ノート:上杉謙信/過去ログ1

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テンプレの表記がなんだか変なのですが…。--163.139.28.49 2006年3月1日 (水) 03:22 (UTC)

女性説は確かに存在しますが、扱いが大きすぎませんか? --Gazedaze 2006年7月15日(土)

記事統合

「上杉謙信女性説」が2006年8月29日 (火) 23:01(UTC)に分割されていますが。特に議論もされていませんし、また分割するほどのものでは無いと思いますので復帰の意味もあり統合提案に出し。女性説の方は統合後削除依頼に出したいと思います。--219市115丁223番151号 2006年9月16日 (土) 22:31 (UTC)

  • 全くもって反対。俗説の分離は徳川家康の影武者説でも行われている。記事量の多少ではなく、内容的に分離は至極当然であり、現行規則からしても合意の必要性すら無い位の合理的判断と考える。--水野白楓 2007年1月14日 (日) 13:14 (UTC)
  • 俗説を徳川家康の影武者説で分離しているという理由で、上杉謙信も分けなくちゃいけない!ってことはないかと思います。俗説を全て分離していたら歴史物は溢れ返ってしまいますし、上杉謙信の記事の中でも他に俗説が多々あるのに何故女性説のみを分離しなくてはならないかが疑問です。私は分離でも統合でもどちらでも構いませんが、『特に議論もされていません』ためので元に戻す(統合)依頼を出したいとので一旦元に戻しますので、(分割と結合を繰り返してますし)再度議論をした上で分割が必要だという結論になった際に改めて分割してください。--へきさ 2007年1月18日 (木) 07:33 (UTC)
  • 上杉謙信女性説というのは、八切止夫という歴史小説家が40年ぐらい前に自著で唱えたトンデモ説です。よく出来た話で面白いとは思いますが、俗説というよりフィクションなので、上杉謙信の項目に入れるのはムリがあります。--Jinnsg 2007年1月19日 (金) 04:02 (UTC)
  • ここでは本の紹介ではなく女性説の紹介をしているのだと思いますが、、歴史小説家の八切止夫氏が女性説を元に小説化した「上杉謙信は女だった」は小説ですから、確かに扱いはフィクションですね。世間一般でも「トンデモ本」扱いですね。。女性説は私もある意味とんでもない話だとは思いますが、とんでもない話でも、少ない証拠(状況証拠がほとんどですが)を元に、上杉謙信の俗説として女性説は確かに今現在存在してます。逆にホントの意味での俗説(世間で言われているが根拠のない話)もWikipediaにて多数紹介されていると思われますが。。とんでもない話だから別にすると言うのは主観的過ぎる気がします。。--へきさ 2007年1月19日 (金) 09:12 (UTC)
    • 俗説はこの項目に限らずいろんな項目に書かれていますが、だからと言って俗説が記事の中にあっても良いわけではありません。wikipediaの記事執筆の基本ルールに、検証可能な事だけを書くというのがあります。上杉謙信女性説だけでなく他の俗説も、ルールに従うなら記事から除かれないといけませんが、時間と手間がかかるために見逃されているだけだと思います。せっかく1つの説だけでも分離されているものを、また元に戻すのは賛成できません。--Jinnsg 2007年1月24日 (水) 19:34 (UTC)
    • 検証可能ということでしたら、女性説や男性説それぞれの根拠が記載されておりますが、これは検証ではないのでしょうか。。?そういう意味合いじゃないのかな??また、仮に女性説が検証不可能だとして、分割では解決にはなってませんよね?更に、俗説(検証不可能)と思われるものは暇を見て皆が削除して行くのが正しいということでしょうか?
      • へきささん、署名をお忘れですよ。検証可能性については、Wikipedia:基本方針とガイドラインをお読みになって、ご自分で理解してください。私は個人的な主観を述べているのではなく、ルールに従ってこうするのが良いと考えたことを述べています。私も編集暦が浅く、十分に理解できているかどうか分かりませんが。。。俗説は削除すべきか、についてですが、他の記述の少ない記事なら俗説も良いと思いますが、上杉謙信は人気の高い人物であり戦国史上重要な人物なので、内容を絞り込んで、より完成度の高い記事にするべきだと考えています。--Jinnsg 2007年1月29日 (月) 00:52 (UTC)
      • ご指摘ありがとうございます。署名を追加しておきました。私もWikipedia初心者のためあまり詳しくはないです。Wikipedia:検証可能性見てみました。上杉神社のお話はそのままで良いとして、「大虫にしても、生理痛のお話にしても参考になる文献(歴史書など)を明確にすればそれを元に検証できる」ので記載してよい。という形で理解しました。(間違ってるかも知れませんが。。)
      • 検証可能かどうかを議論しても「記事として記載するべきではない!」or「記事として記載して問題ない!」になると思うんです。仮に議論不可能だとして分割では問題解決にはならないと思うんです。多分、他の上級者(?)の分割提案をしている方たちは検証可能だと考えているから削除提案ではなく分割提案をしていると思うんです。では、何故分割しなくてはならないのか?が議題になると思います。
      • 上杉謙信は人気がある人物という認識は私も同じです。完成度の高い記事にしたいという認識も同じです。内容を絞り込むのも必要だとは思います。そうではなくて、女性説を分離しなくてはいけない理由を知りたかったのです。。--へきさ 2007年1月29日 (月) 10:13 (UTC)
  • 既に分割されてしまってますので女性説の話はノート:上杉謙信女性説が適切かと思いますのでそちらにお願いします。--へきさ 2007年1月29日 (月) 10:13 (UTC)

逸話の中の養子たちに関する一文から、閲覧者の混乱をまねくと思われる部分を削除します。 「実の甥である景勝以外は美男子が多かったので、景勝を除く養子たちとの間に男色関係があったとの説も行われているが、一次史料に裏付けられてはいない。」 と編集がされていましたが、容姿に関する同時代史料はなかったはずですし、後の編纂ものでも、景勝の容姿があたかも他の人物に劣っていたような内容の記述はいっさいありませんので。 また、養子たちと謙信の間に男色関係があったとする説は、どこで誰がとなえているものでしょうか? 根拠は?「一次史料に裏付けられてはいない」とのことですが、では二次史料はあるのですか? まずは削除しておきますので、再度編集される際には、その説の内容と史料の出典明示のうえでお願いいたします。 --202.239.241.30 2008年2月22日 (金) 14:12 (UTC)

謙信を歪んだ英雄にする行為について

Monboco氏により、ここの本文だけでなく他の記事にまで上杉謙信の歪んだ記事[[1]]を書き込んでおります。こういった行為は謙信をおとしめる行為であり、即刻中止をお願い致します。--錬金初級 2008年6月27日 (金) 11:36 (UTC)

確かに目に余りますね。特に出典がついているものを何の根拠もなく消すのは酷すぎます。 個人的な感情もかなり入っており、荒らしに近いと言えるのではないでしょうか?--旅人 2008年6月28日 (金)

歪んだ私怨で、謙信を卑小化、氏康を美化する説明をする行為について

臼井城攻防に関して一次史料の出典を求めます。多くの方も言っているように、非常に講談色の強い戦です。それでも内容に誤りがない、事実と相違ないと言われるのであれば、一次史料の出典を提示して下さい。また、その内容のどの部分を基にこの記事を作成したのかも詳しく明記して下さい。歴史街道が出典というのなれば漫画日本の歴史レベルの出典でもまかり通るのか?ということです。今のように情報が溢れかえった社会なら、自分に都合の良い記事や書物を悪用することは容易です。なので、繰り返します、一次史料の出典を提示して臼井城攻防の内容を説明して下さい。 次に生野山合戦の出典に謙信公御年譜が提示されていますが、そこにどのような記述で、北条方の勝ち、上杉方の大敗と書かれているのか、具体的な箇所を引用して説明して下さい。私の知る限り、謙信公御年譜には全くそのような記述は載っていません。どうか、この詳しい引用箇所を提示下さい。 また上杉謙信の説明は細部に渡って悪意のある解釈や表現が目立ちます。北条氏康に関しては全くその逆です。よって私は、個人の私怨により悪意の編集がなされていると考えています。何が面白くてこんな悪質で幼稚な行為をされているのか存じませんが、個人の鬱積した不満や好き嫌いで不当な内容の記事に編集しないで下さい。--Monboco 2008年7月4日 (金) 10:26 (UTC)

北条氏康の所を見てみましたが、あなたはこのような文章を書いていますね?「謙信が来ると必ず城に篭ってやり過ごすのが北条家の慣例となっていたのは氏康自身の戦下手を物語る逸話として広く認知されている。しかし他方で、生野山合戦などという足軽一人を斬り付けた部下に対する氏康の感状一枚を元に、派手な戦があったかのように過大喧伝する辺り、弱者の卑屈な対抗心だけは、どうやら捨て切れなかったようだと多くの見識者の間からも指摘されている。」歴史街道どころか何の出典もありません。これこそ正にあなたのいう個人の私怨による悪意の編集であり、悪質で幼稚な行為だとは思われませんか?このような行為をするから荒らしとみなされて必要以上の反発をうけてしまうのですよ。--旅人 2008年7月4日 (金)


ですねよね。やっとお気づき戴けましたか?自分がされて不快だと感じることを、執拗に繰り返すのは、このように悪意がなければ実行できません。私が書いた、この北条氏康についての説明を読んだ時、あなたはどう感じましたか?「もちろん、氏康は野戦では謙信との戦いを避けて城に篭ったのは事実だが、この書き様は余りにも公平性に欠いている。事象に対しての結論意見が余りに氏康にだけ辛辣で、意図的に北条氏康を悪く印象つけようとしている。」このように感じませんでしたか?私はあなたたちの書いた、上杉謙信の説明の細部に渡るあらゆる箇所に、激しくこのような感想を持ちました。ましてや上杉謙信を詳しく知らない人が読んだら、それこそ公平性の欠いた悪い印象と間違った認識だけが残ります。それを分っていて長年に渡り、このような内容の説明を繰り返し行うには、そこにはハッキリとした悪意があると言わざるおえません。いかがですか?なので、私も同様の書き方での説明を北条氏康に対してしたのです(もちろん、書かれてあること自体は嘘でもなく真実を基にしてあるので悪しからずです)もし、このような内容の説明に不服があると言うのであれば上杉謙信に対しての公平性を欠いた結論意見も即刻止めて戴きたい。それでもまだ執拗に同じような行為を続けると言うのなら私も北条氏康が上杉謙信に対して野戦で戦うことを避けて籠城したという事実を出典つきで書きます。(三国峠、川越夜襲も同様に)。このWikipediaという百科事典が歴史を良く知っている人間ほど、毛嫌いし、信頼性の欠片もないとバカにするのは、こういった悪意のある説明が余りにも多すぎるからです。そのことをよく理解して反省して下さい。後、一次史料や謙信公御年譜などに触れた質問の返答も、まだ一切してもらっていませんので、そのこともどうかお忘れなくお願いします。ただ、コチラもずっと会話を拒否してきたことは謝ります。実は編集について素人でして、会話に応答する術が分りませんでした。同様に北条氏康の説明について出典を記載していなかったこともルールを無視していました。すいません。それらについては今後、自分のWikipediaについての理解を深め、対応していきます所存です。--Monboco 2008年7月4日 (金) 13:21 (UTC)

確かに上杉謙信に対する偏った見方も書いてあるように見受けられます。しかし、目的がどうあれ、他の項目(北条氏康)を荒らすのはいけませんよ。あなたの印象は極めて悪くなってしまっているはずです。そちらの項目(北条氏康)を編集している人に責任がある訳ではないのですし。それと出典があるならばどんどんと加筆して充実させていくのはむしろ良いことです、が、今の状態でも籠城したと書いてあるように見受けられます。--旅人 2008年7月4日 (金)

荒らしてなんかおりませんよ。事実を書きました。ただ、それが偏った意見と取られるかも知れない書き方であったかも知れないというだけです。しかし、それらが氏康の場合にだけ声高に叫ばれて謙信の方では当たり前みたいな風潮で許されてるのは、それは記事を読んだ各人の主観的な部分と判断されて、今まで、このような事態が放置されてきたのでしょ?ならば、私の書いた氏康のことも謙信のそれと、なんら変わりないでしょ?と、言っているのですね。籠城した事実を紹介する出典なんか一次二次合せてごまんとありますが、その後、どちらかが勝った負けたという表現を事実の一部みたいに説明するやり方は避けるべきかと思いますが如何ですか?--Monboco 2008年7月4日 (金) 16:21 (UTC)

だったらここで言えばいい話でしょう。自身で悪意があると認めている記事を他の項目に書き込む行為は、あなたの文章にあるように、このWikipediaという百科事典が歴史を良く知っている人間に、毛嫌いされ、信頼性の欠片もないとバカにされる直接の原因になるのです。あなたのやり方は事態を悪化させているのですよ?そのことをよく理解して反省して下さい。。--旅人 2008年7月5日 (土)

というか私から言わせれば、藤氏を本来の正当な古河公方とか、史実とそぐわない内容で、 謙信を美化し、北条氏を貶める記述といわざるをえません。 藤氏は正室の嫡男で、本来なら確かに継いでいたでしょうが。 それまで小弓公方のときなど、散々世話になり、姻戚関係も結んだのに、両上杉が結び形勢が不利となったことにより、 北条から両上杉に附いたが、逆に大敗してしまい、北条の圧力とはいえ、廃嫡にされています。 【本来「なら」正当な「後継者」】というのなら、まだしも【本来「の」正当な「古河公方」】というのは間違いです。 歴代古河公方にも含まれません。一部の研究者が入れる場合もありますが、その場合も断って特定として扱っています。

そして謙信に限った話ではなく、武田をはじめ多くの大名もよくやっていますが、 不作の年などに、関東に出兵し、略奪や人狩りなどあまりほめられた行為ではないのを、かなりの頻度で行っているのも記述されていませんし。 なにより、それを後方撹乱とか記述を歪めています。 手取り川の戦いにしても、諸説あるのにあの記述はないでしょう。 全般的に今の内容は謙信びいきが目立ちすぎます。謙信の項目だからといって、無条件に賛美され、不利な記述がないのはどうかと思いますね。 --218.223.197.212 2008年7月4日 (金) 21:26 (UTC)


すまないが、今までMonbocoさんの記事に出典があったことは一度もなく(氏康に対してだけではなく全てにたいして出典がない)。また、ウィキペディアでは一次の情報より二次の情報を元にするように推奨されている。しかも荒らし行為を行って、他人に迷惑をかけていることに対しては全く反省の色がない。歴史を学ぶ前に社会を学んだ方が良い。--グリング 2008年7月4日 (金) 15:38 (UTC)
どうやら毛利元就の項目にも似たようなことをしているようですね。まともに会話をしようとした私が愚かでしたよ。--旅人 2008年7月5日 (土)

修正について

124.96.252.140さんによる修正[[2]]ですが下記について出典をお願い致します。

1,”昭和・平成の小説の影響により、自ら毘沙門天転生であると信じていたとされる。 ”

->小説の影響である出典。またそれが本当であれば本文中にある軍神への異常なまでの傾倒に関わる文章は後世の創作となります。両論併記でかまいませんが、体裁を整えて頂きたく。出典によってはあえて記載しなくとも良いかもしれません。

2,”実父と仲が良くなかったと後世の史書にあり、それに拠れば…”の後世の史書とは何ですか。

3,”琵琶の名手”とありますが、単なる弾き手にとどまらない名手であるとの出典。

4,”後世の史書では、謙信は自分の行動は理由がなくても絶対に正当であると…”の後世の史書とは何ですか。

5,謙信公御年譜の信憑性についての出典は何ですか。

6,和千坂涼次説はどの文献のものになりますか。

出典を元に記述されていると思いますので、記載時に一緒に出典も記載して頂けないでしょうか。記載後出典明記では順番が逆になってしまいます。--ジール 2008年6月30日 (月) 03:52 (UTC)

こんにちは! ご質問の数々ありがとうございます。順次お答えさせていただきます。 1:逆にいえば謙信=軍神を信じていたの出典を先に示して頂ければと思います。謙信存命時の文献、江戸時代の文献をざっと当たった経験がありますが、これという証拠はありませんでした。かろうじて指摘できるのは名将言行録か関東古戦録の「毘沙門天に祈る必要はない、俺に祈れ」の項目ですがこの逸話は謙信が自ら軍神と考えていたとする種類のものでないことは原文に接すればわかるかと存じます。「毘沙門天の化身」とか「毘沙門天の生まれ変わり」の表現は管見の限りでは、海音寺「天と地と」や新田「武田信玄」以後にしか見えませんでした。ただし軍神への傾倒は後世の創作ではなく、純粋な信仰心です。上杉家に残る文書や宝物をご覧ください!

2,3,4:上記同様、逆にこれらが後世の創作ではないとの出典を明記してください。越佐史料や上杉家文書などを一通り見てもそういうものを示す文章には接することが出来ませんでした。しかし近年ではそのように見ることが一般的で、後世の伝承であることと思われます。そして上杉家御年譜や北越軍談にはそういった表記がありました。こういった一般的なことで一つ一つ出典が必要となるとすべての文章、単語に学術書以上の出典が必要となってしまいます。見渡した限り、私の投稿箇所以上に不思議な文章が各所に散見され、出典を質したいものが多数あります。どうぞよろしくお願いします!

5:当書は当時の史料と伝承、口伝をもとに記されたものですが、甲陽軍鑑の影響もあり、編者に宇佐美定祐などの人物が関わっていることから、確実に信頼できるものではないとの見方をする論文も何度か見ております。事細かに出典を述べようにも記憶に頼っているので、「~との意見もある」にとどめるべきだったかも知れません。

6:「龍虎盛衰」(文芸社)です。

両論併記が可能、出典が不明と思ったら一括削除なさらなくても、該当箇所に疑問を呈する付記を投稿したり要出典のタグをつけたりできますので今後はご参考いただければ幸いです! また、成田氏の項目は出典を明記しておりますが、これも一斉削除の運びにされてしまっていました。他にも客観性を欠いた表記や断定的な文章が目立つので是正したつもりですが、これもすべてリセットとなっており、ご面倒でも一つ一つ確認して、削除すべきところとそうでないところとを区別してご対処するのがよろしいですよ。ではジール様のネット界でのご盛運を心よりお祈りいたします!--124.96.252.140 2008年6月30日 (月) 07:43 (UTC)

124.96.252.140さん、ご回答ありがとうございます。検証可能性など読み頂けましたでしょうか。記事を書く人に出典を提示する義務が生じます(削除する側ではありません)。どうしても記事を載せたいのであれば、124.96.252.140さんが出典を提示する必要があります。また、信頼性の乏しい出典で「~によれば…」と言う書き方はできますが、出典が全く示されていない状況で「~との意見もある」と記載するのは不可です。出典がなければ記載ができず、これはコミュニティの合意などによって覆らない方針とされています。また、出典のない記事は消されても文句は言えないとも記されております。出典のある箇所を一括で差し戻してしまったのは私のミスです。申し訳ありませんでした。
しかし、それ以外の箇所例えば「1,2,3,4,5」のようにあなたの書きたい文章にするためには、あなたが出典を示す義務があります(差し戻す側ではありません)。検証可能性をご一読お願い申し上げます。(user nameで問題があるとのことで新アカウントにしました)--ノイエジール 2008年6月30日 (月) 11:42 (UTC)
ジール改めノイエジール様、ご返答ありがとうございます! 趣旨を理解いたしました。お言葉の通り今一度各項目を再読し、再考につなげたく存じます。が、既にお詫び頂いた事ではありますが、やはり一括リセットをなされるのではなく、更新された事項ををそれぞれよく読み、是正すべきと思うところを然るべき形に改めるのが正しかったかと存じます。私の更新した文章を確認した際、元にあった文章に出典が明記されていない事に気づくはずで、ノイエジール様が出典を重視するお考えであれば、元の文章に"""要出典"""のタグを載せるか、あるいはそれをも削除するのが適切な対応だったはずです。しかしそれを行わなかったことは、まことに遺憾ながら、あなたが中立性を放棄しているか、その努力を怠ったこととなります。あなたはここ最近、ブロック対象者が出るほどの激しいやり取りを経てきたため、ナーバスになっていたことはお察しいたします。それで今回のようなミスを行ったことは仕方がないとも思います。ですが、この様な乱暴な態度が人の感情を無闇に刺激して、攻撃的にさせてしまうこともあることを今一度よくお考え願うとともに、本件の反省と冷静さをうながしたく存じます。いずれにしても妥当な配慮を欠いた一斉リセットのため、個人的にはあなたの編集能力と公平性、冷静さに不信感を抱いております。そして私もこのような心情を吐露してしまう辺り、冷静さを欠いているかも知れません。そのため、この件に関わる本文の更新は第三者に判断に委ねたく存じます。いろいろと失礼の段、ご容赦ください。ノイエジール様のネットライフがよりよきものであることを祈りつつ失礼いたします! --124.96.252.140 2008年6月30日 (月) 23:51 (UTC)

山内上杉家の家督について

現在、下の歴代表では景虎が山内上杉の家督を継ぎ、その後山内上杉家は断絶という扱いになっていますが、景勝は山内上杉の家督を長尾上杉家から分離する宣言でもしたのでしょうか。両家家督の分離を謙信が考えていたというのは一説にすぎない上に、実行に移されていないのでは。--222.150.199.132 2008年9月26日 (金) 12:42 (UTC)

上杉景虎が上杉家の家督を継いだとする典拠をお願いいたします。上杉家の歴代には景虎は含まれません。謙信が生前にどちらを家督につけるか決めていても、家督相続が認められなければ正統な後継者には成り得ません。家督相続の儀式を行ったという史料か、上杉家が景虎を歴代に加えるのを認めた(弘文天皇のような事例)という事実があれば景虎の加筆をお願いいたします。 (ロックのため署名できませんでした。--58.89.82.110 2008年10月13日 (月) 05:25 (UTC)

米沢藩などの記録において、「上杉家の歴代には景虎は含まれない」というのは有る意味当たり前です。米沢藩主は景勝の後裔であり、事実がどのようなものであったとしても、敵方であった景虎を当主とは数えないでしょう。しかし、「御館の乱」で「上杉家当主を名乗る者」が同時期に二人存在し、争いあったのは事実です。謙信の指名を受けていないという点では同じであり、少なくとも乱の最中は「当主」が並立していた事実は変えようがありません。1578-1579年においては景勝・景虎双方が「当主」を主張し、景勝に明白に一本化されたのは景虎自刃後です。--122.135.170.68 2008年10月12日 (日) 14:46 (UTC)
「藤原姓上杉氏」(『上杉家御年譜』)によれば、ウィキペディアでは歴代に数えられている、上杉憲房と家督争いをした顕実、憲政に追放された憲寛も歴代には数えられていないようです。当然上杉景虎も歴代には数えられていません。しかし、上記の122.135.170.68さんおっしゃる通り「上杉謙信」の項目で次代に景勝と景虎を並べて表記しても別によいのではないのかと個人的には思います。応仁の乱での斯波家・畠山家の家督争いでは、次代に両者表記されいるようですし。ただ、「景勝」「景虎」の先代次代の真ん中に両者表記という書き方は、どうなのでしょうか。家督争いをした、斯波義敏・義廉、畠山政長・義就や足利義氏・藤氏のケースでもこういった両者表記という書き方はしていないと思います。本文を読めば、家督争いをしたことは明白なので、先代次代であえて、強調しなくてもと思いますし、また、歴代ということを気にされるなら、「足利藤氏」を参考に「歴代には数えず」を付け加えて、とするのはどうでしょうか。--Thomo 2008年10月13日 (月) 01:00 (UTC)

謙信の項の山内上杉次代の欄には「指名せず」として景勝・景虎両者名併記でいいと思いますが、景勝・景虎それぞれのページの当主項には両者併記する必要は無いと思います。しかし現在山内上杉家は景勝の米沢上杉家によって現代まで続いていることになっていますし、他家も御館の乱以降景勝を山内殿と呼んでいる事もありますので、これまでの「景虎の代で山内上杉断絶」という表記は誤解を招きかねず避けたほうがいいように思います。「景勝に統合」なり「景虎は歴代に含めず」なりの表記が適当かと。--Agira 2008年10月13日 (月) 03:18 (UTC)

両者が当主を自認していたのは事実です。しかし「次代・先代」は系譜ですので、上杉家が現在も継続している以上、上杉家の公式な認定を基準にするべきだと思います。弘文天皇や島津義弘のように実際にその座を占めたか疑問である人物の扱いの例もありますので。また、予定されていた後継者が即当主となれるわけではありませんので、謙信の指名がなかったことは重要ではないと思います。個人的には両者が上杉家を一本化できず、またはっきりと分裂もできなかった「御館の乱」は上杉家当主の空位時代ととらえています。畠山家や斯波家の例のように分裂が固定化すれば分けてもかまわないと思いますが、御館の乱はきわめて短期間なため、これにあてはまらないと思います。もし書くとすれば「(御館の乱の後)上杉景勝」でしょうか。足利藤氏の欄を見させていただきましたが、現在の書き方では藤氏の跡を義氏が受け継いだと取られかねず、不適切ではと思います。--58.89.82.110 2008年10月13日 (月) 05:25 (UTC)
上杉顕実や上杉憲寛の「先代・次代」は、山内上杉家当主ではなく関東管領に関してのものでしたので、前回の発言の一部不適切な部分を訂正しました。「先代・次代」に関しては、今まできちんと確認していなかったため、理解不足だったかもしれません。上杉家の系譜とすれば、景虎の名前があるのは不適切でしょうか。斯波家や畠山家の例も、なるほどと思いました。浅学な知識で短絡的に考えていたかもしれません。謙信の後継者に関しては、それぞれの方のお考えもあり、もめていた時期もありましたが、景勝が御館の乱を乗り切り、山内上杉家の家督を含め謙信権力の継承者となったことは、皆さん異議はないと思いますので、おっしゃる通り「(御館の乱の後)上杉景勝」が一番無難な書き方かもしれません。--Thomo 2008年10月14日 (火) 02:05 (UTC)
各ページで併記状態であったものを、景虎の記載をすべて削除(景虎の項では家督の歴代表そのものが消失)されていました。御館の乱の一年間において、双方とも当主を名乗り、方々に援軍を募っていたことは変えようの無い事実では?その後景虎が自刃するまで、上杉家は真っ二つになっていたのですから、表記をすべて削除するのは妥当とは思えません。--118.111.23.150 2008年10月23日 (木) 13:43 (UTC)

58.89.82.110ですが、IDを取りました。

家督を名乗っていたということと、系譜に記載されるのは別物です。ヨーロッパの例ですが、対立教皇はローマ教皇を名乗っていましたが系譜上では並列に並んでいません。日本においては南北朝時代の天皇も正統の天皇を名乗っていましたが、別々の系譜で表記されます。両者の系譜が統一されるのは南北朝の合一という儀式があってこそです。一時的な家督主張者を全て掲載しなければならないということになれば、皇帝自称者が頻出したロシア皇帝の系譜など大変なことになるでしょう。

それに118.111.23.150さんの編集では、この上杉謙信の項で「景虎」のみを太字にする差し戻しをされました。コメントで「景勝は嗣子ではなく、単なる養子の一人に過ぎない。」という書き込みもされていますが、いったいいつ景虎のみが正規の嗣子であると認定されたのでしょうか。(取り消し--模様砂漠 2008年10月24日 (金) 22:58 (UTC))--模様砂漠 2008年10月23日 (木) 16:39 (UTC)

118.111.23.150です。模様砂漠さんへ。私はこの上杉謙信の項で「景虎」のみを太字にする差し戻しや、コメントで「景勝は嗣子ではなく、単なる養子の一人に過ぎない。」という書き込みもしていません。景虎のみが正規の嗣子であるとしているわけでもありません。履歴を確認すればすぐわかることですが、あなたの勘違いです。
系譜の表記についてですが、まずロシア皇帝の僭称が云々という話では、この上杉家の件と比較できるものではないと考えます。なぜなら、景勝も景虎も先代の養子であることが明白だからです。景虎が僭称であると言うのであれば、謙信から家督を譲られていないという点において言えば景勝も同じなので、どちらも僭称ということになってしまいます。この家督争いは、際限の無い「僭称」とは根本的に異質な物なのです。
ローマ教皇と対立教皇の件についても、この上杉家とは問題の核心が違うと考えます。対立教皇は、正式なプロセスで選出された教皇が立ったあとに対抗してたったものです(違う例もあるかもしれませんが)。しかし上杉家の場合は、正式な指名があって景勝が当主となり、それに対抗して景虎が当主を称して争った、というわけではありません。まず、前提として「どちらかが正式に当主となった」わけではないのです。大名の後継問題を、教皇の後継問題に引き合わせて考えるのも難しいと私は考えます。
南北朝の問題について。合一の儀式は、平和裏に解決されたものであるから実現したと考えます。戦国大名の場合は大抵武力によって内紛を起こし、武力で統一されます。上杉家の場合は景勝勢力が景虎勢力を武力で統一したということですから、南北朝合一との差は有る意味、当然のこととも思えます。
並列表記について。分裂してしまった以上、並列表記は必ずしも有ったほうがいいとは言えないものの、謙信の項では並列表記すべきと考えます。景虎から見ると、前代が謙信で後ろが景勝(御館の乱後)ということになり、謙信から見ると正式な指名はしていないため、本家の養子である景勝・景虎の双方が後代となるからです。--122.135.55.151 2008年10月24日 (金) 14:18 (UTC)
御館の乱期は上杉家当主の空位期間であるという意見に私は納得しました。上杉景虎には上杉家当主としての活動実績が無いに等しく(例えば家中の法の制定や家臣への報償など)、乱もたった1年と短かったため完全に分家したわけではなく、先代当主謙信がどちらを後継に考えていたのか分からない以上、謙信の後に上杉家当主の座に着いたのは「御館の乱後の景勝である」とした方が分かりやすいように思います。景勝の家督については謙信・景勝・三郎景虎の項で詳細に解説されているので系譜でまで混乱させる必要はないと思います。--Agira 2008年10月24日 (金) 14:55 (UTC)
>Agira氏 双方が当主を称して戦争状態のとき、家中の法の制定や家臣への報償などはやりにくいでしょう。有ったとしても焼き討ちで無くなっている可能性が高い。活動実績が無いと断じるのは簡単ですが、状況も考える必要があります。総合的に考えて、謙信の項の<歴代>は「後代 景勝・景虎」が妥当かと。 景勝の項の<歴代>については、景虎併記の必要は無いかなとも思うが。あと、景虎の項にあった<歴代>を丸々消してしまうと、いずれエスカレートして編集合戦になりかねないと思いますよ。現にAgira氏も消したり消されたりでなんでしょ?景虎の項には謙信 - 景虎 - 景勝に統一 とか書いて収めれば良いのでは。まあ、山内上杉宗家が「景虎で断絶」と書かれてそのまんまだったのも、なかなか問題ではありますが。--秋田城之介 2008年10月24日 (金) 16:09 (UTC)
議論で編集の方向が決まり辞典として相応しい記述になるなら別に消したり消されたりでも構わないと思いますが。「山内上杉家は三郎景虎の後断絶」では山内上杉家が現代でも続いている以上あまりにも相応しくないと考えたので差し戻しました。御館の乱は「どちらが当主かを決める戦い」であり、御館の乱の最中は景勝・景虎の双方とも「まだ当主ではない」と考えました。私は乱の最中にはどちらにも上杉家を動かす権限はなかったと思います。その意味では、景勝の上杉家当主在任期間を1579-とすべきかな、とも思います。でも並列表記の方が相応しく思われる方が多いようでしたらそれでも良いと思いますよ。--Agira 2008年10月24日 (金) 17:26 (UTC)

たいへん失礼しました。太字の件は202.165.115.122さんの編集でした。見間違えておりまして申し訳ありません。おわびして訂正いたします。

さて、養子は当主を自称しても僭称にならないというわけではありません。たとえ実子でも、後継者と定められた者以外が当主と名乗ればそれは僭称でしょう。対立教皇の場合もおっしゃるようなケースばかりではありません。ポンティアヌスヒッポリュトスの頃には正式なルールがあったかどうかも怪しいです。それにもし、正式なプロセスで立っていない教皇側がその後の政治闘争で勝っていれば、正式な手続きを踏んでいるほうが僭称者として系譜から削除されたでしょう。このような例としては佐竹義俊の例があります。彼は父に追放されて後、後継者であった佐竹義定を追い出して当主となっています。これは明らかに不法な乗っ取りですが、義定とその父実定は系譜には含まれていません。義俊の後継である佐竹家が認定していないからです。ロシア皇帝の僭称者が僭称者として扱われるのも、敗北したからです。プガチョフが勝っていれば波瀾万丈な物語が出来たことでしょう。

御館の乱と同様に、当主の指名が無く死亡した後に争った例としては花倉の乱があります。これも戦闘によるものでしたが、今川氏輝の後は玄広恵探今川義元の並列とはされません。家督を相続した時点で義元とされています。--模様砂漠 2008年10月24日 (金) 22:58 (UTC)

愚見を述べさせていただきます。上で挙げられていた上杉顕実上杉憲房の場合(先代次代の表記は関東管領ですがこの頃には既に山内上杉氏の家督と一体化していますし、そもそも顕実は関東管領に正式に補任されたか不明なので、イコール山内上杉氏当主とみていいと思います)、顕実の家督相続は上杉顕定の遺言があったとされますが混乱も多い後代の史料(喜連川判鑑)の話ですし、上杉憲房も顕定の死後すぐに後継者として振舞い始めますから実際のところは両者とも正式なプロセスを経ていたり決定的な証拠があるわけではありません(このあたり、上杉景勝と景虎の場合にも似ていると個人的に思ってます)。しかしながら上杉顕実は、上で書かれている通り上杉家の系譜では抹消されているにもかかわらず歴代に数えられています。これは顕実が顕定の正統な後継者だったとするのが現在の定説となっているからです。必ずしも系譜が尊重されているわけではありません。そういうわけで、現時点では上杉景勝・景虎のどちらが正統な後継者かという説が定まってないという点から上杉謙信の次代は両者併記でもいいのではないかと思うのですがどうでしょう? 景勝の項に両者を併記したり、景虎の項に先代次代を置く必要はないとは思いますが。--rogn 2008年10月25日 (土) 00:19 (UTC)
模様砂漠さん> 佐竹義定は一旦家督を継いだ後追放され、後にこれを奪回しているのでケースが違うと思います。また、今川家の場合もケースが違います。義元は二ヶ月間の内紛に勝利して初めて当主を名乗っています。しかし、景勝・景虎は、景虎の春日山城退去の時点で双方が当主を名乗っています。そして景勝は上杉家の当主として武田家と婚姻し、景虎も当主として、北条家・蘆名家から援軍を得ています。また、教皇に関しては「家督」とか「当主」の概念が無いので、別問題ですね。プガチョフの反乱についても触れられていますが、コサック出身のプガチョフと、前当主の養子だった景虎では正当性の違いは明らかです。--125.198.13.48 2008年10月25日 (土) 02:37 (UTC)

現時点では、謙信のページのみ並列表記、景虎のページは「前:謙信 後:景勝に統一」、景勝のページは「前:謙信 後:定勝」という編集内容になってますね。私はこの状態で落ち着かせるのが穏当かと思いまが、みなさんはどうでしょうか。--133.31.18.68 2008年10月25日 (土) 06:58 (UTC)

125.198.13.48さん>当主と名乗っていたことを重要視されておられるようですので、花倉の乱の例は不適切だったかもしれません。私は景虎が当主となりうる資格がないから系譜に書くなと言っているのではありません。こうした御家騒動の時に当事者が当主を名乗り、支援を受けるのは当然のことです。
プガチョフの例では「当主自称者=当主」ではないということを言っております。プガチョフの真の素性がどうであれ、もし勝てば、たとえ経歴が怪しくても偽ドミトリーのようになったであろうということです。当主になるのは正当性だけの問題ではありません。
佐竹義俊は確かに当主でしたが父親の義人に追放されています。彼が復帰するまでの10数年間は、義人が復帰したか実定、もしくはその子の義定が当主として行動していたでしょう。ですが彼らは家督に数えられてはいません。佐竹氏が認めていないし、研究者も歴代に加えないからです。上杉家は景勝の後継が継ぎ、現在も続いている家です。その上杉家の系譜には景虎は加えられていません。書籍等でも景虎を歴代に加えている例を見たことがありません。通常御家騒動の期間は家督未決定の時間であり、それがよほどの長期間であれば南北朝のような扱いになりますが、御館の乱は一年です。

rognさん>顕実のところにあるのはあくまで「関東管領」の先代次代です。顕実が関東管領と一体化した家督を継いでいたとしても、関東管領だけを継いでいても現在の記述で問題がないと思います。余談ですが、上杉顕実が関東管領についた証拠がないのかどうかは不勉強で存じませんが、上杉顕定の記述では「1512年に山内上杉氏の家督を継ぎ、1515年の顕実の死によって関東管領職をも継いだ。」となっています。つまり顕実を歴代当主に加えない史観でも、関係者の多い関東管領就任は家督と違って抹殺は困難であったとも思えます。
133.31.18.68さん>以上の理由で私は景虎の欄は空白にしておくことが適当と思います。ですが話し合いで体制が決まりましたらそちらに従います。--模様砂漠 2008年10月25日 (土) 08:33 (UTC)

模様砂漠さん> 書き方が悪かったですが、関東管領職は山内上杉氏の家督に先立つものではありません。佐藤博信著『古河公方足利氏の研究』には

顕実が顕定の死後、関東管領として幕府から正式に関東管領に補任されたか否かは不明であるが、当時一般的な認識としては山内上杉氏の家督就任は、関東管領とみなされたのも事実であろう(107頁)

とあります。御指摘の上杉憲房の就任時期のズレですが、現在は1512年にどちらも同時に手にしたと書かれることが多いと思います。「関東管領就任は家督と違って抹殺は困難」というのは確かにそうかもしれません。「顕実を歴代当主に加えない史観」である上杉氏の系図でも顕定の死から憲房の管領就任までに2年ほどの空白期間がありますから。研究書などに記載されている上杉氏の系図は歴代関東管領が数えられていることが多い気がしますが、はっきり家督継承順として顕実を数えているものに黒田基樹著『扇谷上杉氏と太田道灌』72頁の系図のようなものもありますから、たとえ上杉顕定以降の先代次代の表記を山内上杉家に変えても顕実を数えるのは変わらないと思います。
書籍等で景虎を歴代に加えている例は私も見たことがないのでその点が全く違うことは認めます。「景虎の項に先代次代を置く必要はない」と書いたのもそういう理由からですが、ともあれ、家の公式の系譜が絶対とはいえないという例として書かせていただきました。表記に関しては私は秋田城之介さんに同意します。--rogn 2008年10月25日 (土) 11:21 (UTC)
rognさん、ありがとうございます。勉強になりました。
それとようやく自分の中でもやっとしていたものが形になるきっかけを作っていただきました。私も後代に作成された系譜が絶対であるとは思っておりません。皇室で言うと神武天皇以下欠史八代の存在もたいへん怪しいですが、『先代・次代』には加えられています。それは事実ではないかも知れないが、皇統譜ではそうなっているからそう掲載されているのでしょう。そこから見て『先代・次代』を中国風に言う正史と思っております。正確な情報を掲載する場は記事と考えていたのですが、どうなのでしょうか。--模様砂漠 2008年10月25日 (土) 12:15 (UTC)
現状でも歴代を書く時には、「正史」と、いわゆる「考証された史実」のすり合わせはある程度は行われているのではないでしょうか。恥ずかしいことですが私は歴史に関して非常に狭く偏った知識しか持ち合わせていないので、以下はほとんどが憶測と個人的な見解になります。
皇室に関してですが、恐らく明治天皇の代に至るまで天皇の「家」では北朝が正統とされていたにもかかわらず、維新後には南朝が正統とされ現代まで歴代天皇は南朝で数えられています。もちろん皇統譜にそう記されるに至った原因として思想的・政治的なものはまずあるのでしょうが、現代でも南朝を歴代として数えているのは、南北朝合一の際に提示された条件のような南朝を正統とする根拠があるのが大きいのではないかと思います。極端に言えば、正統性を根拠に「正史」自体を書き変えさせたとも捉えられるのではないかと。あとは、米沢藩で上杉謙信が藩祖とされているにも関わらず現在歴代米沢藩主に数えていないのはすり合わせの例になるでしょうか(ちょっと極端すぎますか)。
しかしながら上で挙げられた島津や佐竹のように家譜の記述に従っている例の方が多いのでしょうし、正直なところ、私は模様砂漠さんの「「御館の乱」は上杉家当主の空位時代」という意見に同意している部分もあります。なので、景勝・景虎のもつ正統性の不確定を理由に両者併記が順当という卑見は、「いずれどちらかの正統性が確定したら空位期間も統一される可能性がある」という意を含めて「穏当」に落ち着かせるための半ば屁理屈の提供のような格好ではあります。--rogn 2008年10月25日 (土) 23:50 (UTC)

すりあわせは歴史学者や当事者の家で行われているのではないかとも思います。しかしながら、それが全て統一されるわけではありませんので、各説を書きにくい『前代・次代』では表記に問題が出てくると思います。そこですりあわせの必要が出てくるのですが、すりあわせをWikipedia上でやりすぎると、「独自研究」になるおそれがあるのが難しいところです。景虎と景勝の並列案はこの場では穏当に落ち着いたことになりますが、他の家系の記述にも影響が及びかねないので結果的に穏当にならない可能性があります。正史の書き換えはよく行われることですが、それはやはり研究者や当事者に任せるべきではないでしょうか。--模様砂漠 2008年10月27日 (月) 10:23 (UTC)

あまり深く考えなくても、その都度考えればいいと言っちゃうと無責任でしょうか。ロシア皇帝でもローマ教皇でも南北朝でも一応例として出るぐらいですから、他の大名などで似たような論争になると、たしかに引用される可能性は大。まあ背後にある背景とか細かい状況とか、あるいは国柄とかもありますけど・・・・・やっぱり考えすぎるとドンドン脱線していきそうですね。--秋田城之介 2008年10月27日 (月) 12:32 (UTC)
模様砂漠さん> 研究者のあいだでもこれだけ見解が割れている例が他にどのくらいあるのかわかりませんが、御館の乱を空位期間としてしまうのも諸研究を鑑みると妥当ではないと思うのですよね。最近では片桐昭彦氏が天正6年3月時点で景勝は正統な後継者として家督を継承したとしていますし、逆に景勝クーデター説をとるなら実城を占拠されるまでの景虎は正統な後継者とされる可能性が高いわけです。片桐氏は同時に、景虎は山内上杉家を継いでいたというスタンスですから、現在のような「山内上杉家(上杉宗家)」という曖昧な形なら併記しても独自研究まではいかないんじゃないかと。--rogn 2008年10月27日 (月) 14:49 (UTC)

片桐氏の説を書くとしたら次代の欄は『上杉景勝(長尾上杉家督)・上杉景虎(山内上杉家督)』ですね。次代の表記方法を説ごとに分類すると『上杉景勝』(上杉家家譜)『上杉景勝・上杉景虎』(両立説)『上杉景虎』(景勝クーデター説)となり、単なる併記は両立説と同じですから、他説の信奉者にとっては具合が悪いと思いますし、新たな説が出た場合はまた表記するしないでもめそうな気がします。
秋田城之介さん>先代次代の記載は『公式』の家系に丸投げし、論争は各ページで扱うと、家督争いの記述も統一できて、いろいろな説をまとめて見られるなとおもったのが、私の考えた考えずにすむ記述法なのです。--模様砂漠 2008年10月28日 (火) 14:06 (UTC)

模様砂漠さんのお考えがようやく理解できた気がします。私は基本「「正史」より諸説あることを鑑みて併記(=中立的な観点を満たす)」という考えなので、併記=両立説とおっしゃるならこれ以上は平行線でしょう(無駄に場を引っかき回してしまっただけのようで申し訳ないです)。
しかし上杉顕実のように学説に依拠した先代次代があって、御館の乱の間の当主について曖昧な書き方をしている研究が多く、wikipediaが出典主義である以上、「山内上杉家(上杉宗家)」という表記だと片桐氏の説などをもとに書きかえられても仕方がないと思うのですよね。履歴を見返してもそんな感じで変わってきているようですし。なので、もし次代を景勝に統一して諸説は本文で…と取り決めるなら「山内」という号は外した方がいいんじゃないかと思います。長尾上杉とか、あるいは単に上杉宗家とか、そうすると先代の扱いが微妙になってしまいますかねえ。憲政以前に山内上杉家の先代次代もないですし、景勝が山内殿と呼ばれる期間もそう長くなかったと思うので、あえて号にこだわる必要もないかと思われますが、この点はどうでしょう。あまり建設的な提案ではありませんが。--rogn 2008年10月29日 (水) 06:32 (UTC)

顕実の先代次代は場合は関東管領の系譜ですので、歴代関東管領の公式な歴代図譜(公卿補任や柳営補任のような存在)が存在していないため(あるのかもしれませんが)まず学説によって定まった系譜になっているのでしょう。上杉家の家系図は今も上杉家が存在して、家系図を公定しているわけですのでちょっとケースが違うかもしれません。
表記ですが、上杉宗家だと、長尾上杉と山内上杉のどっちが宗家かでまたややこしくなります。宗家という名前は正統というイメージが強いので、景虎正統派には刺激が強いかもしれません。山内上杉家当主の表はは謙信・景勝・景虎の三名にしか登場しないので、いっそのこと上杉家の項を取っ払うのも手かもしれません。謙信の系譜は米沢藩(系譜上の藩祖)として景勝と繋げるとかいうのはいかがでしょうか。--模様砂漠 2008年10月30日 (木) 11:22 (UTC)

長尾上杉という呼称は上杉家ではあるが血統的には長尾家であるという便宜上の呼称であり、家としては「山内上杉家」ですよね?wikipedia上の長尾上杉家・山内上杉家の項でもそのように解説してあったと思います。長尾上杉・山内上杉・上杉宗家など基本的に同じ家を指す呼称を別々に表記するのは読者に分かりがたく無用な混乱を招く物であると思います。
また米沢藩祖として謙信を表記することも感心できません。景勝以降の上杉家が謙信崇拝のために謙信を藩祖としたことは事実ですが、謙信自身はやはり生涯を越後で過ごし越後のために生きた大名であり何ら米沢藩には関わっていません。百科事典の系図として妥当だとは思えません。
私としては景虎・景勝のどちらが正当な後継者であろうが、どちらにしろ景虎は敗死し景勝が実質上杉家当主となったのは覆しようのない事実であると思っていますが、景虎正当説を推す人は例え山内を消して「上杉家当主」とした所で反発すると思います。景勝はどの上杉家でもなく府中長尾家を継ぐはずだったという説だってあるんですから。--Agira 2008年10月30日 (木) 13:51 (UTC)

謙信を米沢藩祖として表記することは、私も反対です。蜂須賀家政のように阿波を統治した例があるなら、そのような「先代・次代」をつくる意義はあると思いますが、Agiraさんが述べられている通り謙信にはそのようなことはありません。実際には、その家政でさえも藩祖という形での「先代・次代」はつくられていないと思います。
片桐氏は「上杉宗家」と「山内上杉家」は別ものである説を唱えられていますが、一般的にはまだこの説は浸透していないと思いますので、読者の方にかえって混乱を与えてしまうのではないでしょうか。なによりも、表記に考慮しなければならないほど、片桐説が定説として認められているのかどうかも問題だと思います。
他家の例(日向伊東家の伊東義賢等)をみると、微妙な部分は「先代・次代」ではあらわさずという模様砂漠さんの御意見ももっともと思えるのですが、上杉家の場合はノートで熱い議論がおこるほど、皆さん問題にしておられますし、家名の表記にしても問題があるということでしたら併記も考慮して、ということになるのでしょうか。--Thomo 2008年11月3日 (月) 22:27 (UTC)
ご意見ありがとうございます。「上杉家藩祖」は謙信と景勝の系譜は上杉家権力の継承という点で必ず繋げる必要があると思いましたので、窮余の一策で出したものです。私個人としては山内上杉家が最善と思っております。ただ、本文中に後継者の節を設けるか、御館の乱への誘導は必須と考えております。
しかしながら先代次代には決まった表記のルールも無いのが表記の混乱の原因かとも思っております。Wikipedia:ウィキプロジェクト 日本史等で先代次代におけるガイドラインの作成を呼びかけ、大まかなルールを策定し、上杉家の場合が例外となるのであれば、その例外となる理由を明文化しておいた方がいいかもしれません。--模様砂漠 2008年11月4日 (火) 10:31 (UTC)

上杉四天王について

上杉四天王 … 上杉謙信の下で特に功労があった武将。直江景綱・甘粕景持・宇佐美定満・柿崎景家の4人を指す。なお、扇谷上杉四天王とは違う。 ↑ 何これ?出典不明ですので、独自研究の疑いがありますので、誰か明示をお願いします。この4人が選出されてる理由も不明だし。--Sabkakusikaku 2009年3月18日 (水) 09:57 (UTC)

甲越信戦録が出展でしょうか。ただし、甲越信戦録では直江が大和守景綱ではなく山城守兼続になっており、史実と照らし合わせると甲越信戦録での直江兼続の活躍とされているものは実際には景綱の事跡であろう事から景綱が入っているということでしょうか。--Agira 2009年4月6日 (月) 01:35 (UTC)
ながの観光コンベンションビューローが作成した川中島の戦い[戦いを知る]では『甲越信戦録』を出典として、宇佐美定行(定満)、直江兼続、甘粕景持、柿崎景家を四天王としてあげています。また、上杉まつり実行委員会の上杉二十五将 -史実-では、『上杉将士書上』を出典として、柿崎景家、直江景綱(実綱)、宇佐美定満、甘粕景持を四天王としてあげています。--彩華1226 2009年4月9日 (木) 06:01 (UTC)

上杉将士書上には、実在を疑われる武将=鬼小島弥太郎一忠の名前もあるそうな。創作の可能性の高い文献ですね。--Sabkakusikaku 2009年5月4日 (月) 04:38 (UTC)

“後世で「上杉四天王」と称えられた武将がいる”ことの論拠です。何か問題があるのでしょうか。--彩華1226 2009年5月5日 (火) 08:58 (UTC)

生涯独身と性風俗について

上杉謙信が生涯妻帯せずに独身を貫いたことに関して、近代以降の日本人は間違った視点で捉えがちな傾向にあるようです。 当時の男性たち、わけても武人の間では-----女性との性行為を厳禁された僧侶はもとより-----、男色を称揚し愛好することは極めて自然な風習でした。 にも拘わらず、信憑性の疑わしい諸説を取り上げたりするのは、過去の日本人が重んじて来た性愛習俗を貶め辱める行為でしかありません。これは、とりもなおさず我々日本人の先祖を卑しめるものと言えるでしょう。 よって以下の文を本項目に書き加えておきました。 ゆめゆめ削除されませぬ様に御留意頂きたいものです。

「1559年、上洛した謙信と交流した近衛前久は「この間は度々おいで候て、華奢なる若衆を多く集め候て、大酒までにて、たびたび夜をあかし申し候、少弼(謙信)は若いのが好みとの由承り候」と謙信を観察しており、この書状と謙信が生涯にわたって女犯を一切断ったことを結びつけて、謙信は専ら男色のみを愛好したと見る歴史家が少なくない。 但し、男色 (衆道) を愛好することは戦国武将の間では、極めて一般的な風習であったから、なんら異とするに足りない(むしろ、男色を好まなかった武人や僧侶らのほうが少数派である)。」

--124.255.15.75 (会話) 2009年5月14日 (木) 07:39 -以上、ノート履歴に従って投稿者並びに投稿時間を追記。--203.148.124.249 2009年5月14日 (木) 08:05 (UTC)

--ガイドラインに従い、上記投書内の個人攻撃的な文章を除去、並びに表現の訂正。 124.108.210.74 2009年7月16日 (木) 14:31 (UTC) 編集追記文末へ移動、表現の訂正追加、削除箇所訂正。124.108.210.74 2009年7月17日 (金) 11:23 (UTC)

上杉憲将との系譜関係の件

謙信が上杉憲将の外仍孫とする記述を加筆されるIP氏がいますが、上杉憲将は謙信の養父・憲政とは直系で繋がりません。書くなら出典を明示し、また系譜関係を正確に書くべきでしょう。そして、上杉憲将と謙信の関係性を記述する必要性を示すべきです。独立記事も無い上杉憲将との関係性をいきなり概要に書かれても、意図が不明です。加筆する可変IP氏は、別のIP氏や私が除去しても、何も言わずに差し戻しを行うため、ここに一言述べておきます。--KurmUmy 2009年8月6日 (木) 15:22 (UTC)

『山吉家家譜解説書』を出典に、山吉行盛を通して上杉憲将の子孫とする記述内容には検証が必要なため、一旦削除します。ノート:山吉氏やThomoの会話ページ、秋田城之介さんの会話ページの過去ログの池氏についてを参照にしてください。--Thomo 2010年8月18日 (水) 17:50 (UTC)

「近年の研究」を論拠とする編集について

「近年の研究では何々である」という表現をされる場合には、その研究成果の典拠となる書名著者名要約を明示して下さい。それら出典のないままに断定的な表現をされた場合、それは印象操作という手段で行われる独自研究の発表と受け取られる場合がございます(Wikipediaの方針独自研究は載せない)。また、出典を明記する編集姿勢には文献を調べる冷静さが要求されるため、思い込みをそのまま記事にしてしまう行いを回避出来る場合もございます。記事本文に上手く出典がおさまらない場合は「refタグ」を利用して注釈で明示して下さい。他の編集者の記事や史料の価値を否定的に扱う場合には、特に反証となる出典を明示することが大切です。また、自説に固執することなく、反論的記事においても一方的な削除は行わず(誹謗中傷の類ではない限り)、両論併記を心がけるようご協力をお願い致します。

また、記事や史料を否定的に扱う場合には文脈を考慮して、反証と共に最後にまとめてください。段落中で複数回行うのは文章的にも中立性の上でも好ましいものではございません。--ELK 2010年1月3日 (日) 05:58 (UTC)

ご指摘ありがとうございます。私の書き込みは独自研究というよりむしろ近年書店に並んでいる上杉謙信に関する書物を数冊読み比べ、それぞれの本に共通して記述されている事柄を中心にウィキペディアに書き込んでいます。著者は静岡大学教授・小和田哲男氏や工藤章興氏といった方々になります。--RealSamuraiHibaru 2010年1月3日 (日) 21:13 (UTC)

RealSamuraiHibaru氏、ご理解いただけたと解釈してよろしいのでしょうか。繰り返しになり恐縮ですが、今後、先行記事や原典史料を否定する場合には、その反証となる出典(書名、著者名、要約)を明示の上、段落の末尾でまとめてくださいます様お願い致します。
次に、謙信上洛時の様子を記す近衛前久書状を原典とした記事の削除行為についてです。この書状は謙信の研究書では度々引用されるもので、史料として不備な点はありません。編纂史料集である「上杉家文書・上越172」にあり、また最新の研究本「上杉氏年表(池亨・矢田俊文)」にも当然のように記載されております(RealSamuraiHibaru氏が拠り所とする小和田哲男氏は上杉氏専攻ではないので扱いがないのかもしれません)。Wikipediaの記事構成物とするには何ら問題の無いものです。また当該記事は謙信の同性愛説を断定するものではありません。むしろ同性愛説の出所を明確にし、これのみで同性愛を専門としたとするのは不十分である、と懐疑的な意見を示すものになっております。原典の意訳を引用して検証の可能性を示しつつも、客観的な考察で実証には至らずとしており中立的な観点においても問題はないかと思われます。これらのことをどうかご理解下さい。
またWikipediaは、RealSamuraiHibaru氏の英雄観や品性に関する特定の価値観を主張する場ではございません。同性愛そのものを否定するようなご意見はお控え下さい(本文の編集内容要約の一文は差別と誤解される可能性がございます)。また中世においては同性愛は衆道という文化的且つ政治的な意味合いをもつ一般的な生活様式とされております。参考までに織田信長の記事をご覧下さい。小姓との関係を解説する記事が見られます。好む・好まざるによらず、これらのことを総合的に判断して、冷静な態度で記事の編集に参加されることをお願い致します。特に同性愛説は紛争の元となる例が多々ございます(過去のノートや編集記録をご覧下さい)。不毛な争いが再燃しないよう、再度のご協力をお願いする次第です。--ELK 2010年1月4日 (月) 04:23 (UTC)
ELK氏、男色・衆道を文化とするのは如何なものかと思います。たとえ文化であったのせよ、百科事典に記載するには卑猥すぎないでしょうか。このWikipediaは成人のみならず未成年、中には小学生も利用します。性に関するページならいざ知らず、戦国武将のページに記載する内容として、男色をことさら取り上げるのは著しく不適切です。「ページのトップに未成年者には不適切な可能性のある箇所が記載されています」という注意書きもなくこのような内容を載せるのは、問題があると言わざるを得ません。Wikipediaは誰もが利用する百科事典であることを考慮すれば、お分かり頂けるかと思います。私は同性愛を否定しませんが、全ての方々に積極的にお勧めするような素晴らしいものだとも思いません。私の記述で同性愛を否定する内容は書かれておらず、問題ありません。そして上杉謙信が妻帯しなかったのは真言宗に深く帰依し、女犯を禁ずる戒律を守っていたためです。確証もなく「男色のみを愛好していたという説がある」との内容を百科事典に記載すれば、後の文で「確証がない」と付け加えても断定を打ち消す効果は極めて薄いと言わざるを得ません。
Wikipediaには著名人のページが数多くありますが、個人の性癖など卑猥な内容を記載されているものは殆どありません。元アメリカ大統領のビル・クリントン氏は不倫によるスキャンダルがありました。暴露本には過激で卑猥な性行為の内容もありましたが、クリントン氏のページには詳細は書かれておりません。それは全ての人が参考にする百科事典の内容に相応しくないからに他なりません。Wikipediaは事実あるいは事実である可能性の高いものであれば、如何なることでも書き込んでいいものではありません。小学生を含む未成年も多く利用していることも考えて頂きたいのです。上杉謙信同性愛者説を説きたければご自身で専用のサイトを作り、そちらで主張されるのが宜しいかと思います。--RealSamuraiHibaru 2010年1月5日 (火) 00:24 (UTC)
RealSamuraiHibaru氏、まず、コメントの付け方についてのお願いですが、見出しが削除(コメントアウト)されたり整形が崩れたりしないようにご注意下さい(プレビュー機能をご利用下さい)。またなるべく他者のコメントと行頭が揃わないように工夫をして下さい。
さて、最初にはっきりさせておきますが、私は上杉謙信の同性愛説を主張したことはありません。自説では真言宗の女犯戒説と修験道入信説を支持しています(新井白石の考察による)。しかし、RealSamuraiHibaru氏のお言葉を借りれば、「確証もなく」自説を押し通すことは致しません。何故ならばそれはWikipediaが禁止する行為(ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません)に抵触するからです。RealSamuraiHibaru氏は「引用>そして上杉謙信が妻帯しなかったのは真言宗に深く帰依し、女犯を禁ずる戒律を守っていたためです」と、あたかも確証を得たような断定的言い方をされますが。これを断定する論文や記事があるのでしょうか。あるのでしたらそれを記事本文の末尾で引用し、出典を示すべきだと考えます。それを行わずに原典を含めた記事全てを削除することに問題があると私は指摘しているのです。「男色のみを愛好していたという説がある」との表現が気に入らないのであれば「要出典」タグを付けるか、その部分を別の表現に置き換えることは可能だと考えますので、それを行うべきではないでしょうか。私は今の表現には特に問題があるとは思いませんし、中立的な観点に相応しい着地点が見出せたと思っていますので、自ら編集することは致しません(尚、当該記事においては書状の出典を追加する編集だけは行いました)。以前は同性愛説を断定且つ肯定する記述があったので、現在の表現に留まることによってこの件は一旦落ち着くものと思っていました。
次に、「卑猥」とのご指摘についてお答えします。「引用>たとえ文化であったのせよ、百科事典に記載するには卑猥すぎないでしょうか」とのことですが、何が卑猥なのでしょうか。当該記事には当然の事ながら性的表現は一切含まれておりません。RealSamuraiHibaru氏が例えるクリントン氏にまつわるスキャンダルの性的表現がWikipediaに記載されないのは当然のことですが(存命人物の伝記)、それが当該記事を削除する理由とどのように関係するのでしょうか。同性愛という概念自体が卑猥とでも仰りたいのでしょうか。だとするならば、それは偏見ではないでしょうか。単刀直入に言わせていただくと、同性愛について過剰に反応されているように思います。
衆道については先のコメントでも挙げた織田信長のページの他に武田信玄のページにも記載があり、その記事は有名な逸話で、歴史雑誌などでもよく見かけるものです。その手の雑誌は歴史に興味があれば小学生でも読むかもしれません。しかしそこには性的表現があるはずもなく、何ら問題は無いかと思われます。また、文化云々について軽く触れておきますと、側室を幾人も持っていた戦国武将を現代的な倫理観で一々非難する教育者はいないと思います。衆道についても同じでなないでしょうか。それが歴史的文化の考察であり、学習ということではないのでしょうか。
以上、私の見解を述べました。私はしばらく差し戻しはいたしません。ただ、私以外にも差し戻しを行っている利用者もいらっしゃいますし、元の記事執筆者や他の編集者が記事の復活や編集を開始するかもしれません。それは予見しておいたほうがよろしいでしょう。RealSamuraiHibaru氏の独自の上杉謙信観で記事を定着させることをWikipediaは認めていません(ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません)。あくまでも両論併記で中立的な観点を遵守してくださいます様お願い致します。また、他の利用者の意見にも耳を傾けて下さい。けして独走しないで下さい。自説に固執し一方的に削除を続ければコミュニティを疲弊させる利用者と見なされる場合がございます。
最後に、私の記憶には信仰説を断定した史家はいませんが、敢えて挙げるならば桑田忠親氏が著書や論文で賛成の立場(断定ではありません)にあります。信仰説を主張する場合、それらを読まれて編集作業の参考にされることをおすすめします。--ELK 2010年1月5日 (火) 05:23 (UTC)

ELK氏、誤解があるようなので少し残念に思います。私は独自の上杉謙信観でWikipediaを編集しているのではありません。同性愛・男色・衆道を全否定しているわけでもありません。自説に固執しているわけでもありません。ネット上での百科事典に載せる内容として、客観的に見て不公平・不適切な内容を訂正している次第です。ELK氏も同様のことをされたことが御有りかと思います。

お気付きの方も多いかと思いますが、この上杉謙信のページでは、明らかに悪意を持って上杉謙信を蔑む内容に書き換えている方がいます。おそらくその方は上杉謙信のことがお嫌いなのでしょう。その為、謙信のページには他の著名人と比較して、謙信の欠点が異常に多く記載されています。上杉謙信の欠点を過去の文献からわざわざ引き出してきて、事実という「確証」が有りもしないにも関わらず、読者に誤解を与える内容が書かれています。文の末尾に「確証はない」などと記載しても、打ち消しの効果は非常に低いと言わざるを得ません。

私はそれを不公平で利用者に謙信について悪いイメージを与える内容だと思い、バランスを取ろうとして訂正している次第です。書き込むに当たり、偏った内容にならないよう数冊の歴史の本を読み比べ、どの本にも一致している内容についてのみ書き込んでいます。私の主観は一切含まれておりません。

謙信にも飲酒や塩分の過剰摂取、後継者問題など欠点はあります。しかし欠点をWikipedia上でずらりと並べられるほどの悪人ではないはずです。他の戦国武将と比較してみて下さい。--RealSamuraiHibaru 2010年1月8日 (金) 12:52 (UTC)

「敵に塩を送る」

「頼山陽が美談として激賞した「敵に塩を送る」という逸話も、実際には軍費調達の必要上から甲斐・信濃の商人への塩販売を禁じなかっただけと見ることも出来る」

とありますが、出典もなく、1個人の見解を記すのは独自研究に該当するので、削除対象です。出典が示されなければ2週間以内に、この部分を削除します。自分の歴史観を書きに来る歴史マニアはもううんざりです。--91.14.141.141 2010年4月29日 (木) 19:46 (UTC)