Wikipedia:コメント依頼/Yassie方式もしくは132人目方式の是非について/節1

節1[編集]

  • 要するに、あまりにも未熟な項目、およびその投稿者をどこまで尊重するべきか、またそのような項目を充実した記事で置き換える場合、現在のメディアウィキの仕様上では初版投稿者と拡充した執筆者が同等な共同執筆者として数えられる可能性があり、これをどのように処理・解決すべきか、という話なのではないかというように感じます。--Calvero 2007年1月18日 (木) 14:22 (UTC)[返信]
  • 場合によると思いますが、全面改訂でも改訂前の版に問題があったとき改定後の版まで削除されてしまうというリスクがある以上は、この手法にもメリットがあります。一度白紙化(Not削除)し、全面改訂したことを要約で示したときは、改訂前の版に問題があっても改訂後の版は削除の範囲外にするという方針が示されるのであれば、禁止でもいいでしょう。ところで逆に、改訂後の版と何の関係も無い改訂前の執筆者を例えば転記するときに「執筆者」とするのは、著作権法上大:丈夫なんでしょうか。著作権法第百二十一条により最高懲役1年を喰らう可能性があると思うのですが(しかも非親告罪)。………--Monaneko 2007年1月19日 (金) 00:55 (UTC)[返信]
    現在のWikipedia:著作権のGFDL解釈と日本の著作権法に従う限り、全面改稿時に履歴ページをそのままにするのはおそらく著作権法第百二十一条に抵触してしまいます。このことはGNU Free Documentation License#著作者・著作権の表示にも指摘されています。
    GFDLの4条Bは「あわせて元の『文書』の著者として、最低5人 ( もし5人以下ならばすべて)の主要著者を列記すること。」となっていて、これが著作者の表示を義務としている規定です。WikipediaのGFDLの解釈(Wikipedia:著作権)によれば「また、「履歴」にはタイトル・ページから直接のリンクが設けられています。このため、すべての著作者が、タイトル・ページにリストされていることになります」とあり、履歴ページがこの著作者の表示を兼ねているということが分かります(本来のGFDLでは著作者表示と履歴は別物です)。ここで第百二十一条「著作者でない者の実名又は周知の変名を著作者名として表示した著作物の複製物(原著作物の著作者でない者の実名又は周知の変名を原著作物の著作者名として表示した二次的著作物の複製物を含む。)を頒布した者は、一年以下の懲役若しくは百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。」を考え合わせると、この履歴ページに著作者でない者の名を表示してはならないということが分かります。
    判例ではある著作物が別の著作物の二次著作物とされるには、原著作物を参照しているだけでなく、原著作物の著作物性が感得できる程度に残っていることという要件があるようです。そのため、まったく別の文章に全面改稿されてしまった場合、その版を前の版の二次著作物とみなすことはできません。よって前の版の著作者名を履歴ページに残しておくことはできません。この法的問題を真剣に対処しようとするならば、全面改稿時は必ずいわゆる132人目方式をとるか削除依頼(ケースB-1、著作権法第百二十一条違反として)を通さなくてはならないということになってしまいます。
    しかし百二十一条はあくまで頒布者を罰する規定です。ここで頒布者は誰かというとサーバを管理しているWikimedia財団になるでしょう。しかし、Wikimedia財団はアメリカのサーバで頒布を行なっているのですから、日本の著作権法はおそらく適用できないでしょう。つまり現状では第百二十一条に抵触していても罰することはできないので特に問題はないと割り切ってしまうこともできます。ただ将来、日本法人を設立してそこでサーバ管理などを行うようになった場合にはまずいことになります。
    根本的な解決法はGFDLの4条Bの遵守を放棄することでしょう。つまり著作者が表示されているページはWikipediaにはMediawikiの仕様上存在しないとしてしまえばいいわけです。そうすれば履歴はあくまで投稿ログなので現在の版に関わっていない著作権者の名前が表示されていても法的問題は生じないことになります。(ただそのような解釈変更がローカルな言語版で許されるのならですが。)218.41.187.74 2007年1月19日 (金) 19:15 (UTC)[返信]
  • 「執筆者」という概念がまず先にありきで、履歴も含め元記事を移動、その記事名スペースを事実上白紙化占拠という形式ならおおいに問題ですね。改定前、改定後という用語の使い方にも違和感を感じます。ウィキペディアの編集は基本的にすべてそれぞれひとつひとつが改定であって、繰り返されるうちに、「初版」の記事投稿が後続の一連の編集によってすべて置き換えられてしまうこともあるわけで、それは当たり前のこととして肯定されています。もし、ある記事はある特定の利用者によって執筆投稿され、それでほぼ確定とするというのが前提であるのならば、改定前後、執筆者誰々というのが大きな意味をもちますが、それはむしろウィキペディア前のオンライン百科事典の思想であって、常に不特定多数の利用者によって記事はモザイクのように構成されて、それが恒常的に変化発展をするというオープンソースの概念とは相容れません。もし自分がオンライン百科事典の1ページを投稿したい、その前の記事はどういう理由にせよ気に入らないので裏技で隅においやってしまおうという、記事スペースの私物化の発想があるのであれば、その当人に猛省を促したいと思います。私ひとりではこの方式の是非についての判断をくだすのははばかれますが、この辺りのウィキペディアの根本方針、記事空間の私物化、履歴の裁量恣意的な操作の危険性も含めきちんと精査した上で結論を出せばよいと思います。個人的には黒だと考えています。最初この方式を知ったときはなぜこんな操作をするのか意味と動機がまったく理解できなかった。--219.122.233.148 2007年1月19日 (金) 03:33 (UTC)[返信]
  • Wikipedia:削除依頼中の項目の代替記事とそのノートによれば、削除依頼中に代替記事は作らないことになっています。その主旨から考えれば、削除依頼を想定した代替記事も当然不適当ということになると思います。また、新しく作られたページがリダイレクトとされたページの著作権を侵害していないかどうかをチェックする仕組みがあれば別ですが、現在そうなっていないのであれば、いたずらに著作権侵害を未然にふせぐことを阻害するだけのような気がします。-- 2007年1月19日 (金) 10:17 (UTC)[返信]
  • とりあえずリダイレクトはゴミ箱ではありません。たね 2007年1月19日 (金) 18:37 (UTC)[返信]
  • 「イースト・ロサンゼルス」や「エヴァンズビル」ですと、スタブ程度のものが置き換えられただけ、と見えます。潜在的な問題点について考えるのであれば、これらよりもスポーケンスポケーンの例が参照されるべきではないかと思いますので、追加しました。 -- NiKe 2007年1月20日 (土) 02:47 (UTC)[返信]
  • (コメント)まだ、経緯を全部読めていませんが、いくつかメモ程度に書いておきます。前もって言っておきますが、私は、アメリカの都市について、あまりよく知りませんので、今回のケースについて、あまりいいアドバイスができないかも知れません。ある程度、自分のいる分野の状況と重ねてコメントしますが、コメントするだけの十分な資格があるわけではありませんので、その点はご了承ください。
(内容について)この方法は、記事の根底から全く別の記事を作り上げ、また、古いものよりも充実したよいものを作り上げる事が、前提の1つになっています。その点は、Yassieさんの発言にもあり、私と一致していると思います。移動荒らしを誘発するといっても、そこには、古いものと比較して押さえつける程度には十分な、独自の新しい記事が必要です。それを乗り越えてまで、荒らすのは結構難しいでしょうね。ただの移動荒らしであれば、既に、この方法とは無関係に、いくらでもあります。充実したよいものかどうかは、アメリカの都市について、よく知らないと判断できませんので、私は、そこについての判断はできません。この点は、削除依頼で処理できるのかといった問題とも、関係しています。削除依頼では、こういった内容の絡む問題を、取り扱うことはできません。削除依頼で可能なのは、どこかからの写しであることが、明確であり、何の知識もなくても判断できる場合くらいなものです。それ以外は、個人的な好みの投票でしかなく、記事の内容を全く理解できない人までが、その場のノリだけで、知らない筈の内容についてまで意見を述べ、存続だの削除だの投票してしまったりするために、コイントスのような場になっているというのが現状です。記事は、文字数が、増えればいいというものではありません。中立でなかったり、書いている人の予想だらけだったり、ただの日記だったりデタラメだったりと、いろいろ問題のある記事はありますから。見ての通り、管理者でも記事の書き方を全く知らず、一緒になって、くだらない編集をし、また、こちらの議論にも参加しているようです。記事の充実を主張するためには、記事に書いてあるよりも、豊かなバックグラウンドを持ち、判断しないといけません。そして、英語版から翻訳したからいいというものでもありません。英語版も記事の質は、低いものばかりです。翻訳するにも、ある程度、質のいい記事を選び、補ったり、削ったりといったことは、当然必要になってきます。その意味で、こういった疑問は、私としては、ずれたものであると感じます。翻訳だからといって、直訳として、一文一文対応する必要は無く、必要に応じて柔軟性が求められます。
(言葉のすれ違い)そういった事を踏まえて、まず言っておくべきことは、言葉の意味が互いにすれ違っていて、ややこしくなっている部分があるように思います。例えば、執筆者、寄与、貢献といった言葉がそうですね。先程の例の通り、ここに参加している管理者の 2 人が行った、subsubsubsubstubの悪質な悪戯をも、寄与とか呼ぶのかどうかと言ったところから、すれ違っていると思います。本人達は、貢献だと思っているかも知れませんが、私のいる分野は、こういった悪質な悪戯を繰り返す人たちのおかげで、壊れてしまいました。今では、明かに変だと思っても、直したり意見したりすることすら、稀です。キリがないですから。
(複雑の程度)履歴が複雑になると述べている方がいますが、個々の著作物の履歴は単純になりますので、複雑だと思えるような、具体的な説明が必要です。
(白紙化について)私は、白紙化も何度か用いています。[1]これで、著作権が切れるということにするのも、それはそれでいいかも知れません。ただし、敬意を示すという意味では、明示することの方が、微妙な問題を含んだりします。白紙化の下に明示的に並ぶ名前の人達は、分野によっては、駄目な人のリストにもなったり、悲惨なことにもなりますから。私のいる分野は、一部を直すと全部の手直しが必要になるといったことも、珍しくはないので、それほど、衝撃はないかもしれません。
(リダイレクトについて)リダイレクトは、表記の揺れだけでなく、含まれる用語に至るまで、非常に多くのものが考えられます。「○○の歴史」といった項目名も考えられるわけです。記事が大きい程、使えるリダイレクトも増えていきます。そこらへんは、アイデア次第ですね。 1 つ 1 つの移動が、大きく前進していて、かつ、リダイレクトが足りなくなるといったことは、ある意味、嬉しい悲鳴かと思います。「リダイレクトはゴミ箱ではありません」と言っているひとが居ますが、私の分野では、違和感がありますね。その古い方を、元に書き進める事も、可能かもしれません。それをゴミと表現していることには、違和感を覚えます。たねさん自身は、ゴミでないものを書いたことが、ありましたか?ある程度ちゃんとしたものを、書いてきた人ならともかく、何の知識もいらない薄っぺらい編集がご専門の、たねさんが使っていい言葉ではないと思います。たねさんの言うゴミについて、査読的な議論が発生し、元に戻る可能性もあります。本来、そういった議論は、記事の裏付けに必要なものです。問題なのは、内容に関わる方法であるのに、内容に関わる議論を飛ばし、表面的な話に終始している点です。たねさんは、内容に関わる議論をするだけの知識が、全く無いのにもかかわらず、変な参加をし、ひっかき回しているだけであることが、結構ありますよね。
(例について)イースト・ロサンゼルスの場合であれば、初版が、何かの写しのようなもので、次の版が、スタイルを整えているわけですが、それをどう評価するのかというのは、重要な点かと思います。エバンズビルについては、曖昧さ回避なので、記事ではなく、補助的なものでしかありませんので、少し事情が異なるかも知れません。曖昧さ回避と、内容充実は無縁であると思います。今、この曖昧さ回避を全部消したとしても、エバンズビル という名前の項目を並べるだけの事ですから、この方法とは、あまり噛み合わないような気がします。多義解説項目とは違い、案内が目的の項目なので、それぞれ、望む項目に辿り着ければいいだけのことですから。スポケーンについては、よく分からないです。問題になるのは初版ではなく、独自の加筆とも読める要約欄で、実は翻訳という 2005年1月9日 (日) 16:17 Revth (加筆。カテゴリ変更) の版、英語版では[2]の版と思いますが、何故、Yassieさんの会話ページでは、初版の話しかしてないのかは、よく分かりません。言語間リンクがあるので、免れるのかも知れません。存続し続けるのかどうかは、今後の削除方針次第ではないかと思います。そして、その版より前に戻るとすると、イーストロサンゼルスの例と、同じようなものかと思います。

--132人目 2007年1月20日 (土) 06:58 (UTC)[返信]

132人目さんが「ずれたものと感じる」と言われた「疑問」、およびデタラメと称された編集はいずれも私のものですね。しかしながら、前者の1つ目は抜け落ちた情報の指摘、2つ目は綴り間違いの指摘であり、Yassieさんも最終的には私の指摘に対応して下さったものです。特に2つ目はそのままでは間違った情報を含んでしまうところでしたから、軽視できないでしょう。また、「デタラメ」と言われたものについては私の無知をですからいたしかたないところもありますが、ここでわざわざ「デタラメ」と評されることには大変強い違和感を持ちました。いささか不快にすら感じた、ということを明言しておきます。
そして、私へのものはまだマシですが、たねさんに対するおっしゃりようは「暴言である」と思います。表現だけでも修正することをお奨めします。 -- NiKe 2007年1月20日 (土) 07:19 (UTC)[返信]
132人目氏のコメントがありましたが、私の見解では筋道としてひっかかる論点がご本人より指摘されていたので整理してみたいと思います。揚げ足取りであるとか意地悪と捉えていただきたくないのですが、ご本人もまず最初にあげられたとおり、もっとも重要な論点であるのでその部分を引用させていただきます。
  1. 「この方法は、記事の根底から全く別の記事を作り上げ、また、古いものよりも充実したよいものを作り上げる事が、前提の1つになっています。その点は、Yassieさんの発言にもあり、私と一致していると思います。」とのことです。
  2. 同時に、「移動荒らしを誘発するといっても、そこには、古いものと比較して押さえつける程度には十分な、独自の新しい記事が必要です。それを乗り越えてまで、荒らすのは結構難しいでしょうね。」
  3. 「充実したよいものかどうかは、アメリカの都市について、よく知らないと判断できませんので、私は、そこについての判断はできません。」
この理屈に沿って結論として、132人目氏にとっては、今回のYassie氏の「記事の置き換え」が「移動嵐らし」かどうか判断がつかない、ということになります。おっしゃるように、もし内容で置き換え前よりも優れているというPOVがあるのならば132人目方式は肯定され、そうでなければ荒らしとなるということであれば、仮にその記事を自分の文章で「全面改訂」したい執筆者Aと執筆者Bが同時に存在する場合、それぞれ132人目的正当な根拠をもって移動合戦、場所取り合戦が起こります。結局のところ、ある記事の書き換えについての話であって、それが内容の是非により勝負が決まるというのであれば、それはその同一記事内のスケールで話を収めてほしいと思いました。そこを形式的に記事名を書き換えて同一性を剥奪しておきながら内容を比較しているという方法論に強い違和感を感じます。基本的にこれは方式の是非を論じるものであって、内容がいいか悪いかというのは方式の是非とは切り離して論じるべきであると思います。まさに132人目氏がおっしゃっているように、内容についての優劣が判定できないのでYassie氏がこの方式を適用したのがいいことか悪い事かわからないということになってしまう。またある数学の分野における132人目方式が移動荒らしと規定するのかしないのか当該数学の記事の内容に造詣が深い人間が判断することになる。繰り返してこのコメントの結論としますが、どうも内容の優劣という執筆者POVと、著作権、GFDL、投稿記録という事実とをごちゃまぜにして正当化されているのに疑問を感じます。白紙化ということで記事内部でいざこざが起きるがそれで問題ないというのであれば、その記事空間のなかでそのいざこざを収めるのが筋であって、それを別記事として切り離せば、その記事を置きかえた当人は気分はすっきりするかもしれませんが、他者がリダイレクトはゴミ箱ではないと指摘したようにそれはそのいざこざをウィキペディアの記事外にまで持ち出して外部にそのいざこざのひずみを吸収させているのではないかと感じました。--219.122.233.148 2007年1月20日 (土) 08:56 (UTC)[返信]

私は、上に述べたように、今回の件に関しては、深い判断はできません。私にできるのは、自分の分野を踏まえた、アドバイスだけです。Ks aka 98さんが、お知らせしてくださいましたので、示されたものを読み、コメントしています。

  • (NiKeさんについて)府税の件については、無知だから仕方ないといった、レベルの事ではないですね。Template:スタブ未満作成停止のお願いとかTemplate:字引といったものを、見かけたことはありますでしょうか。と書こうと思ったら、自分で貼ってますね。たった50字程度の粗末な項目を作ってる人が、他人には、スタブ未満は作るなと言っているのは、開いた口がふさがらないです。自分で貼っている、テンプレに書いてある内容を理解できてないというのは、考えられないですね。勘弁してください。さらに、こんなものまで見つけてしまいました。
>それにしては、2行程度の情報しかないものまで独立記事にしているようですが。 -- NiKe 2006年7月15日 (土) 00:08 (UTC)
こんな事を言う人が、作った記事が、これです。デタラメなのは、内容だけではないということです。無知であることは、恥じることではないです。しかし、こういったデタラメな行動は、恥じるべきことです。他人には注意している一方で、自らも同じような事をしているわけです。とんでもない人です。
  • (たねさんについて)たねさん次第です。何かあれば、具体的にその箇所を指摘し、事実でないならば、根拠とともに中傷であると述べてください。事実であるならば、どういう理由で、言い過ぎであるといったことを論理的に述べてください。問題であれば、言い換えるなどします。ただし、いずれも、たねさん自身の言葉遣いが先にありますから、それを、たねさん自身で振り返ったりすることも、場合によっては必要かと思います。
  • (219.122.233.148さんについて)結局、それぞれの分野の問題ですね。同時に、私以外の人についても、白黒つけたいのであれば、編集履歴などによって、どの程度、ここらの記事について、ちゃんとしたものを書いているのかを、示す必要はあるかと思います。移動荒らしという言葉も、しっかり定義されないといけませんね。私は、とても注意したのですが、そこらへんでも、共通認識が無く、意味のすれ違いが起きていると思います。そして、記事のスケールという感覚も、ズレていると思います。私のいる分野の特性みたいな所も、あるかもしれません。普通に書いていても、記事は大きくなれば、分割されていきます。現時点でイーストロサンゼルスは、1 つの記事かもしれませんが、5 年くらいしたら、イーストロサンゼルスの歴史だの、交通だの、諸々に別れているかもしれませんね。私の場合は、最初から記事というものは 1 つではありません。例えば、ウシについて書こうと思ったら、哺乳類、脊椎動物、… や、家畜、肉屋、しゃぶしゃぶ屋、…、などの記事群(群 (数学)ではないです。)の中の、1 つとしてうまく機能する記事になる事を目指しています。ですから、ウシという項目を書くためには、ウシという項目しか書けないという人では困りますし、ウシという項目で争いがあるなら、その争いは、その記事のスケールではなく、そのウシ関連分野の問題です。ウシという、小さな記事のスケールだけで、争いを解決することには、あまり意味がありません。ウシという記事が、2 人によって、別々の視点から書かれ、それぞれが、ちゃんとしたものであるならば、両方とも残すような方法を模索するのもよいでしょう。良い記事を、2 つ混ぜたら、もっと良い記事ができるかというと、これまた難しい問題ですから。全ては、ウシ分野の人の問題です。私は、内容の優劣、著作権、GFDLという事実とをごちゃまぜにする以前に、著作権やGFDLについては、あまり語っていません。この方法での、著作権的な問題点も、具体的に論理的に指摘されていないどころか、むしろ逆に、全面改稿の時は、混ぜるな危険ということのようですから、私の方から特に言うことはありません。著作権などのレベルで白であれば、その内容の判断は、その分野の知識を持つ人の判断に任せるしかなく、外部の私が、白黒付けられることではないです。移動合戦でも、編集合戦でも、起きれば話し合いというのは同じことです。この方式での移動合戦ということは、その移動の度に、伸びていくということになりますから、それはそれでいいような気もします。最終的には、その分野の問題です。219.122.233.148さんの指摘しているようなひずみは、wikipediaというよりは、もう少し小さく、記事というよりは、もう少し大きな、分野というものが吸収しているわけですね。投稿記録を見るに、Yassieさんは、記事を真面目に書いている人には、丁寧に話しているようですから、Yassieさんと同じ分野の記事を真面目に書く人と、記事の上で衝突することがあっても、うまくやることでしょう。

--132人目 2007年1月20日 (土) 14:22 (UTC)[返信]

再度132人目氏が上で取り上げているスケールという部分に関して申し上げるとそれはその同一記事内のスケールで話を収めてほしいと思いました。そこを形式的に記事名を書き換えて同一性を剥奪しておきながら内容を比較しているという方法論に強い違和感を感じます。ということです。今現在問題としてとりあげられているYassie方式もしくは132人目方式の是非というのは、記事が成長するにしたがって発生する記事の複数ページへの分岐化構造化のことなどではなくて、明白にある時点である同じ記事対象、記事スペースの置き換えの話です。この点どうも意図的に逆に話をズラシされてしまっているのではないでしょうか。この方式のまず最初に記事名を書き換えて同一性を剥奪するというアクションがあるのですが、これは記事が成長しているから分岐してしまったという言い分は通らないと思います。このアクションの理由として、「同一記事対象についての執筆であるが、新規投稿のほうが優れていると思うので同一性を奪う」というのを全体の仕組みの中でみて無批判に受け入れるのには抵抗感がある。次に、どうもいろいろコメントを拝読していると、「ある分野のいざこざの話はその分野に造詣がある一部の利用者間のみの対話によって解決されるべきであって、132人目方式というのはこの外部の人間との議論を回避するための苦渋の策である。」という見解をお持ちのようです。まとめると同一対象の記事であるが、自分の投稿のほうが優れていると思うので、またそのことについて外部の人間にとやかくいわれたくないので、記事名操作し同一性を奪う行為であると認識しました。これはなぜか悪く聞こえてしまうかもしれませんが、132人目ご自身氏のコメントと実際に行われている現象をまとめると以上のようになってしまいます。さてこれを正当化するのか、許容するのか、というのは別問題ですが、とりあえずここで以上のようにまとめているのですが齟齬などがあればご指摘ください。--219.122.233.148 2007年1月20日 (土) 21:01 (UTC)[返信]
219.122.233.148氏のコメントを読んで自分の考えがまとまったように思います。まず、法律・GDFLに関しては詳しい方にお任せし、それ以外のこの方式の是非について批判したいと思います。結論を述べると、「全く別の記事を投稿しているのだから問題ない」という主張は詭弁であり、記事の優劣を持ち出した意見も的外れであるということです。
仮に全く別の記事であるなら、優劣を論じるのは筋違いでしょう。あくまで全く別の対象についての記事同士がたまたま記事名前空間上でバッティングしてしまったため場所取りでもめている、という状況になります。その場合、スタブ未満の記事であっても、新しいより秀れた記事に対して移動合戦を仕掛けることに問題はなくなります。全く別の項目の優劣は論じられないですから。一方「全く別の記事というわけではない」ということであれば、その際はその同一記事内のスケールで話を収めてほしいということになります。以上により、記事の出来の優劣の観点からこの方式を取ることを正当化はできず、法律上の観点からのみ議論を進めればよいのではないかと考えます。
最期に132人目氏に対して一言。今ここで各人の過去の編集を取りあげて批難する必然性があるのでしょうか?円滑な議論の進行のためにも、このような行為はおやめください。(色々言われてしまった方々においては反論したいという衝動もあるでしょうが、ここは冷静な対応をお願いしたく思います。)また、本コメント依頼は「エバンズビル」等の個々のケースについての意見ではなく、当該方式についてのコメントを求められているように思います。そしてあなたはそれに対し最も造詣が深く有益なコメントを出しうる方の一人であると認識しています。ぜひあなたの誠意あるコメントを期待したいと思います。--眠い 2007年1月20日 (土) 22:47 (UTC)[返信]
132人目さんの御意見で「ここらの記事について、ちゃんとしたものを書いているのかを、示す必要」がまず持ち出されていますが、これが大変気になります。私を含めた数名の編集にわざわざ言及したことも考えますと、『記事を書いた実績が無い奴は私(たち)がやることを黙って認めろ』と言われているように見えます。こういった点はYassieさんにも共通していると前々から感じておりましたので、このようなWikipedia観と「132人目」方式を使う動機とは密接なつながりがあるのかもしれません。
また、IP:219.122.233.148さんからの『外部にいざこざのひずみを吸収させている』という疑念に対して『ひずみは分野が吸収している』というのは、話がズレていて回答になっていないと思います。記事の内容に関する潜在的な問題を、履歴の分断というシステム的なかたちに変えてしまった時点で、それはもう「外部」に出したことになるでしょう。『分野で吸収』というのはまるで意味不明です。 -- NiKe 2007年1月20日 (土) 23:58 (UTC)[返信]
GFDLの履歴継承に関しては、実は問題にもなっていない、と考えます。「新規の記事を丸ごと採用させようとすることにより、不必要なGFDL上の問題が発生してしまいトラブルを引き起こしている」というだけです。これが丸ごと採用でなければごく普通の編集ということになり、トラブルは起こりません。ですのでこれに関しては、後から来た方が丸ごとという部分だけを諦めて折れるべき、という当たり前の結論が私の意見です。
ここで問題なのは、既に記事があるのを知りながら「一から記事を作成しそれを丸ごと採用」という行為が正当化されるかどうか、でしょう。残念ながら私はこの丸ごと採用を正当化する根拠を見出せませんでした(著作権侵害のケースを除く)。ですから、132人目方式を支持する方々はここの妥当な根拠を提示することが議論の上で有効です。もしその根拠を提示できない場合、通常誰もが編集で対応している場面で、新規記事を丸ごと採用というのに拘ってGFDL上の問題を自ら引き起こしている、と見做されかねないと思います。結果として、Salt Greenさん218.41.187.74氏の法律に関する意見は興味深い話でしたが、今回のケースではそれを持ち出さずに解決することになるでしょう。新規に記事を作り丸ごと採用しなければならない必然性がない以上、そのようなGFDL上のトラブルを引き起こす道は避けるべきであり、それゆえこれらの法律の問題には関わり得ません。
例えるならこういうことです。132人目方式を支持する方々にとって、前執筆者という建物のために現在地点から目的地点まで最短距離を取ることができなかったのは不幸なことでした。しかし、世の中は往々にしてそういうものです。直線で到達できないなら迂回してください。道は一つではありません。迂回しても充分到達可能にもかかわらず、人を跳ね飛ばしながら最短距離を通るような行為は受け入れかねます。--眠い 2007年1月21日 (日) 04:39 (UTC)[返信]