ノート:丸山眞男

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名前[編集]

丸山眞男が正式であり「眞」は常用漢字ではないですがWikipedia:記事名の付け方「固有名詞については、常用漢字にないものを使用してもよい場合がある(正式名称や慣例によって常用漢字外の字が用いられる場合)」とあるので、変更してよいと思います。「眞」は変換し辛いですが、丸山真男を丸山眞男に転送するのがフォーマットに合っているでしょう。

細かいところですけど、一応聞いときます。--shinya39 2005年4月10日 (日) 08:37 (UTC)[返信]

『戦中と戦後の間』では「真男」のようですが、旧字に拘るのはそれこそ前近代的意識ではないでしょうか --忠太 2005年4月12日 (火) 16:44 (UTC)[返信]

旧字にこだわっているつもりはないです。「人名」ですから、後の人間が変えるのは悪いかな? と、思ったのです。旧字といっても全然読めないことはないですしね。--shinya39 2005年4月14日 (木) 12:01 (UTC)[返信]

丸山批判について[編集]

「最大の批判は、丸山の唱えた日本ファシズム論についてである。」(伊藤隆 (歴史学者)の説?)ということであるが、その後に書いてあることは丸山自身も十分に承知している内容である。また、時論として記述しているのであるから、内容が学問的に厳密なものでないとしても、丸山自身の落ち度ではない。

むしろ、近世政治思想史の業績に対する批判の方が、(丸山自身には)痛手ではないだろうか。  2006年1月26日 (木) 12:02 (UTC) 加筆--忠太 2006年2月13日 (月) 15:17 (UTC)[返信]

天皇制ファシズムという言葉は誰が使い始めたのでしょうか? 丸山が論文で使っているでしょうか?--2006年2月25日 (土) 14:07 (UTC) (加筆)--忠太 2006年3月6日 (月) 15:05 (UTC)[返信]


「しかしその反面、知識社会学(ルカーチ/マンハイム)、フランクフルト社会学(アドルノ/ホルクハイマー/ボルケナウ)、マックスウェーバーを学習した過程で共産主義に目覚め、最終的にスターリンを崇拝していた事実は、現在保守層の一部にしか知られていない。」ということだが、出典は?丸山は繰り返し、イデオロギーの独自の次元と現実の政治体制なり制度を区別しないことを批判してきたが(例えば『自由について 七つの問答』p.30)、そうした丸山が思想家としてのスターリンを崇拝したとはとても思えないし、政治家としてのスターリンについても同様。むしろ政治家としてはレーニン、ビスマルク、ローズヴェルトを並置しているが?(例えば『自己内対話』p33-34) しかも、「最終的に」というからには晩年においてもその根拠があるのだろうか。

経歴について[編集]

軍歴[編集]

丸山の軍歴として「1945年3月に出征し、広島の陸軍船舶司令部へ配属された。広島市で被爆し、敗戦を迎え、9月に復員した。」と記されているが、「1944年に、助教授の身分でありながら徴兵され、朝鮮半島の部隊に入れられ、脚気のため一度は除隊になったが再召集され、広島で被爆後、生還している」というインタビュー内容がある。(出典:小熊英二 2006年2月23日 『道の手帖』 p,5 ISBN4-309-74009-X) --富田功 2006年12月9日 (土) 00:29 (UTC)[返信]

投獄経験[編集]

以下の内容を、彼の経歴の中に書き加えられないか ?

  • 丸山がまだ19歳の高校生だった1933年(昭和8年)に、唯物論研究会の創立記念講演会に出席して、逮捕された経験がある。死後に公表された『自己内対語』(みすず書房)によると、逮捕されて拘置所に送られたとき、「不覚にも一睡もできない拘置所で涙を流した。そのことがまた、日ごろの『知性』などというものの頼りなさを思い切り私に自覚させた」といい、「軍隊経験にまさるとも劣らない深い人生についての経験」だったと述べられている。
  • また、丸山はもともとジャーナリスト志望で、大学に残る気はなかった。たまたま助手公募の掲示をみて応募した。そして彼は、逮捕暦があったのと、マルクス主義に影響を受けた論文を書いたので、特高や憲兵の監視を受けていた。そういう人間を助手として雇うだけの度量が東大法学部にあるのなら、研究室に残ってもいい、というのが22歳の生意気盛りの学生だった当時の丸山の気持ちであったであろう。ところが当時の丸山の指導教授だった南原茂は、丸山の論文のそういう性格を見抜いたうえで、さらには丸山が自分の逮捕暦などを告白したのを聞いたうえで、あえて丸山を助手に採用した。そのことで丸山は、南原に対して後々まで敬意と信頼を持つことになる。(出典:小熊英二 2006年2月23日 『道の手帖』 p,3 ISBN4-309-74009-X) --富田功2006年12月9日 (土) 01:00 (UTC)[返信]

略年譜[編集]

丸山の思想、論説に関する評価・再評価は今も盛んである。こうした作業は現在進行形なので、いまここで、彼にたいする‘賞賛’‘批判’を論ずるよりも、年代に従って彼の経歴や業績を紹介する方法ではどうだろうか。例えば・・・・

  • 1914年(大正 3年 0歳)3月22日、大阪府東成郡天王寺村(現・大阪市阿倍野区)にて、父・丸山幹治(ジャーナリスト)、母・セイの第二子として生まれる。
  • 1933年(昭和 8年 19歳)本郷・仏教青年会館で開かれた唯物論研究会創立記念第二回講演会に解散命令。聴衆の一人であった丸山は本富士署に検挙・拘留される。
  • 1934年(昭和 9年 20歳)東京帝国大学法学部政治学科に入学。
  • 1936年(昭和11年 22歳)論文「政治学に於ける国家の概念」を『緑会雑誌』懸賞論文に応募、入選を果たす。
  • 1937年(昭和12年 23歳)東京帝国大学法学部卒業、同学部助手となる。
  • 1940年(昭和15年 26歳)「近世儒学の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」(『国家学会雑誌』)。東京帝国大学法学部助教授となる。
  • 1942年(昭和17年 28歳)政治学政治学史第三講座(東洋政治思想史)を担当(-70年度)。
  • 1944年(昭和19年 30歳)小山ゆか里と結婚。朝鮮・平壌に応召。脚気を患い内地送還、召集解除。
  • 1945年(昭和20年 31歳)広島市宇品の陸軍船舶司令部に再召集。8月6日、被爆する。敗戦。復員後、青年文化会議、庶民大学三島教室に参加。
  • 1946年(昭和21年 32歳)思想の科学研究会、二〇世紀研究所に参加。東京帝国大学憲法研究委員会委員となる。「超国家主義の論点と心理」(『世界』)
  • 1947年(昭和22年 33歳)民主主義科学者協会に参加。「福沢に於ける『実学』の転回」(『東洋文化研究』)
  • 1949年(昭和24年 35歳)平和問題懇話会、知識人の会に参加。「軍国支配者の精神形態」(『潮流』)
  • 1950年(昭和25年 36歳)東京大学法学部教授となる。「ある自由主義者への手紙」(『世界』) 「三たび平和について」に参加、一、二章を執筆する。
  • 1952年(昭和27年 38歳)『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)
  • 1956年(昭和31年 42歳)「『スターリン批判』における政治の論理」(『世界』)
  • 1958年(昭和33年 44歳)憲法問題研究会に参加。
  • 1960年(昭和35年 46歳)「忠誠と反逆」(『近代日本思想史講座 6』)、 「選択のとき」「復初の説」講義。
  • 1961年(昭和36年 47歳)『日本の思想』(岩波書店)
  • 1964年(昭和39年 50歳)『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社)
  • 1968年(昭和43年 54歳)東京大学全学共闘会議学生が法学部研究室を封鎖。文書類を守るために連日文庫に泊まる。
  • 1971年(昭和46年 57歳)病気のため、東京大学法学部教授を定年を待たずに辞職。大学院法学政治学研究科非常勤講師となる(-74年3月)
  • 1972年(昭和47年 58歳)「歴史意識の『古層』」(『日本の思想 6』)
  • 1974年(昭和49年 60歳)東京大学法学部名誉教授となる。
  • 1976年(昭和51年 62歳)『戦中と戦後の間』(みすず書房)
  • 1980年(昭和55年 66歳)「闇斎学と闇斎学派」(『日本思想体系 31』「解脱」)、 日本ワグナー協会理事となる。
  • 1981年(昭和56年 67歳)「原型・古層・執拗低音 - 日本思想史方法論についての私の歩み」講演。
  • 1986年(昭和61年 72歳)『「文明論之概略」を読む』(岩波書店)
  • 1992年(平成 4年 78歳)『忠誠と反逆 - 転形期日本の精神史的位相』(筑摩書房)
  • 1993年(平成 5年 79歳)体調の異変から検査を受け、肝臓癌を患っていることを知る。
  • 1995年(平成 7年 81歳)『丸山眞男集』刊行始まる(岩波書店、- 97年完結)。
  • 1996年(平成 8年 82歳)肝臓癌のために入退院を繰り返す。「戦後補償の速やかな実行を政府に要望する」に参加。8月15日、進行性肝臓癌のため死去。享年82歳。18日、その死が公表された。
    • (出典:『道の手帖 丸山眞男』河出書房新社より)

--富田功 2006年12月9日 (土) 10:30 (UTC)[返信]

投獄部分の南原繁にかんする記述にかんして[編集]

南原がコミンテルンや中国共産党と関連があると読める記述は言いすぎだし(当時郭沫若は共産党ではなかったはず)丸山の記述との関連性も薄いと思うので、少しコメントアウトしておきます。 --ねこぱんだ 2007年12月15日 (土) 18:29 (UTC)[返信]

御殿女優[編集]

「上官の意向をうかがう軍隊生活は『御殿女優』のようだった」という発言についてですが、御殿女優という日本語があるのでしょうか。御殿女中の書き間違い? --馬さん 2008年9月21日 (日) 04:28 (UTC)[返信]

正統と異端[編集]

筑摩書房から刊行された『近代日本思想史講座』(全8巻予定、1959~)の第2巻は丸山真男による「正統と異端」となる予定だった。だが、第2巻のみ未完となってしまい、そのことを丸山は気にかけていた。(「忠誠と反逆」1992年あとがき)

  • 第2巻編集のため、1950 年代後半から「正統と異端」研究会(丸山・藤田・石田が参加)が作られ、1990 年代初頭まで続いていた。[1]
  • 藤田省三「異端論断章」に、藤田の執筆予定だった草稿が収められている。
  • 石田雄「丸山眞男との対話」に、「『正統と異端』はなぜ未完に終ったか」がある。
  • 2巻の章立ては、以下を予定していた[2]。(丸山真男ホームページ)
    • 第一章 日本における正統性の成立(丸山)
    • 第二章 異端の諸類型とその展開(藤田省三)
    • 第三章 交錯と矛盾 - 正統性の解体過程(石田雄)
上の章立ては『講座』が1972年に再刊された際のもの。1959年当初は2章を神島二郎が執筆予定だった。

  -- 2014年2月15日 (土) 01:32 (UTC) --忠太会話2014年2月23日 (日) 15:25 (UTC)[返信]

影響を受けたもの[編集]

住谷一彦に「私の学問で影響しているのはヴェーバーよりはマンハイムだよ」と語ったという。(「未来」1996年10月号) --忠太会話2014年2月23日 (日) 15:25 (UTC)[返信]