ギオチャンガ
ギオチャンガ(覚昌安、満州語:ᡤᡳᠣᠴᠠᠩᡤᠠ、メレンドルフ式転写:giocangga、? - 1583年)は、中国明朝後期の建州女直の部族長。後金の創始者ヌルハチ(満洲語: ᠨᡠᡵᡤᠠᠴᡳ、転写: nurgaci、努爾哈赤)の祖父。廟号は景祖(mukdembuhe mafa)、諡号は翼皇帝(gosingga hūwangdi)。明朝の資料には教場、叫場という名で表れる。
ギオチャンガは、女直の部族長ニカンワイラン(ᠨᡳᡴᠠᠨ
ᠸᠠᡳᠯᠠᠨ, nikan wailan、尼堪外蘭)に居城を包囲された孫女婿・アタイ[1]を救うために、子・タクシ(ᡨᠠᡴᠰᡳ, taksi、塔克世)とともに向かった。ニカンワイランはアタイを殺害した者に城を与えると約束したため、アタイは部下の反逆により殺害された。ギオチャンガとタクシはもともと明の将軍李成梁に指揮下にあったが、李はニカンワイランに与していたため、戦場を離れたギオチャンガ父子は反逆者と見なされ、後にニカンワイランに殺害された
家族[編集]
- フマン (fuman, 福満):興祖直皇帝 (yendebuhe mafa tondo hūwangdi)。都督。
脚注[編集]
参考資料[編集]
- 清史稿:「……覺昌安,是為景祖翼皇帝……景祖承祖業,居赫圖阿喇。諸兄弟各築城,近者五里,遠者二十里,環衛而居,通稱寧古塔貝勒,是為六祖。景祖有子五:長禮敦,次額爾袞,次界堪,次塔克世,是為顯祖宣皇帝,次塔察篇古。」(太祖本紀一)