ノート:信濃国

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信濃の四大将[編集]

「信濃国は古くから国人その他の在地豪族の諸勢力が拮抗しており、北信の雄の村上氏、東信の諏訪氏、府中から伊那に勢力を誇る守護の小笠原氏、木曽を治める木曽氏らがその代表格であることから、この4氏のことを俗に信濃の四大将という。」この記述全体には詳しくないのですが、一部「東信の諏訪氏」とあるのは、疑問です。東信とは、上田佐久地方を指しますが、諏訪氏は諏訪地方が根拠だからです。--Newport8865 2006年8月26日 (土) 11:40 (UTC)[返信]

諏訪氏は東信にも進出しています。「諏訪」の地名を姓に負うからといって、諏訪郡から出ないというわけではないのです。以上の署名の無いコメントは、220.217.43.116会話/whois)氏が[2006年9月22日 (金) 15:29 (UTC)]に投稿したものです(Njtによる付記)。[返信]

Newport8865さんは、「諏訪氏は本拠が諏訪地方なので『東信の諏訪氏』と呼ぶと東信が本拠のようでおかしい」という意味で言っているのでしょう。ただ、東信と言ったときに、古くから厳密に上田佐久地方のみを指すのでしょうか?漠然と、「信州東部方面に勢力を張っていた」という意味で呼んでいるとしてもおかしくないのではないかと思いました。--Njt 2006年9月23日 (土) 06:29 (UTC)[返信]
諏訪氏が大門峠などを越えて現在の小県郡方面(東信)に勢力を伸ばしていたのは2007年のNHK大河ドラマ『風林火山』などにも描かれており、諏訪氏系の豪族が特に小県に根を張っていたようですが、本拠地である諏訪地方をさしおいて東信の諏訪氏という言い方には違和感があります。つきましては、信濃の四大将に関連して、いくつかコメントをいただきましたが、「古くから」北信、東信などと呼ばれていたのか?その範囲は?等、関連する典拠を知りたいと思い、要出典とさせてもらいました。--Newport8865 2007年10月23日 (火) 01:58 (UTC)[返信]
北・東・中・南の4分類は戦前の長野県議会内での議論が初出のようです。ご参考までに--222.3.106.139 2007年10月23日 (火) 10:19 (UTC)[返信]

失礼して頭に戻させていただきます。「四大将と俗に言う」だけならおかしくもないかなとは思います。(以下独自研究含みますのでノートにのみ)戦国時代までには「四大将」とするような表現は見当たりません。この四人をひっくるめて「信濃の四大将」と呼んでいるのは甲陽軍鑑の天文11年瀬沢合戦の記述が初見のはずです。ただ、江戸時代にこの軍鑑を元にした講談などが広がるにつれて、この表現が使われ始めたようで、現在長野県の一部地域ではこの表現も使われていたように記憶しています。この後は独自研究になりますが、講談などでは講釈師が語呂合わせのために色々形容詞を追加しますので、そのときに東信がくっついてしまったのではないかと(諏訪の諏訪氏、だと確かに語呂がよくないので)。ただ、Wikiに載せるほど一般的かどうかというと疑問符もつきますね。--122.255.147.229 2007年10月24日 (水) 14:43 (UTC)[返信]

122.255.147.229さん、甲陽軍鑑が初出とのこと、御教示ありがとうございます。自分で甲陽軍鑑に直接あたって調べらればいいのですが、具体的にはどのように書かれているのでしょうか。よろしければ教えていただければと思います。諏訪の諏訪氏でも語呂の悪さはありますが、木曽の木曽氏があるのですから問題ないようには思います。東信出身者としての拘りで恐縮です。参考外部リンク [1] --Newport8865 2007年10月27日 (土) 14:53 (UTC)[返信]

完全に議論が停止しているようですが、この「信濃の四大将」の文は内容も変ですが文章的におかしいです。この文の前が鎌倉から南北朝で、この後ろが戦国期なのに、いきなり「古くから」って出だしで時代を特定していない。内容的には明らかに戦国期に限定した内容ですが、まるでどこかの文章をコピーして貼り付けたような感じで、前後の文章的な繋がりからすると異質です。

このまま要出典を張っとくより、1度削除して作り直した方が良いと思いますので、ご意見をお願いします。--カイの迷宮 2008年1月17日 (木) 11:24 (UTC)[返信]

信濃国 国府・国分寺など[編集]

  • 長野県の史学学会においても常識である(上田市誌等)「小県国府」の存在を否定するだけの資料はどこにもないので差し戻します。「某サイト」とは?--DDR 2007年10月20日 (土) 10:01 (UTC)[返信]
>和名抄・拾芥抄の記述は正しいです。
これらの書物はいずれも平安以降のもので、信濃国成立当初からずっと筑摩郡に存在したこととするには不十分ではないですか?平安以降に筑摩郡にあったことまでは否定していません。あるいは成立当初から筑摩郡にあったと明示している文献があれば、それを教示していただければありがたいです。
>国分寺と国府が離れている事例は他にもあります。
他国の場合はいずれも至近距離です。山岳地帯(筑摩山地)をはさんで約45km(当時は三才山峠ではなく保福寺峠経由)も乖離している例は他に見あたりません。(唯一例外的な安芸国についても遷移説が提言されれていますが)
また付け加えれば、「東山道」のルートと宿駅の配置を挙げる研究者もいます。

以上のような理由から、おおよそ信濃国の成立過程に言及している県下の市町村誌は遷移説を採用しているのです。--DDR 2007年10月26日 (金) 06:54 (UTC)[返信]

2007年10月14日(日)より 「国府・国分寺など」の章が、ノートでの議論なしに、全面削除・書換えが行われており、その都度 Undo が実施されてすでに4回になり、この章については編集合戦の様相を呈しております。今後、発掘調査などで決定的な証拠が出るまでは、「地元の史学学会の通説(小県郡から筑摩郡への遷移説)」と、「一次史料が無いことによる反対説(筑摩郡説)」の両論併記で問題ないと思いますが、いかがでしょうか?--Newport8865 2007年10月29日 (月) 05:00 (UTC)[返信]

小県国府と筑摩国府についての研究概要「信濃史学会事業部 国府研究会 研究報告の中間報告」[2]を見つけましたので、紹介します。--Newport8865 2007年10月30日 (火) 01:19 (UTC)[返信]

あのさあ、捏造はいかんよ。こちらは1次史料を提示し、小県郡に国府がないことを証明しました。 それに対して、あなたは、学説というあやふやなものです、国分寺の近くに国府があるわけではない。 ゴリ押しはやめましょう。これだから、長野県人は。--Ykiki 2007年10月31日 (水) 17:12 (UTC)[返信]

※出羽国では、国分寺は山形市、国府は酒田市または秋田市です。お互いかなり離れています。国府と国分寺が必ず隣接しているわけではないのです。それから、筑摩郡にも総社があるようですね、2箇所候補があるわけで。--Ykiki 2007年10月31日 (水) 18:13 (UTC)[返信]

※地元の史学会=素人のいわゆる郷土史家です。大学教授で小県国府を断言している人はいるのですか?1次史料を読んだことあるのでしょうか?--Ykiki 2007年10月31日 (水) 17:27 (UTC)[返信]

投稿記録を拝見するとYkikiさんは、国府に非常に関心のある方のようですね。ただ、小県国府から筑摩国府への遷移という通説の紹介が「捏造でゴリ押し」というのは逆にYkikiさんの主張が独自研究であることを自ら明らかにしています。また「大学教授が小県国府を断言しているか」という事大主義的な観点ですが、信濃国府に関する基本的な研究にも触れたことがないのでしょうか。これも一次資料のみに頼った独自研究しかされていないことを自ら暴露したことになります。編集合戦を避けるために、このノートの前述の部分で、「一次史料だけに頼れば」小県国府がなかったというYkikiさんのような推論も成り立ち得るとして、両論併記ではいかがかと敢えて提起したのですが、どうも通説を排除して独自説のみを主張したいようですので何度もrevertすることになっています。せめて山川出版から出ている『長野県の歴史』ISBN 4634322005 でもお読みください。これにより「ネット上のあやしげな文章は、ソースとして成り立ちません。」というコメント、及び、私が紹介したリンクの研究者が「地元の史学会=素人のいわゆる郷土史家です。」という偏見も解け、大学教授及びそのレベルでの説だということがお分かりになるものと思います。--Newport8865 2007年10月31日 (水) 21:12 (UTC)[返信]
2007年10月31日 昼頃に問答無用でYkikiさんにより再編集されましたので、やむを得ずundoしました。 論点は、国府の「国府の一覧表(国府所在郡)を記載した史料」にある通り、
※各史料によって、国府の異同、国府の記載なし、国府所在郡のみで郷名の記載なし、などから、国府の時代による移転説、国府所在候補地が複数挙がり論争になる、史料が平安時代中期以降の編纂のため大化の改新~平安時代初期の初期国府と史料記載国府は違うと見る説、国分寺や総社のあった場所に国府もあったと見る説などがあり、国府の選定には注意を要する。
ということで、これを共通認識と仮定すると、一次史料「だけ」による断定は、wikipediaにふさわしくなく、個人のサイト等で独自に展開していただきたいものです。--Newport8865 2007年11月1日 (木) 06:45 (UTC)[返信]

議論についていってないのですが、信濃国#国府・国分寺などについては、出典がないように思います。議論が起こりそうな文であれば、各文の文末に<ref>出典名</ref>をつけるべきだと思います。出典がない状態で、「あれを見てるのか」「これを見てるのか」と言っていても、どの本のどのページがそれをさしているか位は、少なくとも出さないと、追跡可能なWikipediaの記事とはいえないと思います。記述例
それと、議論をちゃんと見ているわけではないですが、一次資料についてはYukkiさんが、ノートでそのことについて、議論した形跡が見られないので、どれをさして「こちらは1次史料を提示し、小県郡に国府がないことを証明しました。」といっているかはわからないのですが、とりあえずは、多分、Newport8865さんはWikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料のことを言っておられると思います。それを共通の土台とて、Yukkiさんが出せる一次資料の意義を話し合われてはどうでしょうか。また、私も史学会が本当にどんなものか、なんともわからないのですが、こちらもWikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料を共通の土台として、話し合われてはと思います。すでに、見たことがあるとは思うのですが、再度Wikipediaとしての共通認識を確認する作業もありかと思って、書き込みました。--Ramsay 2007年11月1日 (木) 15:18 (UTC)[返信]

今回の編集合戦で御迷惑をおかけしておりました。「史料が平安時代中期以降の編纂のため大化の改新~平安時代初期の初期国府と史料記載国府は違うと見る説」が信頼性があり検証可能性のある資料に通説として発表されているにもかかわらず、それを全否定するような見解をノートでの議論もなしに強行されるのを黙って見過ごすことができなかったというのが私の趣旨でした。さて、Wikipediaの記述方針についての詳しいをいただきありがとうございます。「ウィキペディアでは、専門家は、その話題に関する個人的・直接的な知識だけではなく、その話題に関して既に発表された情報源に関する知識をも持ちあわせているゆえに、専門家であると考えています。出典がなく、検証不可能であるならば、専門家を自称する編集者が、直接的・個人的知識をもとに寄稿することは禁止されています。」Wikipedia:独自研究は載せない#専門家の役割とあるように、仮に記述者が専門家であるならば、今回の信濃国府の位置の比定に関して既に発表された情報源を全否定することはあり得ないと考えております。すでに、別の方により両論併記(折衷案)的な本文記述もしていただいておりますので、本文には「学説」の参考文献について記載させてもらいます。--Newport8865 2007年11月1日 (木) 21:30 (UTC)[返信]

※貴重資料画像--京都大学電子図書館 http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/index.html
デジタルアーカイブシステムで、私が提示した1次史料の原文の詳細の確認が可能です。
ソースが、京都大学図書館で不足はないでしょう。
そちらの提示資料が、いわゆる自治体史(長野県・上田市)ですよね?自治体史の資料の信憑性の薄さ・捏造(観光史観)は、多くの人が知っています。自治体史の編纂者やその編纂方針および出典を確かめているのでしょうか?--Ykiki 2007年11月2日 (金) 09:11 (UTC)[返信]

※ http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/
このサイトに記載してあることを丸ごと転載するのはよくない。間違っている記述も多々ある。よって、こちらは1次史料の原文の記述に全部是正する必要があると感じ、国府所在地をすべて一新しました。史料による国府所在郡の異同も記載しました。こちらの努力を無にするようなことは、おやめください。上記デジタルアーカイブシステムにより私の主張は、独自研究ではなく、原文に忠実に再現したものであることがわかります。--Ykiki 2007年11月2日 (金) 09:26 (UTC)[返信]

上の文を見て、1次史料を元に、最後にYkikiさんが独自にまとめてしまっていはしないかと感じたのですが、その点は大丈夫でしょうか?1次史料しかないとき、どこまで書けるものなのか、というのはありますね。自分は古代・中世の話ではやったことがないので、わからないですが、Ykikiさんがその1次史料に基づいて国府所在地を書いたのであれば、それを補強する2次資料(本など)があれば、記述可能だと思います。もとに書いてあった国府所在地も、少なくとも2次資料があれば、両論併記で載せなくてはいけないと思います。
ただ、Ykikiさんが、もとの記事に不満であれば、やはりもとの記事にあった所在地は間違っているとする2次資料があれば、それを提示しながら、信憑性のないことを記述し、かつ読者を検証可能にすることが出来る思います。ただ、それぞれに、その2次資料が信頼できる資料(credible source)なのかということも話し合う必要はあるとは思いますが。いずれにしても、他の多くの2次資料に書かれていては、信頼できるソースでないと合意した後に、記述を狭めることはできるとは思いますが、消してしまうのは無理な気がします。
Newport8865さん、できれば今回の編集の続きで、その本の何ページかまでは書かれるべきだと思います。それでないと、本があってすら検証はかなり難しくなるので。
最後に、信濃国の記事を見に来る人は、どちらにしても最新版を見るので、編集合戦は好ましくありません。ノートに議論があることをわかりやすく提示しつつ、このノートでの合意の下に編集されることを望みます。--Ramsay 2007年11月2日 (金) 11:22 (UTC)[返信]
Ramsayさんの示していただいた手順に則してすすめることに同意します。「上の文を見て、1次史料を元に、最後にYkikiさんが独自にまとめてしまっていはしないかと感じたのですが、その点は大丈夫でしょうか?」これが一番問題だと思います。小県国府があったことを推定する学説を否定するためには、おっしゃるようにYkikiさんからも検証可能性のある2次資料を提示してもらい、その信頼性について議論する必要があると思います。一次資料だけを元にしただけの見解は、たとえそれがいかに優れていたとしてもWikipediaでは独自研究とみなされる可能性が多いと思うからです。私の提示した資料については、Ykikiさんから既に「自治体史の資料の信憑性の薄さ・捏造(観光史観)は、多くの人が知っています。自治体史の編纂者やその編纂方針および出典を確かめているのでしょうか?」と信頼性に疑問を投げかけられていますが、実際に当たってみていただきたいと思います。専門の歴史研究者の方たちの執筆です。私も具体的なページ数を挙げなければいけないと思いますので、別途記載したいと思います。一応「もとの記事」は、Ykikiさんが挙げている「一次史料」も含まれておりますので、Ykikiさんの編集の前に差し戻すのが希望ですが、今後のノートでの議論の結果を待ちたいと思います。--Newport8865 2007年11月2日 (金) 20:01 (UTC)[返信]

出典の自治体史って、3次資料だな。学者の本を参考にした。どんだけ、1次史料が混じってるかによって、真贋が決まる。自治体って、歴史を平気で捏造してしまうこと、ご存知でしょうか?都合のいい部分だけ抜き出して。--Ykiki 2007年11月2日 (金) 22:15 (UTC)[返信]


※長野県史を読んで、それが正しいと思い込んでいる先入観が危険なんですよ。1次史料の原文を当たれば、納得せざるをえません。また、新発見があれば、定説は簡単に覆ります。--Ykiki 2007年11月2日 (金) 22:19 (UTC)[返信]

Ykikiさんが、自説に自信をお持ちなようなのは分かりますが、Wikipediaは自説発表の場ではないことをご理解された方がいいのではないですか?国府の記事を自説で埋め尽くそうという気持ちも分からないではないですが、自説をあくまでも主張したいのであるならば、ここは不適当な場所です。いくら一次資料を御紹介されても、そこから得られる論理展開と結論はあくまでもあなたの自説であるに留まります。この章の冒頭のDDRさんからの質問はYkikiさんに向けられたものですが、正面からお答えされることを希望します。そして、Wikipediaでは、検証可能性がない限り、あなたの主張は独自研究とみなされるのです。それを避けるためには、迂遠な道になりますが、是非ともおおやけに自説を論文または著作にまとめて発表され、専門家に吟味してもらったらいかがでしょうか?その上でそれを出典として、筑摩国府に先立つ信濃国の国府はなかったという説を併記されるべきでしょう。なお、考古学上の近年の発見で言えば、信濃(科野)の国造の本拠だと考えられている屋代(千曲市)で貴重な木簡が発見されましたが、古い時代の科野国の本拠(更級、埴科)と小県は比較的近いのです。このような新発見があれば、定説が簡単に覆るということを認めるのに私も吝かではありません。--Newport8865 2007年11月3日 (土) 01:44 (UTC)[返信]