ノート:フランシスコ (ローマ教皇)/過去ログ13

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

「教え」のトピックスについて[編集]

訳出できそうな他言語版において言及され、本項目にないものをいくつか挙げておきます。何でも訳出すればいいということではなく、キリスト教の浸透度の違いを踏まえつつ、取り入れるべきものは貪欲に取り入れようと言う主旨です。以下の、宣教と牧会の改革(仮)、と、聖礼典問題(仮)、が目に付くところです。--(誤訳訂正)--ジャコウネズミ会話2013年3月20日 (水) 06:40 (UTC)

同感です。また、5.1-2と5.3-4は明らかに性質の異なるものであり、前者はどうまとめてタイトルをつければ良いのかすぐに思いつきません。「福音と宣教」or「宣教司牧」等々?多分どなたかアイデアをお持ちのかたがいらっしゃるはずです。 後者は、カトリック系の文書では、一般に「社会教説」というジャンルで一括されるものです。例えば、「レオ13世による労働問題に関する社会教説は、その回勅『レールム・ノヴァールム』に明らかにされている」といった具合に使います。また「カトリック教会の社会教説」などといった類の概説書もあります。ですから、この2つを分離して、ご案内の典礼に関する分野はどちらかに付加されるとよいと思います。5.6のご加筆は、その内容がすばらしいですね。イエスは、当時のユダヤ社会で蔑まれていた徴税人や娼婦にすら手を差し伸べたのですから、教皇様の主張はもっともだと思います。Tizizano会話2013年3月20日 (水) 07:22 (UTC)
節「聖礼典問題」は「福音と司牧」「社会教説」のどちらになるでしょう?訳出した後カテゴリとして2分割されたので。わたしが「社会教説」の概念の広がりを把握しておらず、「司牧」に関するテーマかと思いお伺いする次第です。--ジャコウネズミ会話2013年3月20日 (水) 12:45 (UTC)
ご指摘の通り、カトリック教会が「社会教説」と呼ぶものは、教皇による回勅や書簡などに示された、教会と社会との関連についての大きな枠組みを指し示すものなので、ご加筆分を上の節に移行させて頂きました。

【カトリック教会の社会教説】 http://www.nagasaki-gaigo.ac.jp/toguchi/social-doctrine.htmTizizano会話2013年3月20日 (水) 21:04 (UTC)

項目の移動ありがとうございます。「福音伝道の転換」も訳出し「福音と司牧」の方に入れました。--ジャコウネズミ会話2013年3月20日 (水) 22:16 (UTC)
ご加筆下さった「聖礼典問題」には、本当に感銘を受けました。いかなるあり方でもこの世にあらわれることができた神の子イエスが、「無力な赤子としてお生まれになった」こと、初期のイエスの弟子たちには罪人(徴税人、娼婦等)が含まれ、ルカを除けば格別の教養も社会的地位もなかった人たちです。さらに、復活のイエスが、男性の主立った弟子たちではなく、まずマグダラのマリアの前に現れたことも神のまなざしが「一隅を照らす」、社会のもっとも恵まれない人々に対して注がれていることをもっとも端的に示していると思います。マルコ2:17に「罪人を招くため」とあるのに、シングルマザーの子供の洗礼を拒否する司祭は言語道断であり、教皇様のご判断こそ、聖書に照らし合わせて、主の目に適ったものだと思います。私が洗礼を授かった神父様は「司祭も罪人です」とおっしゃいました。シングルマザーの子供を邪険に扱う司祭たちは、聖書の教えに反することをしていると思います。教皇様が「新聖職者主義」という言葉で批判されているのは、まさにこのことではないでしょうか。ジャコウネズミさんには「釈迦に説法」になりますが、ローマ人への手紙にある「義人はいない。一人もいない」という言葉の意味を再認識させる新教皇のすばらしいメッセージだと思います。「右手でしていることを左手に知らせてはならない」と聖書にあるのに、教会の中にも、自分をいかにも敬虔に見せようとする偽善者のなんと多いことでしょう。信仰とは、放っておいても立派な振る舞いができる人のためにではなく、その逆だと思います。Tizizano会話2013年3月20日 (水) 22:45 (UTC)
フランス語版の出典注記には注釈がついていて、聖礼典問題はここ数年で状況が幾分変わっており云々、と書いてあるのですが本文以上に意味の把握と訳が難しくコメントアウトしております。なお、ノートは合意が必要な議論、編集方針の確認、記事向上のための議論等に資すべきものだと思いますので、今後は感想等はお互いの会話ページでしましょう。--ジャコウネズミ会話2013年3月20日 (水) 23:49 (UTC)
ご案内のフランス語の典拠原文に従い、その閲覧者の多くがクリスチャンではない jawp の特殊事情を考慮して、よくわかるように注釈をつけさせて頂きました。Tizizano会話2013年3月21日 (木) 00:38 (UTC)
(インデント戻し)注釈にいくつかの問題を感じたので、お互い話し合って調整させてください。
  1. 仏語版注釈部とニュアンスが異なってしまっている懸念:以下、原文注釈部の拙訳。《2012年9月時点での枢機卿の表現は少しこれ(訳者註:La Vie 2013年3月14-20日号)とは異なり、週刊誌 La Vie によれば(直訳:を読むと)、枢機卿は「律法主義で偽善たる新聖職権主義」であったこの「行い」をその際に「適格化」した、となっている。》(打消し部分は最終的には省くつもりの部分)
  2. 聖書解釈のミスリードの懸念:1)「グノーシス主義」の語は聖書にはなく、その思想も福音書には出てこない(教派の解釈にもよると思いますが)。1コリントでパウロがグノーシス主義の系譜を持ついくつかの習慣や思想を叱咤している例があるのは認めます。2)「律法主義のファリサイ派」は、福音書中に多くの言説が見られ、とりわけ香油をイエスの足に塗った女へ誘導する意味がない。3)香油をイエスの足に塗った女がマグダラのマリアであるというのはカトリックの伝統的解釈であって(本項はカトリックの記事ですが)、聖書は香油をイエスの足に塗った女がマグダラのマリアであることを保証していない。
  3. 本文と注釈の末尾が同語反復(トートロジー)の関係になっている懸念
・・・と、わたしも似たようなことを考え再考し、上掲のご指摘がある前に少し書き換えてみましたが、いかがでしょうか。Tizizano会話2013年3月21日 (木) 02:08 (UTC)
あなたの推敲を踏まえ、わたしも推敲を加えましたが如何でしょうか?--ジャコウネズミ会話2013年3月21日 (木) 02:26 (UTC)
再版を拝見致しました。ジャコウネズミさんのご説明の方が断然わかりやすいですね。ありがとうこざいました。特に2)のご指摘は、カトリックとプロテスタントとの違いが出ていて面白いですね。洋画の伝統では、「香油」(or「香炉」or「髑髏」)はマグダラのマリアのアトリビュート(持物)なので、描かれている女性はマグダラのマリア以外はほぼあり得ないのですが、これは「カトリックの伝統的解釈」なのですね。知らなかった〜。それから、「* 1. の注釈」に関しては同感です。イエスもまた、ヒレル派のファリサイ神学に学んだのであり、ファリサイ人たちも仲間だと思うからこそ、長々と話し合っているのでしょう。そうでなければ、世俗的観点から見れば、ナザレの田舎説教師に過ぎないイエスを相手にするわけがありません。Tizizano会話2013年3月21日 (木) 02:40 (UTC)
上記 1. では、« qualifié » を完全に勘違いしていました。すみません。同時に、« qualifié », « comportement », « néocléricalisme rigoriste et hypocrite » が «  » で強調されていること、「 」内は日本語としても熟語の方が納まりが良いこと、文の繋がりからして「振る舞い」(=行動)というより「態度」を批判したと読むべきと考え直し、《枢機卿は洗礼拒否に見られるような「態度」を「律法主義で偽善たる新聖職権主義」と「形容」した》としました。協働できて幸いです。--ジャコウネズミ会話2013年3月21日 (木) 03:53 (UTC)
ジャコウネズミさんのご説明の方が、やはり詩的豊かさがあって、閲覧者にははるかにわかりやすいと思います。しかし、ジャコウネズミさんは、ちょ〜厳密主義でいらっしゃいますね。私は括弧や点まで、そこまで厳密に考えませんでした。「ニューヨークタイムズ」がバチカンの雰囲気の一変を指摘しておりますが、もっともだと思います。フランシスコ教皇の着座は、「復活祭」を控えて、信徒にとって「福音=喜ばしい知らせ」だと思います。Tizizano会話2013年3月21日 (木) 04:23 (UTC)
わたしが訳出した中では「ミッション」を「伝道」にしていますが、カトリックでは「宣教」の方が良いでしょうか?(単語の置き換え作業はテキストエディタで一瞬でできます。)--ジャコウネズミ会話2013年3月22日 (金) 01:37 (UTC)
追補:Tizizano様から「宣教」だろう、とのアドバイスをいただきました。--ジャコウネズミ会話2013年3月22日 (金) 15:26 (UTC)