龍造寺鑑兼

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龍造寺鑑兼
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文11年(1542年
死没 慶長12年(1607年
別名 左衛門大夫
官位 左衛門佐
主君 龍造寺隆信政家高房
肥前佐賀藩
氏族 龍造寺氏
父母 龍造寺家門
兄弟 家泰鑑兼龍造寺胤栄室、堤貞元
家晴
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龍造寺 鑑兼(りゅうぞうじ あきかね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士龍造寺氏の家臣。

略歴[編集]

天文11年(1542年)、龍造寺家門の子として誕生。大友義鑑から偏諱を受け、祖父・龍造寺家兼の1字と併せ、鑑兼を名乗る。

天文20年(1551年)9月、土橋栄益高木鑑房馬場鑑周八戸宗暘神代勝利小田政光龍造寺隆信(家兼の曾孫で鑑兼の従甥にあたる)の家督相続に反対する勢力に擁立され、隆信と家督を争い、一時は隆信を居城から追放するまでに至る。しかし、天文22年(1553年)7月に蒲池氏の支援を受けた隆信が居城を奪回、反対勢力を駆逐するに及び、鑑兼は追放された。

但しこの時は幼年の傀儡当主に過ぎなかったため後に罪を許され、以後は隆信に仕えた。

慶長12年(1607年)、死去。後裔は諌早龍造寺氏として栄えた。