇以前に高麗国が国内が疲弊あるいは食糧が不足したとき掠奪に来た記録を元寇の諸相の初めに淡々と纏めればいいのでは?

利用者:60.45.205.250 2005年8月6日 (金) 21:06 (UTC)

この記事は「元寇」であって、「元寇に対する日本人のありがちな誤解を解く」記事ではありませんから、記述バランスは考えていただいた方がよろしいかと思います。ちなみに、もし、2000年前に「朝鮮」という固まりと「日本」という固まりで、それぞれの内部とはまったく別のベクトルで対立の構図が明確にあったことが定説になっていると言われるならば、目から鱗です。 Kozawa 2005年8月6日 (土) 12:46 (UTC)

改稿について

61.209.180.188及び219.66.73.215はログインして深紫となりました。一週間が経ちましたが、反応無しですね。それでこの記事の改案への意見を募りたいのですが。まず本文中には事実のみを載せて見解は載せない方向で行き、その後の元寇の諸相の中でそれぞれのポイントについての見解を書いていきたいと思います。

  1. 高麗の日本侵略願望について
  2. 侵略か否か
  3. 国書は高圧的か、謙っているか

の三点が挙げられますが、高麗のものについては上に書きましたが、はっきり無理があると思いますので、削除で行きたいと思います。それ以外は併記と言うことで。とりあえずその点についての意見をお願いします。具体的な文案についてはこれから。

そして以下は私の見解です。

  1. 侵略と侵攻の違いは主権を侵すか否かにあると言う理解ですが(これも自信なし)、文永の役については少なくとも鎌倉幕府および京都朝廷を潰す意図があったとは考えにくいと私は思います。一に、南宋と言う主敵を抱えている時期にそのようなことをするとは思えない。二に、仮に日本全土を取ることを考えていたとしたら兵数が少なすぎる。三に国書の問題です(後述)弘安の役については、はっきりしないですが。前回より兵数を増やしたことは征服を考えていたと言う傍証になりえます。ただ「鋤や鍬が見つかったから侵略意図は明白」ではないと言うことを注記しておきます。なぜなら本格的な戦争を考えていたならば普通鍬や鋤を持っていくでしょうか?そんなものは後からもっていけばいい話であり、食料やら武器やら持っていくものは他にたくさんあったはずです。これに対する見解として江南軍は軍隊と言うよりは移民船団であり、戦闘が主目的ではなかったと考える向きもあります。つまり東路軍でどこかの領地を分捕っておいてそこに江南軍をそこに入植させるつもりであったと。まあ領土を奪うことは立派に侵略ですが、主権を奪う目的があったかは疑問と思います(主権なんて言葉を13世紀に当てはめることがそもそも疑問ですが)。それともう一つ、本気の戦争ならば戦意の低い南宋軍を使うのは疑問と言うことも付け加えておきます。
  2. 国書についてですが、高圧的と取る見解についてのポイントは、
    1. 一行目「上天眷命」(天の慈しみを受けている)
    2. 三行目「朕惟自古小國之君」(朕の思うに小国の君主は)
    3. 五行目「況我祖宗、受天明命、奄有區夏」(いわんや我々の祖先は天の明らかな命を受けて天下を有している)
    4. 十九行目「以至用兵,夫孰所好」(兵を用いるに至るのは誰が好むところであろうか)

と言う所です。これに対する反論として、一行目はモンゴルの上天信仰から来るモンゴルの国書の常套文句であったと杉山正明氏は言っています。三行目、小国の君主と言う言い方ですが、当時の元に比べて日本が小国であったのは紛れも無い事実ですし、更に冊封体制下ではこの程度の表現は珍しくもないです。五行目、これもモンゴルが当時のユーラシア大陸の大半を支配していたのは事実です。十九行目、これを脅迫と受けとることも出来るでしょう。しかし杉山正明氏はこれにも反論しています(詳細は『逆説のユーラシア史』に)。とまあ少なくともこの国書が脅迫意図が明確であることは疑いないとは言えないと言うことです。まあ、杉山先生も少々極端な説を唱える方なのですが、国書に関しては中国史家でもあまり意見は変わらないようです。

以上私の見解です。深紫 2005年7月15日 (金) 09:27 (UTC)

更に一週間が経ちましたが、反応無し・・・ちょっと寂しい。日曜日に上記(併記を基本とする。高麗の願望云々は削除)の方針で書き直すつもりですが、異論があるのなら今のうちにどうぞ。後で言っても聞かないぞと。深紫 2005年7月22日 (金) 13:27 (UTC)

反応が遅くなりもうしわけありません。 改稿の基本方針として、深紫さんの書かれたことに賛成します。

元寇の直前まで、高麗は元による高麗侵略に対する武力抵抗を約40年続けてきました。その結果、高麗の国土は荒廃し、高麗の軍事力も弱体化したようです。高麗にとっては自国(高麗)の立て直しが急務であったでしょう。しかし元の従属国となったため、元による日本侵攻に高麗も協力することを強いられた、といったところだと思います。222.6.215.124 2005年7月22日 (金) 15:48 (UTC)

一日遅れで改稿しました。どうもグダグダな文章になっており、まだ直すべき所が多々あるようです。ただし、文意を変える場合にはここでの動議をお願いします。深紫 2005年7月25日 (月) 09:16 (UTC)

史料と学説を併記すればいいと思うんですが?

1>侵略と侵攻の違いは主権を侵すか否かにあると言う理解

違います。上参照

>文永の役については少なくとも鎌倉幕府および京都朝廷を潰す意図があったとは考えにくいと私は思います。 >一>二 >これに対する見解として江南軍は軍隊と言うよりは移民船団であり >戦闘が主目的ではなかったと考える向きもあります。

史料提示願います。

>なぜなら本格的な戦争を考えていたならば普通鍬や鋤を持っていくでしょうか?

中国の戦い方では陣地の後方に兵站用の畑を耕し三ヶ月で収穫する。


>まあ領土を奪うことは立派に侵略ですが、主権を奪う目的があったかは疑問と思います

見解は無関係、領土の時点で主権侵害。

>更に冊封体制下ではこの程度の表現は珍しくもないです。

杉山さんの具体例をお願いします。華夷秩序では属国と化外、金印と銅印などで全く違う。そもそも南宋があるわけで蒙古は化外の王か銅印の国の反乱となる。

歴代王朝が続けた外交の継続は?

利用者:60.45.205.250 2005年8月5日 (金) 7:27 (UTC)

利用者:60.45.205.250 2005年8月6日 (金) 20:46 (UTC)

言葉を惜しまず、読み手に理解しやすいように、もう少し丁寧に文章を書いていただけないでしょうか。
60.45.205.250さんの上の文章では、ノートを読む側にとっては、いくつか文意を理解しにくい箇所があります。
また、ノートにおける議論の参加者として不審な行動をされているようです。
Wikipedia のしくみには慣れていらっしゃらないのかもしれませんが、ノートを編集して投稿した履歴は、すべてWikipediaに記録されています。
いったん投稿したご自分の文章を、何度か改変したような履歴が残っています。
他の参加者が議論を続ける気を失わせるように思います。222.6.215.124 2005年8月25日 (木) 03:38 (UTC)

まず返事が大幅に遅れて申し訳ありません。えーとそれで、こちらに対しては何を答えれば良いのかちょっと分かり難いのですが・・・。

侵略表記については上で書いたとおり、別に私は反対していません。ただし侵略目的が疑い得ないと言う書き方は疑問です。
領土を奪う目的であって幕府および朝廷をつぶす目的が薄いと言うのに対する史料提示と言われましても・・・挙げた理由がそれです。つぶす目的が疑いないという史料はありますか?ですからあくまで見解です。
そして・・・南宋が正当だから・・・と言うのがモンゴルの国書と関係ありますか?上天眷命の具体例について同時期に南宋に対して出した国書があります。こっちは皇天眷命になってますが。
とりあえずこれまでで。深紫 2005年8月26日 (金) 09:18 (UTC)

222.6.215.124さん

読みにくかったので整理と訂正しました。履歴が残るので問題はないかと思いましたが訂正した箇所も判り難かったですね。

疲弊したから侵攻する気がないという推理は疲弊した国を略奪により立て直そうとしたとも推理できます。想像だけなら何とでも言えます。ところが、日本、元、高麗いずれの史料でも高麗は経緯、経過、掠奪ともに積極的です。史料を無視した想像だけなので恣意的になってます中立を心掛けて下さい。

深紫さん

史料を根拠にせず想像を根拠に想像を積み上げては話会いにもならないし中立とは言えないでしょう。定説にもそれが定説となるだけの史料があるはずですから、その史料を示せばいいだけでしょ。

許可なく武力で領土に侵入したのだから「侵略」に疑問の余地はないです。侵略の定義と主権の定義を二重にずらして「侵攻」を使いたいようでね。とても中立とは言えません。

>南宋が正当だから・・・と言うのがモンゴルの国書と関係ありますか?

冊封体制を持ち出したのはあなたでしょ。

>更に冊封体制下ではこの程度の表現は珍しくもないです。

杉山氏が具体例を示してるはずですから起して下さい。それ位はできるでしょ。もちろん、その国は化外の王で金印をかつて受け、元とは戦争になってないのですね。

>この国書が脅迫意図が明確であることは疑いないとは言えない

元は南宋ほか各国と戦争しています。つまり、当時の各国の外交担当者は杉山氏ほどの読解力のないニワカだったんですね。

58.92.214.32 2005年9月4日 (日) 08:20 (UTC)
侵略表記についてはもう言いません。
国書についてですが・・・、うーん。冊封体制と書いたのがまずかったですかね。中華意識と言いましょうか?国書が高圧的か否かの比較対象は歴代王朝が出した国書です。モンゴル国書が他の国書(たとえば煬帝からの国書とか)と比べて高圧的であろうかということを問題にしているのです。この問題に南宋が関わってくるでしょうか?

>元は南宋ほか各国と戦争しています。

んで、当たり前ですが日本に当てた国書と南宋に当てた国書では内容がぜんぜん違います。これと比較すると日本へ当てたものは穏やかだと思える内容です。であるから脅迫意図が明確であることは疑いないとは言えないと言っているのです。らりた 2005年9月6日 (火) 06:52 (UTC)
222.6.215.124 です。
  1. まず、「整理と訂正しました」とのことですが、そうではなく、私は「何度か改変したような履歴が残っています」と申し上げました。
    60.45.205.250 さんの、2005年8月4日から8月6日までの前後10回にわたる変更履歴と各々の差分を拝見しますと、整理や訂正といった範疇を超えているケースが多いと考えました。ですので「改変」と表現しました。
    私としては、これから留意してノートでの議論をしてくだされば、それで構いません。
    文意にほとんど影響のない些細な訂正程度であれば、普通に編集して訂正/再投稿していただくだけでよろしいかと思います。敢えて<del></del>や<ins></ins>を使う必要はないでしょう。訂正箇所は差分を調べれば容易にわかります(訂正箇所が判り難いということはありません)。また訂正して再投稿する際に、「編集内容の要約」欄に訂正内容を明記することもできます。
    私は「もう少し丁寧に文章を書いていただけないでしょうか」とも述べました。実際に文章を以前より丁寧に書いてくださったと見受けられます。要望を受け容れていただいたようでありがとうございます。
    しかしまだどうも他の Wikipedian に対して突っかかる感じが残っていて、やや丁寧さを欠いた表現が見受けられます。下の文章例を参考にしてください。
    例1) 冊封体制を持ち出したのはあなたでしょ。
    例2) 冊封体制に言及したのは、あなたであったように思うのですが、いかがでしょうか。
    9月9日に 58.92.214.32 の署名で書かれた文章は、比較的丁寧であるように思います。
    また他のWikipedianに対して、「恣意的」「中立的ではない」「中立を心がけて」との助言もしくはご批判が、不自然に多い印象があります。Wikepediaの執筆に携わる以上、多くのWikipedianは、記事が恣意的にならないよう、中立を心がけています。中立を心がける旨の助言をする必要のあるようなケースは、普通はあまり無いと思いますし、それでも敢えて助言されるのであれば、一度だけで十分だと考えます。
  2. 続けて、何か批判らしきことを述べておられますが、これにつきましては、私からは何も申し上げることはありません。
    趣旨としては、私が8月25日に書いたことに対する返信だと理解しております。しかし何故ここで突然、侵攻に関する批判らしきことをなさるのか、文脈上の意図がよく解りません。もしかして、私が7月22日に記述した内容に対するご批判なのでしょうか。参考までに述べますと事の経緯は、
    1. 7月15日に深紫さんが、高麗の日本侵略願望の記述を削除することなど、3点の改稿の基本方針を提示されました。その後7月24日頃に改稿するとの予告がありました。
    2. 7月22日の私の記述は、要するにこの基本方針に賛成するという趣旨です。
    3. 7月25日に基本方針のとおりの改稿が行われました。
    従いまして、もしこの基本方針を批判されたのだとしましても、すでに改稿は行われましたので、批判すべき時期は過ぎていますとしか申し上げられません。もし高麗の侵攻に関して異論があるのでしたら、このノートの別の場所で議論をされるのが妥当かと思います。
    私が議論に加わるかどうかは未定です。議論に参加するかもしれませんし、参加しないかもしれません。
  3. 最後に、史料を重視すること、想像だけで記事を書かないこと、恣意的にならないこと、中立を心がけること、につきまして助言を頂きました。承りました。いろいろと至らないこともあるかと思いますが、今後ともご指導いただければ幸いです。
ご自身は中立を心掛けているとのことですね。誠実な態度だと感じますし、私も見習いたいと思います。意見の異なるWikipedian同士でも、互いに敬意を持って丁寧な文章で議論したいと思います。
ところで、IPアドレスがたびたび変わっているようで、少し混乱しますね。
60.45.205.250さん = 60.45.205.81さん = 58.92.214.32さん
ですね。 --222.6.215.124 2005年9月10日 (土) 04:11 (UTC)

弘安の役での元軍の敗退

  • >>元の軍船はずたずたになった。これを見た武士達は勇躍して元軍に襲い掛かり、元軍を追い返した。
    • 船が壊され人員装備に大きな損害が生じたのを見て指揮官連がやる気を無くして退却・帰国を決め、航海に耐える船を選り取り、乗れない者(数万ないし十万)を捨てていった後、日本軍が襲ってきたんだとおもいます。その時残された兵士はもう帰ることしか考えていなかったでしょう。 --Ypacarai 2005年7月26日 (火) 13:51 (UTC)
それはどっちも正しいという事ではないでしょうか。そういう状況ならば当然武士たちは襲い掛かったでしょうし、元側も当然逃げることを考えたでしょう。追撃戦と言うのはそういうものだと思います。深紫 2005年7月29日 (金) 12:27 (UTC)
違います。日本軍が襲来した時には帰れるような船はなかったので「追い返した」というのは正しくありません。取り残された「十万」のうち帰れたのは奴隷にされてから舟を盗んで帰国した南宋人3人だけだったんですからね。 --Ypacaraí 2005年8月4日 (木) 22:42 (UTC)
えーと、「追い返した」のではなくて「逃げていった」と言うことでしょうか?まあ、その辺には別にこだわりませんが。深紫 2005年8月26日 (金) 09:18 (UTC)

60.45.205.250氏の改稿について

動議してくれと言っておいたのですが、改稿されたようです。その内容についてですが、

>海岸付近で激しい矢戦となり戦線は膠着し内陸への侵入を阻止した
海岸線で押しとどめたのならなぜ博多が炎上するのでしょうか?更に『竹崎季長絵詞』を元に竹崎季長の活躍を語ると言うのはどうなのでしょうか・・・。(読売新聞を元に巨人の活躍を語るようなものでは(笑))更に更に白装束の・・・が原因で撤退したと言うところに付いては・・・本気ですか?と聞きたくなりますね。
いずれにせよすぐには戻しません。すぐには戻しませんが、いずれ戻します。それについて反対ならばここで何か意見をお願いします。

追記:元寇の戦闘の具体的内容については色々と説があるようなのでここで記すべきことでないかもしれませんね。そもそも元寇自体についても良く分らないことが多く、杉山正明氏に言わせれば「研究はこれからだ」と言うことだそうですから。ただ少なくとも『竹崎季長絵詞』・『八幡愚童訓』などだけを元に書くのは止めてほしいです。深紫 2005年7月29日 (金) 12:27 (UTC)


ノートがあったのは知りませんでした。失礼しました。

>海岸線で押しとどめたのならなぜ博多が炎上するのでしょうか?

博多は港町だからです。

「元史」「高麗史」も参考にしてますが?つまり元のことは「元史」以外で、高麗のことは「高麗史」以外の史料を参考にしろと?元寇はそれぞれの史料にほとんど矛盾がなく整合性がとれてますから史料の引用(引用等としたつもりでした)は問題ないと思います。

竹崎季長が「最初に」「名乗りをあげた」史料は何ですか?

>まあ、杉山先生も少々極端な説を唱える方なのですが

極端な説の方の引用は止めるべき・・・と言いたいところですが、ちょうど史料と学説を併記したかったところです。ただ当たり障りない表現を考えてて面倒になってました。

60.45.205.250 2005年8月4日 (木) 23:58 (UTC)

博多炎上についてですが、元軍によって博多は占領されていたのでしょうか?そうでないと仮に火をつけたとしても日本軍が消すのではないのですか?まさか消そうとしなかったわけじゃないでしょう。博多が占領されていたとしたら海岸線で押しとどめたとは言いがたいでしょう?
元史・高麗史も参考にしているとおっしゃられますが、戦闘の前後にちょっと使ってるだけみたいですが。『竹崎季長絵詞』・『八幡愚童訓』の両史料の性格(『竹崎季長絵詞』は竹崎季長が戦功を誇るために『八幡愚童訓』は八幡大菩薩の加護を説明するために)を考えるとこれだけをもって戦闘内容を記述するのはどうかとおもうのですがどうでしょうか?別に両史料の資料的価値をどうこう言っているわけではないし、両史料を引用するなと言っているわけではありません。この史料の記述だけを書くのは止めてほしいと言っているのです。
そして白装束の件についてはどうでしょうか?
いずれにしてもここで話し合ってくれるのならば私に文句はありません。今日私が書いたことに対するご返事に対しては返事を返そうと思いますが、それ以降は手を引こうと思います。少々、無責任かもしれませんが、申し訳ありません。深紫 2005年8月26日 (金) 09:18 (UTC)
たしかに中立性に問題があるように思えます。「海岸線で押しとどめた」だけを書くと、完全に防衛できたように読めてしまいます。博多・筥崎宮を捨てて大宰府まで撤退し、元軍に博多を焼かれているのは事実ですので、その旨書いておいた方がよいように思えます。鷹島町教育委員会による沈船調査など、考古学系からのバックアップがこれからも期待されるので、戦闘経過自体はそれなりに抑えめに書いておいたほうがよいのではないでしょうか。また元については元史を用いればよいとお考えのようですが、これはあまりに史料批判をおろそかにしています。元史は明廷で、それも史料があまりない状態で強い政治性をおびつつ、しかもものすごい突貫工事で編纂されたもので、歴代正史の中でもとりわけ評価の低いものです。元史や高麗史は、こと元寇に関する限り編纂時のモンゴル=明=高麗の関係も考慮して読む必要があります。で。そもそも記事自体があまりに戦闘に集中しすぎて、特に「軍事面」最後の段落ではやや筆が滑っている感も否めません。博多での戦闘のディテールのレヴェルにあわせるなら、対馬における宗助国の防戦、壱岐における平景隆の防戦なども記述すべきでしょうし、どちらにしても、それぞれ史料をさらに引用したほうがよいかもしれません。中立性観点からの議論中ということで加筆はしませんが、これ以前の武藤氏の切望した高麗への通交、さらに元寇以降の鎮西探題の成立、関東御家人の下向による土着化、八幡神宇佐宮の神威拡大、大宰府支配の後退、ひいては得宗専制への道。一方では大元での行中書省の成立と国制の変容、元寇などどこ吹く風の通商関係など、はるかに書くべきことがあるように思えますがいかがでしょうか。杉山さんは私としてみると「かなり」極端ですが、それでもやはり少なくともモンゴル帝国史関連で無視して良い研究ではありません。-Kotoito 2005年9月1日 (木) 08:09 (UTC)

港町が内陸にあるほうが可笑しいでしょう。占領しなくとも放火できるし前線で武士が消火する余裕ないでしょう。しかも装備もなければ消火訓練もしてないのですから。

私は「海岸付近」と書いてたはずですが「海岸線」と換えてるのは「海岸付近」が不当だと印象づける意図があるのですか?

>戦闘内容を記述するのはどうかとおもうのですがどうでしょうか?

あなたは戦闘内容を記述してるんですよ。ほら

最初に竹崎季長が名乗りをあげての一騎打ちを試みたが、元軍は一斉・・・

>この史料の記述だけを書くのは止めてほしいと言っているのです。

ええ、ですから最初に竹崎季長が名乗りをあげての一騎打ちを試みた史料を教えて下さい。そちらの史料も使いますから。

>更に更に白装束の・・・本気ですか?

知らなかったんでしょ、知ってたらこんな物言いにはならない。もうググったようだから書いときますが、八幡愚童訓が宗教書との言い訳はこの下りには通りませんよ。定説では『高麗史』の軍議をうやむやにして元軍の圧勝を前提にしてます。だから不思議に感じるだけで、『高麗史』通り退却戦ならば30人の夜襲で壊走するのは珍しくも無いですから。また、この下りでは正応本には神威が書かれているので、比べるとこの下りの筑紫本が現実的であることが解ると思います。

正応本「白装束の人三十人ばかり筥崎宮より出で、矢さきをそろへて射ると見えしは神の降伏し給ひしなり。この降伏にへきえきして、松原の陣を逃げ海に出けるに、あやしき火もえめぐり、船二艘あらはれて皆うたれ、たまたま沖に逃げのびたるは、大風に吹き沈められにけり。」
筑紫本「夜中ニ白張装束之人三十人筥崎ヨリ矢先ヲ調テ射ケルガ其事カウ震敷身毛余立テ恐シク家々ノ燃ル焔ノ海ノ面ニ移レルヲ海中ヨリ猛火燃出ルト見成テ蒙古共肝心ヲ迷ハシテ我先ニ逃ントハ後ニ生取レタル日本人帰レルト又彼蒙古カ一同ニ申上ハ更ニ誤不可有。」

と正応本の意味不明な記述に対して筑紫本では生還者と捕虜の証言として書かれてます。

Kotoitoさん、私は「海岸付近」と書いてたはずですが「海岸線」と換えてるのは「海岸付近」が不当だと印象づける意図があるのですか?

>博多・筥崎宮を・・・その旨書いておいた方がよいように思えます。 書いてあります。

私は中立を心掛けています。それでは、元が内陸まで侵攻した批判に耐える史料を教えてください。そちらも書きます。念のために八幡愚童訓は神威を扱ってますからね。いや『元史』でしたね。

前哨戦と決戦を同列に扱う必要があるとは思えませんし、具体的な記述がある方が小中学生にも理解し易いと思います。むしろ史料にあるものを使わない方が恣意的であり中立ではないでしょう。

58.92.214.32 2005年9月4日 (日) 08:20 (UTC)
議論ありがとうございます。海岸線への言い換え、恣意的にしたわけではありませんが、申し訳ありません。たしかに海岸付近とおっしゃっていますね。おそらく、事実認識としては私と58.92.214.32さんはほとんど異なるところはないように思えます。すなわち日本側が非常な善戦をし、モンゴル側が苦戦をした、そして双方ともに損害が多く、日本側は大宰府へ撤退、元側も撤退した、ということです。別に内陸まで侵攻したなどとは申し上げてはおりません。で、私が中立性云々といいだしたのは、この撤退の表現の部分にあるように思えます。たしかに「戦線は膠着」と書かれているのですが、そのあとを見ると「日暮となり戦闘を解し、日本軍は大宰府に帰った」とあり一方モンゴル側は「損害も大きく、軍の編成が崩れた。戦況を不利とみて大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにした」とあります。ここから事実上日本側は圧倒的に優勢な状況で余裕をもって、その日を終えたように読めるのですが、いかがでしょうか。帰ると撤退の差は大きいのではないでしょうか。元軍がてつはうなどを用いて日本側をさんざんに翻弄したが、神風によって助けられた、というような説を覆す意図をもって、日本側の善戦を非常に強調されるのだとは思いますが、もはやそれは定説でもなんでもなく、ただの巷説です。教科書はどうだか知りませんが、ここ20年の日本史の概説書、あるいは地方史レヴェルの概説書でもそのようなことは書いていないでしょう。としたらやや強調しすぎではないか、と思うのです。
この日の戦闘が果たして決戦であったのか、は疑問の余地があります。『高麗史節要』の軍議から決戦的性格をもち、元軍の撤退を促した、と解釈されるわけですが、『節要』が用いた史料が不明である以上、この部分を端的に史実である、とするのは危険ではないでしょうか。『高麗史』および『高麗史節要』はモンゴルを非常に貶めて書く一種のくせが各所に見られるわけですが、この部分はどのように解釈されているのでしょうか。
で、最後に。これは記事の性質と関わることなのですが、私が申し上げたいのは「元寇」を九州北海岸へのモンゴルの侵攻とそれにともなう戦闘のこと、と定義するように思える記事の内容への疑問なのです。このとらえ方は非常に局地的で、そういう意味では元寇は日本史において刀伊の入寇や応永の外寇とさしてかわるところがなくなってしまいます。日本政治史において荘園公領制に一種寄生する形であった鎌倉幕府の存在が、元寇を通じて得宗専制を進展させ、一方で御家人の土着化をすすめ、国制を新しい段階にすすめた事件であったという記述がメインに成るべきだと思うのですが、この点はいかがでしょうか。-Kotoito 2005年9月4日 (日) 11:40 (UTC)
別ハンで書いてましたが、深紫=らりたです。
戦闘内容についてはやっと理解できました。
あまり深く考えずに書いたものであり、軽率でした。申し訳ありません。この点に関しては撤回します。
海岸付近と海岸線についてもこれは単純に間違えたのでして、申し訳ありません。
で、白装束云々に関しては史料に書いてあるか否かではなくて、そんなことが起こると本気で思ってらっしゃるのですか?と聞きたかったのですが、思ってらっしゃるようですね。それでは私は何も言いません。
正直この項目については成り行きで関わってしまったので、非常に知識不足であり、お見苦しい点があったかと思いますが、申し訳ありません。私より知識豊富なKotoitoさんが議論に加わってくださったので私はこれで撤退したいと思います。らりた 2005年9月6日 (火) 06:52 (UTC)
Kotoitoです。白装束云々は深紫さんに任せようと思いましたし、専門外もはなはだしいので史料の内容にまで踏み込むのはどうかと思いあえて触れませんでしたが、この白装束云々はやっぱりどうでしょう。とりあえず58.92.214.32さんの拠られる筑紫本に近い内閣文庫本から読んでみました。この白装束云々に触れ、かつ捕虜云々いっている諸本で大意は共通なので煩瑣ですが以下引用(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と史料』三弥生書店, 2001.)。
倩上代ヲ思ヘハ、佛法王法盛ンニシテ、國家モ安全ナレハ、縦ヒ凶徒野心ヲサシハサムトモ、其恐アルヘカラス、公家勢衰へ、人民力弱ラム時、異賊、競来ト云トモ、降伏シ給ヘキ御誓、末代マテモ、タノモシキナリ、貞松ハ歳ノ寒ニ顕ルト云如ク、神徳ハ人ノ危ニ見ヘタリ、去ハ今度、已ニ武力盡キハテ、若干ノ大勢モ落失テ、今ハ、カウト」見ヘシ時、夜中ニ白張装束ノ人三十人計、筥崎ノ宮ヨリ出デテ箭先ヲ調テ射ケルカ、其事カラ、ヲヒタタシク、家々ノ、モユル炎ノ、海ノ面ニウツレルヲ、波ノ中ヨリ猛火モヱ出ヌト見ナシテ蒙古トモ、肝魂ヲ失ヒテ、吾先ニ迯ントス、生取レシ日本人ノ歸ルト、蒙古ノ虜レタルト、一同ニ申セハ、更ニ誤有ヘカラス、是ヨリシテ、蒙古ノヨスル時ニハ、海端ニ火ヲ焼事ハ出来ニケレ、日本ノ兵、一騎ナリトモ、ヒカヘタリセハ、大菩薩ノ御戰トハ、イワスシテ、我カ高名ニテ追歸シタリトモ申ヘシ、一人モナク追失テ後、ヲヲクノ異賊、ヲチ恐レテ迯シカハ、神軍ノ威勢、不思議、弥、顕レ給ニケリ……
でですね。これ、だれが史料批判しても日本軍が追い散らしたのだ、と読む人はいないんじゃないでしょうか。「日本側がへろへろになっているときに筥崎宮から白装束のものが出ていって矢をいかけた。そして燃える火とあわせてモンゴル側はおそれをなして逃げ帰った。日本の兵がいたならば自分の手柄にしただろう。しかし誰もいないのに異賊は恐れて逃げた。神軍、菩薩の戦いである」と、これが段落の大意でしょう。白装束が神人の装束であることもあわせて考えるならば、まさしく筥崎宮の神威を強調しているのです。また捕虜になった日本兵の帰ってきたものとか元軍の捕虜とかに証言させているのは、日本側に証人=軍団がいなかった(というよりむしろ、いないことにしないと説話が成立しない)からです。したがって当該史料のこの部分は、神威や神軍、およびそれによる手柄を幕府に対して誇示するものであると読むべきで、単なる事実記事と読むことは出来ないでしょう。
ところで、いろいろ読んだみたのですが、どうも元寇は術語としてはもはや用いられない語のようです。蒙古襲来なりモンゴル襲来なりに移動も考えた方がいいかもしれません。Kotoito 2005年9月8日 (木) 07:34 (UTC)

「帰った」という表現ですね。「退却」と迷ったんですが「退却」では「敗走した」と誤解されると判断しました。『高麗史』の「及暮乃解」から「戦闘を解し」(「戦闘を解いて」が良かったですね)と書きました。「帰った」は「解」を表現したわけで日本軍の善戦を強調する意図ではありません。 通常、野戦に於いて夜には前線に張り付かず安全な場所に退却し食事と睡眠をとるものですが、現在このことが常識として浸透してないので「帰った」と表現しましたが「引き揚げた」の方が良かったでしょうかね。

>日本側は圧倒的に優勢な状況で余裕をもって、その日を終えたように読めるのですが、いかがでしょうか。

圧倒的と読めるのなら「日本軍は元軍を海に追い落とせなかった」と挿入しましょう。

決戦に疑問があるのは何故ですか?決戦でなければ何ですか?

>もはやそれは定説でもなんでもなく、ただの巷説です。

それで定説はどの史料が基になってるのですか?もちろん批判に耐えうる史料ですよね。

>『節要』が用いた史料が不明である以上・・・

『節要』なら『高麗史』六十三巻之一〇四列伝金方慶伝でしょうけど、正史ですから15世紀の編纂ですね。それでは、神風によって助けられたという史料は13世紀あるいは14世紀前半に書かれたのですか?『高麗史』が捏造であると判ればそこを直せばいいでしょう。

『高麗史』および『高麗史節要』はモンゴルを非常に貶めて書く一種のくせ

殆んどが元を貶すと高麗をけなすことになるのと、日本側の史料と整合性がとれてるのである史料は使うべきと考えます。寧ろ史料に無い事を書く方が怖いですね。

最後のは本文「1.4影響」に書かれたら如何ですか

9月8日の分ですが史料批判して下さい。『八幡愚童訓』は神威を強調しているのですから「已ニ武力盡キハテ、若干ノ大勢モ落失テ」この下りこそ批判の対象でしょう。武士は機械化されてないのだから日没後も前線に張り付くのは現実的ではありません。状況の優劣に関わらず大宰府に引き上げる当然です。批判なしにへろへろはないでしょう。

白装束の下りのほか夜中に元が玄海灘に出帆した理由を知りません。他に合理的な出帆理由があるか発見されれば、それに換えればいいと思います。:58.92.214.32 2005年9月9日 (金) 14:45 (UTC)



Kotoitoです。反論ありがとうございます。一応先に述べておきますが、この記事全体としては、現状において中立性への配慮をうかがうに充分になってきました。しかし以下の点で不満が残るので反論しております。この点ご理解くださると幸いです。

  • 白装束云々の完全な事実であるかのような扱いの点
  • 「蒙古軍の圧倒的な戦力と日本軍の大敗、そして神風による蒙古撤退の大幸運」という巷説を定説であるかのように扱い、それに対する反論が過剰になっている点
  • 上記から来る史料の無限定な引用とノートにおける研究史的記述の不足に関する疑問。特に各史料間に矛盾云々は意味不明
  • 日本史における位置づけの不足。日本側の高麗征討計画などは書く必要があるでしょう。

で、以下これを展開してコメントします(最後の点については同意くださっているようなので述べません)。そろそろ長くなったので、各議論ごとに見出しを立てたいと思います。コメントはそれぞれの見出しの項以下におつけください。非常な長文に亘り、また繰り返しの引用が多くなりますが、全体像や史料の取り扱いに関する理解の共有、議論の進行、あるいは専門外であるための私の憶断や誤謬の修正などさまざまな利益があると思いますのでご容赦ください。-Kotoito 2005年9月10日 (土) 17:17 (UTC)


白装束の集団が元軍を夜間撤退させた、との記述の解釈

私の

これ、だれが史料批判しても日本軍が追い散らしたのだ、と読む人はいないんじゃないでしょうか。「日本側がへろへろになっているときに筥崎宮から白装束のものが出ていって矢をいかけた。そして燃える火とあわせてモンゴル側はおそれをなして逃げ帰った。日本の兵がいたならば自分の手柄にしただろう。しかし誰もいないのに異賊は恐れて逃げた。神軍、菩薩の戦いである」と、これが段落の大意でしょう。白装束が神人の装束であることもあわせて考えるならば、まさしく筥崎宮の神威を強調しているのです。

に対して

>9月8日の分ですが史料批判して下さい。『八幡愚童訓』は神威を強調しているのですから「已ニ武力盡キハテ、若干ノ大勢モ落失テ」この下りこそ批判の対象でしょう。武士は機械化されてないのだから日没後も前線に張り付くのは現実的ではありません。状況の優劣に関わらず大宰府に引き上げる当然です。批判なしにへろへろはないでしょう。

とおっしゃています。よくお読みください。へろへろ、と私が書いたのは『八幡愚童訓』のこのくだりを要約しただけです。私がこの部分を史実として受け取り「その日、日本側はへろへろだった」と主張しているのではありません。『八幡愚童訓』がそういっている、というだけです。むしろおっしゃるように、引き上げただけかもしれません。

58.92.214.32さんは、八幡神威を強調する史料である『八幡愚童訓』の性格から「已ニ武力盡キハテ、若干ノ大勢モ落失テ」は、当然割り引いて読むべきとお考えなのですよね。まったく同意でして『八幡愚童訓』はそのような態度で読まなければなりません。とすれば、なぜその後段の白装束の下りだけを具体的事実であるかのように解釈されるのかが疑問です。もし

>白装束の下りのほか夜中に元が玄海灘に出帆した理由を知りません。他に合理的な出帆理由があるか発見されれば、それに換えればいいと思います。

というのが理由だとしたら、いかがなものでしょうか。信頼性が低いとご自身で判断されているにもかかわらず、元軍の撤退の理由をほかに記述している史料がないから、が理由ですか? 史料論的立場からすれば、ほかに史料がないことと『八幡愚童訓』の成立時期、意図から考えて、これを『八幡愚童訓』の創作である、と考えるのが妥当な立場だと思えます。あえて白装束、いくつかの本では白張装束となっている意味をお考えください。史料全体の信頼性が低い中で、その史料の一部のみを、他の史料や研究的傍証もなくとりあげるのでは、ご自身の見解に都合の良い部分をとる恣意的な史料利用ととらえられかねません。この場合では特に白装束のくだりだけを抜き出した上に、白装束=神軍の神軍の部分だけを削除するという操作はとても納得できるものではありません。つまり、「他に合理的な理由」もなにも白装束云々もとても「合理的」理由として採用するべきではありません。

であれば、一夜にしての撤退もとるべきでない、との反論が考えられますが、これは一夜にしての撤退こそが、神風なり白装束なりの説話を生み出した下地であると解釈することもできますし、早期の撤退自体は他史料の傍証もできる事がらです。

私は58.92.214.32さんの主張のほか夜中に元が玄界灘に出帆した理由は白装束云々であるとした研究を知りません。ご呈示いただければ幸いです。ついでに諸本間の差異が議論のじゃまとなるといけないので、おそらくは『日本思想体系』か『群書類従』ないし『続群書類従』所収のものとなると思いますが、お使いになる『八幡愚童訓』はどのテクストをとるかご指定ください。できれば刊本がよいのですが、入手できるマイクロフィルムでもかまいません。-Kotoito 2005年9月10日 (土) 17:17 (UTC)

定説はなにか

私は

元軍がてつはうなどを用いて日本側をさんざんに翻弄したが、神風によって助けられた、というような説を覆す意図をもって、日本側の善戦を非常に強調されるのだとは思いますが、もはやそれは定説でもなんでもなく、ただの巷説です。教科書はどうだか知りませんが、ここ20年の日本史の概説書、あるいは地方史レヴェルの概説書でもそのようなことは書いていないでしょう。

と申し上げました。これに対して

>それで定説はどの史料が基になってるのですか?もちろん批判に耐えうる史料ですよね

とおっしゃいました。58.92.214.32さんが批判する「定説」は定説ではないと申し上げたので、当然、定説はどのあたりか、という批判があると考えましたので、少々面食らっております。批判に耐えうる史料なのは当たり前です。この点は次節で説明します。で、これはコメントではなく、議論を明確化するためにも、私が定説と考えるあたりを説明しておきます。本来、歴史学において定説などというものは存在しませんが、最有力な説というのはあります。そして日本史の大きな事件の場合、だいたいそれほど古くない概説書や論集、事典にほぼ共通して書かれている部分として差し支えないでしょう。具体的には次のように考えます。

  • 国史大事典
  • 講談社『日本の歴史』
  • 吉川弘文館『日本の時代史』
  • 東京堂出版『展望日本歴史』
  • 岩波書店『講座日本通史』

あたりでいいんじゃないでしょうか。各時代、地域でつけたすべきものはありますし、個人的には『軍事史研究』第38巻4号(2003年)元寇特集の一連の論文(他のWikipedianのために念のため。『軍事史研究』は一般向けの戦史系雑誌ではありません。きちんとした査読付きの学術雑誌で内容も注のついた論文です)によって、戦闘経過などは新たな段階に達したと思いますが、これはいまだ批判を待つ状態だと思うので、無限定に採用するわけにはいかないように思います(軍事面の節では参照に足ると思います)。

ともあれ「なぜか定説では湾内で台風に遭い損害がでたので、その夜のうちに撤退したという解釈になっていた。」とおっしゃる際の「定説」を示唆する研究をお示しください。-Kotoito 2005年9月10日 (土) 17:17 (UTC)


研究史的位置づけと史料論

とりあえず、各論としての白装束云々から始めたわけですが、根本的な議論となる史料論と研究史的位置づけの問題を論じたいと思います。

史料を非常に強調されるので、文献史学の基礎について見解の相違はないように思えたのですが、どうも史料について私と見解の相違があるのではないか、という思いが強くなっております。それは史料批判という言葉の意味に集約されます。

史料批判は、まず史料全体の位置づけ、すなわち信頼性の確認に始まります。その意味で58.92.214.32さんが「それで定説はどの史料が基になってるのですか?もちろん批判に耐えうる史料ですよね」とおっしゃっていることから、史料批判という言葉をお使いになるときに、その意味が私と違う、そして史料の利用方法についても私と相違がある、と考えました。史料批判とは、この史料はインチキだとか捏造だとかそういうことだけではなく、インチキや捏造があるならそれはどの部分か、そしてそれは何のためであったか、そういうことを考え、そこから歴史像を構築するために検討する、ということではありませんか? そうであるとすれば批判に耐えない史料などというものはありません。史料批判はある史料を「用いる」か「用いない」かを二者択一する作業でもありません。

上の引用と「史料間に矛盾がない」ことの強調や、先述の「白装束の下りのほか夜中に元が玄海灘に出帆した理由を知りません」、さらに「日本側の史料と整合性がとれてるのである史料は使うべきと考えます。寧ろ史料に無い事を書く方が怖いですね」から憶断するわけですが、58.92.214.32さんは、ある史料を用いればある史実が確定する、とお考えで、史学学説の数は用いる史料の組み合わせの数に等しいとお考えなのではないかと思われるのです。

しかし、一般に史学学説は史料の解釈およびその方法によって、用いる史料が同じでも複数存在し得ます。歴史的事象の確定は、史料間に矛盾がないことをもってするのではありません。各史料の解釈およびその方法に矛盾や問題点がないことをもってします。定説がどのような史料に拠っているかとのお尋ねがありました。定説の拠る史料も58.92.214.32さんと当たり前ながら大差ありません(おそらくは日本側では『大友家文書』や『少弐家記録』、元史については日本伝だけではなく世祖本紀などが補助的に用いられるなどの追加があるくらいでしょう)。しかしながら、その結果もたらされる歴史叙述が58.92.214.32さんと同一になる保証は全くありません。解釈ないしその方法が異なるからです。そして58.92.214.32さんが示される解釈は、いまのところよってたつ研究などが示されていませんし、58.92.214.32さんが論文として公表なさっているのかもしれませんが、それをお知らせいただけない以上、定説よりもとるべき理由は見あたりません。

そもそも何をもって史料間に矛盾がないとされるのでしょう。本文中に述べられるように、日本側の史料でも立派な矛盾があるではありませんか。すなわち元軍撤退の理由です。『勘仲記』は神風とし、『八幡愚童訓』は白装束云々としています。『勘仲記』は気象学的にとれないから、『八幡愚童訓』をとるなどと云うのは安直です。複数の史料から史料批判を重ねた上で、そこからもたらされる最大公約数的部分をとって、考えてゆくのが歴史学です。そしてその成果を論文として発表し、それに対して反論があればそれが公表され、反論に対しさらに反駁したり、あるいは修正したりして、学説史なり研究史なりが形成されてゆきます。

私には58.92.214.32さんが研究史的にどのあたりの立場に立ってらっしゃるのかが、全くわかりません。論点を明確にするためにも先述の通り58.92.214.32さんが主に依拠する研究をあげていただけると非常に助かるのですがいかがでしょうか。それとも、これまでの文献史学的研究はほとんど信頼できないので、ご自身による史料の読解と解釈、そして叙述をおこなわれた、ということでしょうか。-Kotoito 2005年9月10日 (土) 17:17 (UTC)

表現をめぐって

>「帰った」という表現ですね。「退却」と迷ったんですが「退却」では「敗走した」と誤解されると判断しました。『高麗史』の「及暮乃解」から「戦闘を解し」(「戦闘を解いて」が良かったですね)と書きました。「帰った」は「解」を表現したわけで日本軍の善戦を強調する意図ではありません。通常、野戦に於いて夜には前線に張り付かず安全な場所に退却し食事と睡眠をとるものですが、現在このことが常識として浸透してないので「帰った」と表現しましたが「引き揚げた」の方が良かったでしょうかね。

ちょっと待ってください。引用されたのは

忽敦曰、蒙人雖習戰何以加此、諸軍與戰及暮乃解。方慶云々

ですよね。この記述からどうやって

>『高麗史』によると、やがて日暮となり戦闘を解し、日本軍は大宰府に帰った。
>一方、元軍は日本軍の抵抗のため海岸付近より前進できず、終日の激戦で矢が尽き、日本軍に大損害を与えたものの元の損害も大きく、軍の編成が崩れた。戦況を不利とみて大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにした。

となるのですか。及暮乃解の主語は何でしょうか。本文を普通に読めば、日本側が「戦闘を解き、帰った」となるでしょう。そして元側は「戦闘を解く」までもなく「編成が崩れて引いた」となります。このあたりの叙述を高麗史によるなら別に難しいことはないでしょう。例を示します。

博多でも少弐景資が元将劉復亨を射倒し重傷を負わせるなど、海岸付近で激しい矢戦となり戦線は膠着し、元軍の内陸への侵入を阻止した。『高麗史』によると、やがて日暮となり両軍戦闘を解し、日本軍は大宰府へ引き揚げ水城まで防衛線を下げた。一方の元軍も終日の激戦で矢が尽き、日本軍に大損害を与えたものの自軍の損害も大きく、編成が崩れた。戦況を不利とみて大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにした。

これで充分ではありませんか。直前に「内陸への侵入を阻止した」とあるのに、わざわざ「日本軍の抵抗のため海岸付近より前進できず」と書くのは二重の記述によって印象を強めようとする感を否めません。-Kotoito 2005年9月10日 (土) 17:17 (UTC)

単なる疑問・要望

  • 本文ではっきり書いていないのでよくわかりませんが、ノートの記述とあわせると、日本側は戦闘当日、朝、大宰府から出撃して戦闘し、夕方帰ったというような読みになるのですが、この読みでいいのでしょうか。そして当日大宰府から出撃したのでしょうか。
  • 以下のくだり。
>殆んどが元を貶すと高麗をけなすことになるのと、日本側の史料と整合性がとれてるのである史料は使うべきと考えます。寧ろ史料に無い事を書く方が怖いですね。
元を貶めると高麗を貶めることになるなどという解釈はあまり聞いたことがありません。浅学を恥じ入るのみですが、ご教示ください。
  • さらにその前段。
>それでは、神風によって助けられたという史料は13世紀あるいは14世紀前半に書かれたのですか?
このあたりの行論がなにをおっしゃりたいのかわかりませんが、それ以上に問題なのは、私が「神風によって助けられた」と申し上げているかのような記述をしてらっしゃることです。史料を深く読み、私の海岸部と海岸線の言い換えの誤謬を鋭く指摘された方の読みとは思えません。私は「神風によって助けられた」などとは申し上げておりません。先日の「元が内陸まで侵攻した批判に耐える史料を教えてください」や最初の白装束云々もそうですが、私が主張していないことをさも主張しているかのように指摘して、他のWikipedianに先入観を与えるようなことはおやめいただきたいと思います。もし、白装束云々をとらなければ、神風説に与するもの、神風説に与さないなら白装束云々はとって当然、とお考えなら、史料の扱いに問題点がある、ということもすでに指摘しました。-Kotoito 2005年9月10日 (土) 17:17 (UTC)

6か月以上たちましたが、58.92.214.32さんからのご回答も他の方の書き込みもありませんね。 Kotoitoさんの見解で記事を編集してよろしいのではないでしょうか。 お時間があるようでしたら、Kotoitoさんに編集をお願いしたいと思います。

また、Kotoitoさんが以前に言及されました項目名変更 (蒙古襲来もしくはモンゴル襲来への変更) について、私は賛成します。 222.6.215.124 2006年4月1日 (土) 03:59 (UTC)

文永の役の平景隆のみ名前が記述されていて、弘安の役の少弐資時のみ記述されていないのが 気になります。揉めているようなので俺のような初心者が手を出してよいのか?と言う点も 気になりますのでノートに書いておきます。歴史学的にはこの二人に明確な差があると されているのでしょうか?少なくとも地元ではこの二人は平等です。究極の幻想 2007年3月13日 (火) 08:09 (UTC)


防塁について

なぜ、当時幕府が、元軍が上陸してくる想定を博多湾に限定しえたのでしょうか。
また、防塁は元軍の上陸に対しどの程度障害となりえたのでしょうか。
歴史に詳しい方、ご教授ください。Moltke 2005年8月10日 (水) 01:48 (UTC)

詳しくは無いですが、確か防塁は今の山口県などにも築かれ、
新潟などでも日本軍部隊による警戒はしていたようです。
ですから弘安の役は西国武士だけでなく一部の東国武士も関わっていたのでしょう。
ソースは残念ながらありませんが、高校でちょっと話を聞いたことがあります。


防塁が築かれたのは現存するのが蒙古山付近~博多市で 推定されるのが博多市付近~筑前・豊前国境付近?

教科書(山川出版)では >博多湾岸への上陸を阻まれているあいだに・・・・

と書かれているだけなのでどのくらいの効果があったかは不明です。


>元軍が上陸してくる想定を博多湾に限定しえたのでしょうか。

大宰府があったからです。太宰府は九州における政治行政の拠点であり、防衛はもちろんのこと、元の使節に対応するなどの外交も担っていました。元が日本について知っている知識において、まず最初に攻略すべきもっとも重要な政治拠点とされることは容易に予想できます。防塁ラインは大宰府へのルートの守りということですね。

>また、防塁は元軍の上陸に対しどの程度障害となりえたのでしょうか。

先陣の東路軍は防塁を避ける形で志賀島に陣をはることとなり、日本兵に戦術的な有利をもたらしました。また、本陣である江南軍には攻撃を躊躇させる効果があったようです。江南軍の全面攻撃の前に台風がきたのはご存じの通りです。以上のことから、元軍にとって防塁の強行突破は多大な犠牲を予想させたということになりましょう。実際に戦闘面で効果が試されることはそれほどありませんでしたが(上陸をほとんどさせなかった/しなかったため)、元軍にとってきわめて大きな障害だったと思われます。

LINKの訂正

  1. 忠烈王_(高麗王)
  2. 元史
  3. 高麗史

しました--Lulusuke 2006年5月14日 (日) 04:43 (UTC)

出典の誤りについて

元史ではなく高麗史です http://147.46.181.118/IMAGE/SNUG0638.PDF の104画像のうち56番目です --Lulusuke 2006年5月14日 (日) 05:17 (UTC)

『提案』八幡愚童訓の白装束

ここの元寇の中に <REF></REF>を使って脚注にまわして、脚注で

元寇については八幡愚童訓にも、興味深い記述がある。

として八幡愚童訓の記述を別ページで詳細に書いていただくのはいかがでしょうか?--Lulusuke 2006年6月10日 (土) 13:59 (UTC)

「その他の説」でのヨーロッパ、中東への侵攻の説明

議論の途中失礼します。本文「その他の説」で、恐らく1240年前後のバトゥの西方遠征におけるハンガリー、ポーランドおよびオーストリア周辺地域への侵攻についてのことかとおもわれるのですが、その説明でこの地域からモンゴル軍が撤退したのは、ヨーロッパを「牧草地としての魅力はないと判断したため」と書かれています。これは何の資料に書かれていた情報なのでしょうか? 自分が知る範囲では『集史』などのモンゴル側の資料で撤退の理由をそのように書いている例を知りません。あるいはヨーロッパ側の資料でそのように書かれたものがあるのでしょうか? どなたかご存じ方がおられましたら、お教え願いたく思います。 

あと「その後、エジプトに侵攻しているが、エジプト軍に撃退され」と書かれていますが、フレグ・ハンの西方遠征で征服した地域はダマスクス周辺まででして、エジプトまでは侵攻していません。確かにダマスクス周辺は当時エジプトを本拠地としたマムルーク朝の統治下にあったようですが、この記述では甚だしい誤解を招くので「エジプト」は訂正し、単に「シリア」、「シリア・パレスチナ」あるいは「当時エジプトのマムルーク朝の統治下にあったシリア」などとするのが妥当です。Haydar 2006年6月19日 (月) 15:59 (UTC)

とりあえずエジプト云々(そもそもエジプトという表記自体問題)はなおしちゃいました。適当に文脈上妥当な感じに修正していただければ幸いです。--Kotoito 2006年6月19日 (月) 16:10 (UTC)
ヨーロッパ戦線と元寇と何の関係があるんでしょうね?謎です。らりた 2006年6月20日 (火) 12:50 (UTC)
謎ですので消しました。--Kotoito 2006年6月22日 (木) 03:49 (UTC)
早速のレスありがとうございます。自分も、オゴデイやモンケが発令した西方への遠征とクビライの日本への遠征とのあいだに何か関係があるようには思えません。Kotoitoさんが削除されたままの方が却って全体のまとまりがあるように感じられますので、文永の役や弘安の役より過去の事件である欧州遠征やアイン・ジャールトの戦いなどは触れずに、このままの状態でまったく不都合ないと思います。Haydar 2006年6月23日 (金) 05:13 (UTC)

中立的観点のタグについて

現在、中立的観点のタグが元寇のページに貼られておりますが、議論は現在、凍結しております。記述内容も適切な形になっていると思いますので、タグを外したいと思いますが、皆様のご意見をお聞かせ頂ければと思います。--Race 2007年9月4日 (火) 09:55 (UTC)

異論がないようですので、タグを外しました。--Race 2007年9月15日 (土) 02:19 (UTC)

兵力数の根拠・出典は何でしょう?

双方の軍の兵力数は何が出典になっているのでしょう?日本軍が4万人というのは?--203.138.139.146 2007年9月30日 (日) 19:18 (UTC)

三度目の元寇の記述に関して

らりたさん初めまして。 三度目の日本侵略を元寇と書き直す理由はなぜでしょうか?「三度目の元寇を計画」という表現は少し違和感があるように感じてしまいます。--203.138.227.109 2007年12月3日 (月) 08:36 (UTC)

どうも初めまして。まず侵略という表記はなるべく使ってほしくないというのがその理由です。上記#「侵略」表記の妥当性に関する議論の節での議論を見てください。で、私が本当に消したかったのは「一方、フビライは理由などなしに・・・」の文章のほうでした。いくらなんでも理由もなしに出兵するようなことはしません。もしそのような説を唱えている歴史学者がいるのなら教えてください。らりた 2007年12月3日 (月) 09:30 (UTC)


まず侵略という表記はなるべく使ってほしくないというのがその理由です。
>これはあなたの個人的な見解ではありませんか?フビライは明らかに日本を領土にしようと考えて侵略してきたのだと思いますが。
上記#「侵略」表記の妥当性に関する議論の節での議論を見てください。
上記#「侵略」表記の妥当性に関する議論の節での議論を見てくださいといいますがはっきり言って全部熟読するには長文過ぎます。
らりたさんは、もし侵略表記が妥当とする研究者の論文があるのならば提示お願いします。と言ってますが、侵攻表記が妥当とする、日本人であり日本国籍をお持ちの方の論文があるのならば提示お願いします。あと侵略表記が不適当である語学的な根拠をお教え願います。
一度目は兵力からも、明らかに侵略意図はないでしょうが、私は2度目以降は明白な侵略行為だと考えています。
いくらなんでも理由もなしに出兵するようなことはしません。
出兵理由は単に領土拡張ではないでしょうか?チンギスハーン以来その子孫達は、地の果てまで征服しようと本気で考えヨーロッパまで進軍し、ローマ法王に臣従を求めたと言われています。これも誰が言ったか示せとおっしゃるのかもしれませんが、征服し支配を維持する力があるのならどこまで征服しに行くのが当時の常識ではないでしょうか。
元が日本へ攻め込んだのは自衛でないことは明白ですが、これについてはいかがですか?--203.138.227.56 2007年12月4日 (火) 07:51 (UTC)
では要約すると『「侵略」という言葉には付加された意味が多くそれを使うことは誤解を招く(例えば現代語としてのすなわち国際法上での「侵略」との誤解)恐れが強いので使うべきではない』ということです。これは私だけの意見ではありません。
出兵理由について。括弧内はらりたによる補注。
「彼(チンギス)の姿勢は、金朝遠征がよく示しているように、農耕定住地域の支配を目指すものではなく、あくまで中央ユーラシアの草原とオアシスの領有にあった。」(杉山正明、山川出版社『中国史3』P409)
「第一回目(文永の役)は、明らかに対南宋大侵攻作戦の一環であった。・・・(中略)・・・第二回目(弘安の役)は事情が異なる。・・・(中略)・・・要するに江南軍は移民船団に近かった。」(同上、PP448-449)
以上です。単に領土拡大だけを目指して遠征を行う皇帝などは物語だけの存在です。
>これも誰が言ったか示せとおっしゃるのかもしれませんが
はい、言います。出典が示されない限りは記載不可、それがウィキペディアのルールです。ご了承ください。あと自衛戦争などといった現代的な感覚を12世紀に持ち込んでどうこうというのが誤謬であるということを理解ください。「侵略」表記を使わないようにしようというのも「現代的な感覚を12世紀に持ち込」むのを避けるということを理由にしています。ご理解ください。らりた 2007年12月4日 (火) 15:03 (UTC)
(追記)杉山正明氏はモンゴル帝国史に付いての第一人者であり、この人を無視して現在のモンゴル帝国研究は有り得ません。念為。らりた 2007年12月4日 (火) 15:09 (UTC)
「侵略」という言葉には付加された意味が多くそれを使うことは誤解を招く >具体的に誰の誤解を招くのでしょうか?モンゴル人からの「誤解」でしょうか?
「彼(チンギス)の姿勢は、金朝遠征がよく示しているように、農耕定住地域の支配を目指すものではなく、あくまで中央ユーラシアの草原とオアシスの領有にあった。」 >なるほどチンギスはそのつもりだったのかも知れません。しかし元寇はフビライが起こしたものです。しかも領有範囲は中央ユーラシアの草原とオアシスどころじゃないですよね。はるかヨーロッパまで征服してますが。
あと自衛戦争などといった現代的な感覚を12世紀に持ち込んでどうこうというのが誤謬であるということを理解ください。 >どうこうといのうが誤謬とは?侵略される側からすればいつの時代も自衛の戦争です。
この人を無視して現在のモンゴル帝国研究は有り得ません。 >無視してませんが、有り得ないという表現はふさわしくないと思いますよ。
『「侵略」という言葉には付加された意味が多くそれを使うことは誤解を招く(例えば現代語としてのすなわち国際法上での「侵略」との誤解)恐れが強いので使うべきではない』これは私だけの意見ではありません。 >意見ではなく出典をおしえていただけませんでしょうか?
要するに誰の誤解かは知りませんが、誤解を招くから侵略という言葉は使用しないということですか?具体的に今まで誰の誤解を招いたのか教えていただけませんか?--203.138.227.56 2007年12月4日 (火) 15:53 (UTC)
まず一言。あなたは他人には多くを求めるくせに自分では何もしようとしませんね。あなた自身が「侵略」表記が適切と考える根拠を提示して欲しいところです。あなた自身は「明らかに」とか「明白に」とか自明の理と考えているようですが、そうではないと思われます。
何度も説明して嫌になってきましたが、私が「侵略」表記が適切ではないと考える理由。現代語の「侵略」はそれ自体に非難の意味合いが備わっており、この言葉を使う時点で書き手の立場が混入してしまいます。それを歴史的事象に使う際には慎重であるべきということです。例えば古代の生贄の儀式を現代のヒューマニズム的観点から「残酷」と批判するような誤謬と同じで、「侵略」と「自衛」とかいう言葉には戦争が罪悪になった20世紀以降の考え方に基づいた「戦争に対する非難」が付いて回っているのです。
まあ、私は侵略表記にはさして拘っている訳でもないのでそれは良いとしますが、「一方、フビライは理由などなしに・・」の出典は提示されないようです。なんら研究に基づいたものではないようなので削除します。らりた 2007年12月5日 (水) 12:30 (UTC)

横から失礼します。どうもお二人の書き込みを見ていると会話の立地点が違っているので会話が噛み合っていない様にお見受けしましたので。お二人の会話を読ませていただいた限り、『侵略』と言う表記に関しては、らりたさんのご意見はWikipediaは百科事典であり、第三国の人間が見ても中立的な文面とすべきだとしているのに対し、203.138.227.56さんのご意見は(善悪とかではなく、交戦と言う意味で)一方から見た立場の『侵略』という表記へのこだわりであるようにお見受けします。

Wikipediaでは他に「征伐」と言う表現も議論の的になっているように、一方からの表現は控える傾向にあります。203.138.227.56さんご自身はこの傾向にご不満かもしれませんが、Wikipediaに書き込むのであればWikipediaのTPOに則った表記を考えるべきではないかと考えます。それが気に入らないと言うのでしたら残念ですがWikipediaと縁がなかったのかもしれません。

それと、少々手厳しい意見になりますが……

議論の節での議論を見てくださいといいますがはっきり言って全部熟読するには長文過ぎます。

これで長すぎる、と言うのは正直いかがかと。本来歴史の史料というのは一見無関係に見える内容にすら手がかりがあるものであり、無数といえる内容を読まねばなりません。あの議論が長すぎるとおっしゃるのでは「他の史料もまともに読んでいないのでは?」と言う感想を持ってしまいます。

無視してませんが、有り得ないという表現はふさわしくないと思いますよ

ありえない、と言うらりたさんのご意見に賛成いたします。杉山正明氏はそれまでの論を精査して体系的に纏めた方であり、日本におけるモンゴル帝国史研究の第一人者で、現在のモンゴル帝国に関する研究はほとんどこの方の著述を基点にしておられます。203.138.227.56さんが中国、もしくは中東系の原文を読みながらモンゴル帝国を研究されておられるのなら別かもしれませんが、日本語の史料で杉山氏を軽視してモンゴル帝国を語るのは事実上不可能とさえいえます。

征服し支配を維持する力があるのならどこまで征服しに行くのが当時の常識

ええと……現実はそんなに簡単なものではありません。ごく単純に弘安の役で考えると、東路軍がおよそ4万2千人と船員(諸説ありますがここでは1万7千説を取ります)、江南軍が約10万人の、合計15万9千人、きりがいいので16万人。遅れた江南軍の出発が六月十八日、北九州に台風が来たのは七月三十日と翌閏七月一日と、約40日間。あくまでこれは大雑把にですが。
次に計算して見ましょうか。食料で言えば16万人×3食×40日=19,200,000食。ここに副食、戦闘兵員14万人の武器(刀1本だけで14万本です。しかも折れる可能性もあり、予備は当然必要)・鎧・消費物資の矢(軍事史研究史上でも諸説ありますが、一回の戦闘で10本ぐらいはすぐに使いきってしまうようです。20本÷全軍の三分の一が弓を持っていたとすると90万本)や俗に言う『てつはう』、医薬品、全員の着替えの服(着たきりすずめではいられません)などを考えてもなお「行けるなら行くのが常識」と言えると思いますか?
ましてフビライは(悪く言えば)中国にかぶれており、元は官僚制度も発達しています。官僚制度が発達しているという事は、街一つにつき兵員を何人徴兵すると言う文章をシステム化することであり、そのために必要とされる文書を届ける使者の人数だけで莫大な人数になります。皇帝が行けと言ったら10万人が攻め込む、などというのは小説かゲームの中の話でしかありません。

全体を通して、203.138.227.56さんのご発言は片手落ちの感が否めません。特に「議論が長すぎる」発言は史料に当たるという基本的な点に疑問を持つに足る発言でした。フビライの日本遠征については事実としても、もう少しきちんとした論拠に当たって書き込んでいただけるように切望いたします。--61.120.163.47 2007年12月5日 (水) 15:37 (UTC)

らりた氏へ。「一方、フビライは理由などなしに・・」の項目はすでに修正している。それも削除したようだが。修正しているのを無視しなぜこのような発言をするのか。そういう態度は感心できん。
あなたこそ答えていただきたい。「侵略」という言葉には付加された意味が多くそれを使うことは誤解を招く >具体的に誰の誤解を招くのか?
「彼(チンギス)の姿勢は、金朝遠征がよく示しているように、農耕定住地域の支配を目指すものではなく、あくまで中央ユーラシアの草原とオアシスの領有にあった。」 なぜチンギスを持ち出すのか?フビライはジャワ島にまで進軍してるが。
皇帝が行けと言ったら10万人が攻め込む、などというのは小説かゲームの中の話でしかありません。最終決定はフビライだと思いますが。ジャワ島まで攻め込んでますし。お若いから分からないのかもしれませんが、小説かゲームの中の話でしかないとか、この人を無視して現在のモンゴル帝国研究は有り得ません。とか表現自体が稚拙だと言いたい。表現がふさわしくないといったはずだが。無視はしてないとも申し上げた。--203.138.139.229 2007年12月5日 (水) 15:58 (UTC)
私も「『軽視』してモンゴル帝国を語るのは事実上不可能とさえいえます」と述べたのですけど。あなたが無視しているなどとは書いてませんよ?
それと、「侵略」という表現は(wikiでは)なるべく使わない方がよいと思います、と言う点はご理解いただけたのでしょうか。本来はその点が問題となっていたはずですので、そこはご理解いただきたいのですが。--61.120.163.47 2007年12月5日 (水) 16:51 (UTC)
61.120.163.47さんへ。どうもご支援ありがとうございます。詳しい知識をお持ちの方のようですので、是非アカウントを取得していただけないでしょうか。
203.138.139.229さんへ。
「一方、フビライは理由などなしに・・」は修正とかそういう話ではありません。ウィキペディアは立論の場ではありません。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないなどを参照のこと。ウィキペディアではあくまでどなたか研究者の手による研究成果を載せるべきであって、あなたが考えることを載せるべきではありません。独自の研究ではないならば、何度も繰り返していますが出展を示してください。出典とは一次史料のことではなく、どなたかの研究論文のことです。念の為。
で、一応こちらから出典追加。括弧内はらりたによる補注。
「これらの(陳朝安南・チャンパー・ミャンマー・ジャワに対する)遠征は、もともと、征服・支配よりも、服属や来貢をうながしたり、通称ルートを把握することを主目的としていた。実際には遠征の企画から兵員、糧秣、武器、艦船などの準備に至るまで、ムスリム商人団が陰に陽に介在していた。ジャワ遠征軍などは、ほとんど貿易船団に近く、こうした遠征活動そのものがムスリム商人たちにとって営利事業であった。」(同上P449)
要するに東南アジアに対する出兵はいわゆる「海のシルクロード」の交易網を手中に収めるためのものであり、負けはしたが、この結果「内陸と海洋の両ルートがついに結合し、ユーラシアを循環する交通体系と『世界通商圏』が出現する陸海の交易網が結合して空前の世界的交易が行われるに至った」(同上P450)と杉山氏は評しています。単に「領土拡大だけ」を目的としていたわけではありません。
日本に対する遠征もこの線上にあったものです。海の交易網を獲得するためには南宋の征服が必要不可欠であり、南宋と繋がりがあった日本に南宋との関係を絶つように求めたのが文永の役。弘安の役は本文中にもあるように旧南宋軍兵士の厄介払いが目的ということです。
なおこう書いているとあたかも私が杉山氏の言説に全面的に賛成しているかのように思われるかもしれませんが、私にはまた別の意見があります。あくまでこれは杉山氏の言説を説明しているだけです。
あと、「この人を無視して現在のモンゴル帝国研究は有り得ません。」という言葉に誤解があるかもしれませんが、別に杉山氏の考え方に反する文章を載せてはいけないなどと言っているわけではありませんよ。モンゴル帝国に言及する際には必ず氏の研究を参照する必要があると言っているのです。ですから氏の研究に対して正面から批判されている「研究者」がおられ、学界に於いて一定の支持を得ているならばその言説を載せることは何ら妨げられるものではありません。らりた 2007年12月6日 (木) 09:36 (UTC)
まだお返事がいただけていないようですが、探していた資料が見つかったので補足を。
『元史』列伝五十五巻劉宣伝には第三回日本遠征を考えたフビライに対し、礼部尚書の劉宣が「況日本僻在海隅」日本は海の向こうの僻地だから(酷い言われようですが)と言って遠征に反対し、フビライも「帝嘉納其言」と劉宣の意見を受け入れて遠征を取りやめています。
チンギスハーン以来その子孫達は、地の果てまで征服しようと本気で考え(中略)征服し支配を維持する力があるのならどこまで征服しに行くのが当時の常識
と2007年12月4日に書き込まれておられますが、臣下のこのような意見を受け入れたフビライは203.138.139.229さんご自身が述べられた“当時の常識”と大分違う人物だと思われます。この点についてもご確認を。
らりたさんへ> らりたさんの書き込み前に一行空けさせていただきました。事後ですがご報告を。勝手な事をして申し訳ありません。 アカウントのお誘いはありがとうございます。ですがアカウントを取るほど知識があるとも思っていませんので、当面はIPで気になったところに注意を入れる方向で行きたいと考えています。--61.120.163.47 2007年12月6日 (木) 18:29 (UTC)

ゲリラ

ゲリラ戦は用語の誤用になります。ゲリラは非公式な軍隊ですが、鎌倉兵は防衛軍です。幕府の命令で派遣され、後に恩賞を幕府に要求している所からも明らかです。 後の楠木正成のようなのを幕府から見たときに、朝廷方の「ゲリラ」と言うことはできます。またゲリラ的戦術と言えなくもないですが、防衛計画に基づいた正規軍の上陸阻止戦であり、前線も存在する事からコマンド作戦としました。--FUBUKI 2008年1月25日 (金) 12:58 (UTC)

文永の役における派遣軍司令・忽敦と金方慶の陣中での会話について

本項目の文永の役の節において、

『高麗史節要』巻十九、二十五に撤退決定の軍議の様子がある。
:元軍司令官 忽敦「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」
:高麗軍将軍 金方慶「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」
:元軍司令官 忽敦「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」

と現在なっています。

しかし、『高麗史節要』と『高麗史』の当該部分を見比べたところ、「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」と言っているところは、

「(前略)倭兵大敗、伏屍如麻。忽敦曰、雖蒙人習戰、何以加此、諸軍終日戰、及暮乃解」(『高麗史節要』)
「(前略)倭兵大敗、伏屍如麻。忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、諸軍與戰。及暮乃解」(『高麗史』「巻一百四 列伝十七 金方慶伝」、武田幸男編訳『高麗史日本伝(下)』岩波文庫、2005年7月、p.32、p.306。句読点は武田幸男氏の訳文書き下し文から推測)

とあるように、倭兵(日本側)を大敗させたことから、派遣軍総司令官の忽敦(クドゥン)が軍に檄を飛ばしてるようにも見えます。文章全体の前後関係から見て、この発言は少なくとも戦闘中に発せれたものであり、日没後の軍議よりも以前であるため、「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」の部分を「軍議中の様子」と説明する本項目の訳はミスリードではないか個人的と思われます。

また、金方慶の意見を受けて忽敦が、「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」と答える部分でも、

「策疲兵戰大敵、非完計也」(『高麗史節要』同上)
「策疲乏兵、敵日滋之衆、非完計也。不若回軍」(『高麗史』同上)

とあって、両資料ではそれぞれ言っていることが微妙に違っているようです。「大軍の餌にしかならない」という訳文もいささか意訳が過ぎるようにも思われ、当該文章の訳文を全体的に改訂する必要があるのでは無いかという印象を受けました。

漢文の読みについては自分は全くの専門外でして、文章を引用する以上の事を判断出来るか手が余るため、訳文の取扱いについて広くご意見をお聞きしたいと思います。Haydar 2008年5月29日 (木) 16:49 (UTC) やはり不要と判断し引用部分内のカギ括弧を除去。--Haydar 2008年7月20日 (日) 18:58 (UTC) さらに訂正。(汗--Haydar 2008年7月20日 (日) 19:38 (UTC) さらに修正(汗 --Haydar 2008年7月28日 (月) 20:55 (UTC)

ごくおおざっぱに書き下しますと、
「倭兵大敗し、伏す屍麻の如し。忽敦曰わく、蒙人戦に習すといえども、何を以って此に加えん。諸軍終日戦い、暮に及びてすなわち解す。」
その下の文もほぼ同じ意でしょう。
 原典は見ていないのであくまで参考ですが、軍議中の会話ではないとお考えならその前後こそ重要になりますので、そこがどうなっているのかをご提示されたらどうでしょう。
 また、下の大軍の餌の部分は、
 「疲兵の、大敵と戦うを策するは、完計にあらざるなり。」
 「疲乏の兵の、日に滋すの衆と敵するを策するは、完計にあらざるなり。軍を回すにしかず。」
 となります。要するに敵の大軍相手にこれ以上の戦闘は不可能ということでしょう。
 記事の大意はほぼ合っていると思います。書き方がやや過激と思われるかもしれませんが。
 --ポコポコ 2008年7月27日 (日) 04:10 (UTC)
追記を失礼します。当該原文は記事のほうにのっていました。失礼しました。
確かに忽敦の最初の発言は、軍議前に為された可能性がありそうです。ただ、「諸軍、與戰」は忽敦の発言に含めるべきではないと思います。「諸軍が戦いを共にした。」という、事実描写ではないでしょうか。『高麗史』にも、おそらく「」でこの部分を忽敦の発言に入れると言う書き方はしていないのではないでしょうか。武田幸男先生がどう訳されているのかは気になるところです。
むしろ問題なのは、その後の金方慶の発言です。記事では「船を焼き背水の陣でまた決戦したい」とありますが、これは明らかにおかしいと思います。原文は「即孟明焚船、淮陰背水也。」とありますが、この孟明焚船と淮陰背水は両方とも故事で、前者は秦の将軍孟明視の故事、後者は言うまでも無く前漢の韓信の故事でしょう。
要するに「船を焼き」が蛇足なのです。実際、元軍が自分の船を焼くというのは余りに無謀です。--ポコポコ 2008年7月27日 (日) 13:09 (UTC)
コメント有難うございます。まず、お詫びをせねばならないのですが、岩波文庫の武田幸男編訳『高麗史日本伝(上下)』に載録しているのは同書の凡例に「訳文(書き下し文)と注解」とあるように当該部分の原文と書き下し文、注解のみで現代語による訳文は附されていませんでした(汗 ぼけっとしていて「訳文」と書き間違えてしまいまして、重ねて申し訳ありません。
>孟明焚船と淮陰背水
はい。仰る通り、武田幸男先生の本でも註に「孟明は春秋・秦の人、穆公はかれを用いて西戎の覇者となった。淮陰は、漢の淮陰人の韓信をいい、かれは、項羽を遁れて漢の劉邦を扶け、背水の陣をしいて勝利し、漢の統一に貢献した。」(武田幸男編訳『高麗史日本伝(下)』p.33)と説明されています。ご指摘の通り、この部分は「秦の孟明による焚船と漢の淮陰(韓信)の背水の陣の故事」を引いていることが分かる表現に、やはり改める必要があるように思われます。
>「諸軍、與戰」
下の方にあるように武田幸男先生は『高麗史』のこの部分は忽敦の発言と解釈しておられるようですね。『節要』の部分はどう解すべきでしょうねえ。朝鮮総督府が戦前に刊行した『朝鮮史』に引用していれば判断材料にできるのですが・・・
自分も古典文を勉強する者の一応端くれでして、原文が難解で比喩表現を用いたとしても、可能な限り原文に忠実ないし近くになおかつ文意を掴み易い(こことの折り合いが難しい(汗)訳文を心掛けるように、と習って来ましたので「策疲兵戰大敵、非完計也」を「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」と訳されているのには少なからず抵抗感を覚えまして。そこまで内容を膨らませたような表現にしなくてももう少し原文に近い訳し方があるように思えます。(ここら辺はやはり人によりけりでしょうか)
一応、本記事の方にも既に一部載っていますが、参考として武田幸男先生が書き下しされている『高麗史』の部分を一段全部を原文と一緒に転載し、『高麗史節要』の当該部分も併せて以下に出してみます。(PCの関係上表示出来なかった文字も一部有るのでそっくり写せませんでしたが、そこはどうかご寛恕ください)
高麗史』「巻一百四 列伝十七 金方慶伝」
(承前)  女眞後期、乃發船、入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陣於岸上、之亮及方慶壻趙忭逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮忭、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、厲聲大喝、倭辟易而走、之亮忻忭李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、以何加此、諸軍與戰、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰、忽敦曰、兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍、復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁墮水死、到合浦、以俘獲器仗、獻帝及王、王遣樞密副使張鎰慰諭、命方慶先還、加上柱國判御史臺事、(つづく)  (武田幸男編訳『高麗史日本伝(下)』岩波文庫、2005年7月、pp.306-307)
「(承前)  女真、期に後る。乃ち船を発し、対馬島に入りて、撃殺すること甚だ衆し。一岐島に至るに、倭兵は岸上に陣す。(朴)之亮及び方慶の壻の趙忭、之を逐う。倭、降らんことを請うも、後ちに来り戦う。(洪)茶丘と之亮・忭と千余級を撃殺し、舟を三郎浦に捨て、道を分ちて進み、殺す所過当なり。倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる。方慶、植つが如く少しも却かず、一嗃矢を抜き、厲声大喝するに、倭辟易して走る。之亮・(金)忻・忭・李唐公・金天禄・辛奕等力戦し、倭兵大いに敗れ、伏屍すること麻の如し。忽敦曰く、「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。諸軍、与に戦え」と。暮に及びて、乃ち解く。方慶、忽敦・茶丘に謂いて曰く、「兵法に「千里の県軍、其の鋒当たるべからず」とあり、我が師少なしと雖も、已に敵境に入れり。人は自ら戦いを為して、即ち孟明の焚船、淮陰の背水なり。請う、復た戦わん」と。忽敦、曰く、「兵法に、「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。疲乏の兵を策して、日ごと滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。(劉)復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引きて還る。会々(たまたま)、夜、大いに風雨す。戦艦、岩に触れて多く敗れ、(金)侁は水に墮ちて死す。合浦に到り、俘獲・器仗を以て、帝及び王に献ず。王、枢密副使の張鎰を遣わして慰諭し、方慶に命じて先還せしめ、上柱国・判御史台事を加う。」(つづく)」  (武田幸男編訳『高麗史日本伝(下)』岩波文庫、2005年7月、pp.31-32) --Haydar 2008年7月28日 (月) 20:55 (UTC) 原文p.306では「之亮忻忭李唐公金天祿申奕等力戰」としていますが、武田先生の書き下し文p.32では「之亮・(金)忻・忭・李唐公・金天禄・奕等力戦し」となっています。近代デジタルライブラリーの三巻本『高麗史』の原文でも「申奕」となっていますが原文での何かの誤りでしょうか。 --Haydar 2008年7月28日 (月) 22:09 (UTC)
高麗史節要』「巻十九 二十五葉 七行〜十九行 元宗十五年十月十一日条」(1274年11月10日
「(元宗十五年十月)
 十一日船至一岐島倭兵陣於岸上朴之亮
 趙忭逐之倭請降而復戰茶丘與之亮忭撃
 殺千餘級捨舟三郎浦分道而進所殺過當
 倭兵突至衝中軍方慶拔一嗃矢厲聲大喝
 
 倭辟易而走之亮忻忭李唐公金天禄申奕
 等殊死戰倭兵大敗伏屍如麻忽敦曰雖蒙
 人習戰以何加此諸軍終日戰及暮乃解方
 慶謂忽敦茶丘曰我兵雖少已入敵境人自
 為戰即孟明焚舟淮陰背水者也請復決戰
 忽敦曰小敵之堅大敵之擒策疲乏兵大敵
 非完計也而劉復亨中流矢先登舟故遂引
 兵還會夜大風雨戰艦觸巖崖多敗金侁墮
 水死○」
 (『高麗史節要』亞細亞文化社、ソウル、1972年7月10日 p.503)改行は原刊本の形式に従いました。--Haydar 2008年7月28日 (月) 22:09 (UTC)
無学な上でコメントさせていただき、どれだけお役に立ってるのかわかりませんが、
まず、「諸軍、與戰」なのですが、『朝鮮史』を見たところ、こちらは『高麗史節要』をもとに書いているようです。すなわち「忽敦曰ク、蒙古人戦ニ習フト雖モ、何ゾ以テ此ニ加ヘント。諸軍終日戦ヒ、暮ニ及ビテ乃チ解ク。」(第三編第四巻 甲戌高麗元宗十六年(忠烈王元年)十月)とあります。要するに『高麗史節要』と『高麗史』では微妙に文言も違いますし、先行研究の解釈も違うようでして、どちらのテキストを採用するのかが問題になるのでしょう。ただ、どちらにせよこの発言は日暮れ後の軍議での発言ではなさそうです。
次に、大軍の餌の問題です。本文記事の訳文を書いた人は、おそらく「兵法『小敵之堅、大敵之擒』。」を見てこう訳したのでしょう。この「小敵之堅、大敵之擒」なのですが、これは『孫子』謀攻編の文言でして、天野鎮雄『孫子・呉子』明治書院、1972年、73頁によりますと、「少数の兵が頑強に戦うならば、少数の兵は多数の相手の兵の捕虜となる。」と訳しています。ですので、やや乱暴な訳ですが大意は得てはいるのではないか、ただ当然ながらもっと精訳してもいいとは思います。
(ちなみにこの訳文を本文記事に書いた人220.107.68.158は、同時に上で問題になった白装束の記事も書いているようです。果たしてどこまで原典やそれを使った先行研究を調査したのかはやや疑問はあります。)
非常に拙いコメントですが、少しでもご参考になれば幸いです。--ポコポコ 2008年7月30日 (水) 05:03 (UTC)
微修正--ポコポコ 2008年7月30日 (水) 08:14 (UTC)
重ねてコメント有難うございます。『高麗史節要』は「節要」というくらいで、やはり『高麗史』金方慶伝の内容よりも分量が少なめなので、項目の主文に引用するには情報量の多い方をメインで使った方が良いのではないかなあという感じはします。(勿論当該箇所の例として『高麗史節要』でのバージョンも脚注あたりで触れておく必要はあると思いますが)
>『朝鮮史』「「忽敦曰ク、蒙古人戦ニ習フト雖モ、何ゾ以テ此ニ加ヘント。」
なるほど、『朝鮮史』の方ではやはり『高麗史節要』の文の「諸軍終日戰」は忽敦の発言には含めていないんですね。
> 小敵之堅、大敵之擒
本文のソース有難うございます。なるほど、「擒」は「とりこになる」って意味なんですね。「小規模の軍勢が力量をわきまえず堅持しても、結局は大軍の虜になってしまうだけだ」と。もう一方の金方慶は「千里の県軍、其の鋒当たるべからず」と言ってますが、金方慶はこの格言をどこから引用したんでしょうねw。 武田幸男先生の脚注でも意味は書かれていますが、どこから典拠したものかは書いてませんし。
取り敢えず改定案として引用箇所を『高麗史節要』から『高麗史』金方慶伝に変更して、
高麗史金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、
高麗軍の主将である金方慶と派遣軍総司令官である忽敦との間で、以下のような
やり取りがあったことが述べられている。
金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり[1]
    本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。
    我が軍は少なしといえども既に敵地に入っている。我が軍は自ずから戦うことになるが、
    これは穆公の孟明の『焚船』や韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。
    再度戦わせて頂きたい」

忽敦 「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって[2]、     少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしか
    ならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに敵軍が増えている状況で
    相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」[3][4] このような議論があり、また劉復亨が負傷したこともあって、軍は撤退することになったと言う。
しかしながら、後述のように文永の役での日本派遣軍の目的はもともと威力偵察の類いであり、
このやり取りも当初からの撤退予定を見越したものではなかったか、という指摘もされている[5]
  1. ^ 該当部分の出典不明。『旧唐書』などに近似した文言が見られる。『旧唐書』本紀太宗上「太宗曰、金剛懸軍千里、深入吾地、精兵驍將、皆在於此」
  2. ^ 孫子』謀攻編「故善用兵者、屈人之兵、而非戰也。 ;拔人之城、而非攻也。;毀人之國、必以全爭于天下、故兵不頓、利可全、此謀攻之法也。 故用兵之法、十則圍之、五則攻之、倍則分之、敵則能戰之、少則能守之、不若則能避之。 故小敵之堅、大敵之擒也」
  3. ^ 高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶伝「方慶謂忽敦茶丘曰、 『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、 請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏兵、敵日滋之衆、非完計也』」
  4. ^ また、『高麗史節要』巻十九 二十五葉 元宗十五年十月十一日条にも「方慶、謂忽敦茶丘曰、『我兵雖少、已入敵境人自為戰。即孟明焚舟、淮陰背水者也。請復決戰』。忽敦曰、『小敵之堅大敵之、擒策疲乏兵大敵、非完計也』」とあり、ほぼ同じ内容があるが、『高麗史』とは若干の相違がある。
  5. ^ 杉山正明「モンゴル帝国、アジア征服の猛威 (総力特集 北条時宗と蒙古襲来)」『歴史と旅』Vol.28、2001年2月号、秋田書店、30 ミ 35頁。奥富敬之『北条時宗 史上最強の帝国に挑んだ男』 角川選書320、2000年、178 ミ 189頁 などを参照。
(修正案1-2)--Haydar 2008年8月13日 (水) 12:10 (UTC)


拙い訳で申し訳ありませんが(汗)こういう感じなどはいかがでしょうか。もう少しスリム化する必要は十分にありますが。--Haydar 2008年7月31日 (木) 23:10 (UTC)
お疲れ様です。
先ず、「千里懸軍」なのですが、出典はまだ分かりません。恐らく『孫子』ではないとは思いますが・・他の兵法書にあたる時間がちょっとないです。あと、縣ではなく懸です。
「人は自ら戦いを為して」は、「我が軍は自ずから戦うことになる」くらいでしょうか。
「完計」は、「完璧な策」でいいのではないでしょうか。
※以下、個人的な感想です。これは提案や、Haydarさんへの反対意見ではありません。
訳文を作り直す以外にも、例えば、武田先生の書き下し文をそのまま引用することでも済ませられのではないか、という気が少しします。
また、そもそもこの訳文を本文に最初に載せた人がどういう意図を持っていたのかは分かりませんが、10月20日夜の部分で『高麗史』や『高麗史節要』からここまで軍議の様子を説明する必要があるのかどうか・・
単に、
「『高麗史』金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議で元軍は撤退を決断したという。」
くらいの描写でもいいのでは・・という気も少しするのです。
--ポコポコ 2008年8月4日 (月) 13:14 (UTC)
コメント有難うございます。
>「千里縣軍」
『高麗史』本文では武田先生の本も含めて「懸」ではなくて「縣」になっているようですね。原本の段階からこの表記がされているのかも知れません。検索を掛けた限りでは『高麗史』のこの部分しかヒットしませんでしたが・・
>「我が軍は自ずから戦うことになる」「完璧な策」
有難うございます。なるほど、書き下し文を読んでもちょっと意味が分からなかったんですが、そういうことだったのですね。前後の文脈の意味が繋がりました。
>『高麗史』金方慶伝引用の可否
そうですね。自分としては記事全体から見てこの箇所を引用することが必要とあれば、上記の修正案などで差し換えるべきだとは思いますが、バランス的にあまり記事本文にまで引用する必要はない、ということでしたらポコポコさんのご意見の通りでも構わないのではないかと個人的に思っています。
自分としてはそのこと以外にも、文永・弘安の役の鎌倉武士側の指揮官リストが少弐景資北条実政しか書かれていない貧弱ぶりとか、元寇#高麗の関与の節で、文永の役以前からの高麗とクビライ政権側との関係を含む日本遠征までの政治情勢などを十分に説明し切れていないので、これらのことも何とか補強すべきだとは思うのですが・・(記事を見ただけではややもすると単にクビライや忠烈王が好戦的だったからというミスリードをしかねない感じですが、最近の蒙古襲来関連の書籍やモンゴル時代の高麗関係の論文を読む限りは、高麗内外でのモンゴル軍人と高麗政権の要人たちとの対立が陰に陽に遠征にも影響していたようなので、そのことはちゃんと記事として触れねばならないのですが)--Haydar 2008年8月7日 (木) 20:47 (UTC)
お疲れ様です。
まず、「千里縣軍」については、私が思わぬ無知を晒してしまったのかも知れません。ただ、『朝鮮史』では該当の部分は懸となっていて、また『漢語大詞典』によると縣に軍事的な用法が見当たらず、逆に懸には「懸兵」という用法があったりします。(これは軍勢を敵陣深く進入させるという意味だそうです。)結局、テキスト間の差異の問題なのかもしれませんが・・この件について、これ以上は主張はしません。あと、『高麗史』金方慶伝引用の可否につきましては、上で申し上げた通り、提案などではありませんので、どうなされるのかはHaydarさんにご判断を委ねたいと思います。--ポコポコ 2008年8月8日 (金) 00:17 (UTC)
参考までに。中国では「縣」にも軍事的な用法で使用される例があります(『三國志』魏書三少帝紀齊王芳/文中「姜維有重兵而縣軍應恪、投食我麥、非深根之寇也」等)。「懸」も「縣」も“遠く”の意味ですので、縣軍あるいは懸軍のどちらも意味としてはさほど変わりはないと考えていいかと。「懸軍千里」は『資治通鑑』巻第九十四「劉曜懸軍千里、勢不支久。大王不宜親動、動無萬全」か、『旧唐書』本紀太宗上「太宗曰、金剛懸軍千里、深入吾地、精兵驍將、皆在於此」のどちらか(多分後者)が出展ではないかと思います。--218.110.20.184 2008年8月10日 (日) 20:11 (UTC)
ちょっと調べ物をしていたら返信が遅れてしまいました。申し訳ありません(汗
218.110.20.184さん 
貴重なご意見有難うございます。なるほど、やはり「縣」も「懸」もここでは同じ意味で、「千里縣軍」は金方慶が「兵法」という割に『旧唐書』などに用例がある文なのですね。ちゃんと軍事関係で用いられている文言であると。これは一応一言書いておく必要がありそうですので、引用された部分を修正案の方にちょっと書き足させて頂きますね。
> ポコポコさん
お疲れ様です。いえいえ、こちらこそ毎回貴重なご意見を下さって有難く思います。> 掲載の判断  了解しました(汗 自分の一存で決めるのはやや恐縮するところですが、取り敢えずこれまでの議論を踏まえた修正案を上記に手直ししてここのノートに掲載しますので、特に異論がなければ今週末くらいに本記事の方に体裁を整えて転載致したいと思います。 --Haydar 2008年8月13日 (水) 12:10 (UTC)
ちょっと遅れましたが、告知通り上記の修正案を掲載致しました。(文永の役の節は全体的に少々修正する必要がありそうではありますが、取り敢えずはこのくらいに)--Haydar 2008年8月19日 (火) 20:51 (UTC)
私は単に横から口を出すだけでしたが(汗)、修正が形になったようでなによりです。--ポコポコ 2008年8月22日 (金) 02:15 (UTC)

画像のリンクの挿入について

元寇の説明に矢田一嘯画伯が明治時代に作成されたパノラマ画のリンクを設定しましたが、これについてご意見をお願いします。 設定の理由として

  1. 矢田画伯の同パノラマは、元寇に関しては第一級の資料であり、歴史的公証に耐えるものであり、元寇に関するHPや書物では取り上げられることが多い。鎮西身延山本佛寺に所蔵されているものであり、福岡市内の元寇資料館でも説明に用いられている。
  2. 同パノラマ画は内容の説明と一致しており、また、ウィキの規則として画像のリンクの掲載を妨げるものではない(多分)。
  3. 実際は、画のコピーを画像として掲載可能ですが、投稿者の所持している画像が多少不鮮明であり、また著作権をクリアーしているか多少おぼつかないところがありますのでリンクで示すことが適切と考えました。ウィキの規則ではこのような場合、リンクでの掲載が奨励されていると考えます。従いましてうきは市のHPのリンクを設定しました。
  4. リバートが亀山上皇の祈願まで及んでいる。--お館さま 2009年10月4日 (日) 22:33 (UTC)
Wikipedia:外部リンクの選び方には「外部リンクは最小限度にとどめること。」と明記されています。史料であるならともかく、後世の人によって書かれた画を資料として提示する必然性があるとは思えません。ウィキ内に画像が存在する『蒙古襲来絵詞』で十分ではないかと。まあ、一枚ならともかく場面ごとに全部紹介する必然性はこれは無いでしょう。
亀山上皇の祈願に関しては文章のこの位置に入れるとつながりが変です。どこか別の場所に書いても良いですが、この項目に必ず必要な情報かというと疑問です。本人の項目に書いておけばどうですか?らりた 2009年10月5日 (月) 09:53 (UTC)
らりたさん
貴重なご意見ありがとうございます。コメント依頼も出しておきましたので、しばらく他の人の意見が出るのを待ち、対応させていただきたいと思います。枚数についてはらりたさんの意見を考慮させていただきたく思います。また現物を写したものをアップするのはやはり問題が生じる(明治の初期なので著作権は切れているかもしれませんが)可能性があるので控えようと思います。どうも法律に暗いので(^_^メ)。--お館さま 2009年10月5日 (月) 15:23 (UTC)

本文からリンクすると、記事執筆の際の出典として使った情報源、あるいは記事を検証する際に使った情報源、というようにとられます(Wikipedia:出典を明記する)。リンクするのであれば今あるような形での画像ファイルへの直リンクはせず、外部リンクの節から http://www.city.ukiha.fukuoka.jp/hp/page000000400/hpg000000337.htm にリンクするか、絵のうちどれか 1~2枚をコモンズにアップロードして File タグで呼び出すか、ぐらいでしょう。著作権の保護期間は終了しておりますので(大正2年没とのこと)、お館さまさんお持ちの画像ファイルの質が著作者人格権を侵すほどひどいものでなければコモンズへのアップロードに支障はありません。らりたさんお勧めのように記事: 矢田一嘯 を立項してその中からリンクするのも可です。それであれば全部の絵を代表作として載せても問題はないでしょう。--Su-no-G 2009年10月8日 (木) 01:35 (UTC)

「記事執筆の際の出典として使った情報源、あるいは記事を検証する際に使った情報源、というようにとられます」
なるほど...ひとまず直接リンクをかますのではなく脚注に落として指示するようにいたします。--お館さま 2009年10月8日 (木) 10:29 (UTC)
「脚注」の節ですと、やはり「記事執筆の際の出典として使った情報源、あるいは記事を検証する際に使った情報源」ととられるのが通例です。繰り返しになりますが、リンクを貼られるのであれば外部リンクの節から http://www.city.ukiha.fukuoka.jp/hp/page000000400/hpg000000337.htm へのリンクが適切と思います。--Su-no-G 2009年10月8日 (木) 11:11 (UTC)
お館さま さんの連続編集のなかでタグが混乱しておりましたので、いったん私の提案を反映したかたちに改訂しました。「外部リンク」の節をごらんください。これで fix しようというのではなく私の提案について理解していただくのが目的ですので、ご理解いただけましたならばさらに編集していただいてもかまいません。--Su-no-G 2009年10月8日 (木) 11:39 (UTC)


文永の役の節「元軍撤退時期について」について

文章が個人的な論考風であり、百科事典に相応しい文章に構成しなおす必要があります。これについては、また折をみて作業したいと思いますが、神風によって元軍がダメージをうけた旨は、翌年の薩摩天満宮国分寺の奏状にあるようです。五味文彦、鎌倉と京、小学館、1988,330頁。 まあ、同書によれば、八幡愚童訓にも神風の記載がないと記されてあります。八幡愚童訓を私はまだ読んでいませんが、五味氏は信頼のける歴史家でありますし、この節全体の内容も編集しないといけなくなります。また、この件に関するリンク先は、今谷明氏へのインタヴューですが、この資料についての直接的な検討はなさっておりません。八幡愚童訓は五味文彦氏によれば、八幡神の神威を強調している資料には違いないですが。独自研究的な記述が含まれているので、タグをつけます。--西方 2011年2月6日 (日) 16:39 (UTC)


弘安の役の暴風雨の到来日

いくつか本を見てますが、研究者によってもまちまちです。

  • 7月30;
    • 入間田宣夫、武者の世に、集英社日本の歴史7、1991,322p.
    • 長崎県の歴史、山川出版社、85頁。
    • 新井孝重、蒙古襲来、吉川弘文館、2007,150頁。
    • 山口修モンゴルの来襲、図説日本の歴史6鎌倉幕府、1974,所収。
  • 7月29;
    • 五味文彦、鎌倉と京、小学館、1988,339頁


暦のこともあいまって、日時が混乱しているかもしれません。 山口論文によれば、弘安4年の7月は30日までで、翌日が閏7/1.いまの暦グレゴリオ暦だと、8/23。とあります。前傾206頁。

以上、五味氏のは例外的な記述として、30日、そして山口論文を根拠に、日時を編集します。--西方 2011年2月9日 (水) 07:55 (UTC)

節「封建制」

節「封建制」について、出典が「信頼性なし」との精度タグ付けが行われていましたが、これは不当。記述の不備はわかるが、出典そのものに不備はなし。--西方 2011年12月14日 (水) 00:07 (UTC)

元寇#封建制についての節に{{精度}}のタグを、および元寇#元側の状況と影響(現在元側における影響と日本脅威論の形成)の節に{{単一の出典}}のタグをそれぞれ付加した者です。
 まず前者の{{精度}}タグを付けた理由ですが、出典となっている『封建制の文明史観』の著者の今谷明先生は日本の中世史、特に戦国時代周辺で著書や論文を多く出されている研究者であると認識しておりますが、本書の第1章で日本や欧州、イスラム世界との「封建制」についての比較という興味深いテーマを扱っておられますが、残念ながら、自分が見た限りでは少なくとも現行のイスラーム史やモンゴル帝国史の学問レベルからしますと典拠としては使用に耐えないレベルだと判断せざるを得ませんでしたので、敢えて{{精度}}タグを付けた次第です。
イスラーム世界での「封建制」としてはイクター制度について言及がありますが、今谷先生が引用される佐藤次高先生は日本におけるイクター制度研究の第1人者だった方で、著書の『中世イスラム国家とアラブ社会―イクター制の研究』やあるいは『マムルーク―異教の世界からきたイスラムの支配者たち』でも書かれていたかと思いますが、従来の「イクター制度=イスラーム世界での『封建制』」という先入観による単純な見方では、イクター制度が敷かれていた実態を誤解しかねないため、当時の資料を丹念に読み解く事でその究明を行う必要がある、と説いておられたやに記憶しています。しかし、『封建制の文明史観』の参考文献表を見ますと今谷先生は『中世イスラム国家とアラブ社会』や『マムルーク』などの佐藤先生の著書の名前があがっておらず、佐藤先生が寄稿されていた百科事典の項目しかあげておられません。佐藤先生は「イクター制度=イスラーム世界での『封建制』」とう図式はなるべく慎重に考えるべきだという姿勢を持っておられたはずなのですが、今谷先生に文章にはそこまでの配慮が感じられませんでした。マムルークについての研究で清水和裕先生のものをあげておられるのはそこは問題なかったのですが・・ 高度な官僚体制云々のために「ペルシャ」などはモンゴル帝国の侵攻を防げなかったなという言説も、イスラーム政権を支える重要な柱が軍事力や治安を担う「剣の人」と財政管理や文書行政を担うを担う「筆の人」によって両輪のように互いに支えられていたという、イスラームの政治に関する本では必ず触れられている当時の認識についてちゃんと理解出来ていない点も問題です。加えて、イルハン朝ガザンの改革によって(マムルーク朝でもアイユーブ朝に引き続いて導入されていた)イクター制度を導入したことも全く触れられていないのはこれも大いに問題です。歴史研究の上での公平さに欠くように感じられますが、さらに、モンゴル帝国において国家制度の根本を成していた下賜(ソユルガル)、分配(クビ)によって支えられていた君臣関係などが論じられていないことも問題です(ここら辺は村上正二先生が色々書かれていましたが)。チンギス・カン以来、モンゴル王侯が征服地域の各地にウルスや領土の分封を受けていた事は周知の通りですし、イクター制度が「封建制」の範疇に入るならば、モンゴル帝国の下賜・分配の制度や理念、分封体制などは「封建制」との相違を論じられるはずなのに一言も無いのは、比較研究としては残念ながら重大な欠陥と看做さざるを得ません。
さらに、今谷先生はバトゥの欧州遠征の時に、オルミュッツ城(Olmütz)での攻防戦で守備部隊がモンゴル帝国軍を撤退させた、というドーソンの『モンゴル史』を引用してこの事件がモンゴル帝国史で取り上げられないのは不可解と論じていたように記憶しています。しかし、これには理由がありまして、今谷先生が使用された岩波文庫版の田中萃一郎訳『蒙古史』上下巻では本文と原註以外書かれていませんが、佐口透訳の東洋文庫版『モンゴル帝国史 2』では佐口透先生がこの話しの後に訳註で「右のシュテルンベルクがオロモウツ(Olmütz = Olomouc)城下でモンゴル軍を得たというのは伝説にすぎないと言われる。Vernadsky, The Mongols and Russia の注による」(同書172頁)と書かれています。Vernadskyの本にあたったところ、確かにそのように書かれていましたが、Vernadskyは、V.Novotny というチェコの歴史学者が『チェコ史』(České dějiny)という本でこの話しが伝説的なもので史実としては薄いものだと1928年に明らかにしたが、SpulerやGrekovなどの有名な研究者でさえこの伝説を繰り返し論述している、と批判しているようです。Vernadskyの The Mongols and Russia は初版はいつだったか忘れましたが第3版は1953年に出されており、佐口透先生の『モンゴル帝国史 2』も初版は1968年で、今谷先生の本よりも40年も前のものです。岩波文庫版のドーソンは原著の前半部分しか訳出されておらず、後半部分のイルハン朝史は欠けたままですが、佐口先生のものは原著の分量は完訳されています。訳書としては佐口訳が訳註も付されておりより良好のはずなのに、敢えて岩波文庫版しか使用されなかったのか疑問です。さらに今谷先生はオルミュッツ城の守備に当たったシュテルンベルク公ヤロスラフの「シュテルンベルク」を人名のように書かれていますが、これはヤロスラフ公が領していた地名であって、固有の人名ではありません。今谷先生は「ヤロスラフ」という個人名すら書いていないのはどういうことなのか首を傾げてしまいます。(オルミュッツ城の話しは、ドーソンが1675年にセルビアのセマンドリの大司教であった著者アンドリューからの引用だと断っていますが、このはなしがそれ以前の資料、たとえば13世紀に書かれたマシュー・パリスの年代記などのような同時代性の高い情報ということでは無いようです。)(神聖ローマ帝国についてや神聖ローマ帝国と言いながらイタリア遠征中も対モンゴルの派兵を方々で要請していた神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世についてほとんど触れられていなかったもの些か不可解でした)
このように、『封建制の文明史観』は典拠となっている資料の引用についてはおおよそ問題ないのですが、典拠自体の問題や(日本語で読める範囲の)イスラーム史研究やモンゴル帝国史研究などの先行研究の読み込みが大変不十分であり、資料選択や読解の段階でこの節自体の存続に関わるレベルの著述であると判断せざるを得ませんでした。なので、もし『封建制の文明史観』を典拠としてイスラーム史研究やモンゴル帝国史研究に関わる部分の今谷先生の言説を引用されるには{{精度}}のタグは必要であり、さらには今谷先生の言説の問題点についてはフォローを加えるべきだと思います。
 一方、元寇#元側の状況と影響(現在元側における影響と日本脅威論の形成)の節に{{単一の出典}}のタグについてですが、現在の東アジア方面についての前近代の海域史やモンゴル帝国、特に元朝史の動向から見ますと、同節でメインで引用される王勇氏の言説はいささか遊離しており、例えば現在の四日市康博、榎本渉先生方の研究とあまり整合性が取れていないように感じます。また、名前が上げられている研究者も王勇氏の単著のみで、2011年までの現在この分野で業績を上げておられる四日市康博、榎本渉、あるいは過去の佐藤圭四郎といった諸氏の名前が出て来ないのも公平性に欠けているように思われます。
江南での弘安の役の影響について、南宋遺臣の鄭思肖の言説が引かれていますが、それは良いとして、彼は元朝に出仕しておらず、むしろ反元朝の立場にあるイデオローグであるため(「思肖」自体が「趙を思う」=「南宋(皇帝家は趙氏)を思慕する」という意味のペンネームだとされているそうですが)、(元朝に出仕しているものも含めた)南北の漢人社会を代表する者ではないと距離を置く必要があります。王勇氏は「王勇は、このように、元が倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉関主義へと態度を変化させ日本との通交を回避するようになったとする」とあるように14世紀前半の市舶司の置廃を倭寇の影響と考えているようですが、佐藤圭四郎「元代における南海貿易 -市舶司条例を通して観たる- (上中下)」『集刊東洋学』(1964年)などの研究にあるとおり、成宗テムル没後のモンゴル皇帝の目紛しい交替にみられるように、市舶司の置廃については江南情勢よりも大都における中央政局の動向に左右されていた事が現在知られていますが、それらの研究が考慮されているようには感じられません。日本の商船とそれに応対した慶元路の役所とのやりとりについては榎本渉氏も論文を出されており、弘安の役や成宗テムル時代に派遣された一山一寧の国使の問題にも影響があるので、そこは触れるべきですが、他の研究を看過して王勇氏の言説のみに依拠する必要性は無いように思われます。王勇氏の言説のみでは現在の研究動向に合致していないため、現行の記事のままでは甚だ公平性に欠いており{{単一の出典}}のタグを付すべきだと思われます。本節執筆には少なくとも四日市康博、榎本渉、佐藤圭四郎といった元朝史の、特にこの時代を扱った海域史研究の成果を十分に踏まえた上で執筆すべきだと思われます。--Haydar 2012年1月1日 (日) 18:04 (UTC)
たいへん、興味深いお話、ありがとうございます。しかしながら、まず今谷氏の本については、それについて、たとえば批評なり、批判的な論文が存在するのであれば、記載されるべきだと思います。しかし、お話をうかがっていると、どうも、それはHaydarさんの独自見解であるように見受けられます。あなたが同主旨の論文をしかるべき媒体等で発表されておられているのであれば、その旨、記載するといいと思われますが、そうでない場合は、その見解がどれほど正確であっても、記載はウィキペディアではできません(Wikipedia:独自研究は載せないを参照ください)。(あと、これは推奨されてはおりませんが、独自研究タグを回避できるような記述の仕方もあります。それは、別の出典に基づいて、当該記述について補足する意味で記述するやりかたです。しかし、いずれにしても、Haydarさんのおっしゃっていることは、分量的にも内容的にも、記事今谷明のなかで「封建制」節をつくり、そこで記述すべきでしょう。あるいは封建制の文明史観という単独記事もありかとは思いますが。本記事に節としてあるのは、今谷氏のような見解もある程度の指示にすぎません。節にしたのは、他の節との関係でそうしておりますが、本来は、「元寇についての評価」または「研究」といった節において、諸説がまとめられるのが理想であると思っております。
王勇氏の研究の件についても、たしかに別の観点も加筆されるべきだとは思います。しかしながら、{{単一の出典}}は節でなく、記事全体が単一の出典に基づく場合のものです。本記事は、複数の出典をともなっておりますので、この限りではありません。--西方 2012年1月2日 (月) 12:50 (UTC)
西方さん
早速の返信ありがとうございます。自分の見た限り、残念ながら『封建制の文明史観』が専門雑誌などで書評があるかは存じ上げません。出来れば何かしらの書評があるのであれば教えを請いたい所です。(amazonの書評ではいくつか批判的な評が掲載されていますが、これだけでは不十分でしょう)上述しましたように、自分が一読した限りでも学問的水準に問題のある書物であるので、今谷先生の所説をそのまま本記事に掲載するのはやはり問題有りだと思います。しかしながら、西方さんも指摘される通り、そのことをそのまま記事上などで指摘することは現在の状態ですと独自研究にかなり抵触しかねないことも重々承知しております。個人的にはそういう問題もあるので百科事典としてはひとまず本節を全削除した方が問題は少ないのではないかと考えるのですが、広く編集者に査読なりコメントなりを依頼して本節が本記事に掲載しても良いレベルであるかどうか、改めて意見を募るべきではなかろうかと思う次第です。(他の編集者の方々に検証を依頼するとなると、大分時間が掛かるかとは思うのですが、記事編集上必要なことでしょう)
>「王勇氏の研究」
本節のタイトルが「元寇の影響」節の「元側における影響と日本脅威論の形成」とある以上は「王勇氏の研究」が本節のメインではなく、やはり元朝史や元代江南史、最近研究が進んでいる海域史や文化交流史的な観点から広く書かれるべき項目であって、王勇氏の所説にのみ依拠する必要性はないのではないでしょうか? 「元側における影響と日本脅威論の形成」のタイトルのうち、後半の「日本脅威論の形成」について扱った論文は王勇氏のものしか自分は存じ上げませんが、少なくとも前半の「元側における影響」については他の研究者の方々の研究に基づいて色々書ける余地は大いにあるように思われます。自分も王勇氏の『中国史の中の日本像』を以前読んでみましたが、『隣交徴書』や『元史』の引用部分も王勇氏の所説に従った引用であって、この節の所説は基本的に王勇氏の『中国史の中の日本像』という単一の出典・(歴史研究としては二次)資料での所説にのみ依拠している状態です。他の研究者による批評や王勇氏の所説を補った研究書や論文によるものでは無い以上、{{単一の出典}}に当たるようにやはり思われます。現在の節が王勇氏の所説のみで書かれていることは動かし難いことのように思われますので、タグの種類の問題を置くとしてもやはり節の全体的な改組が必要だと思われます。--Haydar 2012年1月3日 (火) 03:37 (UTC)
コメント依頼については私もひろく他の編集者の方々の見解を聞いてみたくもありますので、反対いたしません(そもそもコメント依頼そのものに反対などできませんが(笑))。私としては上記しましたように、今谷説が蒙古襲来について論じていないのならともかく、それを直接論じている以上、本記事に記載あってよいと考えます。なお、今谷説については私も、非常に興味深く思うとともに、それへの批判なども読んでみたく思っております。書評等は、私も存じておりません。たしかに、かなり大胆な仮説には違いないと私も思っております。しかし、元寇を当時の国際社会全体のなかで理解していくという方向は非常に重要であると考えます。この件については、さらなるアイデアとしては、節「当時の国際社会」などを設置し、記述が多重的になれば、それが一番理想であると思います。なお、現在、小節「封建制」にしておりますが、これはむろん暫定的なもので、よりよい節名や、また再構成のアイデアがあれば、私も検討したく思っています。
王勇氏の説については、むろん、加筆を大歓迎いたします。タグについては、むしろWikipedia:スタブWikipedia:加筆依頼などが考えられますが、現在の記述は一定程度の量がありますので、私はタグ付けするよりも、Haydarさんが加筆されるのが、一番いいと考えます。--西方 2012年1月3日 (火) 07:08 (UTC)
Haydarです。返事が大分遅れましたが、元寇#元側の状況と影響については四日市康博、榎本渉、佐藤圭四郎諸論文を参考として後日加筆する方向で検討してみます。元寇#封建制についてはやはり問題有るように個人的に強く思いますので、元寇#元側の状況と影響がある程度済んでから改めて議論を広めたいと思います。--Haydar 2012年2月13日 (月) 17:08 (UTC)
たしかに、現行の記述は、改善すべきと思っています。それに、節としても浮いているとは思います。これはまた追々でいいのですが、様々な学説を紹介できるような、たとえば「評価・研究」という節が必要であると思っています。現行の「元寇の諸相」では、たとえば、異国調伏祈祷などは「経緯」節に移動すべきかとも思っています。「封建制」節の記述については、今谷氏は「なぜ当時の日本軍は撃退できたのか」という問題について考えられ、出されたひとつの仮説であると思いますので、「軍事的評価」という節を新たに設置し、その下位節として「神風」「戦術」「封建制」という構成だと、よいと思われます。これらの編集案については、時間をみつけしだい、いずれ行います。
今谷氏の「封建制」説の妥当性および検証についてですが、たとえば、「しかし、イクター制と封建制は必ずしも一致しない」と出典をつけて記載があってもいいとは思いますが、詳細については、やはり今谷明記事で「封建制説」などといった節において、あるいはイクターにおいて加筆した方がいいかと思います(記事イクターは情報がないスタブ記事ですので、加筆が必要です)。いずれにしても、この元寇記事においては、上記「軍事的評価」という文脈において、「今谷は、日本軍がモンゴル軍の攻撃から防衛に成功した理由として封建制にあるとしている」という主旨の記述は、この戦争を理解するうえでの重要な視点のひとつですので、存続すべきであると強く思っていますので、削除などにはわたしは合意することはありません。文章の適切化や、節の組み込みなどであれば、別ですが。--西方 2012年2月26日 (日) 07:24 (UTC)
節「封建制」 を「日本の軍事力」節に組み込み、再構成しました。--西方 (会話) 2012年3月2日 (金) 11:58 (UTC)

元寇#高麗の関与節のタグの付加について

元寇#高麗の関与節を一読しましたところ、いくつか問題とすべき点があるように思われたので、応急的に{{正確性}}{{要検証}}{{要出典}}のタグを付加して、今後修正できるよう目安としました。

まず、「元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」との記述がある」とありますが、脚注で引用されている『元史』の該当部分は「『元史』 巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日)の条「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。」」とありますが、文面からは「執拗」というような印象を受けません。この当時の高麗国王家の置かれた状況については旗田巍『元寇 --蒙古帝国の内部事情』にも詳しく論じられていますが、「忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある」やそれに続く文章も旗田巍、森平雅彦諸氏の見解に適ったものなので問題ないと思います。これらの見解からすると「執拗」な要請であったと誰が論じているのか明らかにする必要が有るように思われます。忠烈王の発言が記事の通り「元寇の発端」になったかどうかという問題も、同じく検証する必要が有ります。

次に、「これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお激しい抵抗を続けていた。これが三別抄である。」という部分も、「駙馬高麗国王家」の冊封は『元史』によれば至元十一年七月癸巳(1274年8月22日)であり、三別抄は前年の1273年に耽羅島で忻都や金方慶率いる蒙古・高麗連合軍の上陸によって滅ぼされており、現在の書き方では駙馬高麗国王の冊封の後にも三別抄の抵抗が存続したような印象を受け、時系列的に問題です。文脈を組み替えて整理する必要があると思います。

第3に、「高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられる」と書かれていますが、高麗がモンゴルの兵力を頼んで意図的に日本侵攻のルートに高麗を誘致したような印象を受けますが、旗田巍氏などはクビライから高麗に課せられた兵力供出や負担などを可能な限り軽減するように高麗国王元宗や忠烈王が常に嘆願していたことを述べており、そもそも後の忠烈王が父元宗の廃位事件で兵力供出を率先して行うようクビライに言質を取られる以前は元宗も忠烈王も遠征には消極的だったことが『元寇 --蒙古帝国の内部事情』で論じられています。高麗側がクビライ側に意図的に「高麗ルートを選ばせた」ような話しは寡聞にして聞かないため、このような節の存廃に関わる重要性のある一文を挿入する以上は、やはり出典を付すべきだと思われます。もし歴史研究的に適った出典が検証できなかった場合、この一文を削除し、節の全体の文脈を改組する必要があるかと思います。これらの点が改善されるまでタグを付加しておきたいと思います。(第2点はただちに出来そうなので、これは近日中に実行する予定です) --Haydar 2012年2月13日 (月) 17:01 (UTC)

ご指摘なさった「執拗」の点は、たしかに独自解釈のおそれがありますね。わたしも関連文献を調べ直したいと思います。また、三つ目の点についても、同じく検証・再調査は必要だと思います。ただ、削除よりは、問題箇所を出典明記の旨とともにコメントアウトにとどめておく方が賢明かと思われます。元寇研究は、旗田巍氏だけではないので。執筆なさった方が出典を書いてくれるのが一番いいのですが。--西方 2012年2月27日 (月) 16:40 (UTC)

八幡愚童訓の諸本異同

八幡愚童訓の日本軍の総勢数について、脚注でやたらと厳格に各写本の異同を記されていましたが、これはどう考えても、八幡愚童訓で行うべきでしょう。この写本異同について議論をする気はありませんが、菊大路本、東大寺上生院本、文明本では、十万ニ千余騎、筑紫本では「十万ニ千余騎大将軍一万二千余騎都合其勢十万騎」とあり、実際、ほとんど内容的には違いがありません。もし、これらの八幡愚童訓写本異同について、本記事に記載あるべきだとお考えであれば、その特筆性の理由を示してください。

そもそも、この件は、出典である外山幹夫の本での引用についての脚注となっており、特筆性があるとは思われません。八幡愚童訓#諸本研究と記載の異同として移動しました。

私もこうした史料の異同研究は重要であるとは考えています。しかし、現状の記事の記述では、まだまだ経緯や外交交渉、そしてとくに、国内の動向について、まったく不十分な記述です。史料の異同よりも、実際の当時の政治、社会の動向についての加筆をお願いします。--西方 (会話) 2012年3月2日 (金) 13:31 (UTC)

当該部分を加筆したHaydarです。外山幹夫先生の『肥前松浦一族』の記述を根拠として「八幡愚童訓には大将軍1万2千、総数10万とある」という記事を本文に残すのであれば、菊大路本、東大寺上生院本、文明本などの記述は残すべきです。
なぜならば、(脚注で書いた伝本間の内容をもうちょっとちゃんと読んで頂きたかったのですが)『八幡愚童訓』は江戸時代以前に作成された物が数種現存していますが、外山幹夫先生が引用しておられる『八幡愚童訓』について、書誌学的な考察を加えているか否か明示されておらず、またその都度適当と思った伝本を使用しているような印象を受け、参考文献表にも書誌情報を提示しておられないのでそれぞれの箇所でどの刊本・伝本の『八幡愚童訓』を使用したのか『肥前松浦一族』を一読した限りでは分からないようになっています。自分が確認した限りでは恐らく「筑紫本」と呼ばれる伝本の記述に近いため「現存の『八幡愚童訓』の諸本のうちいずれのものを使用したのか書誌情報が無く出典は不明。下記の筑紫本がほぼ対応する。」という一文を加えました。これだけであれば特にこれ以上付け加えるべき問題も無かったのですが、筑紫本と他の『八幡愚童訓』の主要な伝本とでは数字が全く異なっているのです。
筑紫本では「大将軍一万二千余騎都合其勢十万騎ト云ヘ共[米+攵]ヲ不知」とあってこれが「大将軍1万2千、総数10万」という数字の根拠となっているだろうことは想像出来ます。ところが、参考にもあげた他の書写年代の古い伝本では、
 「大将ト覚敷(おぼしき)者ダニモ十万二千余騎、都合ノ数ハ何千万騎ト云事ヲ不知。(菊大路本)」、
 「十万二千余騎ト云フ、都合ノ數ハ、イクラ、何千万騎ト云事ヲ不知、(東大寺上生院本)」、
 「大将トヲホシキ者タニ 十万ニ千余騎都合数ハ何千万騎ト云事ヲ不知。(文明本)」
とあって、筑紫本では「十万騎」となっているところが、ことごとく「何千万騎」となっています。つまり、本来は「何千万騎」か「千万騎」といった非現実的な数字が「十万騎」と書き改められたか誤写された(あるいは逆に元々は「十万騎」だったものが「千万騎」になったか)可能性が考えられ、これだけでも史料としての考察を要する問題なのですが、外山幹夫先生は何ら言及されていません。これは資料選択として学問的に問題があると思われるため、『肥前松浦一族』の記述を根拠として「八幡愚童訓には大将軍1万2千、総数10万とある」という記事を安易に説明もなしに本文とすることは、極めて危険だと思われるのです。(筑紫本と他の伝本間との数字の違いに加え、『八幡蒙古ノ記』に至っては「十万」の数字の対象がそもそも違っている)
「現状の記事の記述では、まだまだ経緯や外交交渉、そしてとくに、国内の動向について、まったく不十分な記述です。実際の当時の政治、社会の動向についての加筆をお願いします。」とのことですが、これらの記事がまだまだかなり足りていない事は自分も重々承知しております。しかし、それならばこそ『肥前松浦一族』の記述を根拠とした数字をそのままにしておいて、その説明を削除するのは問題が無いのでしょうか? その種の削除を優先するよりも、「経緯や外交交渉」「国内の動向」「実際の当時の政治、社会の動向についての加筆」をある程度しっかり行ってから、引用資料の整理や特筆性の良否を考えるべきではないでしょうか。
「実際、ほとんど内容的には違いがありません。」とのことですが、自分も伝本間についてはそのように感じます。しかし、実際よくよく読んでみれば「1字の違いで意味が大分異なっている」箇所が『八幡愚童訓』の伝本間でいくつか存在しており、その問題を看過したままの典拠をそのまま引用して説明もないのは、やはり問題です。
もし、『肥前松浦一族』の記述を根拠とした「八幡愚童訓には大将軍1万2千、総数10万とある。」という記事をそのままにしておくならば、2012年3月2日 (金) 12:48までの脚注の説明は必要ですので、西方さんの [2012年3月2日 (金) 13:21時点]の編集はそれ以前のものに直ちに差し戻すべきだと考えます。そうでなければ、思い切って『肥前松浦一族』の記述を根拠とした「八幡愚童訓には大将軍1万2千、総数10万とある。」という一文自体を削除した方が、より『八幡愚童訓』という資料に即した措置であると考えます。--Haydar会話2012年3月2日 (金) 16:02 (UTC)
お返事ありがとうございます。そのようでしたら、脚注で記載するよりも、節として、たとえば「八幡愚童訓記載の軍勢」などとして、本文に記載する方が適切だと思います。私の本意は、「脚注で詳細な考証を載せるには、場所が適切でない」というものです。--西方会話2012年3月2日 (金) 16:51 (UTC)
まあ、Haydarさんが億劫でしたら、私が本文への組み込みをやってもいいのですが、あなたの方がこの件については詳しいわけですし。また、本件の重要性についても、あなたの方が主張されているわけで、そうなると、私もそういう厳密な考証の価値は否定はしませんので、ぜひ節として本文に記載していただきたく思います。--西方会話2012年3月2日 (金) 16:56 (UTC)
ご紹介なさった資料によれば、「何千万」とありますね。これは幾分誇張もあるでしょうが、実際、どうなんでしょうね。これをボックスのなかにいれるとすれば、「10万〜何千万」となるのでしょうか?私には判断がつきませんが。--西方会話2012年3月2日 (金) 16:59 (UTC)
なお、私は外山氏の研究に固執はしていません。ただ、引用した者としては、外山説も残存させてほしいとは思いますが。より厳密な考証による数字の提示があれば、それで私は納得できます。--西方会話2012年3月2日 (金) 17:02 (UTC)
改訂しました。ボックス内の情報に関する「注意」としてはこれで十分だと考えます。これ以上の、元本の記述を逐一引用して記載する場合は、やはり本文に記載しないことには、それこそ、十分に資料への注意とはならないでしょう。--西方会話2012年3月3日 (土) 01:10 (UTC)


西方さん 早速のお返事有難うございます。自分が調べた限りでは、研究者の方々は『八幡愚童訓』を文永弘安の役、特に文永の役の資料として盛んに引用されるのですが、伝本間の記述の相違などの文献学的な考証を踏まえた上で活用されているのか、いささか怪しい書き方をされておらる方もいるような印象を受けます。記事中で『八幡愚童訓』を引用する場合、伝本間で共通している部分は(アクセスがし易い)『日本思想大系』『神道大系』などに録されている「菊大路本」で十分だと思うのですが、外山幹夫先生のように説明もなしにそこの部分だけ他資料と内容が違う特定の伝本が使われた可能性が考えられる時、記事編集時に百科事典的な公正さをどのように保ってその点を記事に反映させるかが問題となるかと思われます。
そもそも『八幡愚童訓』は、日本の国家的鎮護の神として朝廷や特に幕府など武家でも尊崇の篤かった八幡神の威徳を称揚するために編纂された縁起文書ですが、筑紫本の原題が『八幡大菩薩愚童訓』同じく文明本が『八幡大菩薩愚童記』とあるように、本資料は「八幡大菩薩」という名の通り一貫して仏教的な国家鎮護の神として武徳を守護する存在としての八幡神の記述で占められています。仏教文学は(中世文学全体に言えるのかも知れませんが)基本的に数字や修飾が極めて誇張的に叙述されるのが一般的ですし、『八幡愚童訓』の他の記述でも誇張的な数字と思われる箇所はいくらでも散見できます。(例えばいわゆる神功皇后の三韓征伐のくだりでは「異賊ハ十万八千艘ニ四十九万六千余人也。(日本思想大系『寺社縁起』p.174)」とあります) 
脚注でも名前があげられている服部英雄先生は『歴史を読み解く さまざまな史料と視角』(青史出版、2003年11月)で『八幡愚童訓』の資料性には疑義を呈されていますが、それでも史実を一定反映した部分もあることは述べられているようです。(ただ、自分が見た限りでは、服部英雄先生の『歴史を読み解く』「文永十一年の嵐」での叙述で論の趣旨とは別に、『八幡愚童訓』の文永の役部分全体のストーリー展開や話しの趣旨、個々の人物の描写を十全に把握して書かれていないような印象が有り、文永の役の時に石築地が存在したかのような書き方や、高麗側資料には記述の相違が余りないとはいえ『高麗史』金方慶伝などを使わず『高麗史節要』のみを用いられる等、資料読解や資料選択で首を傾げてしまう部分もいくつか見られます) 鎌倉武士側の動員人数については、「より厳密な考証による数字の提示」出来るのか、その問題にしっかり取り組んだ・明示出来た研究者があまりおられないような雰囲気が有りますので、現状ではかなり「提示し難い」と思っております。
川添昭二先生や村井章介先生(あるいは新井孝重先生も)などは『八幡愚童訓』の数字を意識しつつもこれは誇張的な物と判断し「正確な数字は出しにくいが、(文永の役については)一万前後くらいが現実的な数字ではないか」というようなことを述べおられていたやに記憶しています。(これは確認しておかねばなりませんが) なので「服部英雄は『八幡愚童訓』を根拠としてこれこれの数字をあげているが、研究者の間では現実的なものとはみなし難いとされており、1万前後くらいではなかったかと推定されている」くらいが無難な所ではないでしょうか。
『八幡愚童訓』については文永弘安の役関係で盛んに引用されている割に、伝本間の文献学的な考察ですとか入念な資料批判や本文読解を踏まえた上での資料としての活用が、なかなかされていないように感じます。蒙古襲来関係の著書を見て回った限りですと、場合に寄っては筆者個人の思い込みか恣意的な内容の選択がされているのかとの疑いを抱かれる場面もまま見られました。『八幡愚童訓』の伝本の文献学的な研究や情報については、小野尚志先生の『八幡愚童訓諸本研究 : 論考と資料』(三弥井書店、2001年9月)が10年余り前に公刊されていますが、浩瀚な内容にも関わらず、これがこの10年の間に文永弘安の役関係で十分活用されて来たか疑わしく思われます。本記事の叙述も特に文永の役についてを見ても、どうやら佐藤鉄太郎先生の『軍事史学』第38巻第4号(2003年)掲載の「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法」の論旨に依拠して叙述されているようですが、全体的に『八幡愚童訓』『蒙古襲来絵詞』そのほか御教書、書下など各種文書類の記述と佐藤鉄太郎先生の論旨が入り組んでいて、どこまでが史料的な記述でどこまでが研究者の意見か識別が困難な具合の悪い文章に見えます。それぞれの記述内容を明瞭にし、研究的な論争ではどのように問題点が指摘されているのか、峻別をした上で記述すべきでしょう。『八幡愚童訓』に関わる問題も、安易に確定された史実のように記述するのではなく、飽くまで『八幡愚童訓』(の主要な伝本である菊大路本)ではこのように書かれており、他の伝本では見られない記述が有る部分、外山幹夫先生の例のように指摘する必要性が有りそうだと思われるものについては、後述するなり脚注をつけるなりしてその都度解説を加える、という(恐らく他の記事と同様の)方法で行くべきだと思っています。史料上の文言は文言として、研究者の見解は飽くまで研究者の見解として、バランスを考慮しつつ取り扱うべきであろうと。
前回触れるのを忘れておりましたが、外山幹夫先生の記述と伝本間の記述の相違について八幡愚童訓#諸本研究と記載の異同へ移動されたようですが、これもあまり適切な措置とは個人的には思われません。というのも、『八幡愚童訓』は文永弘安の役のためのみに書かれたものではなく、文永弘安の役にまつわる記述も『八幡愚童訓』の一部に過ぎないからです。(『寺社縁起』収録の「八幡愚童訓 甲(菊大路本)」は本文が170-205頁で、文永の役部分は183-187頁くらい。弘安の役は189-191頁くらい) なので、記事本文に盛り込むにしろ脚注に書くにしろ八幡愚童訓に節を設けるよりも、こちらの記事で書かれるべき問題のように思います。記述を引用した外山幹夫先生も、『八幡愚童訓』の資料性であるとかいう込み入った内容で引用した訳でなく、飽くまで文永の役についての考察をする箇所で触れていますので。
さて、正直なところ申しますと、外山幹夫先生の引用の問題はわざわざ節を設けて論ずるよりも、やや問題があると思われる引用であると本文で閲覧者に喚起し、その説明は脚注に詰め込んで、詳しく知りたい人は脚注を見れば良いのでは、くらいに考えています。しかしそれでも本記事に節を設けて詳述する必要があると感じられるならば、外山幹夫先生が引用された数字についての代案としましては、
「鎌倉武士側の動員人数については、中世史研究者の外山幹夫は『八幡愚童訓』の一伝本の記述に基づいて「大将軍1万2千、総数10万」という数字をあげている(恐らく『八幡愚童訓』の伝本のうちいわゆる筑紫本に寄ったものと思われるが、この数字は『八幡愚童訓』の他の伝本間で相違が存在しているため、後段で述べる)。しかし、『八幡愚童訓』の数字には資料的な性格から大分誇張がされていると考えられており、研究者の間では一万前後くらいが現実的な数字ではないかとの意見が出されている<脚注で各資料での研究者の意見部分の記述ページを付記>。」みたいな感じが良いでしょうか。--Haydar会話2012年3月3日 (土) 03:06 (UTC)
お返事ありがとうございます。私は「外山幹夫の引用の問題」よりも、「鎌倉武士側の動員人数についての『八幡愚童訓』諸本の記載」の方が重要であると考えますので、
「鎌倉武士側の動員人数については、『八幡愚童訓』の諸本によって「大将軍1万2千、総数10万」(筑紫本<脚注。ほか、外山幹夫『肥前松浦一族』新人物往来社 (2008)65頁。>または「大将軍10万2千、都合数は何千万騎か知れず」と記載がある(菊大路本、東大寺上生院本、文明本<それぞれについての原文を脚注>)。ただし、『八幡愚童訓』の数字には八幡神の威信を主な動機として書かれた資料の性格から誇張がされていると考えられており、研究者の間では一万前後くらいが現実的な数字ではないかとの見解も出されている<脚注で各資料での研究者の意見部分の記述ページを付記>。」という具合が私はいいと思います。
本文の記述の場所ですが、あらためて本文を見ますと「日本軍の迎撃態勢」節にこれを加筆するといいかと思われます。なお、これに加えて、ボックス内の他の戦力データもこちらに記載するといいですね。--西方会話2012年3月3日 (土) 05:01 (UTC)
余談ですが、私個人は、当時の日本社会の性格(軍事政権・武家社会)、人口、そして元・高麗連合軍の侵攻への迎撃という状況などからして、1万説はむしろ現実的でなく、最低でも10万程度は終結したと思っています。まあ、いずれにしても、このあたりは、新たな古文書等の資料が出てこないことには、1万説も、10万説も推測以上ではないのですが。--西方会話2012年3月3日 (土) 05:13 (UTC)

IP氏によるカテゴリ一括削除について

IP氏によるこの編集ですが、カテゴリーを一括削除されておりますが、過剰です。--西方会話2012年3月18日 (日) 14:19 (UTC)

編集の要約に「上位カテゴリ重複」と書いた通り、この元寇という記事はCategory:元寇というカテゴリに属しており、Category:元寇というカテゴリはCategory:11-15世紀の戦争Category:日本の戦争Category:モンゴル帝国の戦争Category:朝鮮の戦争Category:鎌倉時代の戦いCategory:元朝Category:高麗Category:鎌倉時代の外交Category:日蒙関係Category:日中関係史Category:九州地方の歴史などのカテゴリに属しているので、元寇という記事自体をまたこれらのカテゴリに入れると重複してしまうので、過剰なカテゴリを除いたのです--211.14.207.58 2012年3月18日 (日) 15:02 (UTC)
議論中なので、差し戻しをしないでください。異議が出されて、合意に達していないのに、差し戻しをすることを編集合戦を誘発させます。--西方会話2012年3月19日 (月) 03:26 (UTC)
「上位カテゴリのみあれば十分」ということには納得できませんね。たしかに、Category:元寇は、列挙された上位カテゴリに帰属するものですし、私もすべてを記載すべしとは思ってはいません。それに、「重複を厳格に避ける」ということであれば、「福岡市の歴史」だって、Category:福岡県の歴史の下位カテゴリであり、「九州地方の歴史」の下位カテゴリになり、削除となるでしょう。しかし、そうやって、「最低限」のカテゴリのみ記載となると、実際、多くの記事のカテゴリは不要となります。--西方会話2012年3月19日 (月) 03:32 (UTC)
あなたが準拠しているのは、Wikipedia:カテゴリの方針#カテゴリ付与の指針の、
貼るカテゴリの数が多すぎると使い勝手が悪くなるので注意しましょう。記事の主題に少しでも関連するものをすべて貼る必要はありません。例えば、多彩な分野にわたる経歴をもつ人物であっても、カテゴライズされるべきものは厳選されるべきです。ある人物がある国に行ったことがある、などを理由としたカテゴリ関係は不適当です。また、カテゴリにとって必要な項目であるかどうかという観点も重要です。
なのでしょうが、この文には続けて、
適正な数は記事によって異なりますが、これは多すぎるのではないかと感じたなら、ノートで提案・相談してみてください。
とあります。さらに、
関係するカテゴリを列挙したい場合は、「関連項目」の欄に並べるのも一つの方法です。カテゴリの守備範囲が大きく重なるなど、候補のカテゴリが多数あって選びづらいという場合は、カテゴリ自体が過剰になっているのかもしれず、カテゴリ体系の見直し、統合なども検討すべきかもしれません。
とあり、すなわち、ノートで議論を喚起することが推奨されています。--西方会話2012年3月19日 (月) 03:41 (UTC)
あなたは文禄・慶長の役でも似た編集[1]を行っていますね。アカウントを取得し、、Wikipedia:多重アカウントにおける「監視のがれ(投稿履歴の分断)」に該当しないことをまずは実証してください。そうでなければ、荒らしとみなされえます。十分に議論を行ってください。ウィキペディアはあなたの占有物ではありません。--西方会話2012年3月19日 (月) 03:51 (UTC)
節名変更。IP氏の編集行為についてのコメント依頼も考えておりますが、中国・朝鮮関係のカテゴリの整理のみを編集されておられますね。2012年3月18日 (日) 11:09 (UTC)における[2]以来、Category:中国朝鮮関係史を新規につくられ、それを付与する編集を続けておられますが、正直、記事の向上を目的とはしていないように見受けられます。--西方会話2012年3月19日 (月) 04:03 (UTC)

歴代鎮西要略

IP122.31.144.211氏によって、2012年4月25日 (水) 05:33時点で、「歴代鎮西要略は江戸時代に編纂され、対する東路軍勢に対しても「幾百万とも知らず」「数千艘」などかなりの誇張あり。バトルボックスに載せるべき史料ではない」としたうえでの記述の削除がありました[3]。しかし、誇張表現があるというのなら、八幡愚童訓も、蒙古襲来絵詞も、あるいはまた「元史」でも「高麗史」でも誇張表現がある。後世に作られた資料ということでいえば、「高麗史」もそうでしょう。

史書について、IP氏のような独断で削除をするのには、合理的な理由は存在しません。また、「バトルボックスに載せるべき史料ではない」ともおっしゃていますが、歴代鎮西要略をはじめ、各史書に基づく資料や情報は、本文でもバトルボックスでも同等に、記載あってよいでしょう。--西方会話2012年4月26日 (木) 05:17 (UTC)

>しかし、誇張表現があるというのなら、八幡愚童訓も、蒙古襲来絵詞も、あるいはまた「元史」でも「高麗史」でも誇張表現がある。後世に作られた資料ということでいえば、「高麗史」もそうでしょう。

もちろん、その他の資料にも誇張はみられると思いますが、『歴代鎮西要略』は根本的なところで事実誤認が多々みられます。例えば、文永の役と弘安の役とをそもそも混同しています。

さらに、「洪茶丘」など元軍の指揮官の人名も載っていることから元側の資料元史や高麗史などを参考にしていることが窺われますが、にもかかわらず東路軍の総数を「幾百万とも知らず」「数千艘」と記載しています。 この点からも数を知る上で参考にするに耐え得ない資料だとわかります。 もちろん、その他の資料『八幡愚童訓』の将軍数10万2千など現実では有り得ない資料も同様にバトルボックスから削除することも記事を良質にする上でありだと思います。

>歴代鎮西要略をはじめ、各史書に基づく資料や情報は、本文でもバトルボックスでも同等に、記載あってよいでしょう

記事を良質にする資料の記載を増やすことは賛成ですが、『歴代鎮西要略』を記載するとなると、同じく江戸時代の資料『北肥戦誌』の東路軍軍船「4千艘」なども記載することも可となります。『歴代鎮西要略』の蒙古勢「幾百万」や「数千艘」も可となります。また、どうしても記載するのであれば、『歴代鎮西要略』の著者が蒙古勢を「幾百万」「数千艘」と認識していたこと、それに対して日本軍は25万だと認識していたことを記載しなければ、閲覧者に東路軍4万~5万に25万で対抗したという誤解を与えかねません。私は資料だからと言って、何でも記載するのは記事の質を低下させるのではないかと恐れます。--以上の署名のないコメントは、122.31.144.211会話/Whois)さんが 2012年4月26日 (木) 06:42 (UTC) に投稿したものです(西方会話)による付記)。

コメントなさる場合は署名をお願いします。おっしゃることはわかりますが、そうでしたら、節を作り、様々な資料について出典を明記したうえで記述するべきでしょう。過去に『八幡愚童訓』の兵力についても議論がありましたが、「現実では有り得ない」とかいうのはあなたの独断にすぎません。出典のある記述を一方的に削除することには反対します。Wikipedia:独自研究は載せないを御覧ください。--西方会話2012年4月26日 (木) 12:12 (UTC)

署名が抜けていました。失礼いたしました。私は、鎮西要略の兵力を記載するのであれば、節を設けるより前述したように歴代鎮西要略の著者の日本軍「25万」に対して蒙古軍「幾百万」「数千艘」という兵力の差異の認識について記述することで事は足りると思いますので、その点について脚注をつけるならば異議はありません。先ほども申しましたとおり閲覧者に東路軍4万~5万に日本軍が25万で対抗したという誤解を与えかねないからです。--122.31.144.211 2012年4月26日 (木) 13:55 (UTC)

さようですか。私は歴代鎮西要略そのものを見てはおらず、外山氏の著書からの孫引きであったもので、蒙古軍「幾百万」「数千艘」の記載についてすぐには確認できませんので、よろしければ加筆していただけますか?なお、バトルボックス内の現在の記述「「歴代鎮西要略』によると250,000人」という箇所を「(江戸時代の「歴代鎮西要略』によると日本軍250,000人[20]。なお同書は蒙古軍を兵「幾百万」軍船「数千艘」と記載してある[脚注])」と、脚注でなくとも本文にするとよりいいかと思われます。また、他の資料も併記されていいと思います。なお私は、兵力はあくまで数値ですし、諸資料の数値を書くにせよ、節にせずともボックス内で十分足りるものと思っています。--西方会話2012年4月26日 (木) 15:14 (UTC)

了解しました。西方さんのおっしゃるように脚注より本文に鎮西要略の蒙古軍の兵力に関して加筆したほうが良いと私も思いますので、時間がある時にでも加筆しようと思います。--122.31.144.211 2012年4月26日 (木) 15:42 (UTC)

菊池武房

>>元軍に戦を挑もうという武士が一人もいなくなった頃、肥後の御家人・菊池武房は手勢100騎を二手に分けて、元軍が陣を布く赤坂の松原の陣に襲撃をかけ散々に駆け散らしたが、菊池武房の手勢は多くが討ち取られて、菊池武房のみが討ちとられた死体の中から這い出して、討ち取った元兵の首を多数つけて帰陣した>>
この記述を読むと菊地武房は打ち取られた死体の山の中に紛れて九死に一生を得て、ようやく帰陣がかなったように読み取れますが、なぜ元兵の首を多数つけて帰ってのか、この文章からは理解できません。加筆説明をお願いします。--2012年11月5日 (月) 01:34 (UTC) --以上の署名のないコメントは、183.72.190.72会話/Whois)さんが 2012年11月5日 (月) 01:34‎ (UTC) に投稿したものです(Haydar会話)による付記)。

遅まきながら、返信致します。183.72.190.72さんの指摘された部分は、元寇#『八幡愚童訓』による戦況にも脚注が付けられている通り、『八幡愚童訓』に書かれている内容に依拠したものでして、脚注に引用された『八幡愚童訓』は江戸時代後期の国学者、橘守部旧蔵の『八幡ノ蒙古記』と呼ばれる伝本の記述に依っているようです。多少の相違はあるものの他の『八幡愚童訓』の伝本でも、おおよそ、「菊池武房は一族郎党を率いて赤坂に陣取っていた蒙古勢を攻撃して甚だしく奮戦したが、菊池武房自身を残してほぼ全滅してしまった。辛うじて討ち死にせずに生き残った菊池は戦闘が終わった後に討ち死にした多くの遺骸のなかから這い出し、(戦闘中に獲得していた)敵方の首を携えて帰陣した」という筋のようです。脚注では小野尚志先生が十年程前に刊行された『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』に収録されている「橘守部旧蔵の『八幡ノ蒙古記(八幡愚童訓)について』」という論文で掲載された橘守部旧蔵の『八幡ノ蒙古記』から引用されていますが、『八幡愚童訓』の伝本としては割とポピュラーな「菊大路本(鎌倉時代末期)」の文面とを比較してみますと↓のようになります。
  • 「こゝに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分て、おしよせて、さんゝゝにかけちらし、上になり下になり、勝負をけつし、家のこ、らうたう等、多くうたれにけり、いかゝしたりけん、菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ、是偏に、大菩薩を深く信して、もし、勧賞あるならは、賜ひたらん一はんの物を、手向奉らん」(『八幡ノ蒙古記』)
  • 「爰菊池次郎其勢百三十騎、侘磨(タクマノ)別当太郎百騎、都合二百三十騎ニテ推寄テ散々ニ懸散シ、上ニ成下ニ成リ執重リ打合程ニ、家子郎等残少打タレ、菊池計ハ打漏サレテ死人ノ中ヨリ起上リ、頸共数多持セテ城内ニ入リケレバ、名ヲ後代ニ留メケリ。是偏大菩薩ニ致祈念ヲ効也。」(「菊大路本」 『寺社縁起』(日本思想体系 20)岩波書店、1975年、185頁)
文永の役における菊池武房の行動を具体的に知る同時代性の高い資料は、実質的に竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』とこの『八幡愚童訓』しかない状態でして、後代の資料もだいたいは『八幡愚童訓』の記述の焼き回しかどこまで信憑性があるか分からない潤色されたもののようです。
「この記述を読むと菊地武房は打ち取られた死体の山の中に紛れて九死に一生を得て、ようやく帰陣がかなったように読み取れます」と仰る通り、『八幡ノ蒙古記』も「菊大路本」も基本的にそのような認識で書かれているようですので、『八幡愚童訓』は「そのような趣旨で書かれている」としか言いようがありません。「なぜ元兵の首を多数つけて帰ってのか」については文脈的に判断して、菊池自身や菊池勢が戦闘中に討取った相手方の首を、恐らく戦闘が終わった後に「死人の中より、かけいて」「死人ノ中ヨリ起上リ」それらの首をもって帰陣した、と述べているのでしょう。
これの整合性はともかくとして、『八幡愚童訓』という資料はそのような趣旨で書かれている以上は、「そのように書かれてある」としか説明出来ず、それ以上の事については歴史研究上の解釈に任せるべき問題でしょう。(さらに上記でも見ての通り、『八幡愚童訓』でも伝本間で微妙に記述の相違がありますので、どの伝本を記述を『八幡愚童訓』の代表的な記述であると判断あるいは説明するかという文献学的な問題もまた別にあります)この『八幡愚童訓』の記述が実際にあったかどうかはもはや判然とはしませんが、これは別に『八幡愚童訓』に限らず『蒙古襲来絵詞』やその他の資料についても同様に言える問題ですので、飽くまで「『八幡愚童訓』では、あるいは『八幡愚童訓』のこの伝本ではそのように書かれている」と割り切る他にないと思います。--Haydar会話2013年3月24日 (日) 17:16 (UTC)

和弓と蒙古弓」の記述について

本文の「和弓と蒙古弓」の節において、いささかいかんともし難いように思われる箇所が2つありましたので、やむを得ず{{誰範囲2}}を付加致しました。
 1点目は、『八幡愚童訓』の記述に依拠して「蒙古の弓は威力が弱いが毒を塗ってそれを補っていたとしており」と書かれてありましたが、文学表現において「矢が短い」とは弓の威力が弱い事であるとの指摘が以前され(それもその表現に関する先行研究なりを脚注などで施す必要があると思いますが)その点は問題ないと思うのですが、本文は飽くまで「蒙古の矢は短いといえども、毒が塗ってあってそれに当たると毒気にやられてしまう」以上の事は書かれておらず、この「毒を塗る」ことが「弓の威力の弱さを補ったものだ」と判断するのはこの史料の読解者の解釈や判断によるものであって、本文とイコールとするのは問題だと思います。確か、この矢毒を塗るのは威力を補ったものだろう、と述べていた研究者がどなたかおられたように記憶していますので、そちらの見解を含めて記述するのであれば問題ないとは思うのですが…
 2点目は、『八幡愚童訓』で蒙古側の弓矢の記述と王惲の『汎海小録』(『秋澗先生大全文集』巻四十)での日本側の弓矢の記述それぞれを比較するのは良いのですが、そこから「和弓は威力で蒙古弓に優っているが、射程では蒙古弓が和弓に優っているとしている」として脚注もないと、編集者が個別の資料をまとめて評価・判断してしまう事になり、独自研究の規定に引っ掛かってしまうと思われます。この節の主要典拠と思われる和弓と蒙古弓の比較を扱った筑波大学体育科学系助教授・森俊男が『八幡愚童訓』と『汎海小録』の記述を比較して「和弓は威力で蒙古弓に優っているが、射程では蒙古弓が和弓に優っているとしている」というような事を述べておられるのであれば問題はないのですが、今のところ引用元からの確認が取れません。ともかくも「史料によれば…優れているとしている」と「史料上のもの」という前提で断定的に書くのは問題ではないかと思われますので、確認が取れるまでタグを付加し、見付けられない時は別の表現に改めるべきだと思われましたので、一時的ですがそれぞれ付加したいと思います。--Haydar会話2013年10月23日 (水) 16:09 (UTC)