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1959年の近鉄バファローでは、1959年の近鉄バファローの動向をまとめる。
この年の近鉄バファローは、千葉茂監督の1年目のシーズンである。
チーム創設からチーム成績が低迷を続けていた近鉄は、前年まで巨人の2軍監督を務めていた千葉茂を監督に迎え入れて、チーム改革を図った。さらに弱小球団のイメージがついた「近鉄パールス」という球団名についても変更することになり、チーム名を公募した。公募の結果、千葉監督の現役時代の愛称「猛牛」を英語にした「バファロー」が最多となりこの年から球団名を「近鉄バファロー」に改称した。千葉新監督は巨人からコーチの平井三郎や内藤博文などの選手を多数入団させたが、鈴木武など生え抜き選手との軋轢を生じる結果となり、チームは4月から低迷。5月上旬に最下位に転落すると6月20日には千葉監督が病気のため休養、この年投手コーチに就任したばかりの林義一が指揮を執ったが、7月には2度の9連敗を喫するなど2勝19敗と大きく負け越し、林監督代行でも最下位から抜け出すことはできなかった[2]。投手陣はこの年入団のグレン・ミケンズと西鉄から移籍2年目の大津守がチームを引っ張ったが、大津は打線の援護なく2桁勝利と2桁敗戦を共に記録し、それ以外にも蔦行雄と武智文雄が防御率3点台ながらも5勝17敗、2勝11敗と打線の援護に恵まれずチーム防御率もリーグ最下位の3.68を記録。打撃陣は小玉明利と関根潤三を除いて不振でチーム打率と本塁打がリーグ最下位に終わり、また守備でもスタメン野手6人が2桁失策を記録するなどリーグ最下位の163失策を記録した。
チーム成績[編集]
レギュラーシーズン[編集]
1959年パシフィック・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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9月終了時
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最終成績
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1位
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南海 |
--
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南海 |
--
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南海 |
--
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南海 |
--
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南海 |
--
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南海 |
--
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南海 |
--
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2位
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西鉄 |
1.0
|
西鉄 |
3.5
|
大毎 |
7.0
|
大毎 |
5.0
|
大毎 |
3.0
|
大毎 |
8.0
|
大毎 |
6.0
|
3位
|
東映 |
2.5
|
東映 |
5.0
|
西鉄 |
7.5
|
東映 |
8.5
|
西鉄 |
12.0
|
西鉄 |
20.5
|
東映 |
21.0
|
4位
|
大毎 |
4.0
|
大毎 |
5.5
|
東映 |
9.5
|
西鉄 |
10.5
|
東映 |
15.0
|
東映 |
25.0
|
西鉄 |
22.0
|
5位
|
近鉄 |
8.0
|
阪急 |
11.0
|
阪急 |
20.5
|
阪急 |
29.5
|
阪急 |
35.5
|
阪急 |
38.5
|
阪急 |
40.0
|
6位
|
阪急 |
8.5
|
近鉄 |
17.0
|
近鉄 |
24.5
|
近鉄 |
36.5
|
近鉄 |
39.5
|
近鉄 |
49.0
|
近鉄 |
49.0
|
[1]
オールスターゲーム1959[編集]
- 該当者なし
- 小玉明利(内野手、3度目)
- 関根潤三(外野手、3度目)
できごと[編集]
- 2月28日 - 前年限りで巨人を退団し、監督に就任した千葉茂の功績をねぎらい、監督門出を祝うため、「監督就任激励試合」が日生球場で開催、「10年選手制度」採用時では初の「引退試合」(近鉄では唯一)、千葉監督はコーチスボックスで指揮を担当した・対戦相手は巨人で、入団して間もない王貞治が8番・ライトでデビューした。純益は両球団で折半後、改めて千葉監督に贈られた。
選手・スタッフ[編集]
[3]
表彰選手[編集]
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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