ノート:フランシスコ (ローマ教皇)/過去ログ24

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語録[編集]

記事本文が充実し、語録との重複が増えたため、語録に取り上げられた発言を記事本文に統合し、一旦、語録を解消致しました。「重複があっても語録の節はあるべき」等、ご意見がありましたらよろしくご発言願います。--ジャコウネズミ会話2013年4月25日 (木) 04:22 (UTC)

記事本文が長くなったことと「充実」とは別の話だと思います。「語録」は多すぎるから効果を減じているのであって、以下の4つくらいで良いと思います。
* 「私は貧しい人々による貧しい人々のための教会を望む」
* 「私たちは歩みたいように歩み、多くのものを構築できます。しかし、イエス・キリストを告白しないならば、物事はうまくいきません。私たちは気前の良いNGOには成れても、教会に連なることも、主の花嫁となることもできません。誰でも、神に祈らない者は悪魔に祈っているのです。なぜなら、キリストを告白しないならば、悪魔の世俗性、悪魔的な世俗性を告白しているからです」
* 「日本のキリスト教共同体は、200年以上も聖職者なしで維持されたのです」。
* 「人が神を探す時、まず神が人を探されており、あなたがたが神を見出そうとする時、神が最初に私たちを見出されます」
他ならぬこの「語録」こそが記事の瞠目性という点で重要なのであって、カトリックにもキリスト教に好意を持っている者が僅少な日本で、ただ単に長い記事を読んで頂けるとは到底思いません。
われわれ執筆者に必要なのは、厳格なストイシズムであって、「新教皇は謙虚である」というわかりきった逸話を何度も書くのは無意味であり、どうやったら重複する主張を減じることができるかを再考すべきだと思います。
また、quotation の前後の文と分離していない(← そうならただ単に「  」に入れれば良いだけ)とか、多くの人物が出てくるのに「彼」などという人称代名詞が使われている等々、洗練されていない文章がまだ散見されます。こうした点に関して、われわれ執筆者が自分を甘やかせば、早晩閲覧者から見放されるでしょう。各節各節に「読ませる」工夫をし、文章を再考・再再考すべきだと思います。Tizizano会話2013年4月25日 (木) 10:43 (UTC)
  • quotationの使用は不自然なのは感じていましたので、鍵括弧にしてみました。「語録」についてはどうするかは別にして、ウィキクォートの使用を考える時期に入っているかと思います。--ぎぶそん会話2013年4月25日 (木) 11:32 (UTC)
  • Tizizano様、ご見解ありがとうございます。ただし、物の言い方としてはいただけない部分もあり、論旨のみ承りました。ぎぶそん様、Wikiquote作成検討にも賛成できます。尤も、WikipediaとWikiquoteの間に「重複立項」という概念はないので、このノートでの議論なしに作成されても差し支えない事象ではありますが。--ジャコウネズミ会話2013年4月25日 (木) 11:43 (UTC)

報告 q:フランシスコ (ローマ教皇)が作成されました。IPユーザーが新規立項しましたが、履歴継承・ライセンス権利者の表示のどちらも無かった為、一旦白紙化し、わたしが再作成しました。--ジャコウネズミ会話2013年4月26日 (金) 05:45 (UTC)