ノート:イエス・キリスト

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統合も含めた抜本的な見直し論[編集]

報告 ノート:救世主イエス・キリストに各種イエス・キリスト関連の記事の統廃合を巡る議論が行われています。--Kinno Angel 2011年1月23日 (日) 09:44 (UTC)[返信]

イエス・キリスト関連記事群の、統廃合を含めた抜本的構成整理の必要性について[編集]

二点、御座います。

  • 上記議論の過去ログ化を提案します。
  • タグが4つ貼られましたが、イザヤさんからのご説明を是非お願いしたく存じます。なお、テンプレは「複数の問題」に代えました。--Kinno Angel 2011年1月22日 (土) 13:53 (UTC)[返信]

さらに二点加えます。

  • 出典の明記タグについては異論無いのですが、中立的観点タグが貼られるほどの分量がそもそもあるでしょうか?具体的にどの辺が中立的観点を満たしていないとお考えでしょうか。
  • 『図説 聖書の世界』からの引用(?)部分についてですが、もしかしたら削除しなければならないかもしれません。著作権侵害が疑われますね。大幅修正するにしても、削除後にしなければならないかと思います。--Kinno Angel 2011年1月22日 (土) 14:12 (UTC)[返信]

過去ログ化に賛成です。

イエス・キリストについて「この項目では、宗教的指導者としてのイエスについて説明しています。」、救世主イエス・キリストは「信仰の対象としてのイエスについては「救世主イエス・キリスト」をご覧ください。」とあるふりわけそのものが、Maris stella氏 の理論、イエス・キリストのノート2005年6月8日 (水) 06:45時点における版、本文2005年6月10日 (金) 08:03時点における版 (編集) に基づいているようで、この出典の無い理論に大いに問題があります。まずこの二つの項目名そのものと、内容に抜本的な修正が必要です。順番に説明します。--イザヤ 2011年1月22日 (土) 15:23 (UTC)[返信]

報告 過去ログ化を実行しました。
コメント
イザヤさんからの詳細な説明を待っているところではありますが、まず私からも申し上げます。
なぜこんなに複雑に細分化された記事構成になっているのかと思っていたのですが、出典の無い一人による主張が根本にあったのですね…今まで気付かなかったのが全く悔やまれます。イザヤさん、色々と経緯の調査をありがとうございます。
速やかに現状を改善する必要があるでしょう。重要な記事であるだけに、せめて1ヶ月以内にはメドを立てたいところです。
一般論として、複数の観点から全く違う言及がされる記事については、以下のようなことが言えるかと思います。
  • 項目を観点別に分けて立てることについて
    • メリット:中立的観点の達成が容易である
    • デメリット:構成が複雑になって、どの記事を見れば良いのか初心者に判り難くなる
  • 項目をまとめて立てることについて
    • メリット:初心者がどの記事をみれば良いのか判り易い
    • デメリット:中立的観点の達成が難しくなる
以上、項目数についてバランスを模索する必要があるでしょう。
私としては現時点の状態は「多過ぎる」と思います。私からは以下の3つで必要かつ十分と思います。
  1. イエス・キリストキリスト教における観点(イエス・キリストという表現そのものが「イエスはキリストである」の意を含む)
  2. イスラームにおけるイーサーイスラームにおける観点
  3. ナザレのイエス…他宗教、および歴史学・宗教学における観点
具体的には以下の方策が必要と考えます。
イザヤさんから異論が無ければ、正式に統合提案を出します。
以上の統合とは別に抜本的改良・修正について。
出典なき記述、参照方法に問題ある記述については思い切って削り取り、新たに書いていく位の事をしても良いと思います。但しそれで「記事がゼロになりました」では無責任に過ぎますので、私が出典を提示しつつ抜本的に改良に当たれますのは(統合後の)イエス・キリストのみである事、そして(統合後の)ナザレのイエスについては、基本的に全記事を(各種タグは添付するかもしれませんが)当面は残す方向で考えていることを申し上げます。--Kinno Angel 2011年1月23日 (日) 09:16 (UTC)[返信]
節名を変更させて頂きました。統廃合・抜本的修正について広く意見をお待ちするものです。--Kinno Angel 2011年1月23日 (日) 09:21 (UTC)[返信]
基本的にKinno Angelさんの案に賛成です。後ほど用語の説明を入れます。--イザヤ 2011年1月23日 (日) 09:38 (UTC)[返信]
本議論についてなのですが、ページ名として残すことを提案しているノート:イエス・キリストに転記しても宜しいでしょうか?統合分割転記提案についても、まとめてノート:イエス・キリストに行いますので…--Kinno Angel 2011年1月23日 (日) 09:57 (UTC)[返信]
そうですね。転記に賛成します。--イザヤ 2011年1月23日 (日) 10:06 (UTC)[返信]
転記しました。--Kinno Angel 2011年1月23日 (日) 10:28 (UTC)[返信]

イエス関連の記事の統合・転記による大幅整理提案[編集]

基本的に賛成です。順に行きますが、まず、日本語訳聖書で ギリシア語: σωτὴρは「救世主」などと訳されておりません。むしろこの語は救世主教世界救世教のような新興宗教が使っています。聖書でそれに近い表現としてギリシア語: σωτὴρ τοῦ κόσμουがありますが、ヨハ3:17、4:42、第一ヨハ4:14の文脈で見れば、いずれも信仰と結び付けられています。聖書の用語で定義する世を救うわけではなく、ここから選び出された信者を救うのです(ヨハネ15:19、17:14、16)。ここで世と訳された語はコスモスですが、アイオーンという語もあります。ギリシア語: σωτὴρ単独で「救世主」などとはどうあってもなりません。そもそもキリスト教という通り、イエス・キリストという表現そのものが、イエスこそギリシャ語のキリスト、ヘブライ語のメシア、救い主であるというキリスト教の表現なのです。イエス・キリストがキリスト教用語でなく「救世主イエス・キリスト」なる珍妙な用語がキリスト教用語であるとする根拠がありません。「イエス・キリスト」とある時点で「キリスト教POV」です。そして、「救世主イエス・キリスト」は他の立場のPOVの可能性が高い語です。--イザヤ 2011年1月23日 (日) 10:45 (UTC)[返信]
新共同訳聖書では「救い主」と訳されているようですね(すべてを精査していませんが)。ただ口語訳聖書では「世の救主(よのすくいぬし)」と書かれているところもありますが(ヨハネによる福音書4:42)。日本正教会訳聖書では同箇所で「世の救主(よのきゅうしゅ)」と訳しています。
「世の救い主」か「選び出された信者を救うか」については、それだけで議論百出ですので、そう簡単に断言出来ません。福音派さんは「聖書にこう書かれているから明白だ」と仰る傾向にありますが、テモテへの手紙一2:1を、広い希望の根拠とする理解もあるのです。
しかしいずれにせよ、ギリシア語: σωτὴρは英語ではSaviour, 教会スラヴ語ではСпасительですが、いずれも「救う者」といった意味合いであり、「世」は特に入っていませんし、「救世主」という訳語を採用していない聖書が多数ある(少なくとも新共同訳、口語訳、正教会訳)のも事実です。
「救世主」は外した方が無難でしょう。--Kinno Angel 2011年1月23日 (日) 11:02 (UTC)[返信]
蛇足ですが、正教会の祈祷書ではσωτὴρСпасительСпасъの場合もある)について「救世主」と訳している箇所もありますが、「救主」と訳している箇所もあります。超教派のNPOVが要求される場面においては、多数の用例・訳例に従って良いと思いますし、やはり「救世主」に拘る合理性は無いと考えます。--Kinno Angel 2011年1月23日 (日) 12:45 (UTC)[返信]
ヨハネ4:42は世のギリシャ語が含まれていて、ギリシア語: σωτὴρ単独ではありません。文脈でそう訳すならわかりますが、項目名とすると、上記のような別の宗教と混同を招く危険があると考えます。また、Kinno Angelさんが説明してくださっているように、救済論については見解の相違があるわけですし、教派を超えて使われる用語ではないですね。訳語そのものに信仰、神学、伝統が反映されていることは多くあります。聖書には「主イエス・キリスト」という表現は多くあり、これならばまだ超教派的と言えるかも知れませんが、今のところ別項目にするほどの語でもないですね。ご提案のように統合でいいでしょう。
イエス・キリストがどのようなお方であるか、というコア部分では全キリスト教会に一致があるはずですが、参考文献にはずらっと大貫隆荒井献田川建三とならべられています。これがどのような立場で書かれているか一目瞭然であって、それらを出典として記述したいなら、史的イエスのところに書かれるべきです。--イザヤ 2011年1月23日 (日) 13:15 (UTC)[返信]
報告 反対無しにつき、統合、転記を提案どおり行いました。引き続き、二記事(イエス・キリスト、およびナザレのイエス)の改善・修正を継続していきます。--Kinno Angel 2011年2月3日 (木) 09:20 (UTC)[返信]

参考文献節の一斉削除につき[編集]

統合後、キリスト教の観点の記事とする方向性が確認された本記事ですが、参考文献の9割がたが伝統的なキリスト教の観点からは程度の差はあれ距離をとっている人々のものしかなかった上に、参照方法の疑問もありました。唯一、ベネディクト16世の本だけは残しておいても良いかとも思ったのですが、2008年12月に出た書籍なのに、2008年11月23日から2011年1月23日までの差分に、カトリック教会ないしキリスト教全体の観点について大幅に加筆された様子がありません。また、参照方法の問題を抜きにしても、参考文献が大幅加筆のされていない同じ時期(2008年11月23日から2011年1月23日)に加えられており、「記事の参考文献」ではなく「関連文献の列挙」でしかないと判断しました。以上、参考文献節の一斉削除につき報告申し上げます。--Kinno Angel 2011年2月3日 (木) 09:20 (UTC)[返信]

削除に同意します。削除された文献については、直接参照のリンクがついてはいませんでしたが、内容からすればナザレのイエスの参考文献におかれるのに、よりふさわしいと考えます。--イザヤ 2011年2月3日 (木) 09:25 (UTC)[返信]
Kinno Angelさん、ウィキペディアにて、検索者や閲覧者のみなさんのために多大な貢献なさっているたくさんの人々の存在を知り、ありがたく思います。 さて今回は、「イエス・キリスト」に掲載されている内容についてではなく、今回の「削除依頼」や「削除」の方法について、最近ウィキペディアに参加させていただいた初心者として素朴に次の3点の疑問を感じましたので、教えていただけたらありがたく、よろしくお願いします。
  1. 既に掲載されていた「参考文献」が全部削除されてしまったために、「出典がありません。内容に関する文献や情報源が必要です。」という問題点が指摘される結果を生じているようです。「参照方法の疑問もありました。」「唯一、ベネディクト16世の本だけは残しておいても良いかとも思ったのですが、」「しかないと判断しました」とありますが、これらはすべて個人の主観的判断に属するものと見受けられますが、個人的主観で掲載されていたすべての「参考文献を削除する」という方法は、いかがなものなのでしょうか?残してあれば、「参考文献」を参照なさった各閲覧者が自由に判断できる道が残されるからです・・・・また、少なくとも1つは「残しておいても良いかとも思った」のであれば、それは削除したりほかへ移すのではなく、残しておかれるべきものではありませんか?→残してあれば、少なくとも新たに生じた問題点の1つは発生しませんでしたし、今からでも解消されると思われますが、いかがでしょうか?
  2. 「2008年12月に出た書籍なのに」と根拠を挙げておられますが、たとえばこの本の著者や友人や出版関係者であったとしたら、その記述内容はそれ以前に知っていますし、書籍が出版される以前に印刷されその書籍を手にすることができますが、そういう可能性は考慮なさいましたでしょうか? また、そういう関係者以外の方が掲載なさったということを本人に確認なさったのでしょうか?
  3. 「著作権侵害」とされていますが、どの部分がどのように著作権に違反すると、出版社ないし著者からの訴えがなされているのでしょうか?
以上3点の初心者からの素朴な疑問について、よろしくお願いいたします。--クリシュナ・宇宙学校 2011年2月7日 (月) 01:41 (UTC) [返信]

 

既に掲載されていた「参考文献」が全部削除されてしまったために、「出典がありません。内容に関する文献や情報源が必要です。」という問題点が指摘される結果を生じているようです。
違うのです。「出典≠関連文献」です。ですから後半に「内容に関する文献や情報源が必要」と書かれているのです。関連文献が列挙されていたとしても、それが出典となっていなければ、やはり「出典がありません」となります。
これらはすべて個人の主観的判断に属するものと見受けられますが
私はそうは思いません。記事に使用されていない以上、意味の無い関連文献でしかありません。
たとえばこの本の著者や友人や出版関係者であったとしたら、その記述内容はそれ以前に知っていますし、書籍が出版される以前に印刷されその書籍を手にすることができますが、そういう可能性は考慮なさいましたでしょうか?
それはウィキペディアにおける検証可能性を満たしません。--Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 01:52 (UTC)[返信]
「著作権侵害」とされていますが、どの部分がどのように著作権に違反すると、出版社ないし著者からの訴えがなされているのでしょうか?
ウィキペディアにおいては「著作権侵害の可能性」があれば、削除されます。訴えがあってから対処するということは行われていません。
ノートページで議論を提起される前に、Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:検証可能性Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:著作権といった基本方針の熟読して頂くよう切にお願い申し上げます。また、削除依頼につきましてはケース B-1:著作権問題に関しても御参照下さい。それでは今後とも宜しくお願い申し上げます。--Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 01:52 (UTC)[返信]

議論「参考文献の無秩序な列挙に何らかの歯止めが必要なのでは」提起報告[編集]

Wikipedia‐ノート:出典を明記する/過去ログ6#参考文献の無秩序な列挙に何らかの歯止めが必要なのでは[*]を提起しました。--Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 02:48 (UTC)[返信]

編集報告・編集予告[編集]

以下には、まずこのキリスト教関連以外の記述の大幅削除編集についての説明をしています。--Kinno Angel 2011年2月3日 (木) 09:43 (UTC)[返信]

ナザレのイエスにも豊富に書かれている内容であり、殆どを削除しました。さらに出典が無い、キリスト教の伝統的観点から外れている記述についても、ナザレのイエスに同種の記述がより豊富に記載されていることを以て不要と判断し削除致しました。

今後、出典が全く無い記述につき、大幅に整理・削除しつつ、加筆していく予定です。予定する編集方針・使用参考文献については復活 (キリスト教)と同様のものとする予定です。--Kinno Angel 2011年2月3日 (木) 09:40 (UTC)[返信]

上記の提案で説明をするためにかなりの量の資料を用意していたのですが、Kinno Angelさんには説明しなくてもこの記事の問題点がわかったようなので、Kinno Angel氏の加筆訂正による記事の改善にともなって、資料を投入し、適時議論に参加したいと思います。--イザヤ 2011年2月3日 (木) 13:26 (UTC)[返信]
この編集につき、説明します。キリスト教と関係ない歴史学・宗教学等の見解はナザレのイエスで十分説明すれば済むものであり、キリスト教の観点説明に必要ないものは削除しました。また特に、「誕生日」節についてですが、出典もありませんでしたこと、またクリスマスを「イエス・キリストの誕生日」と考える教派は(教会学校などで子供達向けに「(不正確であっても)分かり易く」説明する場合などを除いて)ありませんが、その前提理解を抜きにしている時点で正確性すらも疑われましたため、削除しました。--Kinno Angel 2011年2月4日 (金) 01:44 (UTC)[返信]


版指定削除依頼につき[編集]

版指定削除を依頼しました。今まで著作権侵害に気付かなかったのが悔やまれます…

タグ除去も含めた修正報告[編集]

報告 タグ除去を含むこの編集(4回)につき報告します。連続投稿をお詫び申し上げます。

  • タグを除去しました。今回加筆している部分にも脚注を設けていますが、そもそも従前のタグは分割・統合・転記前の状態、および版指定削除前の状態に対して付与されていたものであり、現時点の記事の状態には必要ないでしょう。
  • 従前の「概要」を「大要」とし、「語義と指示内容」節に「概要」節を新たに設け、「イエス・キリスト」の語義について大まかに説明しました。詳細な説明の前にこれがあった方が、読者の便に資すると考えたためです。
  • 画像を変更・挿入しました。トップ画像変更は「最古級であること」「現代に残るイエス・キリストの肖像性をよく表現している」ことから。また神殿奉献についての絵画を追加しました。
  • 復活大祭についての説明ですが、復活祭を最重要の祭と考える教派は多く(相対的にどれほど重要視するかには差があるかもしれませんが、超教派・客観的評価は困難です)、正教会のみの特色ではないため、出典つきで文面を改めました。文章は復活 (キリスト教)から一部引用しましたが、この箇所は私が執筆した部分です。
  • 肥大化していた関連項目を大幅に整理しました(統合された記事が関連項目の中に放置されていたものもあります)。
  • 工事中タグを添付しました。さらに3日以内に加筆する予定です。--Kinno Angel 2011年9月4日 (日) 11:59 (UTC)[返信]

古儀式派の呼称について[編集]

古儀式派で用いられている転写につき、冒頭文から「イエス」節に場所を移しました。日本語での片仮名表記の問題ならば冒頭文に書く必要が有りますが、各言語での表記について冒頭で書いていたらキリがありません。英語のジーザス・クライストも冒頭に書きましょうという話になりかねません(過去実際にそういう事例が重なっています)。--Kinno Angel会話2012年3月19日 (月) 13:26 (UTC)[返信]

歴史的人物の記述について[編集]

出典の中立性に疑問があり、また地の文で学者の宗教観などについての主張をしていた記述を除きました。史的イエスはナザレのイエスで扱うようですので、転記も考えましたがすでにナザレのイエスは記述よりも充実していたため除去しました。--Gazafanids会話2019年8月14日 (水) 02:41 (UTC)[返信]

編集提案[編集]

3 「イエス・キリストとは何者か」の次に下記のような文を追記したいと思います。

イエス・キリスト信仰の確立

・紀元後30年ごろ(注Jesus | Britannica.com)刑死によってナザレのイエスは他界する。

イエスの復活信仰の確立

・50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、生ける真の神によって、死者たちの中からナザレのイエスが復活したことを表明した。(注、テサロニケ人への第一の手紙1-9)テサロニケの信者はイエスは死んでから蘇ったという復活信仰を始めた。

・54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、神によって、死者たちの中から三日目にナザレのイエスが復活したことを表明した。(注、コリント人への第一の手紙15-4)コリントの信者はイエスは死んでから蘇ったという復活信仰を始めた。

・70年ころ無名の著者はマルコによる福音書を記し、(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P9915 )イエスの死後女性信者たちに何らかの事象が起きたことを表明する。(注、マルコによる福音書16-5、南シリアの信者はこれより、イエスの生涯を福音的視座をもって眺めることとなる。)

・80年代無名の著者はマタイ福音書を記し(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )、死人の中からナザレのイエスが起こされたことを表明した。(マタイ福音書28-9) 西シリアの信者は 死人の中からナザレのイエスが起こされたという信仰を始めた。

・80年代無名の著者はルカ福音書を記す。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )(注、イエスの復活信仰が確立した。)

主イエス・キリスト信仰の確立

・50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、イエスは主としてすぐに来臨してくることを表明した。(注、テサロニケ人への第一の手紙3-13)テサロニケの信者はナザレのイエスは主イエス・キリストであるという信仰を始めた。

・54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、イエスは私たちの主なるキリストであるということを表明した。(注、コリント人への第一の手紙15-27)コリントの信者はイエスは私たちの主なるイエス・キリストであるというキリスト信仰を始めた。

  ・80年代無名の著者はマタイ福音書を記し(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )、イエスの父ヨセフは、アブラハム、ダビデの子孫であり、ヨセフの子であるイエスは予言されていたキリストであることを表明した(マタイ福音書1-1)。西シリアの信者は、イエスはヨセフの子であり、予言されていたキリストであるという信仰を始めた。

・80年代無名の著者はルカ福音書を記す。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )

・90年代無名の著者は使徒行伝を記す。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 ) ステファノが死の直前に聖霊に満たされてイエスが神の右に立っているのを見たことを表明する。(使徒行伝7-54)信者は神の右にイエスが立っているという信仰を始めた。(注、ユダヤ教に伝承されてきたキリストが主イエスであるという信仰が確立した。)

イエスの死を通しての贖罪信仰の確立

・50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、来たらんとしている神の怒りからイエスが救い出してくれることを表明した。(注、テサロニケ人への第一の手紙1-10)テサロニケの信者は神の怒りからイエスが救い出してくれるという信仰を始めた。

・54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、イエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだということを表明した。(注、コリント人への第一の手紙15-3)コリントの信者はイエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだという贖罪信仰を始めた。 また、パウロはコリント人への第一の手紙を記し、アダムにおいてすべての者が死ぬように、そのようにキリストにおいてもまた、すべての者が生きるようにさせられるということを表明した。コリントの信者はイエスによってアダムの罪による自分たちの死が神の御子により蘇りに転換したという信仰を始めた。(注、コリント人への第一の手紙15-20)

・80年代無名の著者はマタイ福音書を記し(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )、イエスはヨセフの子ではなく、聖霊によって身ごもった神の御子であることを表明した。(マタイ福音書1-18)そしてかれの民をもろもろの罪から救うことを表明した。(マタイ福音書1-21) 西シリアの信者は イエスはヨセフの子ではなく、聖霊によって身ごもった神の御子であるという信仰を始めた。そしてかれの民をもろもろの罪から救うという信仰を始めた。

また、山上の垂訓の中に主の祈りを記した。(注、これにより西シリアの信者は 信仰の行としての毎日の祈りの中で怒りの神とは異なる父なる神の信仰を始めることとなる。信者は個人として主なるイエス・キリストとの関係を深めることとなり、イエスの死を通しての贖罪信仰を深めることとなる。)


・80年代無名の著者はルカ福音書を記す。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )(注、イエスの死を通しての贖罪信仰が確立した。)

終末信仰の確立

・50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、自らの終末観を表明した。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P920 )(注、この終末観は初期キリスト教の預言者の言葉である可能性大であるとされている。出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P495)テサロニケの信者は下記の予測についての終末信仰を始めた。

・パウロが生きているうちに主の来臨がおきる。

・パウロが生きているうちに合図の声とともに主が天から下ってくる 。

・パウロが生きているうちにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる。

・パウロが生きているうちによみがえった死人や眠っていた人たちが天に上げられる。

・パウロは生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる。 (注 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。テサロニケ人への第一の手紙第4章 15 )

・54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、自らの終末観を表明した。((出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P921)コリントの信者は再臨の時までパウロが生き残ることと、不死なる体に変化する世の終わりが近づいてきているという終末信仰を始めた。(注、 コリント人への第一の手紙第15章 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。)

・95年から96年ごろ著者は不明であるが、ヨハネの黙示録が著され、天にてキリストの支配がはじまったという終末観が表明される。((出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P939) (注パウロの他界した年は65年ころとされるので、それから30年くらい経過した時点での新たな予測の表明が為された。)小アジアの信者は天にてキリストの支配がはじまったという終末信仰を始めた。(ヨハネ黙示録12-10今やわれらの神の救いと力と王たる支配と、彼のキリストの権威による統治が始まった。)(注、キリスト教的な終末信仰が確立した。)

--Tokinokawa会話2020年4月18日 (土) 04:03 (UTC)[返信]

問題が無いようですので、本文に移行しました。--Tokinokawa会話2020年6月3日 (水) 15:29 (UTC)[返信]