ノート:三都

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人口について[編集]

人口についていくつか誤った記述があったので訂正しました。江戸時代の都市人口は断片しか残っていませんし、町人人口しか記載されていませんが、少なくとも名古屋や金沢は堺よりも人口が多く、10万人近くいたとする根拠はあります。また京都の人口が40万人を保っていたとは思えません。

ロドリゴ・デ・ビベロによると、1610年頃、京都は30~40万人、大坂は20万人、江戸は15万人の人口を有していたそうです。この後江戸は急速に発達し、人口で大坂、京都を抜かしてトップに立ったと思われます。

京都の町人人口は1634年には410,089人で江戸を超える大都市でしたが、17世紀後半には40万人を切り、1719年には341,494人まで減っています。 18世紀中頃から江戸末期まで京都の人口に関してまともな情報は残っていませんが、京都を含む山城国全域の人口(もちろん武家・公家の人口は含まれない)が1721年の564,994人から1846年の452,140人まで暫時減少しており、京都の人口も江戸末期には30万人を切っていた可能性があります。明治6年には京都の人口は238,663人にまで減っています。

大坂三郷の町人人口は1661年の252,446人から暫時増加し、17世紀末に30万人を、18世紀初頭に35万人を、18世紀中頃には40万人を超え、最盛期には419,863人(1767年)となりますが、18世紀末には40万人を切り、19世紀中頃には35万人を切り、幕末を迎えます。明治に入り、一時的に30万人を切ります。

他の都市ですが、堺は江戸時代よりも前の頃の方が栄えており、残っている記録としては1665年の町人人口69,368人が最高で、以降暫時減少します。長崎は1616年の24,693人から1696年の64,523人へ急速に発展しています。しかしその後は衰退し、1853年には27,343人まで減少しています。長崎は武家人口を加えれば、最盛期に7万人以上いたと思われます(但し長崎奉行管轄全域の人口が記載されている可能性があり、実質的な都市はもっと小規模かも知れない)。金沢は1697年に町人人口だけで68,636人いました。武家人口は不明ですが、江戸時代の城下町は町の人口の1/3から半分近くを武家人口が占めていたと考えられており、明治4年に金沢の人口が123,363人であったことからも、少なくとも江戸末期と中頃には10万人を超えていたと思われます。名古屋は1689年の町人人口が57,843人で、この頃は金沢よりも人口が少なかったようです。19世紀に入って再び人口が増加し、1840年には町人人口が75,779人まで増え、武家人口を加えれば10万人を超えていたと思われます。Orichalcum 2008年8月26日 (火) 18:38 (UTC)[返信]

三都の人口の情報を追加しました。各都市の町方人口の時系列グラフをいずれ作成しようと思います。Orichalcum 2008年9月1日 (月) 15:28 (UTC)[返信]