ノート:ウマ

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。


分類[編集]

サラブレッド、アラブ、アングロアラブ種以外のトロッター、クォーターホースなどは中間種とする分類もあるようですが…。Goki 06:46 2004年5月24日 (UTC)

画像・小説[編集]

画像:Pferdu1.jpgを独語版より持ち来たりし。撮影者による投稿なりとぞ。名無し 07:16 2004年5月28日 (UTC)

ウマをテーマにした小説は、追加ダメでしたか?宮本輝の「優駿」とか、書いちゃいけない?D.フランシスの競馬シリーズも出てこないけど、避けてる?それとも書いたら編集されたのだろうか。「アバターの島」とかも。どうしたのだろうか。Mishika 01:14 2004年5月30日 (UTC)

  • 全然、OKだと思います。って、『優駿』書いちゃいました。Azu 12:11 2004年5月30日 (UTC)

膀胱[編集]

ウマは膀胱を持たないって書いたヤツ、誰だよ。--以上の署名のないコメントは、219.97.188.96会話)さんが 2005年1月4日 (火) 00:31 (UTC) に投稿したものです(Zimanによる付記)。[返信]

私です。少なくともそのように書いてある文献が存在します。(『哺乳類の生物学1 分類』 金子之史著、東京大学出版会)ウマについてお詳しいようですね。もしよろしければノート:ウマ目の議論に参加してください。Azu 2005年1月4日 (火) 06:47 (UTC)[返信]

フレーメン[編集]

フレーメンは色々な草食動物の雄で見られるのでわざわざ書く必要ないとおもいます。 --Ypacaraí 2005年2月20日 (日) 10:32 (UTC)[返信]

  • なるほど。だとすれば、フレーメンについての記事は、何の項(ページ)に移すのが妥当でしょうか。「フレーメン」そのものの項はまだないようですね。 Inukawa 2005年2月21日 (月) 13:05 (UTC)[返信]
遅れてすみません。気付かなかったもんで。de:Flehmenen:Flehmen responseに記事がありますが、日本語版にはありません。外部のサイトでフレーメンに触れたページでこんなのがあります。フレーメンの猫。英語版には、有蹄動物(ウマ目・ウシ目)・ネコ科動物その他多くのほ乳類で見られるとあります。 --Ypacaraí 2005年3月3日 (木) 10:38 (UTC)[返信]

原産地[編集]

「北米が原産」ってホントですか?
「原産地の北米で全滅」北米だけでなく南米でも、数千年前の気候の変化によって中米にいた猫科の猛獣の棲息地が南北に拡散したために馬は一度絶滅したわけです。 --Ypacaraí 2005年2月6日 (日) 14:21 (UTC)[返信]

補足すると、ウマ科の進化の主要な舞台は北米大陸でした。第三紀のウマ科の誕生から今日の第四紀まで北米大陸で多様化したウマ科の一部が何度も南米大陸やアフロ・ユーラシア大陸に拡散しましたが、多様化の中心は常に北米大陸だったのです。今日見られる現代型のウマであるエクウス類(ウマ、ロバ、シマウマなど)も北米で誕生してからユーラシア大陸やアフリカ大陸に拡散したものの子孫です。ところが、最終氷期が終了して現代の完新世に突入したころに北米大陸でウマ科が絶滅してしまったのです。これはYpacaraíさんのおっしゃるようなネコ科の猛獣の拡散とはちょっと考えられません。ネコ科の猛獣はむしろ北米大陸と南米大陸が陸続きになった時に南米大陸に侵入し、北米・アフロ・ユーラシア型の哺乳類とは異質な発展を遂げた哺乳類の世界を激しい絶滅に追いやっています。ウマ科の北米大陸での絶滅は大きく分けて二つ説があり、氷期が終了した時の環境変動によるとするものと、ユーラシア大陸から侵入した人類によるオーバーキルによるとするものです。確かに氷期と間氷期の端境期にはすさまじい環境変動があり、変動前の生態系や生物群集の構造は大きな改変を迫られます。しかし、ウマ科の動物が第四紀に何度も繰り返された氷期と間氷期の環境変動をくぐり抜けて生き残っているのに、前回の変動だけをくぐり抜けられなかったのは、そこにプラスアルファの要因として人類の狩猟の影響があったからではないかと私は考えています。つまり、どちらが原因だったかと二者択一するのではなく、気候変動と人類のインパクトのダブルパンチを食らってしまったのではないかというわけです。--ウミユスリカ 2005年2月6日 (日) 15:31 (UTC)[返信]

なあるほど。人間がアジアから渡って大陸に拡がるまでウマはいたんですね。その頃のヒトはウマの利用価値が分からず保護しなかったのかなあ。--以上の署名のないコメントは、Ypacaraí会話投稿記録)さんが 2005年2月6日 (日) 15:42 (UTC) に投稿したものです(Zimanによる付記)。[返信]

品種の追加[編集]

品種/軽種の記事ですが、アラブなどの上記の三つでは軽種としては足りない気がしたので、アンダルシアンとアハルテケの有名どころを2つを足してみました。 僕としては、これ以上の品種の追加はしないほうがいいかと思います。そこでこれ以上品種の追加をするような場合は記事が長くなりそうなので、別に「馬の品種一覧」を作ってみてはどうかと思いました。これ以上追加したいと思う方がいればの話ですが、その時は新しく議論されればよいかと思います。(olwigg 2006年2月7日 (火) 14:08 (UTC))[返信]

利用者:Jossi氏の疑問について[編集]

リバートの理由について、しきりに出典を求められていますが、記紀の伝承とくに継体天皇以前は神話として解釈されており、一般に史的価値は認められていないということです。 よって「信憑性が乏しい」という記述は、記紀の内容を全否定するわけではありませんが、中立性や検証可能性を旨とする百科事典的記事としては必要不可欠な語句です。--Lemon pie 2006年9月19日 (火) 11:56 (UTC)[返信]

真実を探求する場ではありません。また、貴殿の編集が合意を必要とする側です。「まず改変して、それに文句があるなら合意を形成する」というルールは存在しません。Jossi 2006年9月19日 (火) 12:54 (UTC)[返信]
  • ノートでの合意を経ずして編集したのはJossi氏です。(履歴を確認願います。)よってそれ以前の版に戻し、改めてJossi氏が記紀記述の史的価値等の証憑資料を明示してから編集なさるべきです。--Lemon pie 2006年9月19日 (火) 13:09 (UTC)[返信]
既存のものに加筆され、それを戻したら、その加筆が証明する義務を負います。日付は違えど、お互いに3RRに触れています。どうぞ、証明してから編集して下さい。Jossi 2006年9月19日 (火) 13:34 (UTC)[返信]
Jossi氏は全く勘違いしておられます。記事に必要な部分を浅慮にも削除したのはJossi氏の所業です。議論する前提としてそれ以前の版に差し戻す必要があります。--Lemon pie 2006年9月19日 (火) 16:24 (UTC)[返信]

横槍ですが、失礼します。「信憑性に乏しい」と書くよりは「伝承としてこれこれ。考古学的発見から確認が出来るのはこれこれ。」という記述の方が良いような気がします。らりた 2006年9月20日 (水) 12:17 (UTC)[返信]

らりた氏の提案に基づき、大胆に編集してみました。記紀に登場する説話も増やしました。私は歴史学者でも考古学者でも国文学者でもないので真実や事実はわかりませんし、そのための手段も持ち合わせてはいません。しかし、「ウマ」という和語や「馬」「駒」という字語のルーツや記紀での使われかたなどを研究すると何かわかるかもしれませんね。「邪馬台国」とか「対馬」とか「但馬」といった、日本列島と大陸をつなぐ場所の古い地名に「馬」が含まれているのも示唆的だと思います。零細系統保護協会 2006年9月21日 (木) 18:36 (UTC)[返信]

==分割提案== ウシ牛肉は別項目になっていますので、ウマ#食用の部分を馬肉に分割したいと思うのですが、どうでしょうか。--61.116.117.201 2007年4月11日 (水) 04:06 (UTC)--61.116.117.201 2007年4月11日 (水) 04:29 (UTC)(追記) [返信]

分割提案[編集]

本項はどちらかといえば家畜としての馬が充実した記事となっているので本項を家畜としてのウマとして残し、別個に生物分類項の1つとしてウマ、ロバ、シマウマを含めたウマ科をリダイレクトから独立させようかと思います。(日本語版への投稿が望まれている記事にもありますので)独立、場合によっては分割にあたり皆様の御意見ををお願い致します。--Moss 2007年6月27日 (水) 15:12 (UTC)[返信]

生物としてのウマ科に多くの投稿が望まれているのであれば、分割してよろしいのではないでしょうか。どの節を対象とお考えでしょうか。 --Kurihaya 2007年7月20日 (金) 04:50 (UTC)[返信]
ウマ科の編集は始まっていたのですね、失礼しました(検索に失敗していたようです)。この「ウマ」に生物学的におかしな記載がないか、たまに見に来てください。 --Kurihaya 2007年7月20日 (金) 04:57 (UTC)[返信]
ウマ科」を記事化した者です。「Wikipedia:日本語版への投稿が望まれている記事/生物」をチェックしていたら、ウマ科に該当する英語版の“en:Equidae”が存外短くて手軽に処理できそうだったので、サクッと作ってしまいました。こちらのノートを見て手をつけたわけではありせんが、Moss さんにはたいへん失礼いたしました。そんなわけですから、当然のことながら、お気づきの点があればお好きなように改良していただいてかまいません。なお、私の立てた記事は、英語版を元にしていますが、細部で多少変えてある部分があります。--Inukawa 2007年7月20日 (金) 15:53 (UTC)[返信]

日本の馬の記載について[編集]

神功皇后と馬事文化伝播に関する記述がいきなり全消去されてますが、これはどうかと思います。消した人は信憑性がないといいますが、それは消した人の個人的見解にすぎず中立的な見解とはいえません。実際に日本への馬事文化普及時期と大和朝廷の朝鮮半島進出時期は考古学的にも一致しているわけですから、日本書紀に於ける神功皇后の記述が馬事文化伝播の事実を反映した記述である可能性は捨てきれないものです。したがって、そういった記述は消すべきではないでしょう。もっとも全てが真実だと言い切るのも中立的な見解とはいえませんね。こういった場合は断定的表現は避けて客観的に「日本書紀にはこういうことが書かれてある」と記載し、何処まで信憑性があるかは読む人の判断に任せるべきでしょう。 以上の理由で消去は不適切と思われますので元通りに復元しておきますね。

てゆうか、もし信憑性がないとか言って消すなら初めの「スサノオが斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織小屋に投げ込んだ云々」とかそっちでしょ。なんで神功皇后に関する記述を消すのか不思議でしょうがないんですよね。
因みに私は「スサノオが斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織小屋に投げ込んだ云々」話以下の部分は必要ないと思いましたが、書いた人の意思を尊重して消去はせずに残しておいたんですけど。--久留米 2007年7月1日 (日) 06:55 (UTC)[返信]

騎馬?騎馬隊?[編集]

Izayohiさんが「騎馬軍団」という記述を「騎馬」に修正された後、すすき・ちんやさんが再度「騎馬」を「騎馬隊」とされていますね。 編集合戦の種になってはよろしくないと思いますので、それぞれの編集意図について、理由や考え方などを述べ合って、きちんと話し合ったほうがよいのではないでしょうか?

私の勝手な推測では、Izayohiさんの編集の意図としては「軍団」というような近代軍制特有の語は、古代や中世の記述に適切ではない、というお考えからではないかと思ったのですが、いかがでしょうか?そういう観点からいえば「隊」も近代以後の用語ですので、あまりふさわしくないといえそうですが。--Horlicks 2008年1月7日 (月) 08:45 (UTC)[返信]

」は近代以後だけに使われる用語ではありません。近世以前でも一般的に使われています。検索すると大量に出てきますよ。
ここでは多数の騎馬が集まって運用された事例についての話なので「騎馬」だけでは集団であることが表現できてませんね。「騎馬隊」が相応しいでしょう。
それと、なるべく横レスしないで欲しいんですけど・・・他の人の考えを当人より先に推測で述べる必用はないでしょう。本人が考えを述べれば済むことですから。横レスされると話が混乱するんですよね・・・取りあえず当事者同士が話し合うのが先です。反論があるならある程度話し合いがすんだ後でお願いします。--すすき・ちんや 2008年1月7日 (月) 12:52 (UTC)[返信]

日本の馬に関する出典の追記と補足[編集]

いつの間にか、フランスからアラブ馬を贈られた云々の部分に要出典タグが付いていたので、出典を記してタグをはずしました。我々(競馬プロジェクト参加者)にとっては常識すぎて、まさかわざわざ出典を付す必要があるなど夢にも思わないよく知られた事実なのですが、競馬に関心がない方にとってはデタラメな伝承と思えるようなことなのでしょうね。公文書も残っているような話であり、当たり前すぎてわざわざ出典を探すのがかえって大変でした。前段の「現代の馬種改良とは正反対の方法だった」への要出典タグや伊達政宗云々の要出典タグもまとめてはずすために、てっとり早く日本馬政史と日本競馬史をあげました。それぞれ一冊700~800ページ、5~7巻にも及ぶ大著で、特に日本馬政史は全巻が今回の件について詳述しているような(しかも旧仮名使いで!)内容です。何ページに出典があるというよりは全体が出典となります。とはいえ、検証のためにこれを全部読めというのも不親切なので、フランスからアラブ馬が贈呈された一件について端的にまとまっている部分を指摘すると、3巻のp70からp75となります。(ただし、ここだけで全てが網羅されるわけではないので注意してください。)

なお、日本馬政史は膨大な参考文献からの引用を含んでおり、その引用元は江戸時代やそれ以前の古文書の類ですので、そこに書かれていることが歴史的事実であるかどうかは、私は責任が持てません。この中のこれはウソっぽいとか私が言えば、それは独自研究に抵触するでしょう。

伊達政宗云々に関しては、日本馬政史では、仙臺産馬沿革史から引用する形で「政宗がペルシアから馬を輸入したという口伝がある」ことを紹介しています。ただし、日本馬政史でも事実かどうかはわからない、と書かれています。薩摩に関しても同様です。いずれにせよ、こうした伝承はよく知られていると思いますが、それを事実と示す出典を見つけられなかったので、こういう伝承がある、という表現に改めました。蠣崎氏についても同様に、私もそういう話は聞いたことがありますが、いざ出典をといわれると見つけられなかったので、ここだけタグを残しました。零細系統保護協会 2010年11月6日 (土) 13:40 (UTC)[返信]

小金牧をよくいじっている者です。訂正するには力不足なので、大したものではありませんが、情報提供だけします。
①時期によりますが、小金牧では何箇所か「御囲」がつくられ、優良馬をキープし、引退後の将軍の馬を入れたりして品種改良がされていました。命令があったとき将軍用の馬が出せなかったら大変ですから、当然ですね。②ナポレオン三世の馬参照下さい。先代将軍宛の馬を留守番の家臣が勝手に処分したら、切腹モノでしょう。③徳川光圀の牧も面白いのですが、力不足で。--仕事中の 2011年1月29日 (土) 02:42 (UTC)[返信]
仕事中のさんこんにちは。ナポレオン三世の馬小金牧も更新をいつも楽しみにしています。
さて本件の結論から言うと、私には実際の真偽はわかりません。ナポレオン三世の馬の内容は「ナポレオン三世の馬は散逸した」という定説を覆すものです。論文などの出典もありますが、後述のとおり個人的には澤護さんの論文の内容がにわかには信じ難いです。したがって「異説がある」旨を脚注に記すにとどめます。
私は複数の文献を基に「下総御料牧場での馬産は近代的な意味での馬匹改良と呼べるものではない」「ナポレオン三世の馬は散逸した」旨を書きました。
私がこれまでに参考にした主な文献から引用します。(漢字は適宜常用漢字に置換)
  • 馬匹改良の手法について
『宮内省下総牧場における競走馬の育成調教』日本競馬会,昭和15年,p3
天正年間以降は時の支配者は最も駿逸な牡馬を選び専ら繁殖に力を尽したが、永年に亘り同一血族の繁殖に委ねた結果、馬格は漸次退化しその体尺も矮小となり(以下略)
『続日本馬政史』神翁顕彰会,昭和38年,p21(下総御料牧場の業務)
明治19年(1886年)旧来の放飼野産馬は体格矮小のため、改良上には効果を認めないので之を廃して全部払下げ処分された。
このほか、これ以降の多くの文献で同趣旨の記述があります。
  • ナポレオン三世の馬について
『馬政学』今井吉平著(東大教授、馬政官),明治43年,p14,p19 本書についてはナポレオン三世の馬でも論じられていますので引用は不要でしょう。
『日本馬政史』帝国競馬協会,昭和3年,3巻p72~73、p76
(略)其意蓋し良種に酬ゆるに良種を以てし、深く本邦馬産の改良を希望するに出たるものにして決して偶然ではなかりし、しかるに幕府當路者は其然る所以を察せず、徒に尋常一様の進物と見做し之を姻族重臣の間に分ち殆ど其終る所を知らざるに到らんとせしに依り、(後略)
この後、カズヌーフの建議が3ページ半にわたり引用されていますが、そは実現せられずにして了はったとあります。
明治六年の事也、此年尚廿六頭中九頭の牡馬は生存し居り、尚ほ探求すればさらに十二頭はあるべしとのことをいへり、(後略)
ナポレオン三世の馬の主旨はこれらの「従来の定説」を覆すものであり、私としてはとても興味深いです。文久3年到着すら否定となると、「えっマジで」としか言いようがありません。
澤護さんの『箱館戦争に荷担した10人のフランス人』『S.カズヌーブに関する若干の資料』読みました。「感想」級のコメントになってしまいますが、史学の論文ってこんなイージーなの?と思いました。重要なポイントである文久3年到着の否定については澤護さんは次のように述べています。
この原資料がそこに保管されているものか、これを求めて多くの図書館や資料館等を捜し求めたが、今日までついに発見することができなかった。気になった点は、文久3年の文字であった。文久3年、つまり1863年にフランス皇帝が将軍家重に今でいう最高級自動車にも匹敵するほどのアラブ馬26頭を贈進するほど、フランスと幕府は親密であったろうかということだった。(中略)文久3年はあるいは慶応3年の誤記ではないかと考えて調べてみると、この年の5月29日に、横浜に入港したフランス艦・クルーズ号でナポレオン三世より将軍への贈物として、20頭のアラブが運ばれてきたと書く新聞記事が目にとまった。20頭と26頭の違いはあるが、先の文久3年はまず慶応3年の誤記と判断してよいであろう。
新聞記事とは”The Daily Japan Herald”1867.5.30でして、要はこの記事一本で「20頭と26頭」の違いには目をつむり、「文久3年は慶応3年の誤記」と決めつけています。まあ私は史学の教授でもなんでもないのですが、明治の人間が慶応と文久を誤記するかなあ?、というのが感想。西暦より日本紀元が重視されてた時代に1860年と1866年を誤記したというのはちょっと信じがたいなあ。この論文一本で従来の定説が覆るのかなあ。全体的にこの「論文」、「だろう」「と考えたい」「だろうか」「ちがいない」「わけがない」という論調で、なんか信頼感がないんですよね・・・
(以下、独自研究)澤護さんがさかんに引用する『日本馬政史』よりも15年以上古い『馬政史』にはアイヨンデールが明治27年(1894年)に37歳で死亡とはっきり書いてあります。例の26頭のリストでは7歳ですね。つまり輸入は「1894年の30年前」=1864年=文久四年。馬齢の数え方が不明なんですが、リストがフランス式だとすると「7歳」は数えで言う8歳にあたり、1863年輸入に符合します。慶応3年(1867年)輸入説とはどうも合いません。私は『千葉縣東葛飾郡誌』見たことないのですが、そこに登場するという「アラビア馬20頭」と”The Daily Japan Herald”の伝える20頭が符合しますが、実は2回贈呈があったとか(笑)。『下総御料牧場概観』(下総御料牧場,明治36年,p12)には文久年間にサラブレッド6頭を導入とあります。うーん、どうなんだろう。--零細系統保護協会 2011年1月29日 (土) 17:37 (UTC)[返信]
余談ですがシンザンのサラブレッド最長寿記録が35歳でしたので、(サラブレッドかどうかは怪しいですが)アイヨンデール(=イロンデールでしょうね)が37歳まで生きたのであればびっくりですね。--零細系統保護協会 2011年1月29日 (土) 17:51 (UTC)[返信]
馬に詳しい方に読んでいただき汗顔の至り、また、お答えというより解説ありがとうございます。私も明治の人間が、文久と慶応を間違えるのか、と、慶喜不在中の下賜を信じるのか、の相反する二点が疑問です。いくつかの資料の提示が妥当でしょうか。(自分で慶応説支持としか読めない提示をしてますが。)広沢安任は慶喜の時に来た、と書いていますが、決め手には今一つです。書状が文久で到着が慶応と推定した資料もあったと思います。個人的に「馬のその後を知りたい」だけです。(適当に書いていると親切な方が訂正してくれるという期待もあります。)著作権絡みで書いていませんが、小金牧の牧士が江戸で洋式の調教をみっちり仕込まれた、厩舎建設の下見にカズヌーヴが来た、白井市に「アラビア馬の墓」という馬頭観音がある…略奪前に馬を松戸から移動したにせよ散逸に該当、という話もあります。ペースは落ちると思いますが、馬のその後さらに調べるつもりです。ご教示お願いします。--仕事中の 2011年1月30日 (日) 00:42 (UTC)[返信]
ナポレオン三世の馬はミスがないようにコツコツ書き加えていくつもりです。サーバーの負担は無駄に増えますが。エルグエタガについては未確認ながら、アラビア語ではなくフランス語という驚きの情報がありました。馬が小さくなったので吉宗が改革に乗り出した話もありましたね。--仕事中の 2011年2月3日 (木) 14:16 (UTC)[返信]
「ミスがないように」自体がミス、のほかに追加です。1.ナポレオン三世の馬、の方に要約を書きましたが、「其意蓋し…」の元は『大日本馬種略』にある鼓包武の話のようで、そっくりな文章があります。ただし、幕府当路者ではなく当路者になっています。だれかが、後で幕府を付け加えた訳です。(鼓は佐藤栄作にも東電にもつながる人物です。)2.馬好きの方の掲示板によると、新政府が馬の受け取りを拒否したそうです。そのうち一番下の馬を引き取ったのが、函館大経とのことです。函館は馬界の方々にはよく知られた人物だそうですね。フランス式の馬術とも密接な関係があるようで。馬の離散の構図が何となく…。3.吾妻が明治3年生まれという資料もあります。謎です。--仕事中の 2011年11月9日 (水) 07:42 (UTC)[返信]

飛鳥・奈良時代の項目での除去[編集]

大化改新で馬肉が禁止されたと書かれていましたが、私が『日本書紀』のその辺りを見たかぎりではありませんでした。また、『出雲国風土記』に大国主に馬肉を献上したことがあるそうですが、これも私には見つかりませんでした。大国主という書き方は出雲国風土記のものではないので、『古事記』と『日本書紀』にもざっと目を通しましたが、やはり見えません。削っておきました。が、私の見落としだったり、あるいは他の文献にあることなのかもしれません。事実なら載せるべき情報だと思いますので、見つけた人がおりましたら、書紀なら何年何月何日条、風土記なら何郡何郷のところかを出典として書いて、戻してください。--Kinori会話2014年1月11日 (土) 14:24 (UTC)[返信]