Template‐ノート:宮家一覧

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「昭和22年皇籍離脱」のセルについて[編集]

11宮家を「伏見宮系」「久邇宮系」「北白川宮系」に三分しているのは何か意味があるのでしょうか。いずれにせよ全員伏見宮邦家親王の子孫なのですから、あえて区別する実益はないのでは。むしろ「久邇宮系」と「北白川宮系」は、伏見宮の血を引いていない宮家なのだという誤解を与えるおそれがあると考えますがいかがでしょうか。一括してひとつの枠に収めてかまわないのではないですか。--呆庵入道 2008年3月22日 (土) 14:02 (UTC)[返信]

11宮家を三分するのは有害無益だと考えるので整理しました。--呆庵入道 2008年3月29日 (土) 12:59 (UTC)[返信]

「1947年皇籍離脱」のセルについて[編集]

「1947年皇籍離脱」から東伏見宮がはずされているのはあきらかにおかしい。1947年に皇族の身分を離れたのは「11宮家51名」というのが一般的な社会通念です。「10宮家50名」という数え方はしません。

推測するに、この編集はこういう思考過程でなされたものでしょう。「東伏見宮」というのは依仁親王個人の称号であり、1947年に皇族の身分を離れた周子妃はあくまでも「依仁親王妃」である。1922年に依仁親王が死んだあとは東伏見宮を名乗る者はいなくなった。だから1922年をもって東伏見宮家は断絶したと言いうる。1947年には東伏見宮家はすでに存在していなかった。

しかし、はたしてそうでしょうか。その理屈では「現在」のカテゴリーに「高円宮」が入っていることとつじつまが合いません。その理屈を貫くならば「高円宮」は「断絶」のカテゴリーに入っていなければなりません。

「高円宮」は憲仁親王個人の称号である。2002年に憲仁親王が死んだあとは高円宮を名乗る者はいなくなった。だから2002年をもって高円宮家は断絶したと言いうる。この理屈が万人を納得させることができるでしょうか。おそらく無理でしょう。実際には、憲仁親王の死後も、未亡人の久子妃を当主とし、親王の遺児である3人の女王を構成員に加えた世帯が維持されて、この世帯に対して皇族費が支給され続けている。社会通念としては、この世帯をもって「高円宮家」と呼ぶのではないでしょうか。--呆庵入道 2009年7月11日 (土) 13:18 (UTC)[返信]

私の編集だったようです。臣籍降下のページでも、そのように記載されているのを確認いたしました。私はテンプレートは、wikipediaの通常記事を参考にして書き起こすべきだと考えております。すでに古いもので、どのような意図であったかは判然としませんが、呆庵入道さんのおっしゃるとおりの思考で行ったのだと思います。ご指摘と修正に感謝いたします。--R-H 2009年7月11日 (土) 20:33 (UTC)[返信]
とんでもありません。自分の編集の理由と根拠をくどくど説明しなくてはいられないのと、過去の履歴や他の記事との整合性よりも前向きに記事としての正確さを追求したいのとが、あのようなコメントになった次第で、丁重なコメントはかえって恐れ入ります。--呆庵入道 2009年7月18日 (土) 20:56 (UTC)[返信]