Wikipedia:井戸端/subj/百田尚樹によるWikipedia記事の無断使用問題

百田尚樹によるWikipedia記事の無断使用問題[編集]

百田尚樹という作家が、2018年11月12日発売の『日本国紀』という本の中でWikipediaの記述を多く剽窃し、僅かに改変して発表しているようなのですが、出典Wikipediaとは書いておらず、所定のルールに反していると思われます。併せて日本の法(著作権法)にも反していると思われますが、どういう対応が考えられますでしょうか。お考えを伺わせて頂きたく思います。

発覚したのは11月16日ごろで、その間、いろんな方が調べましたところ、判明しただけで、十件近くの剽窃(の可能性の高そうな箇所)があるようです。そのうち、とりあえず5件だけを例示します。--希望会話2018年11月18日 (日) 14:52 (UTC)[返信]

  • かつてYourPediaと呼ばれるWikipediaの記事を無断で多量に転載したサイトがあり、その時は、Wikipedia側からGDFLの断り書きを入れるように、という要請が行われたと記憶しています。今回も1件や2件ではなく多量にWikipediaからの掲載が確認されていますので、Wikipediaから代表者が幻冬舎か著者側に、所定の方法に従った著作権帰属表示を次版からでも入れるように要請してはいかがでしょうか。日本では今年末から著作権法が厳しくなり、条件を満たすと非親告罪化されるようですが(今回のケースに適用可能になるかはわかりません)、一方でこの手の本も今後増えてくるかもしれません。こういうケースが多いよりは少ない方がいいですし、そういう試みも行われた方が良さそうに思います。--希望会話2018年11月20日 (火) 01:16 (UTC)[返信]
  • 「Wikipediaから代表者が」の「代表者」が誰を想定されているのかわかりませんが、現実的には皆さんがおっしゃっている通り、当事者で解決すべき問題であり他に選択肢はないように思えます。もし希望さんが著作権者であるのであれば、ご自分で行動を起こされるのがよろしいのではないでしょうか。--Xx kyousuke xx会話2018年11月20日 (火) 02:34 (UTC)[返信]
  • 転載発覚後、百田尚樹氏は、ツイッター上で、少量であればウィキペディアからの無断転載が許容されるかのような、居直りともとれる文面を掲載しております。氏の影響力の大きさを鑑みるに、このような誤解を招く言説が主張され続けることは、ウィキペディアへの貢献者やウィキペディア自体の不利益となる恐れが強いと言わざるを得ません。具体的な訴訟は当事者に委ねるとしても、ウィキペディアの著作権の位置づけについて公式に注意喚起することが必要ではないでしょうか。--Punu会話2018年11月24日 (土) 09:12 (UTC)[返信]
    • 大した影響はないと判断しますが、そのような懸念をなさるのでしたらウィキメディア財団にご相談ください。ウィキペディア日本語版は、そのような注意喚起を出すための公式な組織は持っていません。--iwaim会話2018年11月25日 (日) 11:00 (UTC)[返信]

Wikipediaからの剽窃と思われる箇所[編集]

日本の国旗[編集]

日輪のマークは天下統一の象徴であり、源平合戦の折も、平氏は「赤地金丸」、源氏は「白地赤丸」を使用した。それ以降、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったといわれている(『日本国紀』p.257)
日輪は天下統一の象徴であり、平氏は御旗にちなんで「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使用した。平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったと言われる。(Wikipedia日本の国旗[1]

北条早雲[編集]

前述の北条早雲は、無名の素浪人から大名になった下克上の典型的な存在といわれていたが、近年の研究では、室町幕府の政所(訴訟を司る職)の執事であった伊勢氏の出であったらしいともいわれている(『日本国紀』p.136)
一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である。

(Wikipedia北条早雲[2]

文禄・慶長の役[編集]

『明史』(中略)には「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来七年,明は十万の将兵を喪失し,百万の兵糧を浪費するも,明と朝鮮に勝算はなく、ただ秀吉が死去するに至り乱禍は終息した」と書かれている(『日本国紀』p.158)
『明史』は「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」と総評する。

(Wikipedia文禄・慶長の役[3]

明史の記述は「自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。」であり、Wikipediaの編集者の意訳を百田が継承している。

柴五郎[編集]

『日本国紀』pp. 311-312 Wikipedia柴五郎[4]
柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くしており、さらには間者(スパイ)を駆使した情報網を築き、篭城軍の実質的な司令官として活躍した。 柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたことから、各国篭城部隊の実質的司令官であった。
「義和団の乱」の後、ロンドン・タイムス紙は、社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記したが、その功績は柴によるところが大きい。 ロンドン・タイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。なお、柴自身はアメリカ軍人が最も勇敢だったと評している。
柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。 事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。

 

沖縄[編集]

遺伝子研究でも、現在の沖縄県民の遺伝子は中国人や台湾人とはとても遠く、九州以北の本土住民に近いという結果が複数出ている。(『日本国紀』p.132)
遺伝子研究では、沖縄県民は遺伝子的に中国人や台湾人とはとても遠く、九州以北の本土住民と近く、同じ祖先を持つという研究結果も複数出ている。(Wikipedia琉球王国[5]

他、岩倉使節団など、Wikipediaの記事を複製して、やや表現を変えて本に載せた、と思われる箇所が数か所あるようで、こうしたブログ(https://rondan.net/1923 スパム・フィルターの関係で外部リンクをつけて保存できないのでリンクを外しています。)で紹介されています。既に30万部以上が発刊されていることからも、これまで、Wikipedia内の記事を無断で使用した場合と同じように何らかの対応が必要なようには思われます。--希望会話) 2018年11月18日 (日) 15:19 (UTC) (2018年11月19日 (月) 00:07 (UTC)に610CH-405さんがURLを修正されています(差分)。--郊外生活会話2018年11月19日 (月) 00:37 (UTC)[返信]

脚注

  1. ^ 記事の性質上、争点となっているWikipedia各ページの編集年月日を掲載すべきだが、可読性を損なうため、以下、注釈欄に記す。 日本の国旗-2017年10月24日 (火) 21:48-2018年11月10日 (土) 23:02版
  2. ^ 北条早雲 -2017年11月6日 (月) 01:13-2018年11月10日 (土) 18:27‎版
  3. ^ 文禄・慶長の役-2017年10月25日 (水) 16:35-2018年11月12日 (月) 21:30版
  4. ^ 柴五郎 -2017年7月1日 (土) 16:54-2018年10月22日 (月) 21:54版
  5. ^ 琉球王国 -2017年5月22日 (月) 22:12-2018年11月14日 (水) 00:13版