エレオノール・ドルブリューズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エレオノール・ドルブリューズ
Eleonore d’Olbreuse
リューネブルク侯夫人エレオノール・ドルブリューズ

称号 ヴィルヘルムスブルク女伯
出生 (1639-01-03) 1639年1月3日
フランス王国、オルブリューズ城
死去 (1722-02-05) 1722年2月5日(83歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国リューネブルク侯領ツェレ城英語版
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国リューネブルク侯領ツェレ、聖マリア教会
配偶者 リューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルム
子女 ゾフィー・ドロテア
家名 オルブリューズ家
父親 オルブリューズ領主アレクサンドル2世
テンプレートを表示

エレオノール・ドルブリューズ(Eleonore d’Olbreuse, 1639年1月3日 - 1722年2月5日)は、リューネブルクゲオルク・ヴィルヘルムの妃。イギリスハノーファー選帝侯ジョージ1世ゾフィー・ドロテアの母。

生涯[編集]

フランスのオルブリューズ城(現在のドゥー=セーヴル県ニオール近郊)でオルブリューズの小領主アレクサンドル2世の娘として生まれた。一族はユグノーの下級貴族の家柄だった。1648年ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム5世の娘エミーリエパリでトゥアール公アンリの息子アンリ・シャルルと結婚するとエミーリエの女官として仕えた。

1664年冬、エレオノールはオランダでゲオルク・ヴィルヘルムと出会い1665年貴賤結婚、翌1666年に一人娘ゾフィー・ドロテアを儲けた。1674年にエレオノールは神聖ローマ皇帝レオポルト1世からヴィルヘルムスブルク伯爵位を叙爵、1676年に正式にゲオルク・ヴィルヘルムと結婚、ゾフィー・ドロテアも認知された。背景には愛妾となることを嫌がりゲオルク・ヴィルヘルムに結婚を迫ったエレオノールの意向があったという。またツェレでゲオルク・ヴィルヘルムが進めたフランスとイタリア音楽の導入・発展に関わりがあり、夫妻でイタリア滞在を重ねてヴェネツィア・オペラと関係を持ち、フランス音楽愛好家だったエレオノールの要望でゲオルク・ヴィルヘルムは1675年ツェレ城英語版内部でオペラ劇場を作った(現在も使用されるオペラ劇場の中では最古)[1]

1682年、ゲオルク・ヴィルヘルムの弟カレンベルク(後にハノーファー選帝侯)エルンスト・アウグストと妃ゾフィーの息子ゲオルク・ルートヴィヒ(後のイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世)にゾフィー・ドロテアを嫁がせた。しかし夫婦仲は悪く、1694年にゲオルク・ルートヴィヒはゾフィー・ドロテアと離婚、アールデン城に幽閉した。エレオノールはゾフィー・ドロテアとの面会を許され娘の解放を願ったが、実現されなかった[2]

1722年、83歳の高齢でツェレ城で亡くなり、遺体はツェレの聖マリア教会に埋葬された。4年後の1726年にゾフィー・ドロテアも幽閉されたまま死去した。彼女が生んだ孫ゲオルク・アウグスト(後のジョージ2世)を通してハノーヴァー朝はゲオルク・ヴィルヘルムとエレオノールの血統も継いで存続した[3]

脚注[編集]

  1. ^ 森、P183 - P184、ペッツォルト、P178、友清、P36、菊池、P123 - P124、加藤、P83。
  2. ^ 森、P194、友清、P40 - P41。
  3. ^ 森、P194 - P195、菊池、P130。

参考文献[編集]