Category‐ノート:日本の学生スポーツ

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応援団や大学スポーツ関連の記事を執筆なされる方への共通のお願い(記述指針への提言)[編集]

長くてすみません。(本来どこにアップ・提示すべきか迷ったので共通項としてここに書きました。)

以下は、本来私などが改めて言うまでも無くwikipediaの利用規定を見れば解ることなのですが、そうとは思えない記述が頻繁に散見されるのが現実です。

これらの関連記事は、内容が内容だけに専門に知識がある方や元関係者や支持者が編集に携わる可能性が高いことが想像されます。しかしながら、wikipediaは応援団や学生スポーツ、各学校を応援するファン支援サイトではないので、あまり、個別団体を賞賛する意図でもって、美辞麗句を並べた自己陶酔的な説明文は避けて欲しいと思います。あくまで、百科事典として、極力単なる事実の記載や紹介という範囲にとどめることを意識(普通なら意識しなくて普通に出来ることだとは思いますが)して編集を行なって欲しいと思います。これは記述の文章表現についてだけではなく、各部や各団体、各事象の内容は殆ど書かずに、雛形だけの土台記事だけを乱造(まずは記事内容を整えてから次を執筆するのなら問題にはならないのですが)して記事名が並ぶのに満足している様な行為も同類になります。実際そういう傾向で執筆活動をしている人も少数ですがいるようです。

で、よく上記のような趣旨の指摘をすると「同好の士として熱い想いがわからないのか?」、「他者に実態を知ってもらういい機会だ。」、「発展させるには地道な努力が必要だ!」みたいな、全く上記を理解していない的外れな旨の反応を受けます。どうもそういう部分に被れて自己陶酔したまま記事を執筆する方が多いようです。決して被れるのが悪いという意味でありません。それをそのままWikipediaの記述に持ち込まないでください。ということです。利用指針からは好ましくない傾向(私個人の主観や好き嫌いではなく客観的に見てという意味で)です。

個人個人がどういう想いで記事を記述するかの是非はもちろん他人は問えませんが、wikipediaは「広報や宣伝の為にいろんな人が利用できる便利サイト」ではありません。 それと、プロジェクトやノート議論を除けば、各記事項目自体はエッセイや論評や意見表明をするためのものでもありません。 まずこれらの大前提をしっかりと抑えて置いてください。あなた個人がどんなに応援団や学生スポーツに熱い想いがあろうが、それらの現状がどんな憂うべき状況や危機にあろうが、だからそのためにwikipediaを利用して普及活動などをやろうとしているのであれば、その時点でもう記述参加指針としては誤った方向性です。同じ関連記事を書くものとして、それらへの熱い想いが世の中に存在するのは個人的には歓迎ですし、対象物に対するまじめな思いは理解できるのですが、それとこれは問題のポイントが異なります。そうであるならなおさら耳を傾けていただきたいのでこうやって説明しているわけです。(後述関連記述あり。)ですので、仮にそういう自己陶酔型の美辞麗句や他者批判的な記事を書いて、それがしかるべき理由で削除や変更された場合、個々の各議論においてそういう想いや熱意を現状を語ったところで、議論のポイントとしては筋違い・的外れですし無駄なことです。

以下、繰り返しですが、決して悪意からではないので気分を害されずに読み取っていただきたいのですが、「記述する対象(応援団とか学生スポーツとか)に熱い想いやその将来に対するまじめな情熱や憂いがあれば、その前提の前では(wiki上での活動としては)何をやっても許される。」というのは大いなる勘違いです。その手の個人サイトやその旨の広報サイトなどでは賞賛・歓迎される理念かもしれませんが、はっきり言って少なくともwikipediaの記事作成への参加の観点から言えば間違いです。どういう想いだろうが、基本的にはガイドラインに沿った範囲での利用をすべきです(あくまで基本的にはですが。)し、どんなまじめで熱い想いがあろうが、ガイドラインからみて好ましくない記述から逃れられる理由(免罪符)になるわけではありません。もちろん応援団や学生スポーツに関すること以外の全ての記述において当てはまります。Wikipediaの各記事も各プロジェクトも対象記事の広報・宣伝・普及活動・意見の表明や主張の一環で行われているものはありませんし、そうであってはならないことになっています。

以上を踏まえた上で、みなさん同様に応援団や学生スポーツの関連記事の記述を行っている者としての提言ですが、決して自警団気取りからこういうことを言っているのではないので、諸兄の皆様には冷静沈着で真摯な態度にご留意願います。

度重なる指摘を無視して陶酔型の美辞麗句・自画自賛的な記述を書き続けるような利用ガイドラインから逸脱している行為をあまり続けると、いつかはどこかで同様の指摘を受けると思いますし、あまり個人的な贔屓感情が入った記述活動や記述文章は他人の目から見ても明らかにわかります。そういうことが氾濫するとwikipedia全体そのものの信頼性にも関わることになります。wikiに書いたものが世の中の絶対的な定義と認められるわけでもないのですから、だからこそ公正で中立な観点での記述が求められるわけです。一方的な観点や主張の記事は贔屓目に見ている人にとっては、いかにも気分がいいでしょうが、(個人のサイトやブログは別として)長い目・広い目でみればこういう百科事典としての記述を行う場所では自分の首を絞める行為に知らず知らず加担していることになっているわけです。極端な想定例になりますが、「wikiに書いてあることなんか一部のヲタクやマニアが書いてることだから信用できない」となったらせっかく苦労して書いた意味が殆どなくなることになりますよ。(私の印象では、すでに過去にwikipediaの趣旨を理解できなっかった人、肌に合わなかった人、追い出されたと思っている人などは、一部のネット上でそういう風評を一生懸命喧伝しているみたいですが、ま、どこにでもそういう人は多少は出てくるので、それは余談ですけど。)

前述は、「完璧な公正中立な文しか書いてはいけない」というバカ話でもありません。「心がけてください。指摘に発憤・激情しないでください。」ということです。一度書いたものでも読み直す。また投稿アップしてしまったものでももう一度冷静に読み直してみてください。読み直してみてもなおかつ「これでみんなも凄いと感動するだろう」とか満足心があるようではその段階でもう冷静さを失っている場合が往々にしてあります。いまひとつ想いなおしてみましょう。

気が付く範囲で、あまり好ましくない記述例を参考までに列挙しておきます。(気づいたものは順次追加しますし、他の方も気づいたら追加してくれれば有難いです。)

  • 当代随一だ。
  • 快挙だ。
  • 偉大な貢献だ。
  • ~なのは当団体のみになる。
  • 日本一とされる。
    いずれも基準があいまいで好ましくない。業界・関係者筋でそういう評判を多く耳にする場合でも伝聞だけでは根拠にならない。そういう記述がされている例などが実際にある場合などは、そういう評価・論評がある旨を紹介するのは問題なし。(その論評や伝聞を唯一の結論だとして記述するのはNG。)仮に実際に唯一だとしても、その前提条件になる基準が曖昧なもの(その基準では都合のいい条件だ。おかしいと他者が判断できるような例)はやはり日本一とは表現できない。但し、「快挙だ」の例で、本当に明確な基準で一例だけならそう問題にならないが、但し、その事実を伝える(記述する)だけなら、特に「快挙」という修飾は百科事典としては必要条件ではない。一度だけだという事実の記述のみで充分になる。

--陸奥守 2007年3月25日 (日) 03:48 (UTC)[返信]