ウッドストック・フェスティバル

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ウッドストック・フェスティバル
Woodstock Music and Art Festival
初回開催の最終日
初回開催の最終日
概要
開催年 1969年、1979年1989年1994年1999年
会場 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州サリバン郡ベセルホワイトレイク
主催 マイケル・ラング
ジョン・P・ロバーツ
ジョエル・ローゼンマン
アーティ・コーンフェルド
ジャンル ロックフォークブルースロックフォークロックサイケデリック・ロックブルースラテン・ロックインド音楽
外部リンク
公式サイト
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1984年に建立された開催から15周年の記念碑

ウッドストック・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)は、1969年8月15日(金)から17日(日)までの3日間(正確には8月15日午後から18日午前にかけての4日間)、アメリカ合衆国ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開かれた、ロックを中心とした大規模な野外コンサート。ロック・グループやフォーク歌手など30組以上が出演し、約40万人の観客が集まった。アメリカの音楽史に残るコンサートであり[1]、1960年代のカウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれている[2]

概要[編集]

このロック・フェスティバルは、アルスター郡ウッドストックにおけるアート・ムーブメントに関連して名付けられた。主催者となった若者達は、ボブ・ディランなど往年の歌手やアーティストたちが暮らすウッドストックに自分達のレコーディング・スタジオを設立する資金集めの目的で、このロック・コンサートを企画した[2]

会場は、近郊のサリバン郡ベセルのロシア系ユダヤ人個人農場主マックス・ヤスガーが所有する酪農農場になった。この一帯は、「キャッツキルバレー」と呼ばれるアメリカインディアンの共同居住区(保留地ではない)である。町の住民からは「ヒッピーが集まるヤスガー祭」と警戒され、場所を提供したヤスガーは、反対派の住民によって開催前から牛乳の購入打ち切りなどの嫌がらせを受けた。

主催者側は当初、1万人から2万人程度の入場者を見込んでいた。多くの人気ミュージシャンから出演の承諾が得られたことから、事前に18万6000枚のチケットが売れ、入場者は20万人を超えると予想された。当日は予想をはるかに上回る40万人以上が詰めかけ[1]、その半数以上がチケットを買っていなかった為に、フェスティバルは事実上無料イベントの様相を呈した[2]

開催地周辺の地図
マックス・ヤスガーの農場

収支は赤字になったが、ドキュメンタリー映画とライブ・レコードが発表されて最終的には収益に結びついた[2]マイケル・ウォドレー英語版が監督を務めマーティン・スコセッシが編集を担当した映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間[3]1970年に公開され、第43回アカデミー賞アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。また、同年にアルバムWoodstock: Music from the Original Soundtrack and More(3枚組)、翌1971年にはWoodstock Two(2枚組)が発表された。

ウッドストック・フェスティバルは、カウンターカルチャーを集大成した、1960年代のヒューマン・ビーインと呼ばれる人間性回復のための集会でもあり、音楽イベントとしてのみならず、ヒッピー時代の頂点を示す象徴と捉えられている。

ヒッピー・スタイルの入場者達

詳細[編集]

当時の風景

フェスティバルは1969年8月15日(金)から17日(日)までの予定だったが、悪天候による度重なる中断のためプログラムの進行が遅れてしまい、最終日のトリを務めたジミ・ヘンドリックスが登場したのは18日月曜日の朝8時30分だった[4]。観客の中には、ヘンドリックスの演奏の前に帰ってしまった人もいた。

会場には愛と平和、反戦を主張するヒッピーや若者ら約40万人が集まった。初の大規模な野外コンサートであったため、運営には現代の観点で捉えれば至らない点が多かった。混雑の対策は殆んど取られておらず、会場への高速道路は会場に向かう人々で混み合い、悪天候の会場は人々でごった返し、緊急用のテントなど必要な施設も多くなかった。計画段階ではこれだけ多くの人が集まるとは想定されておらず、そのための準備が全くできていなかったのである。ヒッピーの中にはドラッグを使用する者もいた。

だが、出演者が30組以上で観客が40万人という膨大な規模を考えると、驚くほど平和的な祭典だったと言えよう[3]。参加者は食べ物などを分け合っていた。会場では2件の出産があった[注釈 1]。暴力事件などは報告されていない。終了後のゴミ処理も大きな問題だったが、観客の中にはゴミを片付けて帰る者もいた。

ウッドストック・フェスティバルは、同年12月6日に開かれ死者まで出したローリング・ストーンズによるフリー・コンサート(オルタモントの悲劇)とは対照的に、1960年代を体験した同世代アメリカ人の「輝かしい記憶の余韻」として生き続けたとされている。

出演者[編集]

リッチー・ヘブンス
初日の風景

8月15日(金) 午後から深夜[編集]

土曜日の風景

8月16日(土) 午後から翌朝[編集]

ジョー・コッカー
大雨の様子

8月17日(日) 午後から翌朝[編集]

出演を断ったアーティスト[編集]

その後[編集]

1979年にウッドストック10周年記念コンサート(ウッドストック・リユニオン)が開かれたのに続き、1989年1994年1999年に記念コンサートが開かれている。1994年の25周年記念コンサートは『Woodstock II』と呼ばれ、ボブ・ディランやクロスビー、スティルス&ナッシュらが出演し、約30万人を集めた[7]。1999年の『Woodstock III』についてはウッドストック 1999を参照。

2019年にも企画されたが、中止された[8]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 人数については諸説あり。
  2. ^ 1970年にAt the Woodstock Festivalが発表された。
  3. ^ アルバム『マウンテン・ライヴ 暗黒への挑戦』(1972年)に "Long Red" and "Waiting to Take You Away"が収録された。
  4. ^ 途中、社会活動家のアビー・ホフマンが曲と曲の合間にステージに乱入して、ホワイト・パンサー党ジョン・シンクレアの投獄に対する抗議の声を上げたが、直ぐにメンバーのピート・タウンゼントにギターで叩き出されてしまった。
  5. ^ この時の演奏のほぼ全曲が、1999年にアルバム『ライヴ・アット・ウッドストック』として発表された。

出典[編集]

引用文献[編集]

  • Neill, Andy; Kent, Matt (2007). Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978. London: Virgin Books. ISBN 978-0-7535-1217-3 
  • Townshend, Pete (2012). Who I Am. London: HarperCollins. ISBN 978-0-00-747916-0 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯41度42分05秒 西経74度52分49秒 / 北緯41.70139度 西経74.88028度 / 41.70139; -74.88028